十三章 (1) すれ違う思惑
〈疲れているようだね〉
思いやりのこもった穏やかな声が、ささくれたセレスティンの心を優しく潤した。
〈ええそうよ、あなたのせいでね〉
きつく言い返したつもりだったが、精神界では自分をごまかすことが難しい。響いた声は苦笑気味の温かなものだった。光の膜を隔てた向こうで、青い髪の青年が黙って微笑む。
〈あなたは誰なの。レーニアというのは、名前ではないんでしょう?〉
力の流れに浴する者――その意味はセレスティンにも分かった。
〈つまり魔術師のことを指すわけだものね。それなら私もレーニアだわ〉
挑むように言った彼女に、彼は面白そうな顔で首を振った。
〈なるほど、『魔術師』とは上手く言ったものだね。君はそうかもしれない。だが私は違う。私は……私の名はファルカム。レーニアのファルカムだ〉
その名を聞いたのがカゼスだったら、ひっくり返っていたかもしれない。だがセレスティンはただ小首を傾げただけだった。
〈魔術師とは違うものなの?〉
〈君にも分かっているはずだ〉
断定され、セレスティンは沈黙する。感覚では確かに両者の違いを理解していた。
魔術よりも神秘めいたもの。それがレーニアたちの力だ。術と言うよりも、祈りと言った方が近いかもしれない。より原始的、より本質的な技。
しかしそれを認めると、魔術が小手先の細工に過ぎない、という事になってしまいそうで、セレスティンはうなずけなかった。代わりに、別の質問を投げかける。
〈なぜ魔術師たちを連れ去るの? あなたのしている事は、誘拐よ〉
〈なぜ彼らを引き留める? 君のしている事は不当な拘束だよ〉
そっくりの口調で問い返され、セレスティンは顔をしかめた。ファルカムは鷹揚に笑うだけ。その笑みには優越感も嫌味も一切なく、敵意を抱くのが難しい。セレスティンは懐柔されまいと己を叱咤し、なんとか唸った。
〈彼らが望んでそちらに行った、と言うの? 連れ戻した人の中には、何が何だか分かっていない様子の人もいたのよ〉
〈彼らが望んでそちらにいると思うのかい? 私はただ、呼び、そして扉を開けただけだよ。そこにいても苦しいばかりで、未来も良いものではない。だから、来たければこちらにおいで、とね。もちろん君も〉
――来ていいんだよ。
ささやくような誘いの、なんと甘美なことか。セレスティンは無意識にふらりと光に近付きかけ、はっと我に返って身を退いた。ファルカムの青い瞳が、哀しげなほどの同情を浮かべて見つめる。セレスティンは目を伏せ、唇を噛んだ。
そう、分かっている。逃げ出したい誘惑の強さも、今の世界が魔術師にとってどれほど希望の持てないものかも。何と言っても彼女は長なのだから。
〈それでも〉噛みしめた歯で碾くようにして言葉を押し出す。〈逃げ出してはいけないのよ。踏み止まって戦わなければ、何も解決しないんだもの〉
〈……セレスティン〉
初めて彼が名を呼んだ。セレスティンはどきりとして顔を上げる。ファルカムは痛ましそうに言った。
〈誰の為に戦う? 本当にそれは、君が負うべき務めなのか?〉
セレスティンには、返すべき答えがなかった。ただ絶句して立ち尽くす。彼女が受けた衝撃が、そのまま精神体の揺らぎとなって現れた。輪郭が薄れて足元から崩れ始めたセレスティンに、ファルカムは優しくそっと手を伸ばす仕草をした。
〈もう帰った方がいい〉
言葉と同時に、セレスティンの精神は溶けるようにその場から消えていた。
意識が自室に戻ってからも、セレスティンの動揺はおさまらなかった。物質の肉体までもが崩れてしまいそうに思われる。
(誰の為に)
繰り返すと力が萎えそうになった。
誰の為に、何の為に、これほどまで努力しているのだろう。
魔術師を救い、昔のような力場を取り戻し、そして――そして、どうなる? 何をするのだ?
(本当にそれは)
成さねばならない事なのだろうか。しかもよりによって、己が。
(……私である必要はない。それは確かね。分かってはいたけれど)
自覚はあっても他人に言われるとまた別の衝撃を味わうものだ。セレスティンはソファに身を沈め、天井を見つめて嘆息した。
長と言っても所詮、持ち回りの役員にすぎない。ヴァフラムの言ではないが、たまたま自分がこの座にいる時に、面倒な事態になってしまっただけ。
それに、他の魔術師たちだって――
「ライエル様、郵便が届きました」
書簡係の魔術師が、ノックの後で入室する。毎日学府に送られてくる膨大な量の陳情書や嘆願書、報告書に抗議文、果ては何か勘違いした脅迫状などまで、すべてをまずきちんと分類・整理するのが彼の仕事だ。私的な文書でも、事前に頼んでおくか、親展扱いでない限り、彼の手で開封されてしまう。
セレスティンの前に置かれた封書の小山のてっぺんに、アーロンからの手紙が載っていた。これは未開封だ。はっとなったセレスティンに、書簡係は小さくうなずく。彼もあの時、ヴァフラムの部屋にいてカゼスの姿を見ていた一人だった。
「サクスムからです。それと……同じくサクスム支所からの緊急報告も届いています。転移装置の事故があった、と。噂ではラウシール様が現れて、危機を救って下さったとか。詳細は調査中なので、追って正式の報告書を上げるということです」
「……そう。分かりました、ありがとう」
感想は述べず、ただそれだけ言ってセレスティンは相手の退出を待つ。書簡係は微かながらもはっきりと不満の表情を浮かべ、数呼吸の間、その場に粘った。が、結局セレスティンの無言の要求を飲み、渋々ながらも一礼して部屋を出て行く。扉が閉まる寸前、袖に付けられた房飾りが、ひらりと青い軌跡を残した。
書簡係の足音が遠ざかってから、セレスティンは深いため息をついた。相手の非難と不満は、言葉にされなくとも身に染みた。
ラウシール様はこれだけの事をして下さっている、あなたは何をしているのか――
(ほかの誰があの方に匹敵する業を成せると言うの)
だったらあなたが長になりなさい、と言い返したかった。むろんそれは相手も分かっているのだろう。昨今の事態に全く打つ手を持たなかったのは、すべての魔術師が同じだ。ゆえに、長の無能を露骨に非難はしない。だが。
――だが、長と左右の輔官を取り巻く空気が温度を下げていくのは、止めようがなかった。ヴァフラムもリュンデも、年長者の気配りでセレスティンを冷気から守ろうとしてくれているが、空気とはどこからでも侵入するものだ。
そうして周囲が冷えてゆけば、自然セレスティン自身の心も冷たく頑なになっていく。誰の為に、と問われて怯んだのは、己の内にある魔術師たちへの不信と嫌悪を見せ付けられたように感じたからかも知れない。
無言の蔑みと冷ややかな非難を寄越す魔術師たち、その彼らを、なぜ自分が、必死になって助けなければならないのか。
そんな不満は子供じみている、と自覚しないわけではなかった。魔術師のすべてが先刻の書簡係と同じ目でセレスティンを見るわけではない。魔術が使えなくて困っているのは魔術師だけではなく、それ以外の人々にも多いのだし、天候不順が力場の荒れに由来するのなら――間違いなくそうだろうが――立場だの功利だのにかかずらうことなく、正常化に努めるのが取るべき態度ではないか。
「……はぁ」
セレスティンは深いため息をつき、小さく頭を振った。気を取り直してアーロンからの手紙を開く。便箋に触れた瞬間、ほっとするような懐かしさが胸に芽生えた。
カゼスからだ、そう直感する。そしてそれは正しかった。文字はアーロンの手だったが、カゼスの口述筆記だと最初に注が入っていた。
疲れているとリュンデから聞いたが具合はどうか、といった気遣いから始まり、事故の経緯と転移装置の欠陥について明確な説明が続き、開発や改良に携わった魔術師が存命なら話を聞きたい、との頼みで結ばれている。
(転移装置……そういえば、エンリルも何か調べているような様子だったわ。ラジーに親類の技師の消息を尋ねたりして)
それがたまたまサクスムにいたのは単なる幸運なのか、何かの符丁なのか。このことをエンリルに伝えてやれば、引き替えに相手が何を企んでいるか聞き出せるかも知れない。
(その前に、転移装置に関った魔術師の名前だけでも調べておいた方がいいかしら。そんな記録があるかどうか、怪しいけれど……)
書庫に行けば、膨大な過去の記録がある。ラウシール以来の五百年分、どんな小さな一歩も漏らさず記した、魔術の歩みが。しかし政府絡みの仕事となると、はたして記録にその名があるかどうか。
(あったとしても)
一抹の黒い予感が胸をよぎる。あったとしても、本人がまだ『ここ』に留まっているかどうかは分からない。ファルカムの誘いに応じて失踪していたら。
(あれこれ心配しても始まらないわ)
セレスティンはふっと息を吐くと、手紙の束を重ねて片付け、勢い良く席を立った。
記録を調べるのは後回しにして、まずエンリルに会いに行こう。総督府にいないかもしれないし、だとしたら面会の約束を取り付ける必要がある。
そう決めて外出用の上着を羽織ると、セレスティンは急ぎ足に部屋を出た。そのまま転移室に向かいかけた足が、ふと止まり、船着場へと行き先を変えた。
(本当に転移装置に問題があるのかどうか、確かめておこう)
今までに何度も使っているが、髪が焦げるような独特の不快感は別として、危険を感じたことはなかった。もう一度、自分で確認する必要があるだろう。
湖を渡り、転移施設に向かう。いつもと違い、妙に慌ただしい雰囲気だった。
「こんにちは。何かあったんですか?」
セレスティンが係員をつかまえて尋ねると、「ああ、いえ」と業務用の微笑が返ってきた。
「ご存じかもしれませんが、遠方で転移装置の事故が一件ありまして。念のために安全性の試験をするように本国から通達があったんです。それで少し忙しくなっただけですよ。試験はもう済みました。こちらには問題はありませんから、ご安心下さい」
「そうですか」
セレスティンは何も知らない一般人のようなふりで、軽く応じた。サクスムの転移装置だけが特別だったのか、それとも大急ぎで欠陥の隠蔽にかかったのか。転移室の陣は見られるが、操作室には入れないので確かめようがない。
いつもと同じく、行き先は総督府。
セレスティンは魔法陣の描かれた部屋に入ると、改めてじっくり床を眺めてみた。
(……カゼス様は、どうしてこれが不完全だと分かったのかしら)
純粋な魔術によるものとは違う、それは分かる。だが理論が違うなら陣が違うのは当たり前で、原理を知らない者が見ても完全か不完全かは判断できない。
また教えを請わなくては、と考えたところで陣が光りだし、例によって静電気の不快感を伴った転移が一瞬で終わった。
その瞬間の力の動きを素早く追ってみたものの、とても捉えきれるものではない。
結局セレスティンは、しかめっ面で総督府の廊下を歩くことになった。
受付の新米青年はそろそろ仕事にも慣れたと見えて、セレスティンを見ると懐っこい笑みを広げて挨拶した。
「こんにちは、ライエル様。総督にご用ですか?」
「ええ。今日はこちらに?」
「はい、でも少しお待ち頂けますか。今ちょっと、大事なお客様がお見えになっていますので」
「でしたら、日を改めても構いませんけど」
セレスティンが小首を傾げると、青年は「いえ」と首を振った。
「用事そのものはじきに終わると思いますよ。結納の品物を確認するだけだとおっしゃってましたから」
「結納? 誰の?」
いきなり飛び出した縁のない話題に、セレスティンは眉を寄せる。青年は目をぱちくりさせた。
「総督ですよ。ご存じなかったんですか?」
「えっ……」
その時セレスティンが受けた衝撃は、決して大きくはなかった。だが数拍の間、思考が停止し、平衡感覚が狂ってふわりと軽いめまいを覚える程度には深かった。
私は何も聞いてない。
それが、最初に意識にのぼった言葉だった。次いで、怪訝そうな青年の案じ顔を認識する。返事をしなければ、とセレスティンは半ば機械的に口を開いた。
「しばらく……会っていなかったから」
「ああ、そういえばお久しぶりですよね。最近は総督もお忙しくて」
受付の青年はそこまで愛想良くしゃべってから、突然、自分の口が意志の司令に反していることに気付いたかのように、おっと、と口をつぐんだ。ばつの悪そうな顔で、立ち尽くしてもじもじする。幸いなことにちょうどその時、先客が出てきたので、彼は入れ違いに執務室へと走って次の客を取り次いだ。
青年に促されてセレスティンが部屋に入ると、エンリルは機嫌良く、いつもの挨拶を始めた。
「やあ、君の方から訪ねてくれるとは……」
が、言い終えるより早く、相手の顔色に気付いて言葉を途切らせる。室内にいたハキームも、只事でない雰囲気を察して表情を曇らせた。二人の反応に、セレスティンは強いて平静を装った。自分が動揺しているとは、他人にも自分自身にも、思われたくなかった。
(そうよ、それがどうしたって言うの。エンリルが誰と結婚しようと私には関係ない)
波立つ心を鎮め、セレスティンはきっと顎を上げて言った。
「お忙しい中、お時間を割いて頂きありがとうございます、総督」
「セレスティン、よすんだ。いったい何が」
「転移装置の事故。知っているんでしょう?」
突き放すような冷たい声。受付で聞いたことについては触れなかった。それを先に言ってしまうと、本来の用件を持ち出しもしない内に、大喧嘩をして喚きながら飛び出すことになりそうな気がしたからだ。
エンリルは眉を寄せたが、彼女の不機嫌の理由がほかにあるとまでは思いつかず、ひとまずソファを勧めた。
「ともかく座って。確かにその件は聞いているよ、仮にも総督だからね」
「あなたが転移装置のことを調べだした矢先にこの事故。偶然かしら?」
「私が何を調べているって?」
「とぼけないで。カゼス様がここを発たれる直前に、何かひそひそ話していたでしょう。転移装置がどうとか。その後で、あなたが転移装置に関りのある技術者を探しているという話を聞いたわ」
詰問するのも、いつもよりたやすかった。遠慮も慎重さも、今のセレスティンは必要だと感じられなくなっていたのだ。彼女のそんな態度にエンリルは不快げな表情をちらと見せたが、それを言葉にする愚は犯さなかった。
「確かに、少し気になることがあって、それを調べてはいるよ。だがまさか、私がつついたから暴走した、などと思っているわけでは……」
「ないわ、もちろん。私が言いたいのは、あなたはこの事態を予測していたんじゃないか、ってことよ。どうなの?」
セレスティンの追及を、エンリルは肩を竦めてやりすごした。
「それはラウシール殿に訊くべきだな。あの御仁が転移装置に何やら懸念を抱いている様子だったから、私の方でも調べてみただけだ。彼よりは私の方が、秘密裏に調査を進められると思ったのでね」
あの頓馬が不用心にあちこちつつき回して、薮から蛇がわんさと出てきては困る。と、そこまで露骨に言いはしなかったが、本音はそんなところだろう。セレスティンは相手を睨み付け、ゆっくりと脅すように言った。
「私たち魔術師を、調査に参加させるべきだわ」
「事故の、かい? それはもちろん、サクスムの支所から何人か、事後処理を手伝っている筈だが」
「それは分かってるわ。そうじゃなくて、あなたの『調査』よ。サクスムだけではなく、すべての転移装置を対象にした、完全な調査。王国の機密だろうとなんだろうと、このまま放置すれば今度はどんな惨事が起きるか分からない。施設の方では改めて試験を行って安全に問題はないと言っているけれど、信頼できないわ」
「王国の安全を採るか、民の安全を採るか」
エンリルはわずかに皮肉めかして応じてから、表情を改めた。
「その要請を上申してもいいが、現時点では突っ返されるだろうな。いくら長の意見であっても、今の『長衣の者』が持つ影響力は小さい」
「…………」
セレスティンはエンリルをじっと見つめ、小声でささやいた。
「サクスムにいたわよ」
「なに?」
「お探しの技術者。ワルド=イスハーク」
「――!」
エンリルは息を飲み、腰を浮かせる。彼がさっと視線を向けると、それを受けたハキームがうなずいて、素早く隣室に消えた。セレスティンはそれを胡散臭げに見送ってからエンリルに向き直った。
「それで、上申してくれるかしら。『長衣の者』の長では影響力が足りないのなら、総督の力を添えて」
「ご希望を叶えたいところだが、今の私にはさしたる力はないよ。全転移装置の完全な調査、なんて無茶な要求はまず通らない。すでに再試験は済ませたとして却下されるか、良くても、まったく意味のない形ばかりの調査でごまかされるだけだ。少なくとも今はまだ、騒ぎ立てずにいるべきだと思うね」
エンリルの答えは現実的だが、あまりにすげなかった。向かい合う二人がそれぞれ重視しているものが、完全に食い違っている証だった。セレスティンが問うたのは、事の成否の見込みではなく、援護する意志の有無だったのに。
セレスティンはごく小さなため息を漏らし、ついでのように尋ねた。
「彼女を捕まえてどうするつもりなの」
「君は知らなくていい」
エンリルは即答し、これでは相手の誇りを傷つけるだろうと気付いた様子で、幾分か穏やかに付け足した。
「君はあくまで中立を守らねばならない立場の筈だ。余計なことに関って足元を危うくするべきじゃない」
「…………そうね」
返事は納得したというよりも、鋼の刃で何かを断ち切ったように響いた。
「私には関係のないことだわ」
その声の不吉さにエンリルが眉を寄せるより早く、セレスティンはすっくと立ち上がった。
「無駄足だったようね。あなたの欲しがる情報の見返りに、少しは力を貸してくれるかも知れないと思ったのだけれど。これっぽっちの情報では、自分の計画にない事には見向きもしないわね。それがあなたって人だもの」
「セレ、待ってくれ。いったい何の話を」
「あなたはいつだって何かを企んでいる。そうでしょう、悪党さん」
歌うような節をつけ、セレスティンは辛辣に揶揄した。初めてこんな攻撃を受けたエンリルは怯み、言葉に詰まる。その隙にセレスティンは容赦なく畳み掛けた。
「はかりごとでいつも頭がいっぱいなのよね。その埒外にあるものはどうでもいい、関係ない、切り捨てても踏み付けにしても痛くも痒くもない。もううんざりだわ」
失礼とも言わず、セレスティンはきっぱりと背を向け、荒々しい足取りで部屋を出る。控えの間を抜ける前に、エンリルが追い付いて腕をつかんだ。
「何をそこまで怒ってるんだ、言ったろう、君の要請は……」
皆まで聞かず、セレスティンは乱暴に手を振り払う。みっともない態度だと、これでは男たちが『愚かで手に負えない女』とみなす振る舞いそのものだと、自覚してはいた。だが昂ぶった感情は二度と理性の軛につながれまいとばかり暴れ、とうとう、絶対にして欲しくないことをしでかした。
「セレ……」
絶句したエンリルの眼前で、セレスティンの頬を涙が伝う。ひとすじ、ふたすじ。
セレスティンはぐいと手の甲で涙を拭った。震える唇で息を深く吸い込み、ごくりと飲み込む。それから、口の端を無理やり上げて、歪んだ笑みを作った。
「ご婚約おめでとう。これで私もせいせいするわ」
愕然とした相手の顔面に、まるで呪いのように祝辞を投げ付け、部屋から飛び出す。
「セレスティン!」
声だけが追ってきたが、振り返らなかった。脇目も振らずに総督府を駆け抜けて行く。
もしエンリルが、恥も外聞も『計画』も投げ捨てて走りだしていたなら、彼女に追いつくことは容易かっただろう。追いつき、そして抱き締めていたなら、すべてが変わっていたかもしれない。
だが彼はそうしなかった。出来なかった。総督府のホールはあまりに人目がありすぎたし、その中には、恐らく未来の岳父にこの騒動を注進するであろう者もいたから。
彼は自分が取り返しのつかないものを失ったという確信だけを抱いて、呆然と立ち尽くしていた。




