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十二章 (1) サクスム



「温泉」

 その単語を口にした途端、カゼスの顔がぱあっと輝いた。極端な喜びの表現に、ケイウスのみならず、近くにいた水夫たちまでが失笑する。カゼスは照れ笑いを浮かべてごまかし、頭を掻いた。

「ええと、つまり宿にお湯が引かれているってことですか?」

 カゼスの言葉にケイウスは一瞬きょとんとし、それから笑って首を振った。

「レントでは温泉を独り占めする不届き者はいませんよ。立派な大浴場があります。誰でも利用できますから、皆さんもゆっくりして下さい」

「あー……」

 公衆浴場ですか、とカゼスは肩を落とした。

 ヴロドリゲル大河をさかのぼること数日、途中にあるサクスムの街に温泉があるというので、せっかくだから泊まって行こう、という話になったのだが……

「私はちょっと、遠慮……します」

 しょんぼりとうなだれたカゼスに、ケイウスが不審げな顔をした。

「何か不都合でも?」

「いえあの、悪気はないんですけど、ただ私はその……他人と一緒に入浴するっていうのが、駄目なもので」

 今は髪の色をごまかすことが出来ないし、そうでなくとも性別のない身体のことがある。仮にその両方をまやかしで隠すことが出来ても、心情的に受け付けない。

(せっかく久しぶりに、ゆっくりお湯に浸かれると思ったのになぁ)

 熱烈な風呂好きでなくとも、長らく体を拭くだけの生活が続くと恋しくなる。カゼスがあまりに萎れているもので、ケイウスは理由をあれこれ詮索することもせず、やや困惑気味ながらも提案した。

「それなら、宿の者に頼んで、部屋に湯を運ばせることも出来ますが」

 もちろん特別に料金がかかるし、湯もぬるくなる。そこまでしてまで小さな湯槽でこそこそ入浴するなど、レント人にとっては馬鹿馬鹿しい限りなのだろう。ケイウスの顔にはあからさまに、理解を超えている、との心情が表れていた。

 カゼスが行けない理由を分かっていて、ナーシルがわざとからかった。

「気にしないで来ればいいのに。混浴だから恥ずかしいのかなぁ?」

「はいはい、そうですとも」

 苦々しい口調でカゼスが応じる。エイルが「へえ」と小さく驚きの声を漏らした。

「レントの人はおおらかなんだねぇ」

「時間帯によって男女の入浴を分けているところが多いんですが、サクスムの温泉は特に様々な病に効くので、湯治客のためにそうした制限は設けられていないんですよ」

 ケイウスは説明し、一瞬だけ自分の足に目をやった。彼も王都とカウロニアを往復する際には、必ずここで湯治をするのに違いない。

「それじゃ皆さんは一日中でも、堪能して来て下さい。私は宿で一人、ぱちゃぱちゃ水遊びしてますから」

 カゼスがいじけると、アーロンが苦笑して「僕も付き合います」と申し出た。

「僕の方は郵便をいくつか、片付けないといけませんから。カウロニアを発つ前に、こっちへ送ってくれるように頼んでおいたものがあるんです。宿で整理して、後から浴場の方に行きますよ」

 彼の真意をはかりかね、カゼスは目をぱちくりさせた。が、アーロンは質問を受け付けず、ケイウスに浴場の場所を聞くだけ聞いて、カゼスを連れて宿へと向かった。

 宿の部屋に彼らの荷物が運び込まれた後で、ようやくカゼスは「あの」と戸惑いがちに切り出した。

「郵便がどうとかって、本当ですか?」

「ええ、都合の良いことにね」

 アーロンは備え付けの机に鞄を置き、がさがさと封書を取り出す。

「この部屋には一応鍵がかかるみたいですけど、ほかに誰もいないのに入浴するわけにはいかないでしょう? 宿の人がいきなり入ってくるかも知れないんだし……どっちにしろ僕も、先に郵便局に行きたかったんです。宿の人にお湯を運ぶように頼むのは構いませんけど、お湯に入るのは待ってて下さいね。すぐに戻りますから」

 てきぱきと言うだけ言い、アーロンは部屋を飛び出して行く。カゼスはようやく、彼が見張り番を買って出てくれたのだと気付いて、ぽんと手を打った。カゼスが一人で入浴しているところへ、お湯は足りていますか、などと宿の者が小銭稼ぎにやってきたりしたら、身を隠せないではないか。まさか頭まで湯に沈むわけにも行くまいし。

 いかんいかん、と自分の粗忽をたしなめつつ、カゼスは宿の者を呼んで湯を頼んだ。案の定、まずは丁寧に公衆浴場を勧められ、次いで渋面をされ、掌に銀貨を積み重ねながら頼み込んでようやく、うなずいて貰う事が出来た。

 そんな調子だったので、息を切らせたアーロンが戻ってきた時にやっと、湯がいっぱいになったという有様だった。

「なんだ……そんなに、急がなくて、良かった……ですね」

 額に浮かんだ汗を拭い、アーロンは苦笑しながら封書を机に置く。カゼスは湯槽のそばに衝立を移動させてから、封書に目をやった。

「手紙、届いてましたか?」

「ええ。リュンデさんから一通。カウロニアにいる間に、こちらの行き先や状況を知らせておいたんです。郵便局に留め置いて貰えば、向こうの変化も教えて貰えますから。勿論どうしてもとなれば、ライエル様なら転移装置でレント領内どこにでも来られるでしょうけど、そうそう非常手段を使うわけには行きませんからね」

「商館で手紙を書いてたのは、そのためだったんですね。すみません、私は全然そんなところに気が回らなくて」

「どう致しまして。さあ、お湯が冷めないうちに入って下さい」

 アーロンが机に向かったまま、どうぞ、と手で促す。カゼスはいささか落ち着かないながらも、それじゃ、と断って衝立の後に回った。自分だけ安穏と楽をさせて貰っているような気がして、何やら肩身が狭い。

 だがそんな気分も、久しぶりに湯に浸かると、ふっとほどけて消えた。ほうっと息をつき、目を閉じる。体に残っていた緊張が、最後のひとかけまで溶けていく。

 すっかり心身が緩みきったところで、見計らったようにアーロンが呼んだ。

「カゼスさん」

「はい?」

「無理に答えなくてもいいですけど……どうして女だってこと、隠すんですか?」

 ずるっ、とカゼスは沈みかけ、慌てて浴槽の縁をつかんだ。

「ちょ……っと、待って下さい。その質問、そもそも前提が間違ってますから。隠すも何も、実際に私は女じゃありませんよ」

「そうですか。じゃあ、僕が今そちらを覗いても、きゃあ、なんて言いませんよね?」

「いやいやいや、待った待った、それは困る困ります。きゃあ、は言わなくても、ギャーとかワーとか言いますから」

 カゼスは焦って周囲を見回し、タオルをひっつかんだ。湯から上がった方がいいだろうかと身構えつつ、

「だいたい、どこをどう見たら私が女だって結論に達するんですか」

 反問して時間を稼ぐ。アーロンが衝立の向こうで苦笑した。

「慌てなくても、覗きませんよ。ごゆっくり。あなたと実際に出会う前から、ラウシールが女だった可能性は高いと考えていたんです。アーロン卿のこともありますし、それ以外にもいわゆる『女性的』な言葉や逸話が残ってますから。実際に会ってみたら、またちょっと分からなくなったんですが……」

「そりゃそうでしょう」

「でも、今は確信してますよ。あなたにはイブンさんも親切ですしね」

 冗談めかして言い、アーロンが笑う。カゼスもつられてふきだした。

「私があんまり頼りないから、お情けをかけてくれているだけですって」

「まぁ、そういう事にしても構いませんけど、今後も男で通すつもりなら少し考えた方がいいですよ」

「……何をです?」

「髭、です。一度も剃ってないでしょう」

「あっ!」

 思わずカゼスは短い叫びを上げ、しばし絶句した。それから頭を抱え、うわぁしまった、などと正直に嘆く。

(阿呆か私はー! 五年前も同じ失敗をしたくせに、ころっと忘れてー!)

 内心のたうち回っていると、リトルが精神波でため息を送ってよこした。

〈まったく、あなたの学習能力のなさにはほとほと呆れますね。本当に脳細胞が機能しているのかどうか怪しくなってきましたよ〉

〈うううううるさいぃぃぃっ! 言われなくても分かってるやいっ〉

 どうにも情けないことしか言い返せず、カゼスは両手で顔を覆った。

「……髭が生えない体質なんです、っていうのは駄目ですかね」

「そんな無茶な。いくら薄い人だって、その歳になれば剃らずには済ませられませんよ」

 アーロンが笑いだす。カゼスは顎まで湯に沈み、ため息をついた。

「ああもういいや……えーと、あのですね、アーロン。白状すると、確かに私は男じゃありません、だから髭剃りも必要ないわけです。でも、だからって女でもないんです」

 今度はアーロンが絶句する番だった。長く気詰まりな沈黙が降りる。

「……どういう意味ですか?」

「どっちでもない、ってことですよ。少なくとも今はね。……ああでも髭剃りかぁ、忘れてたよ本当に……ふりだけでも時々しなきゃまずいかなぁ。でもそんなとこまで見てる人、そうそういないと思うんだけどなぁ。永久脱毛したんですってのは駄目かなぁ」

 カゼスはぶつぶつ独りごち、うう、と呻いた。面倒臭い、という心情がその声に滲み出る。ことここに至ってさえまだわずかな手間を惜しむとは、怠け癖も筋金入りだ。

 一人で憂欝になっているカゼスに対し、アーロンの方は知らされた事実を飲み下すことが出来ずに困惑の声を出した。

「どっちでもない、って、でも、それは」

「そういう生き物らしいんですよ、どうやら」

 他人事のように淡々と言い、内緒にして下さいね、と付け足す。少なくとも女性にはなり得るという事実には触れなかった。この話題に深入りしたら墓穴を掘ってしまう。

 アーロンが黙っているので、カゼスはそそくさと髪や体を洗い始めた。自分の目で確かめよう、などという気を起こされてはたまらない。さっさと入浴を終わらせた方が良さそうだ。

 しばらく後、湯上がりのカゼスが新しい長衣に着替えて姿を現すと、アーロンは何とも複雑な顔で遠慮がちな視線をくれた。

「なんて言うか、そうと分かって見たら、もっと妙な気分がするかと思ったんですけど」

 戸惑い顔で首を傾げ、しげしげと眺める。カゼスの方が落ち着かなくなって身じろぎした。

「意外と普通なんですよね。不思議なことに」

「はい?」

「特にどっちだろうと考えたりしない限りは、あなたの存在もごく自然に思える。それが不思議だなと思ったんです。……ラウシールがほかにもいるんだとしたら、皆、あなたと同じなんでしょうか」

 ふと思いついた風情でアーロンが言った。カゼスは愕然とし、頭を殴られたかのように数歩よろめいた。

「それは……分かりません。でも、もしかしたら」

 そうかも知れない。髪が青いというだけでなく、性別がないということも――特定の相手が出来た時にだけ分化するという点も、ラウシールという種族の特徴だとしてもおかしくはない。

(私……『普通』なんだ、もしかしてこれが『普通』なんだ?)

 改めてそのことに驚かされる。カゼスの脳裏を青髪の人物がよぎった。レーニアと名乗った青年との、束の間の邂逅。そういえば彼も、女ではなかったが、明らかに男だと分かるほどの体格でもなかった。

「だとしたら」アーロンがふむと続けた。「図書館で調べる時に、髪の色だけじゃなくて性別がないとか、あるいは逆に両性だとかいう存在についても、当たってみた方がいいかもしれませんね。ラウシールが皆、魔術を使えるのなら、外見の特徴はごまかしていた場合もあるでしょうから」

 実際的な話に戻り、カゼスはやや茫然とアーロンを見た。自然に肩の力が抜け、ほっと息をつく。

「はぁ……本当に、あなたがいてくれて助かりますよ」

 自分一人だったら、己の身にかかわることだけに拘泥し、そもそもの目的を見失ってしまうところだ。新しい事実を知ってもそれのみにとらわれず、事実を踏まえた上で何をすべきかを考えられる人間がいてくれて、どれほどありがたいことか。

 しみじみと感謝したカゼスに、アーロンは少し驚いた顔をしてから、照れくさそうに笑った。

「そう言って貰えると、無理やりついて来たのも報われます。あ、そうそう、リュンデさんからの手紙、読みますか」

 ひらりと差し出された封書にカゼスは手をのばしかけ、おっと、と引っ込めた。

「濡らしてしまいそうですから、良ければ読んで貰えますか」

「わかりました。ええと……」

 手紙はリュンデの話し口を彷彿とさせる文章で綴られていた。まずはカウロニアへの無事到着を喜ぶ言葉から始まり、学府の方の状況が続く。

「失踪の件数は減少傾向にあるようです、セレスティンが連れ戻した者も何人かいます。ただ失踪の歯止めになっているのが私たちの努力ではなく、ラウシール様の噂だというのが困りものです。ヴァフラムも、当初の楽観論を撤回しました。結局彼らは、自分たちの力でも、『長衣の者』の組織としての力でもなく、奇蹟を当てにしているのですからね。それだけでなく、青色を身につけた者たちは自分たちだけでかたまって、まるでひとつの宗派の様相を呈しつつあります。そうしたこだわりや閉鎖主義から自由であることが、私たちのそもそもの身上だというのに。セレスティンも疲労がたまっているようで、心配です。そちらの成果が早く出ることを祈っております。出来れば王都での用事が済み次第、一度こちらへお戻り下さい」

 読み上げるアーロンの声も、だんだんと沈みがちになる。カゼスも顔を曇らせた。

「あんまり……芳しくないみたいですね」

「これ以上、面倒な状況にならなきゃいいんですけど」

 アーロンがつぶやいた直後、カゼスがいきなりびくっと身を震わせ、虚空を振り向いた。

(何だ、これ――)

 精神を開いていないのに、『力』の動きが感じられた。つまりは何かの現象として物質世界に作用が現れる前兆だ。しかも、穏やかな方法ではなく。

「まずい!」

 無意識に叫びが口を衝いた。次の瞬間、窓の外で鈍い音が響き、部屋が揺れた。アーロンが弾かれたように立ち上がり、恐怖に顔を引きつらせて周囲を見回す。

「地震……!?」

「いえ、違います」

 カゼスは宙を見つめていた目を下ろし、窓に駆け寄った。アーロンも横に並ぶ。

 部屋は二階で多少の見晴らしがきいたが、家並み越しに見える彼方で、空が歪んでいた。街の中心部だ。風に乗って焦げた臭いが運ばれてくるが、炎や煙は見えない。ただ遠くで何かが歪み、火花が飛び、今にも爆発しそうだと気配で感じられる。

(力が異常に集積してるんだ)

 そのせいで周辺の力は薄まり、流動性を取り戻していた。今なら、少し手綱さばきに注意しさえすれば、魔術が使える。だがもし、あれが爆発でもしたら。

 アーロンが身を乗り出し、不安げに目蔭をさした。

「何が起こってるんでしょう」

「誰かが魔術に失敗したか、そうでないなら……転移装置の故障でしょう」

 言いながらカゼスは手を伸ばし、目を閉じる。ひと呼吸の間。

「駄目だ」カゼスは呻いて目を開けた。「押し戻される。物理的に接触出来るところまで行かないと」

 忙しなく言って、カゼスは素早くアーロンの手に『印』をつけた。

「ここで待つかエイルさんたちと合流するか、状況を見て判断して下さい。私は事態の収拾をつけたら、あなたの所に戻りますから。すみません」

「えっ? ちょっと待って」

 下さい、と言い終えない間に、カゼスは窓から身を投げていた。強い風と小さな『場』がカゼスを支え、一瞬で空の高みへと運ぶ。

「カゼスさん!」

 アーロンは叫んだが、もちろんカゼスには届かなかった。

「大変だ」

 つぶやくと、彼は急いで最小限の荷物だけを持ち、宿から飛び出した。


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