一章 (1) 長と総督
ウルミア湖上に佇むエデッサの城は、数百年の昔からその姿をほとんど変えていなかった。暮らしやすいように増改築をされたこともあるが、それでも基本的な造りは、帝国時代そのままだ。
今ではその孤立した閑静な環境を生かして、魔術師たちの中央学府として機能している。世界中に散らばる『長衣の者』たちの、いわば故郷だ。
数多い部屋の内、ひとつには一切の家具が置かれておらず、代わりに床に転移陣が描かれていた。とは言え、ここ数年は力場の乱れが激しく、使われていない。王国政府が管理する転移装置は正常に機能していたが、そちらはこの城内に通じてはいなかった。政治勢力とはかかわらない、という『長衣の者』の姿勢を示す一例だ。それゆえ、外部から訪れた者は今でも、昔ながらの渡し舟に頼らなければならなかった。
「古式ゆかしい伝統も、観光客には風情があっていいだろうが、実際のところ学府の排他性を象徴しているようじゃないか?」
船着き場に降り立った金髪の青年は、苦笑まじりにそんな感想を洩らした。迎えに出た黒髪の少年は、おずおずとした笑みを浮かべる。
「申し訳ありません、総督。でも、魔術が使えなくなる前は、結構便利だったんですよ。転移魔法も使えたし、飛翔や跳躍で出入りするのも自由でしたから」
少年の言い訳を聞きながら、青年は勝手知ったる様子で先に歩きだした。
「分かっているさ、ラジー。ところで、今日は総督としての仕事で来たわけじゃないんだ。取り次ぎの時はセレにもそう言ってくれないかな。でないとまた、叩き出されそうだ」
青年はおどけて肩を竦める。少年、ラジーは、困り顔で眉をひそめた。青年はその表情を眺め、やれやれと言うようにうなずいた。
「ああ、結果は同じだって言いたいんだろう? それも分かっているさ。だが、もしかして、セレの機嫌が良ければ、デニス総督はかつての幼なじみでもあるってことを、思い出してくれやしないかと思ってね」
歩きながらそんなことを話していると、行く手の部屋から硬質の声が答えた。
「いっそ忘れたいと思いますけれどね。デニス総督、エンリル閣下」
開いたままの扉の前で立ち止まり、青年、エンリルは、ラジーと顔を見合わせた。
「……どうやら、ご機嫌斜めのようだ」
彼は小声で言うと、同情的なラジーの視線に見送られて入室した。中では、彼の幼なじみであり、また現在『長衣の者』の長でもある人物が、机に向かって書き物をしていた。顔を上げもしない。
「公務でもないのにわざわざこんな、古式ゆかしく不便で排他的な所へおいでになるほど、総督の仕事は暇なものなのかしら? 平和で結構なことね」
敵意もあらわな皮肉で迎えられ、エンリルは渋面になった。彼は何か言いかけて、とりあえずため息をつく。
「セレスティン=ライエル殿、魔術全般に及ぶ昨今の状況が楽観を許さぬものであり、長の職務が重大かつ多忙を極めることは承知しておりますが……」
慇懃な口調でそこまで言うと、彼は「馬鹿馬鹿しい」と両手を上げ、無遠慮に机に歩み寄った。そして、セレスティンが顔を上げるより早く、さっとその手の下の書類を取り上げる。
「久しぶりに会いに来た幼なじみと、お茶を飲んで一息入れるぐらい、出来ないわけじゃないだろう? 私はそれが望みで来たんだ、喧嘩しに来たわけじゃない」
「私だって喧嘩したいわけじゃないわ。だから今のうちに帰ってくれない? あなたといると、結局いつも喧嘩になるんだから」
セレスティンはエンリルの手から書類を取り返すと、厳しい目で相手を見上げた。
「あなたといると、くつろぎたくてもくつろげない。あなたはいつだって、何かをたくらんでいるんだから。私に会いに来るのもそのため……そうでしょう、悪党さん」
「信用されてないんだな」
エンリルは悲しそうな顔を作ったが、セレスティンは冷ややかなまなざしを返しただけだった。その反応を予想していたエンリルは、苦笑して頭を振った。
「やれやれ、まあそれでもいいさ。ただ今日は、本当に公務じゃなく私用で来たんだ。ちょっとばかり、相談したいことがあって」
「相談? 私に?」
セレスティンは不審げな顔になり、ようやくペンを置いた。エンリルはうなずき、にこりとする。
「やっと話を聞く気になってくれたかな。これで、じゃあ一緒にお茶でも、となったら嬉しいんだが」
「そういうことを言わなければ、あなたの印象も少しは良くなるのにね」
手厳しく言い返しはしたものの、セレスティンは気をそがれた様子で、扉の方に向かって呼びかけた。
「ラジー! お茶を淹れてきてくれる? 三人分、テラスに」
ハラハラしながら様子を覗き見ていた少年は、はた目にわかるほど、びくっと竦んだ。
「あっ、は、はい!」
慌てて答えると、大急ぎで走り去る。その背中を微笑ましく見送り、エンリルはにやっとしてセレスティンを見下ろした。
「あんまり弟子を心配させちゃいけないな」
「……分かってるわよ」
憮然として言い返し、セレスティンは片手で顔を覆った。何しろ、デニス総督と派手な口論をした挙句、横っ面をひっぱたき、部屋から文字通り叩き出した前科があるのだ。いくら相手が幼なじみとは言え、互いの立場を考えると、さすがにあれはまずかった。
(しかも結果的に、エンリルに借りを作ってしまったのだものね)
長にふさわしからぬ愚行が人に知られぬよう、あくまでとぼけて見せたのは、ひっぱたかれた当人なのだ。彼のお陰で、『長衣の者』の内部におけるいざこざも生じず、またレント王国政府からの言い掛かりや圧力もなかった。エンリルは腹の立つ相手ではあるが、それでも、自分を守ってくれた恩人なのだ。
セレスティンはため息をついて立ち上がり、テラスの方へ歩いて行く。エンリルはその手を取りたそうな仕草を見せたが、すぐに諦めて、ごまかすように両手を背後で組んだ。
「眉間にしわを寄せてばかりいると、美人が台無しだ」
「嬉しいことを言ってくれるわね。そうなったら、わざわざこの顔を見に来る物好きな誰かさんの足も遠のくでしょうよ」
「残念ながら、私を引き寄せるのは君の顔だけじゃなくてね。でもそれを言うのはやめておくよ、どうせ本気にしてくれないだろう?」
「事実あなたが本気じゃないからよ」
ちくちくと棘のある言葉を応酬しながら、二人は日当たりの良いテラスに出ると、椅子に腰掛けた。白樺の枝が優しい陰を落としている。
「それで、相談って?」早速セレスティンは切り出した。「言っておくけれど、あくまで私人としての相談に限るわよ。お互いに」
お互いに、を強調したのは、相手が『長』としての自分に相談をもちかけるのを防ぐためだった。個人的な用件を装って政治的な駆け引きをするぐらい、眼前の男ならやりかねない。警戒されたエンリルは片方の眉を上げたが、そのことについては敢えて抗議も揶揄もしなかった。
「私人としてかどうか、微妙なところだな。魔術師の友人に相談したい類のことだから」
彼はそう前置きしてから、少し考えるように、ふと視線をさまよわせる。告白した声は、ささやきのようだった。
「誰かに見られている」
短い一言に、セレスティンは胡散臭そうなまなざしを返した。それから相手の言わんとするところを察し、真顔になる。魔術師の友人に、『見られている』という相談。とくればつまり、誰かが付け回しているようだとか、人目が気になるだとかいったことではない。
「確かなの?」
セレスティンも声をひそめた。現在『目』を利用できる魔術師は、彼女自身を含め、辛うじて数人いるだけだ。それも、力場の状態が安定した瞬間をとらえなければ、不可能。同一人物を長時間監視することなど、到底できない。
セレスティンの疑念に、エンリルは困惑した様子で頭を掻いた。
「疑うのもわかる。私だって最初は、自分の頭がおかしくなったのかと思ったさ。だが間違いなく、誰かがこちらを見ているんだ。そういう感覚がする時は、ごく微かながら瞳の色が変わっているから、魔術以外にはあり得ない。一族の力は、もう行使できる者などいないからね」
最後の一言は付け足しのように言い、肩を竦める。伝説に残るエンリル帝の壮絶な能力も、五百年の間にすっかり血が薄まり、いまや風前の灯だ。皇帝の血筋に連なる者の中にはまだ瞳の色が変わる者もいるが、それでも自ら力を発揮することはできない。昨今では、エンリル帝本人でさえ虚飾の衣を纏っているだけではないのか、と学者たちが醒めた分析をしているありさま。
「不思議なのは、相手もこちらを見ているつもりではないらしい、という点だ」
エンリルは言って、テーブルの上で手を組んだ。セレスティンは顔をしかめる。
「あなたでなく、あなたの近くの何かを見ている、ということ?」
「いいや、注視されている感覚がないんだ。そうだな……言い直そう。見られているんじゃなく、誰かがそばにいる、そういう感覚だ」
エンリルが口にした言葉に、セレスティンはどきりとした。嵐の夜のことが脳裏をよぎる。その反応を、エンリルは見逃さなかった。
「まさか君じゃないだろうね」
彼は冗談めかして言ったが、青褐色の目に浮かぶ光は、油断なく鋭かった。セレスティンは首を振り、軽く唇を噛む。動揺を表に出した自分に腹が立ったが、悟られてしまったものをごまかすことは出来ない。ややあって、彼女はため息と共に白状した。
「……違うわ。私も、似たような気配を感じたことがあったものだから、驚いただけ」
おや、と言うようにエンリルが目をしばたたかせる。彼にしても、この答えは意外だったらしい。セレスティンは探るように相手を見つめた。
「私の場合は、以前に一度あっただけで、それきりだけど。あなたは何度も?」
「ああ、まあね。それで、君に訊きたかったんだ。そういう事態はあり得るものなのか。つまり、魔術師が、そのつもりでないのに、誰かのところに精神を飛ばすようなことが」
「あり得なくはないけれど、可能性としては極めて低いわね」
セレスティンは慎重に答え、それよりも、と続けた。
「むしろ原因は、その『誰か』一人にあるのではなく、何か……別の環境的なものじゃないかしら。力場の荒れようからして、そうした妙な現象が起こっても不思議じゃないわ」
「ふうん……そういうものかい。君にもはっきりとは分からないわけだ」
「正直に言って、さっぱり」
セレスティンは肩を竦め、お手上げの仕草を見せる。ちょうどそこへ、ラジーが紅茶を運んできた。セレスティンは礼を言って受け取り、ラジーにも座るよう促す。黒髪の少年が遠慮がちに着席すると、エンリルは茶碗に口をつけた。
「そういえば、ラジーは香料半島の出身だったね」
ふと思い出したように言い、エンリルは茶碗の縁ごしに少年を見やった。
「あ、はい、そうです」
「やっぱり身内には、交易商がいるのかな」
「ええ……まあ、一応」
ラジーは曖昧に答え、うつむいた。
香料半島はその名の通り、香辛料の産地であり、同時に流通拠点でもある。その地の住人は、かつてデニスではどこから来るかもわからなかったため、ただ『海の民』と呼ばれていた。実際は、海を挟んで南東の大陸から、優れた航海術でもって交易の拠点となる植民地を築くべく、再三、侵攻してきたわけである。
そうした歴史があるので、今でも半島では商業が盛んで、宮殿のような屋敷をかまえる豪商も少なくない。そしてもちろん、金のあるところには権力もつきもので、半島の商人組合は政府に対しても大きな影響力をもっていた。
というわけであるから、この話題がエンリルの口から出るというのは、セレスティンにとってはあまり好ましい事ではなかった。
「個人的な用件で来たのなら、政治の話は無しにして貰いたいんだけど」
彼女は眉をひそめ、エンリルを軽く睨んだ。こと政治絡みとなると、二人の立場はいつも食い違い、議論は口論となり、最後にはただの喧嘩になってしまう。
エンリルはおどけて肩を竦め、「ただの世間話だよ」とごまかした。気まずい沈黙があってから、セレスティンが先に口を開いた。
「さっきの話だけど、その『誰か』については、何もわからない? 私の時は、なんとなく……知っている人のような気がしたわ。古い知り合いのような」
「君と私のように、かい?」
エンリルは小首を傾げ、共通の知人を思い出そうとするように、視線を宙に向ける。セレスティンは目を伏せ、記憶を反芻した。
「違うわ。もっと……古い知り合い。学校の級友とかじゃなく、親戚……とか」
「それじゃ、私には分からないな。さすがに君の親類縁者全員を把握しているわけじゃない。そうだな、私の場合は……特に誰という感覚はないんだが。たぶん、髪の長い、若い人物だ。そんな気がする」
「姿が見えるの?」
驚いてセレスティンが声を上げると、エンリルは手を振った。
「見えないさ。見えないが、漠然とそう感じるんだ。視界の端にぎりぎり入るか入らないか、そんな風に」
そこまで言って、彼はふと眉を寄せた。
「もしかしたら、『視線』をずらせば相手が見えるのかもしれない。それが良い結果になるかどうかは、わからないが」
「どうしてですか?」
ラジーが怪訝な顔をする。エンリルは怪談めかした声を作って答えた。
「気付かぬふりをしていればやり過ごせた災厄を、引き寄せてしまうのかも知れないからさ、ラジー。悪霊と目を合わせたくはないだろう」
「悪いものだとは、感じなかったけれど?」
即座にセレスティンが言い、寒くなりかけた空気を払う。エンリルは大袈裟に渋面をして見せた。
「何も言下に否定することはないだろう。まあいいさ、体を張って怪奇現象の正体を突き止めてみるとしよう。少しは君の役に立つかもしれないし」
それだけ言うと、彼は立ち上がった。そして、そのまま暇を告げてテラスから去りかけ……ふと、思い出したように立ち止まる。セレスティンが嫌な予感をおぼえると同時に、彼はこちらに向き直った。その表情は、打って変わって冷ややかなものになっていた。
「ついでにひとつ、総督として話しておこう。先日、エンリル帝の墓所で行われた集会だが、随分と多数の『長衣の者』が参加していたらしい。軽率な行動は慎むように、内部の者に通達しておいた方がいいぞ」
「いかに長と言えども、思想・信仰の自由にまで干渉はできません。暴動になったというのならともかく、現時点で下手に警戒を示しては、要らぬ火種となるだけです」
セレスティンも硬い声で応じる。エンリルは片眉を上げただけで、それ以上は何も言わず、踵を返して立ち去った。
その足音が聞こえなくなってから、セレスティンは深いため息をついたのだった。