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十一章 (3) 元軍人の古傷



 川面を渡る風が頬をなぶる。カゼスはその心地良さに目を細めてから、巻き上げられそうになった頭巾に気付いて、慌てて押さえた。きっちり結って隠した上に、見えそうな所には眉墨まで塗ってあるのだが、それでも用心に越したことはない。

(不便だなぁ)

 こんなものは全部外して、気がねなく風に吹かれることが出来たらいいのに。

 魔術が使えない不便さは、移動などの大事よりも、むしろこうした些細な事の方が堪える。カゼスはやれやれと小さなため息をついた。

「大丈夫ですか?」

 気遣いの声に振り返ると、ケイウスが船室から出て来たところだった。その不安げな表情は、出発前にナーシルから脅されたがゆえだろう――カゼスの船酔いについて。

「平気ですよ」カゼスは苦笑で応じた。「川船だからほとんど揺れませんし、ナーシルは大袈裟なんです。海を渡った時でも、天候の穏やかな間は大丈夫だったんですから」

「そうですか」

 ケイウスがほっと破顔する。カゼスもつられてにこりとし、改めて頭を下げた。

「こんな良い船に乗せて下さって、本当にありがとうこざいます」

 農産物を運ぶだけの船にしては、快適さにもきちんと気を使って造られた船だった。船を操る水夫だけでなく、船主と客数人の寝食する空間も取られているのだ。大河では常に西風が吹いているので、遡航の場合も帆を張れば櫂はほとんど使わずに済むため、人手が少なくて足りるからこそ、だろう。

 同時にまた、それだけの船を造る余裕がフィロ家の農園にはある、という証でもある。ケイウスは小さな農園だと言い、事実積み荷はさほど多くはないが、それでも時折行き交う行商の小舟とは比べものにならない。その上、召使や水夫までもが、分別の窺える控え目な態度を崩さない“上等の品”なのだ。

(やっぱり、王様の知り合いだから、なのかなぁ)

 イブンの話を思い出しながら、カゼスは景色を眺めるふりでケイウスの様子を窺っていた。と、まともに視線が合いそうになり、カゼスは慌てて目を逸らした。じろじろ観察していたと思われては困る。逃がした視線の先に、運良く水鳥がいた。

「あ、大きな鳥が」

「青鷺でしょう」

 どれ、とケイウスが目蔭をさす。そのまま彼が船縁に寄りかけた時、ぐらりと船が揺れた。カゼスは「おっと」で済んだが、ケイウスはつまずき、杖を取り落としてまともにカゼスにぶつかってしまった。

 船縁との間に挟まれて、ぐえ、とカゼスが奇声を漏らす。ケイウスは大慌てで謝ったが、落とした杖を拾おうとして余計に体勢を崩してしまう。カゼスは巻き込まれそうなのをどうにか堪え、両腕で相手を支えた。

「大丈夫ですか? 慌てなくていいですよ」

「申し訳ない」

 ケイウスは赤面し、視線を落として謝る。元軍人にとって、思うに任せぬ体で迷惑をかける屈辱とはいかほどだろうか。カゼスは努めて軽い口調を装った。

「謝られることじゃありませんよ。わざとじゃないんだから……はい、どうぞ」

 杖を拾って手渡し、カゼスはしげしげと相手の足を見た。

「座った方が楽ですか?」

「いえ、このままで」

 ケイウスの声は硬い。カゼスは束の間だけ考え、ちらっと辺りを見回して誰も見ていないことを確かめると、やおらその場にしゃがんだ。

「カゼス殿?」

 いきなりのことに、ケイウスが驚く。カゼスは答えず、杖にすがる左足に手を当てた。目を閉じると素早く精神の糸を繰り出し、内部を探る。

(ああ、ここが……でも完全に切れてはいないな。修復して……)

 傷ついたまま固まっていた組織をほぐし、蘇生させ、切れた部分をつなぎ合わせる。細かい作業ではあるが、さほどの難事ではなかった。毒や異物の残留もなく、代謝の調節も必要ない。

 ケイウスが己の足に生じた妙な感覚に訝り、何事かとうろたえている間に、カゼスは治療をひとまず終えた。完全に元に戻したのではなく、応急処置だ。

 立ち上がろうとして目が眩み、カゼスはへたっと座り込んだ。そのままケイウスを見上げ、力の抜けた顔でにこりとする。

「……とりあえずこれで、少しはましに動くと思いますよ。さすがに、すっかり元通りにするには、ちょっと」

 時間もかかるし、カゼスの体力がもたない。『力』を利用するのではないからだ。

 ケイウスは目をみはり、まじまじとカゼスを見つめた。それから用心深く足を動かし、数歩ばかり歩く。ゴツ、ゴツ、という杖の重い音が、ためらいがちに、コツリと軽くなった。完全に杖に頼っていたのが、そうせずとも良くなったのだ。

「…………」

 声もなく、ケイウスが振り向く。カゼスはまだ座り込んだまま小首を傾げた。

「どうですか?」

「あなたは……いったい、何をしたんです? こんなことが……医者にも、一生このままだと言われたのに」

 信じられない、そうつぶやいてケイウスはカゼスの傍らに膝をついた。その動きを自然に出来たことにまた驚く。カゼスは相手の表情を見て苦笑し、ひらひらと手を振った。

「そんなにびっくりしないで下さい。私は本当のところ、魔術師で……こういう方面は、少しだけ得意なんですよ」

「魔術師? だが今は魔術が使えないと」

「あー、まぁ、そうなんですけど」カゼスは頭を掻いた。「似たような技術がありまして。でもあんまりおおっぴらには出来ないんで、内緒にしといて下さいね」

「……カゼス殿、私は」

 さすがにケイウスも平静を保てず、視線を忙しなく動かす。何か怪しげなことをされたと疑うべきなのか、平伏して感謝すべきなのか、判じかねているのだろう。カゼスはおどけて眉を上げた。

「もし感謝して貰えるのなら、お礼はいいですから、それ、やめて下さいませんか」

「は?」

「カゼス『殿』、っていうの。呼び捨てでいいですから」

「しかし、それは」

「何か怪しいことをされたと疑っているのなら、ますます呼び捨ての方が都合良いわけですしね?」

「そ、そのようなことは!」

 さらにケイウスが困った顔をしたので、カゼスは笑いだしてしまった。根が真面目な人間をからかうと面白い。

 まともに取り合ってくれないカゼスに、ケイウスはとうとう両手を上げて降参した。

「分かりました、お望み通りにしましょう……そちらも、俺のことはケイと」

 一人称が変わったことに気付き、カゼスはにやりとした。その表情を見てケイウスが、やれやれといった風情の微苦笑を浮かべる。

(あ、)

 一瞬その笑い方が、過去のまぼろしと重なった。似ている。

 そうか、アーロンもこんな風に私を見ていたんだな――などと、今頃になって客観的な分析をした後で、カゼスは不意に気付いた。

(ああそうか、私はまだ)

 イブンが言うように、操を立てている、などというのではない。そうではなくて、

(……まだ、あの人が好きなんだ)

 アーロンに似た何かを見るだけで、生き返る。温かくなる。それは過去にあるのではなく、今ここにある想いだ。

 そう気付くと、ごく自然にすうっと気分が晴れていくのを感じた。深く息を吸い込み、空を仰ぐ。そして、

(って、何をしみじみと恥ずかしい事考えてるんだ私は――!)

 内心で一人突っ込みを入れ、ばたんと仰向けにひっくり返ってしまった。

「あっ!? か、カゼ……ス?」

 慣れない呼び捨てにつっかえながらも、ケイウスが呼びかける。カゼスは赤くなった顔を見られたくなくて、ごろんと甲板に突っ伏した。そんな自分の姿が可笑しくて、笑いがこみあげてくる。

 くすくす笑い続けるカゼスに、ケイウスは困惑し、うろたえ……結局、手をつかねて落ち着くのを待つことにした。

 ややあってカゼスが身を起こした時には、ケイウスは傍らに片膝を立てて座り、なんとも複雑な顔でこちらを眺めていた。

「すみません、ちょっと、色々考えることがあって」

 まだ小さく笑いながら、カゼスは形ばかり謝罪した。

「治療に力を使い果してどこか一本ネジが飛んだとかいうわけじゃ、ありませんから」

「……だったら良いんだが」

 いささか皮肉っぽくケイウスが応じる。おや、とカゼスは悪戯っぽい顔をした。

「そろそろ地が出て来ましたね。これで私も羽を伸ばせるってものです」

「どうぞ、存分に」

 ケイウスは苦笑し、それから改めてカゼスを見つめた。何かを決めたようなそのまなざしの強さに、カゼスは思わず怯みそうになる。

(しまった、まずいぞこのパターンは)

 カゼスが後悔すると同時に、予想通りケイウスは深く頭を下げ、畏まって述べた。

「すぐれた技と深い慈悲に、心からの感謝を」

「……いやそんな大袈裟なものじゃありませんから本当に。完全に治せたわけでもありませんし」

「それでも、どれほどありがたいことか。俺に出来ることがあれば、何でも礼をします」

「お礼は要りませんってば」

「それでは俺の気が済みません」

 押し問答になってしまい、カゼスは弱ったなと頭をかいた。少し考えて、そうだ、と手を打つ。

「どうしても、と言うのなら、私じゃなくて誰かほかの人に親切を押し売りしちゃって下さい」

「それがあなたの望みですか?」ケイウスは不可解げに眉を寄せた。

「そうです。実際、今は特に切実な要求はありませんし…… 善意がどこかよそをぐるっと回ってくれたら、そのうちまた私が必要とする時に、どこかからひょっこり戻ってくるかも知れないでしょう?」

「……なるほど」

 とぼけたカゼスの言い草にも、ケイウスは真面目にうなずいた。カゼスは危うく失笑しかけ、辛うじてそれを飲み込む。深みにはまる前に、彼は話題をそらせることにした。

「その足、戦で、っておっしゃいましたよね」

「ええ。ヘジェンでの暴動を鎮圧した時に。彼らはすぐに誓約を破るので」

 ケイウスはすっと表情を消し、左足を無意識に押さえた。カゼスは詳しい経緯に興味を引かれたが、あれこれ尋ねてもまずいと思い直して黙った。観光客を装っているとは言えあまりに情勢に無知であれば、そもそも一体どこの何者か、との疑問を抱かせてしまう。

 かわりに、カゼスは訊いた。

「もし足が完治したら、また……軍に戻りますか」

「戻れるならば、もちろん」ケイウスの答えに迷いはなかった。「兵役は我々の責務です。警戒と訓練を怠っては、平和を維持することは出来ません」

「……そうですか」

 あまりにも明快な意見には、疑問を差し挟む余地など毫もない。カゼスはおとなしくうなずき、それから小声で、独り言めかして付け足した。

「私は、戦は嫌いです」

「それは俺もだ」

 思わずといった風情で、ケイウスが苦笑する。くだけた物言いになったのをごまかすように、彼はちょっと咳払いをした。

「戦闘がなくても仕事はきついし、いざとなると緊張と重圧でおかしくなりそうだし、自分が死ぬのも嫌だが仲間に死なれるのはもっと堪える。だが、誰かがやらなければ」

 言いながらケイウスは軽く手を握ったり開いたりしていた。剣の感触を思い出そうとするように。カゼスは何も言わず、ただ空を仰いだ。

 私は戦争のない世界から来たんです――そう言ったら、この青年はどんな反応をするだろうか。

 信じないだろうか、羨むだろうか、それとも……呆れるだろうか?

(考えてみれば、奇蹟的なことなんだろうなぁ)

 大陸ひとつが丸々、緩やかな共同体として機能し、戦らしい戦など数百年もの間、まったく経験していない、などとは。

 己の属する世界から離れると、その特殊性がよく分かる。カゼスはそのままぼんやり、とりとめもなく思いを巡らせていた。

 と、そこへ、

「何やってんだい、若旦那が二人して、こんな所で座り込まなくたって」

 呆れた風情の声が降ってきた。言うまでもなくナーシルだ。カゼスとケイウスは揃って顔を上げ、それぞれなりに苦笑した。

「あれこれ雑談をしてまして」

 カゼスはごまかすと、特段何をするでもなく立ち上がる。ケイウスも、思い出したように杖を取った。相変わらずナーシルが警戒しているのを、彼の方でも感じ取っているのだろう。それでは、と、さり気なくその場を後にした。

「……で、どうだい」

 こそっ、とナーシルがささやく。不審な様子はないか、と。カゼスはほとんど分からない程度に肩を竦め、ささやき返す。

「ええと……あの人は本当にただ偶然出会っただけの、政治とか立場とか、気にしなくていい人だと思いますよ。もし何か私たちのことを知っているなら見せるはずの反応が、ありませんでしたから」

「探ってみたのかい?」

「そのつもりではなかったんですけどね」

 カゼスは曖昧に応じて頭を掻いた。ケイウスの足を治療したのは、まるっきり何も考えずにしたことだった。ただ目の前にある傷に、反射的に手を当てただけ。だが、後から考えると非常に危険な賭けだった。

(ラウシールの噂だけでも聞いてたら、医者に治せないって言われた古傷を治せる魔術師なんて、まさか、と思うよなぁ)

 それがないという事は、彼の耳には遠くデニスからの噂は届いていない、と判断しても良い……筈だ。多分。

〈リトル、そっちはどうだった?〉

〈難しいですね。治療を受けた時にはかなりの動揺が見られましたが、それは誰でもありえる反応です。落ち着くのが早すぎた、と言えなくもないですが、単に性格ゆえなのか、何か前知識があった為なのか、区別はつきませんし。要するに、分かりません〉

〈……丁寧な解説、どうも〉

 カゼスは脱力しかかるのを堪え、やれやれと首を回した。

「まぁそろそろ、ちょっと気を楽にしましょう。あなたも警戒してばかりじゃ、疲れるでしょう」

「俺の心配はいいよ」

 ナーシルは苦笑し、ぽんとカゼスの背中を叩く。

「あんたを守るのが俺の仕事だし、個人的な目的でもあるんだから」

「…………」

 まだ諦めていないのか。そう喉元まで出かかったのを、カゼスはぐっと飲み込んだ。彼にとってはデニス独立が大望なのだ、それを軽くあしらうことは出来ない。

 カゼスはため息を隠し、ケイウスの去った方を見やった。あの元軍人もまた、その論理は明快で迷いがなかった。ナーシルの信念と同じように。

「少し……あの人と、話してみてくれませんか」

 押しつけがましくならないよう、カゼスは静かに言った。

「気は進まないだろうし、妥協できるとも思いませんけど。それでも…… 王国の人が何を考えているのか、きちんと聞いてみてくれませんか。私が尋ねたら、本当に何も知らないことがばれてしまいますから」

 私の代わりに、と頼んでみる。ナーシルから、返事はなかった。


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