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十章 (3) 面影をもつ人



 それからの数日、カゼスたちはすっかり気楽な観光客になっていた。

 イブンの交渉相手はなかなか手強いようで、川船の手配がつかなかったのだ。さりとて三人に出来ることなど無いに等しく、結局、館に居座って邪魔にならないように、昼間は街をぶらぶら散策するのが日課になった。

 カウロニアの街は大河の南北両岸に広がっていたが、大規模な工事によって造られた港は、南側にしかなかった。ここに入れるのは外海からの船だけで、荷物は小舟に積み替えられ、細い運河を通って大河に出る。河岸の船着場には川船が並び、そこでまた積み替え作業、となるわけだ。もちろん、中にはそのまま大河をさかのぼる小舟もあるが、それは近くの村までしか行かない。

 うららかな春の陽射しの下、往来する様々な船を眺めているだけでも、まるで飽きなかった。

 ……と言っても、それはよそ者にとっての話で、帆船も漁船も毎日腐るほど目にしてきた者にとっては、また別だ。アーロンは街の風景にも飽きたのか、今日は商館に残って何通か手紙を書いている。カゼスとエイルの付き添いで出てきたナーシルも、こう毎日だと気も緩むらしく、しきりと欠伸をしていた。

「暇だねぇ、若旦那」

 荷物を両肩にかけたまま、ナーシルは運河にかかる橋の欄干に寄りかかった。船を眺めていたカゼスとエイルは揃って振り向いた。

「……今の、誰に言ったんですか」カゼスが問う。

「誰って、あんただよ。まさか往来でラウシール様って呼ぶわけにもいかないし、カゼスって名前もあんまり連呼しない方がいいんだろ?」

「それはそうですけど」カゼスは何やらややこしい気分で目をしばたいた。「なんで若旦那なんですか?」

 継ぐべき店も資産もないのに、若旦那もないものだ。

 ふわあ、とナーシルは大欠伸をしてから答えた。

「俺だって色々考えたんだよ。俺に給料をくれるのはイブンの旦那だろ。でも形の上ではあんたが雇い主だ。だから、イブンの旦那は大旦那で、あんたが若旦那」

「どこか間違っているような気がしないでもないんですが」

 さりとて、間違いだからその呼び方をやめろ、と言えるほどの確信も持てず、代わりのあだ名を用意する機転もきかず。カゼスは困惑顔で目をしばたたくばかりだった。横からエイルが、「じゃあ私は何だい」などと無邪気に問うた。

 あんたは学者さんだろ、とナーシルが応じたその語尾に、

「あっ、若旦那!」

 誰かの声が重なった。何やら昨今は若旦那の大安売りだな、などとカゼスは馬鹿なことを考えつつ、何気なしにそちらを振り向く。と、その目が、見覚えのある女を見付けて丸くなった。

「あの方たちですよ、若旦那」

 こちらを指差し、後ろを振り返り振り返りしながら、急ぎ足にやって来る。ナーシルもその女が誰だか気付いて、「ありゃ」と目をぱちくりさせた。先日の倉庫街の女だ。

 こちらが悪いことをしたわけではないのだから、逃げ出す必要はない。だがしかし、その節はどうも、の一言で済まされる様子でもない。カゼスは困って「どうしましょう」とエイルにささやいた。

「この間の女の人ですよ。私たちを捜してたわけじゃないと思いたいですけど……」

「お礼だ何だって話になると、ややこしいね」

 エイルもいささか困り顔になる。嘘の身分しか持たないのだから、会話をすればするほど、ぼろが出る可能性が高くなる。それであなた方はどちらから、だの、どちらに行かれますか、ご用向きは、などという話になったら答えようがない。

「観光客だってことにしときますか?」

「そうするしかないだろうねぇ」

 ひそひそやりとりする間にも、女はすぐそこまでやって来た。その後から人込みをぬって、『若旦那』らしき青年も姿を現す。

「適当に切り上げよう」

 エイルがささやいたが、カゼスは青年を見た瞬間、それは難しかろうと悟った。

 他のどんな特徴をも差し置いて、最初に注意を引くのはその実直な気配だった。歳は三十ほどだろうか。恐らく経験によって培われたのであろう、意志の強さと忍耐力をうかがわせる雰囲気をまとっている。

(商人じゃないな)

 なんとなくそう直感する。背後でナーシルが警戒するのが分かった。

 カゼスはちらっとナーシルを一瞥し、改めて『若旦那』を眺めた。その時になって、相手が杖をついていることに気付く。

「はじめまして」

 ひょこ、と左足を少し引きずりながら、彼は三人に向かって会釈した。

「先日は当家の者を助けて下さったそうで、ありがとうございました」

「わざわざ俺たちを捜してたのかい? 暇だねあんたも」

 ナーシルがわざとぞんざいな口をきく。相手が不快になってくれたら、手短にすむと思ったのだろう。だがもくろみは外れた。

「そういうわけではありません、幸いな偶然ですよ。見かけたら必ずお連れするように、とは言い付けてありましたが。申し遅れました、私はケイウス=フィロ、この近くで農園を営んでおります」

 ケイウスは鳶色の目に穏やかな笑みの気配を漂わせ、丁寧に挨拶した。それから彼は三人を順に見つめ、ふとカゼスに目を留めた。

(……っ!?)

 まともに見据えられ、思いがけずカゼスはたじろいだ。と言っても不快な感覚ではない。一瞬の驚きと軽い衝撃の後、不意にカゼスは、ケイウスの存在が自分の中に一足飛びに納まってしまったことに気付いたのだ。

 いくらカゼスがお人好しでも、第一印象だけでいきなり気を許すことは滅多にない。だがケイウスは、なぜか、いくつもある心の関門を飛び越えてきたのだ。

 カゼスが返事もしないで、惚けたままぽかんとケイウスを見つめているので、エイルが不安げに肘で小突いてきた。

「えっ? あ、すみません、ちょっとぼうっとして」

 慌ててカゼスが言い訳すると、ケイウスは小さく笑った。暖かいですからね、と同意するかのような、嫌味のない笑い方だ。カゼスはそれでまた、何やらつくづくとケイウスを見つめてしまう。ナーシルが後ろで、微かに苛立ちのまじった呆れ声を出した。

「大丈夫かい、まさか一目惚れしたなんて言わないでくれよ」

「は?」

 一瞬カゼスはぽかんとして問い返した。それから我に返り、何もそこまで、というほど激しく首を振った。

「ち、違いますよ、変なことを言わないで下さい! 私はただ……」

 ただ、何だろう。自分で分からなくなって、カゼスは言葉に詰まった。口元に手を当て、束の間、考え込む。答えは目の前にあるような気がした。

 そろっとケイウスの様子を窺うと、流石に驚いた顔をしてはいたが、だからと言って慌てているでもない。じっと次の展開を待っている。まるで、睨み合って敵陣の動きを探る司令官のように――

「あ! そうか」

 分かった。カゼスは一人ぽんと手を打った。

 似ているのだ。容姿ではなく、身にまとう雰囲気が、所作が。

(……アーロンに)

 そう気付くと、先刻の衝撃も理解できた。もちろん外見はまったく違う。肌はそれなりに陽に焼けてはいるが海の民ほど浅黒くもなく、短めに刈ってある髪はくすんだ赤銅色で、くるくるてんでに巻いている。どうやらリュンデの爆発頭にも見られるように、レント人は巻き毛が多いらしい。

 物腰もアーロンに比べると人当たりが柔らかいし、どこか人の好さを感じさせる。

(サルカシュさんを足したような感じかな?)

 そんな判定を下し、カゼスは「すみません」とケイウスに詫びた。

「知り合いに、あなたと似た雰囲気の人がいたんです。それでびっくりして」

 ああ、とケイウスは納得した風情でうなずく。カゼスはぺこりと軽く頭を下げた。

「失礼しました。私はカゼスといいます」

 けろりと本名を口にしたので、ナーシルとエイルが揃って目を剥いた。が、カゼスはまるで頓着せず、二人のことも紹介してしまうと、にこにこと続けた。

「そちらの方を助けたのは、ほとんどナーシル一人なんです。私が行った時にはもう全員片付いていたもので」

「そうですか。それでも、駆け付けて頂けたことはありがたく存じます」

「いえ、お役に立てなくて……そうだ」とカゼスは女に目を移した。「あの後、大丈夫でしたか? どこも痛めたりしてませんでしたか」

 急に話を振られて、女は慌てて「はい」とうなずき、改めて頭を下げた。それに重ねるように、ケイウスが「どうでしょう」と切り出した。

「お見受けするところお急ぎでもないようですし、お礼に昼食を振る舞わせて下さいませんか。魚料理で知られている店があるんです」

「せっかくですけど……」

 カゼスは残念そうに首を振る。後ろでナーシルがこっそりほっと安堵の息を漏らした。招待など受けて、余計な知り合いを増やす危険は冒すべきでない。そのぐらいの分別は、カゼスにもあった。

「お礼を当てにして助けに行ったわけじゃありませんから」

 ねえ、とカゼスはナーシルを見る。そうそう、とナーシルもうなずいた。

「俺たちは当たり前の事をしただけだよ。気を遣わなくていいからさ」

「ですが……」

 ケイウスは口ごもり、それからふと思いついて笑みを浮かべた。

「では、助けて下さるのが『当たり前のこと』なら、お礼をするのもやはり『当たり前のこと』です。私の権利も尊重して頂かなければ」

 自分たちだけやり逃げするのはずるい、とでも言うかのような、悪戯っぽい口調だった。ナーシルが渋面になったのとは対照的に、カゼスがふきだした。

「そう言われちゃ、仕方ありませんね」

 あっり承諾したカゼスに、おい、とナーシルが非難の声を漏らす。カゼスは肩を竦めて「アーロンはついてないですねぇ」などととぼけた。

 ケイウスは女を先に店へ走らせてから、ゆっくり「こちらです」と歩きだす。その後について歩きながら、ナーシルが雑踏に紛れるほどの小声でささやいた。

「何考えてんだ、あんた。こいつ絶対に元王国兵だぞ」

 いまいましげに顔をしかめている理由は、現在の危惧か、過去の影か。カゼスは努めて何でもない調子で、軽く応じた。

「あ、やっぱりそうですか」

「分かってるんなら、なんで」

「うーん……勘、ですかね。いい人だと思うんですよ」

「そういう問題じゃない、俺が心配なのは」

 ひそひそ言いかけたところで、数歩前のケイウスが通行人に押されてよろけた。二人は反射的に駆け寄り、それを支える。

「これで私まで助けられましたね」

 ケイウスが苦笑しながら礼を述べる。ナーシルは複雑な顔で、ごまかすように言った。

「その左足、戦傷かい」

「ええ。五年前です」

 隠す事でもないのか、ケイウスはさらりと答えた。

「幸い、退役に際してごくささやかな土地を頂けるぐらいの功績はありましたので、今は槍の代わりに鍬を持っているわけですよ」

「まだ痛みますか?」カゼスが気遣う。

「無茶なことをしなければ、大丈夫です。さあ、行きましょう」

 穏やかな、しかしきっぱりとした口調は、支えの手も憐れみも必要ない、と告げていた。カゼスとナーシルはそっと離れ、また数歩後ろに下がる。それから店に着くまで、ケイウスは一度も足取りを乱さなかった。


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