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九章 (2) 取引



「断る」

 予想通りの返事に、カゼスたちは失望と「やっぱりね」のまじった顔を見合わせた。が、彼らが目を戻しもしない内に、エンリルは続けていわく。

「……と、言いたいところだが、危険に釣り合う見返りがあるなら、発行しても良い」

「本当ですか!?」

 言葉尻だけ捉えて思わず喜んだカゼスに、エンリルは皮肉な失笑をくれた。

「見返りを差し出す用意があるんだろうな」

 まるで小国の主に向かって、貢ぎ物と引き替えに安全保障を約束する大国の王が如き風情である。セレスティンが顔をしかめた。

「エンリル、あなたカゼス様を相手に取引しようだなんて……」

「あ、いえ、それは良いんですよ」

 慌ててカゼスが口を挟んだ。流石にのっけから喧嘩を始められては、話が進まない。

「むしろご厚意に甘えて借りを作ったりした日には、どんな利息をふっかけられるか分かりませんからね。だから、この場で取引するのはいいんですが」

 いつもにこにこ現金払い。カゼスは極力そうするように努めている。問題は、持ち合わせがない時に欲しいものと遭遇した場合なのであるが、さて。

 旅券発行の見返りに何を差し出せるか、カゼスはあれこれ頭をひねった。まず当然ながら金銭的なものは無理、魔術師としての力を貸すのも不可能、となると、あとは……

「……情報、ですかね」自信なさげにカゼスはエンリルを見た。「私たちは王都の大図書館に行って調べ物をしたい、だから旅券が欲しいわけですが ……その調べたい内容というものに、どうもレント側が喜ばないだろうなぁ、というような事が出てくる可能性が高いんですよ」

 そこまで言った途端、エンリルに険しい目で睨まれてしまった。カゼスは急いで言葉を継ぐ。

「いやあの、王国への嫌がらせや反抗をしたいわけじゃなくて、あくまで副次的なことなんですけどね。でもどうやら、魔術師の失踪とも深いかかわりがあるみたいで。だから、そういう事柄がはっきりした時には、勝手に公表せずに、まずあなたに知らせます。それからどうするかは、あなたの判断にお任せする、ということではいけませんか?」

 カゼスの拙い説明を聞き、エンリルは真剣な表情でしばらく考え込んだが、ややあって低い声で問うた。

「どの程度の規模の話で、どの程度まで確実だ?」

「それはまだ何とも……。でも失踪にかかわるわけですから、同じく全国規模の話です。明確な情報がつかめるかどうかはわかりませんが、『何か』出るのはほぼ間違いないでしょう。王国政府だけじゃなく、お偉いさんにはかなり嫌がられそうな話がね」

 滅びを唱える予言者を歓迎する者はいないだろう。とりわけ社会の上流に属する人々にとっては、既得権益の喪失を意味するのだから、なおさらだ。

 先を続けるか否かカゼスは少しためらってから、腹を括ってエンリルの間近に寄り、小声で言った。

「魔術師を選んで呼び寄せている人物がいるようなんです。詳しい話はセレスティンやヴァフラムさんに訊いて欲しいんですが…… その人物の言い分では、魔術師を拉致するのが『救い』になるらしいんです」

「そいつは頭がおかしいのか」

 エンリルの反応は醒めきった現実主義者のそれだった。カゼスは苦笑し、首を振る。

「そうは見えませんでしたよ。それに……理由は言えませんが、私としても、その言い分に一理あると認めざるを得ないんです。つまり、このままでは何か良くない事が起こるからその前に逃げろ、ってことなんですけど」

「……おまえも頭がおかしいらしいな」

「言われると思いましたよ。でも、狂人の戯言にしか思えないことでも、根拠が明らかにされたら無視も出来ないでしょう? 私たちが調べようとしているのはまさにそこなんです。その『根拠』を、最初にあなたに知らせる、と言っているんですよ」

 どうですか、とカゼスは畳みかける。エンリルはまた少し考えてから、ハキームに手で何やら合図した。それただけでハキームはすっと立ち上がって隣室に消える。

「いいか」エンリルはゆっくりと深く切り込むように言った。「旅券は発行してやる。だが決して今のようなことを人に漏らすな」

「分かってます。いたずらに社会不安を煽る流言をばらまいて、自分の首を絞めるような真似はしませんよ」

「少しは頭も働くか。それで……その『根拠』の手がかりはあるのか」

「手がかりというか、とりあえず糸口になりそうな事はいくつか」

 ラウシールと類似した人物の伝承や記録、力場の荒れに影響されない転移装置の謎、現在のほかにも一時期に魔術師あるいは特定の人種が失踪した記録はないか―― そういったところから調査を進めようというのが、エイルと出した結論だった。が、そこまで告げるべきかどうか迷い、カゼスは口をつぐんだ。

 改めて眼前の青年を見つめ、自分が彼に出会った意味は何だろうと考える。なぜ呼び声と共に彼の姿が見えたのか。たまたまあのエンリルと同じ名前で、よく似た姿をしているからなのか? それだけとはとても思えないのだが。

 まじまじと見つめられて、エンリルはいささか気味悪そうに眉を寄せた。そこへハキームが戻ってきて、書類を二通差し出した。エンリルは小さくうなずいてそれを受け取り、すらすらと署名する。

「おまえと、彼の分だ」視線でエイルを指す。「ほかに連れはいないだろうな?」

「あ……荷物運びに雇った人が」

「その程度なら旅券は必要ない。おまえが身元を保証すると言って、いくらか役人に握らせてやれ。それが嫌なら王都の外で解雇して、中に入ってから別の人夫を雇うんだな」

「分かりました」

 カゼスは旅券を受け取ると、もう一度エンリルを見て、ためらいがちに言った。

「誤解しないで下さいね、エンリル様。私があなたにこの事を話したのは、旅券が欲しいからというだけじゃありません」

「……ほう?」

「あなたなら、賢明に対処してくれるだろうと信じるからです。私利私欲や自分の野心だけを考えるのではなく、たとえそれらを忘れなくとも、良識と先見性と広い視野をもって動くだろうと予想するからです。ひとことで言えば――あなたを信頼するから、ですよ」

 真顔で言い切ったカゼスに、エンリルはさすがに驚きを隠さなかった。青褐色の目をみはり、虚を突かれた様子を見せる。それから彼は、辛辣な微苦笑を浮かべた。

「勝手に信頼しておいて、裏切るな、失望させるな、と言うのか?」

「そんな要求はしませんけど、あなたがそう感じるのなら、裏切らずにいてくれると嬉しいですね。見込み違いだとがっかりします」

 カゼスは何気なく言い、途端に相手が不機嫌になったのを見て思わず失笑した。

「ああ失礼、私なんかが勝手に『がっかり』しちゃ、侮辱になりますか」

 少しずつこの青年の輪郭が見えてきたようで、カゼスは不穏な視線にもまるで頓着せず、にこにこする。エンリルはすっかり嫌気がさした風情で唸った。

「貴様は皇帝にもそんなことを言ったのか」

「え? ああ、まさか。あの方はあなたとは全然違います、こんな言葉は必要ありませんでしたよ。あの方は……人から信頼されるよりも、先に人を信じる方でした。少なくとも、そう思わせる人だった、ってことでしょう。だから周りもそれに応えようとする。そういう関係を築く人でした」

 懐かしそうに言い、それからカゼスは眼前のエンリルに意識を戻した。

「あなたは違います。私があなたを信頼すると言ったのは、あなたが……何というか、言葉は悪いんですが、狡賢い人のようだからですよ。こういう不確かで危うい情報を扱うのに、決して迂闊なことはしないと思えるからです。野心はあってもその虜にならず現実を見失いもしない、合理的な冷徹さがある。そういう人だから、信頼するんです」

「よくもそこまで断言できるな」

 エンリルが呆れる。カゼスはおどけて片眉を上げた。

「あれ、丸っきり外れですか」

「……妥当な人物評だと言っておこうか」

 やや間を置いてそう答えたエンリルの口元には、苦笑が浮かんでいた。が、だからとて気を良くした様子は微塵もない。カゼスは満足げに微笑んだ。

「わりとね、短時間で人柄を分析するのは昔から得意なんです。今も、私がおべんちゃら言ってるわけじゃないのを、ちゃんと見抜いているんでしょう?」

「おまえは頭がいいのか悪いのか、まったく謎だな。まぁ良かろう、私もおまえの信頼とやらに少しだけ応えてやる。耳を貸せ」

 エンリルはちょいと指を曲げて招き、屈んだカゼスに一言、耳打ちした。

「………!?」

 カゼスは口と目を丸くして、ぎょっとしたようにエンリルを見る。相手は悪戯っぽい笑みを見せるだけで、それ以上は何も言わない。カゼスはしばしエンリルを凝視し、それからゆっくり手の中の旅券を見て、もう一度、今度は不安げにエンリルを見た。ようやくエンリルが返した一言は、笑いを含んでいた。

「ちゃんと使える」

「……あー……あぁあぁそうですか、そう……分かりましたよ、はいはい」

 カゼスは大きなため息をつき、参った、というような苦笑を浮かべて頭を掻いた。

「まったく、賢い人って嫌だなぁ。ヘマしなきゃ問題はないわけですね。了解」

「その程度は我慢しろ。どのみちおまえ自身、蜃気楼のようなものだろうが」

 二人のやりとりに、部屋の後ろにいたセレスティンとエイルが、不安げな顔を見合わせてそわそわする。

「エンリル、まさか」

 セレスティンが言いかけたが、カゼスが軽く手を振ってそれを黙らせた。

「いいんですよ。それじゃ、旅券も頂いたことだし、私たちは港へ行ってヤンノさんたちに合流します。セレスティン、色々お世話になって、本当にありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げたカゼスに、セレスティンは慌てて首を振った。

「そんな、それは私の方こそです。あの……本当に、大丈夫なんですか」

 質問しながらも、目はエンリルを睨んでいる。カゼスは苦笑して、ちらとエンリルを振り返った。

「これがあったら、転移装置で一気に王都まで行けませんかね」

「ああ行けるとも。都心から外れた監獄で良ければな」

 エンリルはしれっと応じ、次いで真顔になった。

「転移装置で王都に入るには旅券だけではすまんぞ、妙な考えは止しておけ。所持品検査だけでなく身体検査も厳重だからな」

「そこまでやるんですか?」さすがにカゼスが驚く。

「地方の施設と違って、王都の転移装置はすべての施設に通じている。王族専用の転移装置とはさすがに通じていないが、近接した場所にあるから、装置をいじれば王宮内につなげることも可能……らしい。理論的には、な。転移装置については一切が門外不出にされているのはその為だ。が、万一どこかから漏れた場合、王族の暗殺をもくろむ者にとっては、転移装置は格好の抜け道だ」

「うわ……それは、確かに……」

 カゼスは顔をしかめて眉間を押さえる。単に王国の専売特許にするため、だけではなかったのだ。これでは図書館に行ったところで資料などありそうにない。

 思わず深いため息をついたカゼスに、エンリルが不審げな目を向けた。

「まさか、転移装置について嗅ぎ回るつもりではなかろうな」

「そのつもりだったんですけど、諦めました。今、教えて貰えて良かったですよ」

 知らずに薮をつついて蛇を出すところだった。

 カゼスは小さく、今度は安堵の吐息をこぼすと、しかし困ったな、と頭を掻いた。その様子をエンリルはじっと観察していたが、ややあって彼は机上の書類をトンと揃えた。

「ともかく、ぼろを出さないようにせいぜい気をつけることだ。これで用は済んだな?」

「あ、はい。ありがとうございました」

 カゼスは改めてぺこりとお辞儀をすると、「それじゃセレスティン、また」と軽く別れの挨拶をして、エイルと共に退出した。

 扉が閉まると、セレスティンはつかつかと総督の机に歩み寄り、厳しい目でエンリルを睨んだ。

「エンリル、カゼス様に何を渡したの。まさかあの旅券、偽物だなんてことは」

「その通り」

 まったく悪びれないエンリルの返事に、セレスティンは息を飲み、それからハキームに矛先を向けた。

「ハキーム! あなたの上司は公文書偽造を指示したのよ、なぜ分かっていて従うの」

「お言葉ですがライエル様、彼らはそもそも存在しないはずの人間です。それに『本物』を支給しろという方が、無理というものでは?」

「だけど偽造だとばれたら……」

「ばれないさ」エンリルがにやりとした。「あの旅券が偽造ではないかと疑った専門家が隅々まで精密に調べてやっと分かる程度の、限りなく本物に近い偽物だ。つまりあの連中が王国政府から睨まれるようなことをしない限り、あの旅券は本物で通用する」

「……けれど、もしカゼス様たちが窮地に陥ったら、あれは偽造だ、私は発行してない、と言って無関係を決め込むのね。そうしてあの方を見捨てるつもりなのね」

 セレスティンの非難にも、エンリルは動じなかった。カゼスが去った後の扉をちらと見やり、面白そうに苦笑する。

「ラウシール殿もまったくのぼんくらではないらしい。納得するとは意外だったな」

「エンリル!」

「本人が良いと言ったんだ、余計なお世話を焼くことはないだろう。それよりセレ、そちらで分かったことを教えてくれないか。魔術師の失踪について、何か進展があったんだろう? 私としても、放置は出来ない問題だからね」

「……っ」

 セレスティンは悔しそうに唇を噛んだが、彼の言う通り、当のカゼスがそれでいいと納得ずくで去ってしまったのだから、いまさらどうしようもない。自分に出来ることを進めるしかなった。それが結果としてカゼスの役にも立つのだから。

 セレスティンはいったん窓際へ行って新鮮な空気を深呼吸し、それから来客用のソファにぼすんと腰を下ろしたのだった。


 しばらくぶりに見るヤンノは相変わらず小山のようで、遠くからその姿を目にしたカゼスは、何やら感慨深くなってしまった。故郷の風景でも見たような気分だ。その小山のふもとにいたアーロンとナーシルが、カゼスたちを見付けて大きく手を振ってくれた。

「いやしかし、よく旅券が取れましたなぁ」

 ヤンノが小さな目をぱちくりさせて感心したので、カゼスは苦笑するしかなかった。エイルも総督府でのやりとりからおよそ察したらしく、学問的好奇心を装って、アーロンの旅券と自分の旅券とを見比べている。

「ちょっとした取引をしたんですよ。それよりヤンノさん、急に予定を変えさせてしまってすみませんでした。色々ご迷惑をおかけして」

「なんにも迷惑じゃありませんよ。旦那様からの指示ですし、レムノスからカウロニアに向かうのは、キホールに戻るよりも楽な航路ですからな。それに、カウロニアには楽しみもありますんで、行くことになって嬉しいぐらいですよ」

 ヤンノは人の好い笑顔で言った。本心から楽しみだという証拠に、ほくほくと手をこすり合わせている。いったい何がそんなに、とカゼスは興味をそそられ、「楽しみって?」と訊いてみた。すると、もじゃもじゃの口髭の下から、うふふ、というような笑いが返ってきた。

「あの街には、各地の食物が集まってくるんですわ。特に、果物のジャムやら砂糖漬けやら、木の実やらを豊富に揃えている店がありましてな。あそこで買った黒苺のジャムが絶品だったんですよ」

 うっふっふ。味を思い出してヤンノはすっかり夢見心地になっている。ナーシルが苦笑しながら茶化した。

「一壜ぺろっと行くのは勘弁して下さいよ、船長。見てる方が胸焼けしますから」

「うわっ」

 カゼスは思わず声を上げ、ヤンノがジャムの壜を抱えこんでいるところを想像して、笑いだしてしまった。

「本当ですか?」アーロンも笑いながら問う。

「嘘じゃないって。蜂蜜とかジャムとか、船には結構積んであるもんだけどさ、あれ、本来は遭難した時の非常食なわけだよ。それをこの船長さんときたら、一回の航海中にひとりで片付けちまうんだぜ。それで酒は飲まないんだから、変な船乗りだろ」

 ナーシルが陽気に言い、横で聞いていたエイルもくすくす笑いだした。

「じゃあカゼス、波の高い日は船長室に行かないことだね。ただでさえ船酔いしてるのに、ジャムの匂いに包まれたらまずいことになりそうだ」

「勘弁してくださいよ」

 カゼスは現実に引き戻されて、苦笑いになった。そうだった、これからまた船酔いとの戦いの日々なのだ。何か少しでも楽になる薬があれば良いのだが……。

 どんよりとうつむいたカゼスの肩を、ヤンノがぽんと叩いて慰めた。

「今度は西風をほとんど真後ろから受けての航海ですからな、早いとこ着きますよ。それに、船酔いに効くという薬も、そこのターケ・ラウシールで貰って来ました」

 そこ、と彼が視線で示した先には、建物の間からちょっぴり青いタイルが覗いていた。昔はもう少し目立っていたはずだが、都市の過密化・高層化につれて埋もれてしまったらしい。ともあれ、薬があると聞いただけで、カゼスは少し気楽になって微笑んだ。

「ありがとうございます。それで、いつ出航しますか?」

「お客人がたの都合が良ければ、今日にでも出られますよ。潮も風も具合がいい」

 ヤンノは答えて海の方を見やり、目を細めた。空は水平線の彼方まで青く、所々に小さな綿雲が浮かんでいるだけだ。

「それじゃあ……」

 カゼスが曖昧に問いかけつつエイルとアーロンを見る。エイルがうなずき、アーロンがにこりとして言葉をつないだ。

「行きましょうか!」


 レムノスから転移装置で戻ってきたセレスティンは、不意に寒くなった気がして、無意識に我が身を抱いた。

 やっぱり高地はレムノスよりも寒いわね、と考えてから、朝にここを発った時は寒さを感じなかったのだと思い出す。いや、それにしたって理由は単純なことだ、今は朝と違って連れが誰もいないから、外気がまともに触れて寒いのだ。

(心細いわけじゃないわ)

 自分に言い訳し、彼女は腕をほどいて背筋をのばし、自室へと歩きだした。

(しっかりしなくては。カゼス様ばかり頼るわけにはいかないんだから)

 長の務めを果たさなければ。それが今の自分の役目。左右の輔官も助けてくれる。

 内心で言葉を重ねるほどに、寒々しさが募った。セレスティンはとうとう立ち止まり、ため息をこぼした。

(……駄目ね。こんなに私、寂しがり屋だったなんて)

 いっそ泣きたいほどだった。カゼスがそばにいる時は取り立てて強く何かを感じることはなかったのに、いなくなってしまうと孤独が堪えた。

(無意識に甘えてたんだわ)

 目をしばたたき、こぼれそうな涙をごまかす。いざとなれば『ラウシール様』が助けてくれると、勝手に思い込んでいた。自分には手に負えなくとも、あの人がいればきっと何とかしてくれる、と。

 その彼がいなくなってしまった。むろん、この世界から消えたわけではない。場所は離れても、カゼスはカゼスで現状打開につながりそうな何事かを調べている。――と、理性ではそう分かっているのに、手に触れられるところに彼がいないことが、わけもなく寂しかった。

(苦しい)

 体の一部をどこかに置き忘れてきたような、機能不全の息苦しさ。なぜこれほど堪えるのか、セレスティンには分からなかった。

 なんとか心の痛みを堪えようとしていると、幸か不幸か、誰かの足音が近付いてきた。セレスティンは無理やり気分を切り替え、寂しさも苦痛も心細さも、どこか見えない扉の向こうにまとめて押し込んだ。強引に扉を閉めて鍵をかけたところで、足音の主が姿を現した。

「お帰りなさいませ、長」

「エクシス! 何かあったんですか、あなたがこちらに来られるなんて」

 意外な人物の出迎えに、セレスティンは驚きの声を上げる。エクシスはいつもと同じ暗いまなざしでセレスティンを見つめ、それから今は誰もいないその周囲にも、視線を巡らせた。

「たまたま近くにおりましたもので、ご挨拶をと。……ラウシール様は、もう発たれたのですか」

「シッ」

 慌ててセレスティンは人差し指を立てたが、無用の仕草だった。エクシスの声は常からささやきのようなものだし、見える範囲には人影もない。

 それでもセレスティンはしばし周囲の気配を探り、安全を確かめてから答えた。

「ええ。……何かあの方にご用があったんですか?」

「用というわけではありませんが……お話しする機会を持てなかったのが残念でして。私の仕事はいささか特殊ですからな、お聞きしたかったことが……少し」

「そうですか」セレスティンはやや怯み、逃げるように答えた。「手紙でもかまわなければ、カウロニアの支所へ送れば渡して貰えると思いますよ」

「ほう、さようですか。それはそうと、あの若造……失礼、若者も、まだつきまとっておるのでしょうか。ナーシルとかいう」

 ぼそぼそとエクシスが続ける。ナーシルの名を出した時だけ、表情の乏しい顔に嫌悪の色がはっきりと浮かんだ。セレスティンは、自身もナーシルを好きではないが、と言ってエクシスに同調するのもためらわれ、曖昧な声音で応じた。

「ラウシール様ご本人が、遠ざけようとされないのですから、仕方ありません。それはあの方がお決めになることです」

「あのような……」

 エクシスは不満げにぶつぶつ言いかけたが、結局それは口の中でつぶやくにとどめた。そしてゆるりと顔を上げると改めて一礼し、

「では失礼」

 唐突な一言を放つなり背を向けて、影のように去ってしまった。

「…………?」

 取り残されたセレスティンは、不審顔のまま呆然とその場に立ち尽くす。

 いったい何だったのだろう。本当にたまたま近くにいたから、「お帰りなさいませ」と言うためだけにやって来たのだろうか。それとも、カゼスがまだ一緒だと思って、何かを相談しにやって来たのに、いなかったから落胆したのか。

 しばしとりとめもなく考えてはみたが、結局、よく分からない人だ、という結論に落ち着くしかなかった。

 人気のない廊下に、寒々とした暗がりだけが落ちている。

 セレスティンは、また胸に舞い戻ってきた不安の疼きを押し殺し、忙しない足取りで自分の部屋へと向かった。その背中はまるで、巣穴に逃げ帰る兎のようにも見えた。


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