十一章 (1) 申し出と憶測
大河に面した商業区の一角にあるその店は、表はこぢんまりした構えながら中は広く、個室も大半が河を眺められる見晴らしの良い配置になっていた。
新鮮な野菜や沖合で獲れる魚を使った料理は、ケイウスが請け合った通り、素材を活かした美味なもので、じきにカゼスたち三人はすっかり夢中になってしまった。
ケイウス自身もこの店の常連客らしく、くつろいで主人役をつとめていた。早くもカゼスとは打ち解けており、にこやかに料理の名前や特徴を教えたりしている。さもありなん、犬猫さえも懐けば情がわくものを、初対面からなぜか好意的に相対し、しかもこの上ない至福の表情でもてなしを受けてくれる人物となれば、嫌う方が難しい。
そうしてケイウスが親切に接するものだから、カゼスのみならずエイルまでも、この青年にすっかり気を許してしまった。辛うじてナーシルだけは警戒を忘れずにいたが、荷物持ちという立場にある彼ひとりで、雇い主たちの緩みきったたがを締め直すのは、容易なことではなかった。
話の流れでケイウスが今後の予定を尋ねた時も、ナーシルが止めるより早く、カゼスが「王都です」と答えてしまっていた。とは言え、
「大きな図書館があるって聞いて、楽しみにしてるんですよ」
などと、のほほんと平和な笑顔で言われたのでは、疑いのかけようもないだろう。ケイウスも不審を抱いた様子はなく、そうですか、と応じただけだった。だがその直後に彼はふと、何かを思いついた様子で問うた。
「船は乗合の定期便を利用されるのですか?」
さすがにカゼスも迂闊な答えを返せず、むぐ、と食べ物を飲み込むことで時間稼ぎをする。そんな便利なものがあるなら、イブンに世話をかけなくても済んだのに――とは思えど、むろんイブンがそれを知らない筈はないから、何か理由があって乗合船を避けたということだう。
客が鮨詰め状態だから髪の色を見られる可能性が高い、とか。あるいは、乗客に紛れてスリや置き引きが多発している、とか。
カゼスは急いで考えを巡らせ、とりあえず当たり障りのない答えをした。
「いえ、知り合いが……厚意で船を手配してくれるというので」
「それは良かった」ケイウスが笑みを見せる。「伝手があるなら、狭い床に雑魚寝の不便を耐えることはありませんね。定期便を使われるようなら、私の船に便乗するようお誘いしようと思ったんですが」
「あなたの船……ですか?」
カゼスは目をぱちくりさせる。エイルも小首を傾げた。二人の物問い顔に、ケイウスは当然のように「ええ」とうなずいた。
「我が家で収穫したものの一部は、王都まで運んでいますから。客船ではありませんが、家の者を連れて行けるぐらいの設備はありますので、皆さんに乗って頂いても支障ありません。豪華な遊覧船とはいきませんが、少なくとも定期便よりは快適ですよ」
「…………」
渡りに船、という言葉がカゼスの脳裏をよぎった。が、何やらあまりに幸運すぎて不安になる。今までの人生で言えば、渡し場に行けば船はない、方が普通だったのだ。傘を持たずに外出したら土砂降り、目的の店は臨時休業、落胆して帰宅すれば窓が開いてて床がびしょ濡れ、といった具合に。最後のひとつはともかく、己の運のなさは統計的にも証明されている。
(これ幸いと飛び付いたら、乗った船が沈んだりして……)
それではケイウスに気の毒だ。
勝手な想像をしながら、カゼスはエイルに目で相談した。ナーシルに訊けば、反対するのは分かっている。エイルは小さくうなずくと、ケイウスに向かって無難な返事をした。
「一度戻って、船の手配が出来たかどうか確かめます。まだのようであれば、改めてお願いに上がってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。その時はどうぞご遠慮なく。私の家は北の郊外にありますが、所用であと数日は街の中心部にある『イルカ亭』に宿をとっていますから」
――そんなわけで、すっかりご馳走になった三人は礼を言ってケイウスと別れた後、急ぎ足に商館へ戻った。もちろん、道中すでにナーシルは反対を唱えていたが。
「やめといた方がいいって、絶対」
商館に戻った時もまだナーシルが言い続けていたので、それに出くわしたイブンは目をぱちくりさせた。
「なんだなんだ、今度は何をやらかそうってんだ?」
「あ、旦那、聞いて下さいよ。この二人ときたら、元軍人にすっかり餌付されちまって、船に乗せてやる、なんていう気前良すぎる申し出に飛び付こうとしてるんですよ」
「まだそうとは言ってないじゃないですか」とカゼス。
「言ったも同然だろ。ともかくどう考えてもおかしいって! 昼飯ぐらいなら常識の範囲だけど、普通、いくら恩人でも一緒に船で王都まで行こうなんて考えないって!」
「おいおい……話が見えねえぞ、はじめから説明してくれよ」
イブンが呆れる。ようやくカゼスが経緯を説明すると、ふむ、と彼は小首を傾げた。
「そりゃ、ありがたい話じゃないか。どうやら俺の方はお流れになっちまいそうな雰囲気だからな……しかし、その元軍人の名前は何だって?」
「ケイウス……えーっと、なんだっけ」口ごもったカゼスに代わり、
「ケイウス=フィロです」リトルが答える。
その存在を忘れていたナーシルがぎょっとなったが、イブンは「便利な玉っころだな」と笑っただけだった。リトルは飽きもせず憤慨したが、もちろんそれはカゼス以外には聞こえない。イブンは真顔になって続けた。
「フィロ家の若旦那か。そいつはちょっとまずいかも知れんな」
「悪い人じゃなさそうでしたけど」
「人となりと立場とは別問題だ。悪い噂のひとつもない質素な暮らしぶりだし、農園の方も堅実にやってるとかで、この街ではそれなりに評判のいい若旦那だが、そんな風に何の変哲もない御仁がなぜ噂になるかというとだな、そいつが現国王の幼なじみだからだ」
「――っ!?」
カゼスとエイルが揃って息を飲む。ナーシルも目を丸くし、次いで納得した。
「あの若さで退役して土地が貰えたってのも、縁故のおかげってわけか」
独りごちたナーシルに、イブンが「さあな」と応じる。
「軍人としてどの程度のものだったのか、そこまでは俺は知らん。だが国王に伝手がある割には、官職を融通して貰うでもなし、派手な暮らしをするでもなし、ってんで、あの若旦那は人柄が良い、と噂になるわけだ。国王にべったりってんじゃないようだが、しかしなぁ…… そいつの船に乗せてもらうってのは、ちょいと賭けだな」
「うーん」カゼスも眉を寄せて唸る。「でも、それこそ王様が私たちのことなんか、知ってる筈がないわけだし……だって、言っちゃなんですけどデニスって本土から離れた属州でしょう? あの気候風土だと、本土の食糧事情を左右するほどの生産力があるわけでもないし、そのうえ今は魔術が使えなくて魔術師の地位も下落してるし、そんなに重視されているとは思えないんですけど。少し不穏な気配があるとは言っても……」
「まあ、俺も同感じゃあるが、気になるつながりがないでもない」
イブンは曖昧に応じて頭を掻く。周囲の気配に注意を払って、人の耳がないと確かめてから、彼はひそひそと続けた。
「娘の縁談のせいでごねてる、と言ったろう。その相手ってのが、デニス総督なんだ」
「え……っ、えぇ!?」
カゼスがうっかり大声を上げる。即座にイブンに口をふさがれ、慌ててカゼスは声を飲み込んだ。
「って、エンリル様ですよね? でも、ええっ?」
どう見ても彼はセレスティンに執心の様子だったではないか。とは思えど、こと恋愛となるとカゼスは自分の感覚が信用できない。うろたえてエイルとナーシルを見る。どうやら二人もカゼスと同様らしく、困惑のまなざしを返してきた。
「俺が聞いた話じゃ、総督は幼なじみの長殿に熱を上げてるってことだったけど」
「私が見た限りでも、そんな感じだったけどねぇ」
はて、とエイルが首を傾げる。イブンは肩を竦めた。
「だとしたら、この話は純粋に政治的なものなんだろうさ。だから余計に、些細な危険をも抱えたくないってわけだ」
「エンリル様本人の意志とは関係ない、ってこと……ですか」
そうですよね、と確かめるようにカゼスが問う。だがイブンは苦笑で応じた。
「それはないだろう。向こうから持ってきた話らしいぞ。何せ王都の評議会で議長を務めたこともある有力者の娘だ、結婚すりゃデニス総督も中央に進出する足掛かりが出来る。年齢的にも議員の資格はある筈だし、そろそろ、ってんじゃないのか」
イブンはそこまで言い、先刻の自分の言葉に戻った。
「気になるってのはつまり、その動きに中央の誰かが注目していたら、その視界にここいらも入るかも知れねえ、ってことだが……まぁ、流石に考えすぎだな」
用心が過ぎて猜疑の鬼になっても、身動きがとれなくなる。イブンは細い不安の糸を払うように、頭を振った。
その一方で、三人はそれぞれなりの面持ちで黙り込んでいた。カゼスは心配そうに、ナーシルは不快そうに、エイルは考え深げに。
重苦しい沈黙に耐えきれなくなり、カゼスがぽつりとつぶやいた。
「この話……セレスティンは、知らないんでしょう……ね」
「多分ね」エイルがうなずいた。「知っていたら、総督に対する態度も違っていただろうと思うよ。それよりイブンさん、レントでは属州総督よりも評議員の方が、職歴としては上になるんですか」
「うん? ああ、それは人と場所によるな。デニスとレクスデイルとウィーダルは、旧来の支配者から総督を出しているから、中央での経験がないのも普通だ。他の地方は中央で議員やら何やら官職を経験した奴が総督に派遣される。もちろん国政に直接関れるのは議員の方だが……総督になれば小さくとも一城の主になれるわけだし、うまく立ち回ればひと財産築けるからな。どっちになりたがるかは、当人の目的次第さ」
「と言うことは……彼はレントを内側から変えようとしているのかな」
ふむ、とエイルが推測する。対してナーシルは小さく鼻を鳴らした。どうせ出世したいだけさ、と言うのか、無理に決まってる、と言うのか。流石に彼もそこまでは口にせず、ただそっぽを向いただけだったので、カゼスたちも追及はせず聞き流すことにした。
「あの坊やのもくろみはともかく」イブンが言った。「そのせいでこっちには船が回ってこない。今から別口を探すとなるとまた日にちもかかるし、相手に不審な様子がないのなら、フィロ家の若旦那に頼むのが手っ取り早いだろう。まぁ、その判断はおまえさん達に任せるよ。俺が直に会うとなると、また話がややこしくなるからな」
それじゃ、とイブンは手を振り、自分の用事があるらしくスタスタ去ってしまった。カゼスは途方に暮れて立ち尽くす。
〈どうしたらいいと思う?〉
〈最近あなたが私に話しかけるといったら、困った時だけですね。どうやら私も神様の仲間入りをしつつあるようで、名誉なことです〉
ちくりとリトルが皮肉で刺した。カゼスは首を竦め、言い返さずにおとなしく続きを待つ。リトルは短い間を置き、やれやれといった風情で話しだした。
〈今日のケイウスさんの態度から判断する限りでは、問題ないと言うしかないでしょうね。あなた方に出会ったのも本当に偶然という様子でしたし、私たちをことさら観察したり、身の上を詮索したりする様子も見られませんでした。ただ……非常に、感情的に抑制のきいた人物のようですから、内心ではあなた方を胡散臭く思っていたり、あるいは何かを企んでいるという可能性も、否定はしきれません〉
〈ううううう~~~困ったな〉
カゼスが頭を抱えると、珍しくもリトルが親切な言葉をくれた。
〈いつまでもここで足踏みしているわけにもいかないんですし、試してみる価値はあると思いますよ。この五年で、あなたの見る目も少しは鍛えられたようですしね。たとえ何か裏があるとしても、船のような狭い空間で寝食をともにしていれば、おのずと知れるものです。その時には私がフォローしますから〉
〈リトルおまえ〉思わずカゼスは目を丸くした。〈変なもの食べたかい?〉
言ってしまった直後、罵詈雑言の毒舌ソースがけ皮肉と厭味添えを食わされると予期して、カゼスは慌てて耳を塞いだ。が、返ってきたのは。
〈…………はあぁ……〉
ずっしり重たい、諦念をたっぷり練り込んだ特大のため息。受けとめたカゼスは、床にめりこみそうになった。
「あのさ」頭上からナーシルの曖昧な声が降ってくる。「さっきから、何を一人でじたばたしてるんだい?」
しまった、本当にしゃがみこんでいたか。カゼスが我に返って顔を上げると、呆れ顔のナーシルの横で、エイルが肩を震わせてくすくす笑っていた。リトルと何ぞやりとりしているところを想像したのだろう。
カゼスは情けない顔で立ち上がり、そこらに浮いていたリトルを呼び寄せた。
「これと相談してたんですよ。ケイウスさんの申し出を受ける価値はある、ということです。何か起こりそうな気配を察知したら教えてくれるそうで」
「それは良かった」
答えたのはエイルだ。声が笑いを含んで揺れている。カゼスはじとっと恨めしげな視線をくれ、それからナーシルに目を戻した。案の定、彼はまだ気が進まないらしく、渋い顔でリトルを睨んでいる。余計なことを、と言わんばかりに。
実際的に考えて、リトルの提案が一番良いのはカゼスにも分かっていた。
長々とカウロニアに居続けても、それはそれで正体がばれる危険が増す。その場合、確実にイブンも巻き添えにしてしまうだろう。船に乗ってしまいさえすれば、いわば閉じた世界でのこと、何かあっても秘密裡に処理することは可能だ。それに、リトルがケイウスを監視してくれるなら、ほんのわずかな兆候も見逃すことはあるまい。心拍数の増加だの、微妙な視線の揺れだの。
それを含めてナーシルに納得させようと思ったら、イブンの正体もリトルの性能についても、べらべら喋ってしまうしかないが、むろん出来ない相談だ。そこでカゼスは宥めるように苦笑を浮かべて、ぽんとナーシルの腕を叩いた。
「頼りにしてますから」
「……分かったよ」
案の定、ナーシルはすんなり引き下がってくれた。
「言っとくけど、船に乗る前に、軍団兵がぞろっと待ち構えてるのが見えたら、問答無用であんたを引きずって逃げるからな」
「それはもちろん」
カゼスは思わず、我が事ながら失笑した。
「あなたに担いでもらった方が、早く逃げられるでしょうね。私が必死で走るよりは」
いつぞや地下迷宮で誰かさんに担がれて逃げたことを思い出す。ナーシルはあれほどの怪力ではなかろうが、それにしても階段を登るぐらいは出来たのだ。
くすくす笑っているカゼスの横で、エイルが情けなさそうに、眼鏡の奥の目をしばたきながらつぶやいた。
「その場合、私はどうしたらいいだろうねぇ……」




