十章 (2) 癒えない傷
「それは大変だったねぇ」
エイルがしみじみと言った。夕食後にイブンの部屋に集まって、カゼスがその日の出来事を報告したのだ。アーロンが「お二人とも、怪我はないんですか」と心配してくれたが、カゼスにはかえってそれが痛かった。
「いや、私は怪我する暇もありませんでしたから……。すっかり出遅れてしまって、何も出来なくて。情けないです」
とほほ、とうつむく。デザート代わりの甘い果実酒も、カゼスは小さなグラスを手の中でくるくる回すばかりで、口をつけていなかった。食事さえどうにか詰め込むのがやっとだったのだ。
萎れているカゼスの背中を、ナーシルが軽く叩いた。
「荒事は俺の仕事で、あんたの仕事じゃないだろ。あんたがあの連中をぶちのめせるぐらい強かったら、俺の仕事がなくなっちまうじゃないか。それはそれで見てみたいけどさ」
おどけた台詞に、アーロンとエイルが失笑する。カゼスも力なく笑った。
「それは分かってるんですけど……あんな小さな子供でも、人を呼びに行くぐらい出来たのに、と思うとね」
はあ、とため息。赤い果実酒を見つめていると、だんだん気分が悪くなってきて、カゼスはグラスを押しやった。
「……カゼス?」
エイルが気遣う声をかけた。様子がおかしいと察したのだろう。カゼスはうつむいたまま、つぶやくように答えた。
「声が聞こえたぐらいで足が竦むなんて、本当、情けなくて……自分で驚きました。今頃になって、あの光景を思い出すなんて」
「君、まさかまだ」
エイルがぎくりとした声を漏らす。カゼスはちらりと上目遣いにそれを見やり、小さく首を振った。あの悪夢ではない、という意味で。
「エラードの……捕虜収容所です。女性が看守に暴行されていたのを、目にしたことがあって。その時の記憶が、急に戻ってきたんです。そうしたら、あれもこれも連鎖的に」
「…………」
重苦しい沈黙が降りる。ややあってイブンが口を開いた。
「珍しい話じゃないさ。戦の最中は何も感じないのに、終わった後で記憶に苛まれる。おまえが格別弱いわけじゃない」
「そう、それに」エイルも励まされたように言う。「君の罪じゃない。少なくとも、すべてを負う責任はないんだ。君は悪くない」
この五年間に幾度となく聞かされた台詞だった。カゼスは微苦笑を浮かべ、小さくうなずく。分かっている。エイルの立場ではそう言うしかないのだし、自分はそれを受け入れるしかない。たとえふりだけであっても。
――だが、今までならそこで引き下がっていたエイルが、珍しくも悔しそうな顔をしたかと見るや、強い口調でさらに言葉を重ねてきた。
「そんな顔で分かったようなふりをしないでくれないか。私は本心からそう思っているんだ。君は悪くない。『あれもこれも』思い出したというのは、大崩壊のことだろう。違うかい?」
ずばりと言われて、カゼスは怯む。押されるままにうなずいたカゼスに、エイルは射るようなまなざしをひたと当てた。
「あの事態が君ひとりの都合で繰り返されることは、決してない。だから、君が罪の影に怯える必要はないんだ。いいかい、確かに最後の一押しをしたのは君かも知れない。だが歴史に残る大きな出来事というのは、一人の手でなされたように見えても、そこに至る無数の選択の積み重ねのてっぺんに載っているに過ぎないんだ。
分かりやすい事柄だけ拾っても、君以外の要因がいくつある? エリアンがあの国にいなかったら、力場固定装置を作らなかったら、マデュエス王が篭城しなければ、君の護衛が裏切らなければ、エンリル王がハトラで引き返していたら。あの研究所の所員が、誰か一人でも君を守ろうとしていたら!」
エイルはもう、他人の耳にも構っていなかった。顔が上気し、目が潤んでいるのは、己の腑甲斐なさに対する羞恥のゆえか、カゼスの自己憐憫に対する怒りのゆえか。
「もしどれかひとつでも違っていたら、大崩壊は起こらなかった。君がいまだに罪の意識を引きずって、自分に出来もしないことを、せねばならない、すべきである、と思い込むことだってなかったんだ」
「……エイルさん」
カゼスは呆然と相手を見つめていた。この五年間、もちろん四六時中顔を合わせていたわけではないが、それにしても彼がこんな風に激昂するのは見たことがなかった。故郷を離れ、管理者と管理される者という立場が弱まったせいだろうか。それとも、
「もしかして……酔ってます?」
「茶化さないでくれないか。私は真剣に話してるんだ、君はどうしてそう、勝手に一人れ思い決めて、いつらって」
ろれつが怪しくなってきた。おまけに船を漕いでいる。
「あの……すみません、本当、私が悪かったです。だから、水でも飲んで」
落ち着きませんか、とカゼスが言い終えるよりも早く、エイルはテーブルに突っ伏してしまった。
「…………」
どうにも白けきった空気が漂う。素面で取り残されたカゼスはいたたまれなくなって、こりこりと頭を掻いた。ややあって最初にアーロンが小さくふきだした。
「いい人ですね」
くすくす笑いながら言われ、仕方なくカゼスも「そうですね」と苦笑する。イブンが、エイルの手元に転がった空のグラスをちょいと立てた。
「酒には滅法弱いようだがな」
「……そうみたいですね」
「知らなかったのか?」
「一緒に飲んだこと、ありませんでしたから」
そう言えば、こっちに来てからもエイルは酒を一滴も口にしていなかった。今日も食事の時には水しか飲んでいなかったから、よほど弱いのだろう。にも関らずこの有様、ということは、酒でも飲まねば言えなかったのか、言うだけ言って沈没してしまえば気恥ずかしくないという計算なのか。何にせよ、そうまでするほどカゼスの態度を見兼ねていた、ということだろう。
申し訳ないと同時に少しばかり嬉しくて、カゼスは微苦笑を浮かべたまま、猫柳色の頭を眺めていた。
「……ラウシールが」遠慮がちにアーロンが言った。「ラガエの陥落については後悔していた、っていう記述がありましたけど、本当だったんですね」
「そんな事まで書かれてるんですか」
「叙事詩には、そんな辛気臭い内容はありませんけどね。エンリル帝の没後に書かれた歴史書に『統一記』というのがあって、これは叙事詩と違って散文的、かつ客観的な記録なんです。皇帝やラウシールに批判的な内容も含んでいますし、だから大衆受けしなくて忘れ去られたのか、あるいは故意に葬られたのかは分かりませんけど ……レントによる征服後に発見された時には、著者も分からなくなって、あちこち欠落していました」
「それじゃあ、そっちが有名になっていたら、私も今頃は変に美化されてなかったんでしょうね」
カゼスが残念がると、アーロンは少し意地の悪い笑みを見せた。
「確かに、統一記の著者は、あなたの後悔を非難する調子で書いています。兵力損耗の計算も出来ないほど愚かなのか、エラード人の反発を恐れた偽善あるいは臆病のいずれかだ、って感じでね。でも今はその同じ部分が、強大な力を競うことの不毛を嘆く賢明さの証とされているんですから、人の評価なんてどう変わるか分からないものですよ」
「…………」
カゼスは何とも応じられず、黙ってしまった。アーロンはエイルをちらりと見てから、カゼスに目を戻す。その色は穏やかだが、同時に芯の強さをも示していた。
「僕に分かるのは、あなたはごく普通の人だってことだけです。大罪人でも、聖人でもなくてね」
それだけ言うと、彼は少し気恥ずかしそうに咳払いして、席を立った。
「さてと、じゃあ僕は先に休ませて貰います。ナーシル、一緒にエイルさんを部屋まで運んでくれませんか?」
「はいよ。それじゃ旦那、お先に失礼します」
ひょいとおどけて一礼し、ナーシルはエイルを担ぎ上げた。はずみで眼鏡が落ち、エイルは「うーん」と小さな呻きを漏らしたが、じきにまたすやすやと深い寝息を立てはじめる。アーロンは笑いを堪える風情で眼鏡を拾うと、イブンに会釈して退出した。
彼らが出て行くと、イブンは召使を呼んで新しい酒と杯を用意させた。そんな所も、すっかり中堅商人の貫禄がついている。
淡い黄金色の酒が届くと、イブンは召使を下がらせて、自分で二人分の杯に注いだ。
「いい連中に出会えたみたいだな、お嬢ちゃん」
喉の奥でくっくっと笑いながらイブンが言う。懐かしい呼び方に、カゼスはわざとしかめ面で抗議した。
「お嬢ちゃんはやめて下さいってば。大体、あれから私の時間でも五年は経ってるんですよ。二十六にもなれば、いい大人です」
「何言ってやがる」イブンの口調はすっかり昔に戻っていた。「最初はちょいと世間擦れした顔になったかと思ったが、慣れてみりゃ、まだ初心なもんじゃねえか。その様子からして、あの後ずっと男も作らず終いなんだろ」
ごふ。油断していたカゼスはまともにむせてしまい、しばらくげほげほと派手に咳き込むはめになった。せっかくの酒を味わう余裕もない。
「……あなたって人は、またそういう……」
ようやくまともにしゃべれるようになると、カゼスは涙目でじろりと睨んで言った。
「自分は奥さん娘さんに囲まれてお幸せでしょうけどね、私の事は私の勝手でしょう」
「もったいねえな、あんだけ美人にもなれるのに」
「放っといて下さいってば」
カゼスは子供じみたむくれ顔をして、酒を呷った。味わって飲めよ勿体ない、とイブンが呆れる。それから彼は片眉を上げ、軽い口調で続けた。
「まだあいつに操を立ててるってんじゃ、ねえんだろ」
ふと、沈黙が降りた。蝋燭の炎が遠慮がちにジリッと身じろぎする。
カゼスは黙ったまま、今度はゆっくりと杯を傾けて、優しい香りを味わった。空になった杯の縁を、何となく指先でなぞる。四、五周もしただろうか。
「……そういうわけじゃ、ない……と、思いますけど」
ようやく答えた声は、自分でも意外なほど感情がなかった。
今でも、思い出せば温かい気持ちになれる。それは確かだ。だが過去にしがみついているつもりはなかったし、そうしたくとも、永くは出来まいと分かっていた。
カゼスは自分自身に小首を傾げ、いつの間にか酒で満たされた杯を口に運んだ。ほぼ同時に、イブンがぽつりとつぶやく。
「結局、あいつとは寝てないんだな」
「……っっ!」
危うく盛大に噴き出しかけ、なんとかカゼスは堪えた。またしても咳き込み、乱暴に杯を置く。怒鳴りつけようと相手を睨んだが、途端にその気が萎えた。
イブンは真顔だった。最前の会話が尾を引いているのは明らかだ。
愛し合うことを知らないから、性的なことに恐怖の記憶しか結びつかないから。だから、悲鳴にうろたえ、思い出さなくても良いことまで思い出してしまう、必要以上に罪の意識に苛まれる。そうじゃないのか、と問うまなざしだった。
カゼスは唇を噛み、うつむいた。自分が欠陥品扱いされたような気がして、腹立たしく、同時にひどく悲しかった。
それは関係ない、と言い返したかったが、そう出来ないことも悔しかった。事実知らないのだから、相手の言う通りだという可能性を否定できない。だがそれではまるで、アーロンとの関係が不完全で満たされないものだったと言うかのようで、それだけは絶対に認めたくなかった。
黙り込んでしまったカゼスの頭を、イブンが向かいから手を伸ばしてぽんと撫でた。そして、一言。
「俺が教えてやろうか?」
「…………」
ごつん、とカゼスはテーブルに突っ伏した。どこまで真面目で、どこから冗談なのか。
「奥さんに言い付けますよ」
カゼスが唸ると、イブンは「そりゃ困る」と屈託なく笑った。救われたようにカゼスも顔を上げ、弱々しいながらも苦笑する。どうにか気を取り直すと、カゼスは杯に残っていた酒を乾した。
「どうすれば……強く、なれるんでしょうね」
「さあなぁ。だがおまえの場合、やっぱり体で覚えることが必要だと思うぞ」
さらりと言われ、カゼスは胡散臭げなまなざしを向ける。イブンは苦笑した。
「睨むなって。情事に限らず、おまえは頭が勝ちすぎる。いっぺんに何もかも見通しちまって、それですぐに結論を出しちまうだろう。だが実際には、生きてみなきゃわからんことも多いさ。理屈なんざ、どうでもいい。おまえだって、理屈であの男に惚れたわけじゃないだろう」
「……それは、まぁ」
(あれこれ言うたところで、結局のところ理屈ではないさ)
そう言ったのは、自分ではなくアーロンの方だったけれど。確かに、その通りではあった。理由など後付けにすぎなかった。そしてその経験のおかげで、過去のしがらみから解き放たれたのではなかったか。
カゼスはなんとなく納得し、少し気恥ずかしくなって頭を掻いた。その様子を眺め、イブンがまた要らぬ軽口を叩く。
「俺の忠告を素直に聞く気になったか? それじゃあ、どうだ早速」
「殴りますよ」
カゼスは拳を作って、軽く打ちかかるふりをする。なんだか昔も同じ事をしたなぁ、などと思うのは、自分に進歩がない証拠か。だとしたら、同じように付き合ってくれる相手がいるというのは、幸運なことかもしれない。
「……そろそろ、私も休みます。いくら暇な身分と言っても、昼までだらだら寝てるわけにも行きませんから」
席を立ったカゼスに、イブンは「ああ、お休み」と軽く手を振った。
部屋を出かけたところで、カゼスはふと足を止め、くるりと向き直った。そして、
「ありがとうございます」
怪訝な顔のイブンに対して、深く頭を下げた。
「あなたには本当に……助けて貰ってばかりですね」
改まってそんなことを言われたのが恥ずかしいのか、イブンは曖昧な顔でちょっと頬を掻き、それから皮肉っぽい笑みを浮かべて答えた。
「馬鹿野郎、失敬なこと言うな。俺は慈善家じゃねえぞ」
おや、とカゼスは目をしばたたく。イブンは形ばかり凄んで見せた。
「その内、本気で取り立てに行くから覚悟しとけ」
台詞はやくざめいているが、表情がまるでそぐわない。カゼスは失笑しかけ、慌てて真面目な顔を取り繕うと、
「それじゃ私も本気で夜逃げしなきゃなりませんね。失礼」
白々しく慌てて、すたこらとその場を後にしたのだった。




