十章 (1) カウロニア
カウロニアまでの船旅はいたって順調だった。時化に遭うこともなく風にも恵まれ、予定よりも早くカゼスたちはレントの土を踏むことになった。
水夫たちの話では、ヤンノがジャムを恋しがるあまり、見えない櫂をせっせと漕いでいたのだ、ということだったが、その真偽はさておき、たしかにカウロニアは見るべき物の多い賑やかな港だった。王都そのものはまだ遥か東とはいえ、王国の玄関口というだけはある。人も物資も溢れ返り、港では休む間もなく荷の積み降ろしが行なわれていた。
「あぁ……まだ揺れてる、揺れてるよぉ……」
活気に満ちた港街の喧騒を背後に、そこだけなんとも冴えない薄暗がりを作っているのは、もちろんカゼスである。
「おいおい、しっかりしろよ。みっともねえなぁ」
知らせを受けて迎えにきたイブンが苦笑まじりに揶揄する。カゼスはその肩にすがったまま、唸るように応じた。
「私がみっともないのは、今に始まった事じゃないです。ほっといて下さい」
「それだけ減らず口を叩けたら大丈夫だな」
不貞腐れた台詞にもイブンは笑っただけだった。カゼスも苦笑し、たぷんたぷん音を立てそうな胃をなだめながら、どうにか辺りを見回した。
船着場の近くには、ずらりと並んだ倉庫街。間や裏手に小さな店が紛れ込んで、水夫や商人相手の食事、あるいは生活雑貨を商っている。
深く息を吸い込むと、眩暈がしそうな種々の匂いが胸に流れこんだ。潮の匂い、船の木材や塗料の匂い。香辛料の効いた食物、花のような果物の香り……
濃厚な空気の中を、カゼスはイブンに連れられて歩き、やがて商館のひとつに入った。エイルとアーロン、それに荷物を持ったナーシルも後からついて来る。
「ここは?」
カゼスは建物の中を見回して問うた。どことなく、イブンの家を思い出させる。こんな北の、王国の土地にあるのに……と訝っていたのだが、それもその筈、
「半島の商人組合の館だ。俺もこっちにいる間はここを利用してるんだが、もちろん部屋は充分あるから、おまえさん達も客人扱いで泊まれるよ」
というわけだった。エイルがふむふむと感心しながら、またメモを取っている。
イブンは三人を広い客室に通すと、ドアを閉めて「それで」と苦笑した。
「ヤンノから聞いたが、レムノスに着くより早くばれたらしいな? ラウシール様」
皮肉っぽい呼びかけにカゼスは渋面を作り、ぷっと膨れた。
「どうせ私は鈍臭いですよ、千年に一度ですよ」
「まぁ溺れ死ななくて良かったさ。しかしこの先は気をつけてくれよ。いくら魔術師たちが中立だと言っても、その発祥も本拠地もデニスにあるとくれば、総大将のお出ましを王国側が歓迎するわけがないからな」
「たとえ私が何もしなくても?」
こんなに人畜無害なのに、とカゼスは肩を竦める。イブンはにやりとした。
「何かするより何もしない方がもっと悪い。今の『ラウシール様』は五百年前とは桁違いの求心力を持っているんだぞ。当人が何もしなきゃ、集まった力は勝手な方向に走りだす。ちゃんと自分の方針を固めとけよ。と、俺が言うまでもないだろうがな」
やわに見えてもカゼスには一本の芯が通っている。それも案外ごついのが。
そのことを知っているがゆえのイブンの言葉だったが、二人の関係を知らない者には、いささか不審な気分を抱かせることになった。
「……あのぉ、旦那」ナーシルが荷物の傍に座ったまま、目をしばたたく。「ラウシールさんとは随分親しいようですけど……もしかして、もうだいぶ前から旦那のとこにおいでなさってたんですか」
「僕もそれが不思議だと思ってたんです」
アーロンにまで問われては、適当に逃げを打つことも出来ない。カゼスはぎくりと身を固くしたが、流石と言おうか、イブンはまるで動じなかった。
「不思議でもないだろう、現におまえたちだってこいつとはすっかり『お友達』じゃないか。どうせ学府や総督府でも、あっという間に何人か味方を作っちまったんだろう?」
後半の質問はカゼスに向けたものである。カゼスは緊張をほぐし、苦笑しながら「さあ、どうですか」と応じた。
「味方だなんて言ったら、エンリル様はものすごく辛辣な苦笑をくれそうですけどね」
「ほら見ろ」
イブンが可笑しそうに言い、アーロンもつられて失笑する。
「確かに、言われてみればそうですね。もっとも……」
何か言いさしてやめ、アーロンは小さく首を振った。
「まぁ、いいです。それよりおじさん、川船を手配するって話でしたけど、見つかりましたか?」
「それなんだがな」
イブンはちょっと頭を掻いた。アーロンが口にしかけた言葉については、聞こえなかったかのように。
「ちょっとばかり困ったことになった。この街にいる組合の偉いさんに話をつけた筈だったんだが、今になって何だかんだとゴネだしてな。交渉は続けているんだが……」
「もし良ければ、先生から貰った紹介状があります。使えそうなら言って下さいね」
「ああ、そりゃ助かる。だがどうも、ややこしい事になってるようだ。先方じゃ娘の縁談が進んでいるらしくてな。その関係で、面倒なかかわりは持ちたくないと思っているらしい。一から探し直さなきゃならんかも知れん」
やれやれ、とイブンはため息をつく。カゼスは不安に顔を曇らせた。
「何か私に出来ることがあれば……」
「いや、そこまで大事じゃないさ。おまえはゆっくり、そこの学者さんを連れて観光でもして暇を潰してくれりゃいい。おっと、その時はナーシルかアーロンにも付き添って貰えよ。二人だけじゃいいカモだ」
付き添いに指名された二人が、堪え切れずふきだす。おのぼりさんのカゼスとエイルは、何とも情けない様子で顔を見合わせたのだった。
黄昏が街を覆う頃、カゼスは歩き疲れて道端にしゃがみこんでいた。
イブンの話が終わるなり、エイルが街を見物に行きたがったもので、カゼスもなんとなく引きずられて出てきてしまったのだ。
「いやぁ、お疲れさん」
ナーシルが肩から鞄を提げたまま、傍らで苦笑する。当のエイルは、アーロンと一緒にまだそこらをうろうろしている筈だ。
「なんであの人はああ元気なんでしょうねぇ……。なんだか、私の分まで生気を吸い取られてるんじゃないかって気がしてきましたよ」
やれやれとぼやき、カゼスは膝を抱えたまま、夕焼け空を見上げた。薄桃色の絹雲がたなびき、黄金の光がそれを浸している。デニスや香料半島ともつながっている、同じ空の筈なのに、ここの夕焼けはなぜか物寂しい。
「不思議ですね」カゼスはぼんやりつぶやいた。「空なんて、いつどこで見ても似たり寄ったりだとも思えるのに、どういうわけか……いつ見ても、その時の空はその時限り、特別なんですよね。日食だの虹だの変な形の雲だの、そういうものがなくても」
唐突なカゼスの独り言に、ナーシルはしばらく沈黙し、ためらいがちに応じた。
「そりゃあ……空は変哲がなくても、見る人間はその時限りだからだろ?」
「……そうですね」
その答えを聞きたかったのかも知れない。そんな気分で、カゼスはにこりとしてうなずいた。それから、よいしょ、と声をかけて立ち上がる。
「さて、いい加減に帰らないと暗くなってきた。エイルさん、どこまで行ってるのかなぁ」
きょろきょろとそこらの路地を探したが、見当らない。そもそも、人影自体が少なくなっていた。日が落ちれば寝るしかない人々が多い時代である、今頃はそれぞれの家で夕食を調えている頃だろう。
人通りがまばらになると、街は途端に、別世界のように寂れて見えはじめた。昼間の喧騒が嘘のようだ。特に、今いるところは倉庫街に近い。仕事が終われば寄り付く人もいなくなる。カゼスは急に心細くなって、無意識に我が身を抱いていた。横でナーシルも少しばかり警戒し、真剣な表情で視線を走らせる。
「おかしいな、ここで待ってるって言っといたのに……まさか迷ってるのかな」
ナーシルのつぶやきに、カゼスも不安になった。
〈リトル、二人を捜してきてくれるかい? そこらにいると思うけど〉
〈分かりました。ですが、あなたがたの方こそ気をつけて下さいね。迷子と捜す方がお互いに動き回っていたら、一向に合流できないものですから〉
〈ここでおとなしく待ってるよ〉
カゼスが答えると、リトルが荷物の袋からふわりと浮き上がって、すっと飛び去った。それを誤解してか、ナーシルが慌てて後を追う。
「いやあの、ナーシル、追いかけなくていいですから」
カゼスもおたおたとその後に続いた。置いて行かれては困る。一人で商館まで帰り着く自信などまったくないのだから。
と、倉庫街の路地に入ったところで、不意にナーシルが立ち止まった。その動作があまりに急だったので、カゼスは驚いて声を上げそうになった。もつれかけた足をほどきつつ、妙な足取りでナーシルに近付く。その耳に、不穏な声が届いた。
脅しつける男の声、助けを乞うているか細い声。
(なんだってリトルのいない時に!)
カゼスは内心舌打ちし、すぐに呼び戻そうとした。が、より早くナーシルが動きだしていた。一言も発さず、声のする方へと走りだす。カゼスも慌てて追った。
かすかな風に乗って言葉の断片が届く。それが聞き取れるところまで来た途端、カゼスは予想外の動揺に襲われ、つんのめった。
いや、助けて、許して――泣きながら懇願する女の声。
やかましい、騒ぐな、さっさとしろ――複数の男の声。
姿はまだ見えないが、状況はほぼ間違いない。もちろん、助けに行かなければ、との思いは強まったし、危機感も募った。だが同時にカゼスの足を、恐怖が搦め取ったのだ。
いきなり息が止まったように、カゼスはよろけ、倒れそうになって宙を掻いた。どうにか堪えて体勢を立て直したものの、足はもたもたとしか動かない。
(何やってるんだ)
彼がうろたえている間に、ナーシルは倉庫の角を曲がって消えた。
脳裏に過去の一瞬が次々に舞い戻り、閃く。ハトラの捕虜収容所で見た、暴行の光景。飛び散る血と饐えた臭い。鎖の音。
(落ち着け、今そんなことは)
蜜の中を泳ぐように、カゼスはなんとか前へと進む。その間にも、現在の光景を切り取るように、過去が目の前をよぎった。
エラードの首都、ラガエの牢獄。暗い川面。あれは――
(やめろ!)
悪夢から無理やり目覚める時のように、カゼスは思い切り頭を振った。
過去の影が鳥の群のように飛び去り、現在が戻ってくる。足は止まっていた。代わりに、心臓がとんでもない速さで駆けている。
「…………」
カゼスは大きく息を吸い込むと、なんとか気を取り直して、再び走りだした。
倉庫の角を曲がった途端、
「うわッ!?」
目の前に男の背中が飛んできて、カゼスは咄嗟に避けることも受けとめることも出来ず、弾き飛ばされてたたらを踏んだ。男が倒れ、カゼスはその腕を踏みそうになってぴょんと跳ねると、数歩離れて立ち直る。
目を丸くして顔を上げると、ナーシルが鮮やかな動作で別の男を投げ飛ばすところだった。ぐえっ、とアヒルのような声を漏らし、地面に叩きつけられた男はそれきり静かになる。ばたばたと遠ざかる足音は、恐らくカゼスが現れたのを見て逃げ出したものだろう。
カゼスはぽかんとナーシルを眺めた。腕っ節に自信があると言うだけあって、彼の方はまるきり無傷だ。
倉庫の壁際には質素な服装の女が座り込んでおり、その足元には籠と、芋や野菜がいくつか転がっていた。すっかり出遅れたカゼスは、いささか複雑な気分でそれを拾い集め、しゃがんで女に差し出した。
「大丈夫ですか?」
気遣いながら問うと、女は小さく震えながら何度もがくがくとうなずいた。顔と腕にあざや擦り傷があるが、ほかに目立った怪我はない。
「あ、ああ、ありがと……」
涙まじりの震え声で礼を言い、女は籠を受け取る。立ち上がろうとした彼女を、ナーシルが横から支えた。
「歩けるかい? 送るよ」
その声は強く温かい。女は礼を言おうと口を開いたが、漏れたのは嗚咽だけだった。
と、そこへかすかに「お母さーん」と呼ぶ声が届いた。途端に女の目がはっと見開かれ、震えは止まり、頬に血の気が戻ってくる。
子の名を呼び、女は声の方へと走りだした。カゼスたちを振り向きもしない。
倉庫の角のところで、幼い少女と母親はしっかと抱き合った。どうやらその子が呼んだらしい、警備隊の制服を着た男が二人、後から現れる。
ナーシルはその光景を眺め、そこらに放り出してあった荷物を拾うと、軽く肩を竦めた。
「俺達の出番はここまでみたいだね。退散しようか」
「……そうですね」
私の出番は全然なかったけど、とカゼスは心中でため息をつく。
女が恩人の存在を思い出す前に、二人はそそくさとその場を離れた。来た時とは別の道を通り、元の待ち合わせ場所へと足を向ける。
並んで歩きながら、カゼスは何気なく言った。
「失礼ですけど、少し意外でした。あなたが積極的にああいう人助けをするなんて」
「うーん、まあね、いつでもどこでもってわけじゃないけどさ」
ナーシルはとぼけた口調で答え、ふと足を止めて背後を振り返った。そして、そのままカゼスを見ずに続ける。
「あんた、前に言ったろ。俺がデニス人らしくない、って」
「……あ」
それだけでカゼスは察し、息を飲む。すみません、と詫びの言葉が喉まで出かかった。が、ナーシルの方が早かった。
「あんたは知らないだろうけど、ティリスの近くにも軍団の駐屯基地が作られてさ、俺の母親はそこで働いてたんだ。父親は職人だったらしいけど、稼ぎが少なかったんだろうね。それで……『ちょっとした間違い』が生じた。
お袋は気の強い人でね、王国軍相手に訴えを起こしたんだってさ。けどまぁ、相手が悪かった。駐屯基地の中で起こったことだから、デニスの裁判所じゃ手が出せないってんだよ。その兵士は王国の法に照らして処罰する、でもデニス人の裁きには委ねられない、ってね」
淡々とナーシルは語る。カゼスは無言でうつむいていた。察するところ、王国の属州統治は、基本的には地元の旧来の制度を残してあるのだろう。地元民同士の争いであれば、彼ら自身の手で裁くことが出来る。だが、王国の者が絡むと……。
「それでもお袋は食い下がったもんで、今度は逆に攻撃される側になった。暴行なんかじゃなくて、おまえが誘ったんだろう、ってね。自作自演で王国兵から賠償金をせしめようなんて、厚かましい売女め、ってわけだ。結局、お袋は親父にも離婚されちまって、俺を抱えて実家に戻るはめになった」
「……だから、デニスの独立を……?」
「まあ、それだけが理由じゃないけどさ」
答えたナーシルがあまりにあっけらかんとしているので、カゼスはどういう顔をしたらいいのか分からず、目をしばたたいた。困り顔のカゼスを見下ろし、ナーシルは面白そうに眉を上げる。
「なんだい、その割には可哀想な人に見えない、って? まぁね、お袋も俺も、故郷の親戚にまで白い目で見られて散々な暮らしだったから、実を言うと俺は王国と同じぐらい、デニスって国も好きじゃなくてね。ただ、あんたもしばらく船であちこちの海を回ってたら、国境とか民族とかってものが、どうでも良くなる気持ちが分かるよ」
うう、とカゼスが思わず呻いた。ナーシルは朗らかな笑い声を立てる。
「悪い悪い、嫌味のつもりじゃないよ。ともかくこれで、属州なんてもんがあっちゃいけない、って考えに共感して貰えたんじゃないかなー、と、ちょっと期待してるんだけど、さて」
どうだい、とナーシルがおどけてカゼスの顔を覗き込む。わざとふざけた調子を装っているのは、個人的な悲劇を盾に同意を迫りたくはない、という意味だろう。カゼスはつくづくとナーシルを眺め、やりきれない思いで苦笑した。
「……どうしたらいいんでしょうね」
独り言のようにつぶやく。それから彼は、何も考えずにつと手を伸ばした。
ぽんぽん、と頭を撫でられて、ナーシルはいわく言い難い顔になる。当惑し、少しばかりムッとして、けれど笑いだしそうな。
その表情を見てカゼスも我に返り、あ、と自分に驚いたような声を洩らして手を引っ込めた。ごまかすように視線を明後日へそらして、そそくさと歩きだす。三歩ほど遅れて、ナーシルもついて来た。
しばらく、どちらも言葉を発しなかった。細長く伸びた二人の影だけが、時々ちょっと重なる。夕日が倉庫の屋根にひっかかって、足元が少し翳った。
不意に腕を軽く掴まれ、カゼスは驚いて顔を上げた。
「待ち合わせ場所はこっちだよ」
声は笑いまじりだったが、表情は陰になってよく見えなかった。




