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十三章 (3) 休ませて



 足を動かしている間は耐えられたが、渡し船に乗ってしまうと、もう駄目だった。

 どうにか押し止めていた涙がまた溢れだし、セレスティンは船頭の気遣わしげな視線を痛いほど意識しながら、なんとか嗚咽だけは堪えていた。唇を噛み、己を叱咤する。

(いい加減にしなさいよ、泣くようなことじゃないでしょう? エンリルが結婚したら、私だって助かる筈じゃないの)

(だけど、あんなに気がある振りをしていたのに)

(悔しいの? しつこく追いかけられたいと思っていたの? だったら自惚れを反省することね、彼は一度も結婚して欲しいとは言わなかった)

 自問自答する。そうだ、エンリルは私をからかっていただけなのだ。幼馴染みの高慢な鼻をへし折りたくて。あるいは単に彼流の冗談だったのかもしれない。ともかく、結婚したいだの一緒にいたいだの、そういう事は一度も言われなかった。思い返せば明白な事実。

(彼にとっては、私はただの幼馴染み――いえ、利用しやすい駒でしかないのよ)

 一番手近にある、魔術師の駒。しかも今は長という地位にある。便利な存在、ただそれだけのこと。

(もう二度と利用されないわ)

 踏み付けにされてたまるものか。決意と共に涙を拭うと、セレスティンは船着場からの階段を、一段一段踏みしめるようにして上った。

 急ぎ足に自室へ戻り、顔を洗って涙の跡を隠す。鏡を見るとまた泣けてきそうなので、セレスティンは何も見ずに髪を梳かしてから机に向かった。

 相変わらず、雑多な書類が地層を成している。人員配備の請願、備品の話に、もぐり魔術師の摘発。毎日片付けているのに、一向に減らない。魔術師らしい活動の出来ていた頃なら、読むのが楽しい報告書もあったが、最近はいちいち聞くなと言いたくなる無駄な紙ばかりが増えた。時折、一切合財まとめて火を点けてやりたくなる。

 エンリルのことを頭から追いやって、うんざりしながらそれを整理していると、遠慮がちなノックが響いた。

「どうぞ、ラジー」

 呼びかけると、どうして分かったのかと訝る顔で少年が入ってきた。その手に分厚い本がある。

「あの……ライエル様、少しお聞きしたいことがあるんですけど、いいですか」

「もちろんよ。あなたは何も遠慮することないわ」

 セレスティンは、もうすっかり目が乾いていることを祈りつつ、にっこりした。ラジーはおずおずと机に歩み寄り、空いた場所に持参した本を広げた。その時になってやっとセレスティンは、それがかつてラジーに与えた教材だと気付いた。

 魔術理論の基礎と応用、魔法陣の描き方。ラジーが開けた頁は後半の章だったが、セレスティンはそこまで彼を指導した覚えがなかった。

「ここの所なんですけど」

 ラジーは師の顔色には気付かず、自分が詰まってしまった箇所を指で示した。

「ここでテヴィの印を使うとセラシュの相殺になるっていうのは分かるんですけど、こっちにレーネがあるからもっと下位の印の方が安全だと思うんです。僕が描いたのはこんな感じなんですけど」

 言いながら、何度も試行錯誤した跡の見える紙をそっと差し出す。

(いつの間にここまで)

 セレスティンは痺れたような頭で、弟子の描いた陣を理解しようとした。

「ラジー」

「は、はいっ」

 叱られるかとラジーは身を硬くする。いつもならそこで微笑むセレスティンが、今日は全く何の感情も見せなかった。

「これ……誰に教わったの?」

「えっ? あ、はい、あの……イシン様に。でもあの、ほとんど僕が一人で勝手にやってるんです、それで分からない所だけ……だから、その」

 おろおろとラジーは弁明した。きっと自作の陣はお話にならない代物だったのだ、勝手に教えたことで右輔が責められるに違いない――そう恐れて。

 だがセレスティンは、怒りも呆れもしなかった。ただ魂の抜けたような顔で「そう」とつぶやき、ラジーの魔法陣に目を落とす。

「そうね、悪くないわ。でもここはやっぱりテヴィの印を使っておいた方がいいわね。レーネの調節も兼ねているわけだから、位を下げるとここで流れが詰まってしまうから」

「あっ! そ、そうですね、すみません、見落としてました」

 ごめんなさい、とラジーは謝り、慌てて紙を本に挟み、小脇に抱える。そそくさと逃げ出そうとしたラジーに、セレスティンは寂しげな微笑を見せた。

「謝るのはこっちの方だわ。ごめんなさいね、何も師匠らしいことが出来なくて」

「そんなこと!」ぶんぶん、とラジーは首を振った。「ライエル様は本当にお忙しくて大変なんですから、気にしないで下さい。僕は……ここには良い本がたくさんありますから、一人でもなんとか勉強出来ますし、ちょっと教えてもらうぐらいなら、手の空いてる人は誰なりといますから」

「……そうね、それなら安心ね」

 ふ、とセレスティンは笑った。

(大丈夫。私がいなくても、大丈夫)

 ヴァフラムもリュンデも、ラジーの指導を任せられるだけの実力がある。自分が長の地位にいてもエンリルに利用されるだけなら、いない方がいい。そう、それに……カゼスがいるではないか。偉大なるラウシールその人が。

「ライエル様?」

 不安げにラジーが呼びかける。その声が、やけに遠い。

(私がいなくてもいい。必要とされているわけじゃない、私がしがみついていただけ)

 ほう、と深く息を吐くと、肩から力が抜けた。もういい、必死になって努力せねばならない理由など、最初からなかったのだ。

 目の前に白い霧がかかってくる。

「ライエル様っ! しっかりして下さい、待って、行かないで!」

 悲痛な叫びがどこか遠くで上がった。だがそれはもう、セレスティンの耳には意味のない音としてしか聞こえなかった。

 ――おいで。

 差し招く優しい声と遥かな光だけが、今、彼女が意識しているすべてだった。

(レーニア)

 私もそこに行きたい。その中に入れて欲しい。穏やかな力の流れに、身体を浸し心を開く、その術を分け与えて欲しい。

 ゆっくりと瞼が下りてくる。

 最後に誰かが、髪の一本をつかんだような気がした。が、それも一瞬のことだった。

(疲れたの。少し、休ませて……)

 すうっと息を吸い込む。ほのかに甘く湿った空気が肺を満たし、安らかな眠りの手がすっぽりと包み込んでくれるのを感じた。

 無意識に体を丸め、セレスティンは一切をその手に委ねて、目を瞑る。その顔には、実に数年ぶりに、すっかり安らいだ幸福な笑みが浮かんでいた。


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