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十一章 (2) 長の孤独



 セレスティンは一人、静寂の浜辺に漂っていた。

 ここには誰も追っては来ない。煩瑣で終わりの見えない日常業務も、助けを求めるばかりで解決したとの声が聞かれない文書も、急場しのぎの対策ばかり数えきれないほど立てて、またそのほころびに継ぎを当てる虚しさも。

(疲れてるみたいね)

 ようやく自分でそう認めた。むろん、疲れているのは自分一人ではない、という認識もあった。それでもふと、漏らした吐息にやりきれなくなる。

(このままずっとこうしているか……どこかに行ってしまいたい)

 そんな想いが胸をかすめ、刹那、はっと我に返る。

(駄目よ、何を考えているの)

 すべての責任を放り出し、一人で逃げ出すなどとは。そんな卑怯な真似は出来ない、してはならない、決して。

 自戒すればするほど、息苦しく、逃避願望が強まる。セレスティンは頭を振った。

 集中しなければ。無為に漂っている間に、精神体の輪郭がぼやけはじめている。

(ラウシール様は……今頃、どうしてらっしゃるかしら)

 無事にカウロニアに着いただろうか、それとももう王都に? 何か手がかりを掴めただろうか。

 今この瞬間にカゼスが精神を開いているとは期待せず、セレスティンはただ、青い髪の魔術師を思い浮かべて気配を探った。漠然と東を指して。

 彼方でチカッと小さな光が瞬いた。何の反応もないことを予想していたので、セレスティンは驚いて意識をそちらに振り向ける。

(カゼス様?)

 問いかけると同時に、違う、と確信した。薄明の世界に漂う小さな光は、同じ階層に属するものではなかった。遥かに遠い。時だけは近いにしても。

 追うべきか否か、躊躇して立ち尽くす。光は誘うでもなく、遠ざかるでもなく、ちらちらと瞬いていた。

 我はただここにある、望むなら(しるべ)とせよ――まるでそう語りかける星のように。

 唇を軽く噛み、その光に意識を集中させる。危険は感じない。セレスティンはゆっくりと一歩踏み出し、白い靄の中を進んで行った。

 やがてその星は次第に大きくなり、その中に切れ切れの風景が見え始めた。

(これが……カゼス様やヴァフラムの言っていた、『あちら側』なの?)

 セレスティンは距離を置いて立ち止まり、両手で抱えられそうな大きさにまでなった光の瞬きを眺めた。カゼスもヴァフラムも、『糸』だと言っていた。これはどう見ても、糸とは言えない。ふわふわと漂う綿毛、あるいは……

 適当な言葉を探して茫然としていたセレスティンは、光の中に見覚えのある人物を見付け、はっと目をみはった。

(カゼス様!)

 彼が振り返る。目と目が合った刹那、セレスティンは驚きに打たれて我知らず後ずさっていた。

(違う)

 カゼスではない。なのに、何なのだろう、この懐かしさは。

(私……私は、あなたを知っている。いいえ、違うわ)

 セレスティンは混乱気味に語りかけた。既に知っているのではない、知ることになると理解している、のだ。予感よりもはるかに強い確信。

 相手も彼女を見ていた。驚きと喜びのまじった青い瞳で。

 彼が何かを言った。が、声は聞こえない。セレスティンは無意識に光へ駆け寄った。彼が微笑み、手を差しのべる。セレスティンも手を伸ばした。

〈……やっと……〉

 その声が届くか届かないか。互いの指先が触れ合う寸前、彼を映す光が消えた。

 がくん、とセレスティンはつんのめる。

 空を掴んだ手をゆるゆると引き戻し、そのままへたへたと座り込む。自分が何をしようとしたのか、理解できなかった。

 かいま見えた『彼』の喜びが伝染したように、静かな歓喜が胸に打ち寄せてくる。同時に身を切られるような悲しみも。

 混乱したまま、セレスティンはしばらく放心していた。我に返ったのは、用心のため精神体の足に結びつけておいた『紐』が、戻れと催促するように引いたおかげだった。

(戻らなければ)

 ふらりと立ち上がったものの、足は重く、その場にぐずぐずと根を生やしてしまいそうだった。否、実際に精神の輪郭が崩れだしている。セレスティンは己の足元に目をやって我に返ると、冷水を浴びせられたようにおののいた。

(何をしているの、私! しっかりしなさい!)

 叱咤するとようやく、輪郭が明瞭になった。危ないところだった。

 セレスティンは背筋を伸ばし、強いて踵を返すと、あとはもう振り向かずに物質の世界へと戻って行った。

 自分のものとは信じられないほど重い瞼を動かし、反応の鈍さに苛立ちながら、強いて息を吸い込む。ようやく外気が胸に満ちると、セレスティンはそっと目を開いた。

 室内は薄暗く、誰もいなかった。ちびた蝋燭の炎がゆらゆらと踊り、壁に影を投げている。セレスティンは虚ろなまなざしで蝋燭を見つめた。そうだった、この蝋燭を印にして、戻る時間を報せるように『紐』を結んでおいたのだった。つい先刻の事なのに、まるで別の人生での経験かに思われる。

 深いため息をついて、彼女はソファから身を起こし、新しい蝋燭を灯した。

 と、ちょうどそこへトントンとノックの音がした。遠慮がちなこの叩き方は、

「ラジー? どうぞ」

 予想通り少年のおどおどした顔が覗いて、セレスティンはふと破顔した。彼はようやく恩人であるラウシールに会えた時も、礼を言うのが精一杯で、あとはほとんど逃げ隠れしていたのだ。何もやましいところなどないというのに。

 そう言えばこの少年は、ここに来たばかりの頃は自分に対してもそうだったと思い出し、微笑ましくなる。当時はまだセレスティンは長ではなかったが、それでも慣れるまでに随分と時間がかかったものだ。

「良かった、お戻りになってたんですね」

 ほっとした様子でラジーは室内に入り、よく懐いた犬のように寄ってくる。セレスティンが小首を傾げると、彼は何もいないのに背後を振り返ってから、小声で言った。

「あの……総督が、おいでになったんです」

「エンリルが? 何かあったのかしら、ついこの前に会ったばかりなのに」

「あ、いえ、ライエル様にじゃなくて」

 慌ててラジーが首を振る。セレスティンは一瞬きょとんとし、それから驚きに目を丸くした。

「あなたに会いに? どうしてそんな」

 言いかけたと同時に、ラジーの出身が香料半島だったと思い出す。そういえば前回エンリルがここに来た時、ラジーの出身について尋ねていたではないか。

 セレスティンの眉間が見る見る険しくなった。

「自分のためなら何でも利用するんだから、あの人は……! ラジー、彼があなたの親戚筋に取り入ろうとしたのなら、蹴り出してやっていいのよ。総督だろうと国王だろうと、長衣の者を政治に利用する権利はないんですからね」

 憤慨したセレスティンに、ラジーはひとまず「はい」と苦笑気味に応じた。建前としてはセレスティンの言い分は正しい、だが現実に権力者を追い返すことの出来る魔術師は、そう多くはないのだ。ましてや、まだ十代の、しかも気弱な少年とあらば何をか言わんや。だが、追い返せません、などと自己申告するのも情けない話ではあるので、ラジーはごまかすように小さく咳払いしてから続けた。

「それが、ちょっと違ったみたいで……僕の親戚には違いないんですけど、全然、貿易とか商売には関係のない人のことを聞かれたんです」

「……? エンリルの注意を引くような方がいるの?」

「よく分からないんです。僕からすると、えぇと……はとこになるのかな、ちょっと遠い親戚なんですけど……以前、レンディルの方で何かの技術者をしていたっていう人がいて。その人が今どうしているか知らないか、って話だったんです」

 でも、と、その先は言わず、ラジーは肩を竦めた。セレスティンにもその意味は分かる。長衣の者になれば、特に心がけていない限り、自然に親類縁者との付き合いは消えていくものだ。そうでなくとも、一族の主力事業と離れた人生を選んだ者ならば、親子や兄弟を除いて誰も消息を知らない、という立場に置かれることがままある。

 当然、その条件ふたつが重なる人物のことなど、ラジーが知る筈もなかった。

「それだけを訊きに、わざわざ来るなんて」

「変ですよね。だから、ライエル様には内緒に、って言われたんですけど…… お知らせしておいた方がいいんじゃないかと思ったんです」

 真面目にそんなことを言ったラジーに、セレスティンは思わず失笑した。師匠思いなのは結構だが、秘密を守れないことに無自覚なのはいささか困る。だがラジーはなぜ笑われたのか分からない様子で、戸惑って目をしばたたいた。

「あの……余計なことでしたか?」

「いいえ、違うわ。教えてくれてありがとう。でも、あなたが喋ってしまったと知ったら、エンリルはまた不機嫌になるでしょうね」

「あっ……」

 ようやく気付いて、ラジーは口を覆う。良かれと思ってした事だ、などと開き直れる性質でもない彼は、言い訳も出来ずに「あの、でも」と口ごもりながら袖を捻り回した。セレスティンは苦笑しつつ、その意を汲んでうなずく。

「ええもちろん、あなたから聞いたなんて言わないわ。安心して。それで……エンリルはもう帰ったの?」

「はい」ラジーは安堵の表情でうなずいた。「本当にそのことだけ訊きに見えられたようで、ほかの誰とも話さずに、急いでお帰りになりました。なんて言うか……いつもはもうちょっと、余裕がある感じなんですけど」

 どうしたんでしょう、とラジーが訝る。セレスティンも「おかしいわね」と首を傾げ、ともかく注進には礼を言ってラジーを下がらせた。

 さて夕食までに出来る仕事をしてしまおう、と机に向かいかけたところで、セレスティンは不意に動きを止めた。ラジーの言葉にあった単語につまずいたのだ。唇が小さく動き、それを確かめるように繰り返す。

「技術者……?」

 王都レンディルで。エンリルの注意を引くような。

 先日の会見が脳裏をよぎる。ひそひそと言葉を交わす、カゼスとエンリルの姿。漏れ聞こえた言葉は――

(転移装置がどうとか……それに、王族の暗殺だとか)

 胸騒ぎがした。エンリルが何を考えているのか、セレスティンにはこの所ますます分からなくなりつつある。

(何をしようとしているの?)

 たった一人の総督が、王国相手に何をなせるもなのか、政治に疎いセレスティンには想像がつかない。だがかつての幼なじみが他人よりも大それた考えを抱き、またそれを実現させてしまう行動力を持っていることはよく知っている。

 頭痛のしてきたこめかみを押さえ、セレスティンは椅子に沈み込んだ。

(――疲れた。きっと私、今、酷い顔をしているわね)

 ふたたび精神の世界に逃げ込みたくなるのを堪えるのは、とても難しかった。


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