九章 (1) 手段の検討
「これが、精神だけを開いた世界なんですね」
感嘆の吐息を洩らし、セレスティンが薄明の地平を見渡す。カゼスはその横で、安堵に胸を撫で下ろした。
「どうにか伝えることが出来て、良かったですよ。でも、これまではいったいどういう状態だったんです? 力場に同時に触れていたのなら、精神探索もろくろく出来なかったでしょう」
「そうですね……今までも、これに近い状態ではあったんです。力場が荒れていなかった時期は、ですが。ただ、全体に力場の色がかぶさっていましたけれど」
セレスティンはまだどこか上の空で答え、新しい感覚に意識を馴染ませようとしてか、目を閉じて両腕を広げた。もちろん実体ではなく、精神体の、である。カゼスは邪魔をしないように、静かに話し続けた。
「いくらこの状態なら力場に触れないと言っても、狭間に出るのは無茶ですからね。止むを得ず――ヴァフラムさんの場合のように――連れ戻すために『糸』を掴むのなら、その前に確実な命綱をこちら側に打ち込んでおくことと、意識の防御を固めておくことを忘れないで下さい」
カゼスの注意に、セレスティンは腕を下ろして「はい」とうなずいた。
「それにしても、定義を変える、だなんて、まったく考えつきませんでした。カゼス様に教わらなければ、自力では到底ここへ来られなかったでしょう」
「それは……私だって、自分でこの方法を見出したわけじゃありませんから」
学校で教わったわけだし、とカゼスは肩を竦める。それから、意識をよぎった妙な感覚に眉を寄せた。
(あれ? でも定義云々ってのは、学校じゃなく……何か、妙な夢を見たような気が)
精神の像が揺らぐ。ここではないどこかで、誰かに示唆された記憶。
「カゼス様?」
怪訝そうなセレスティンの声が、どこか遠くから響くように感じられた。カゼスは顔を上げ、薄明に包まれた静かな世界を見渡す。今は、彼ら二人のほかに人の気配はない。当たり前だ、この時代のこの地域で、ここに来る方法を知っているのは二人だけなのだから。
にも関らず、誰かに見られているような気がした。はっきりした意識ではなく、漠然と漂う気配として。
「……戻りましょうか。初めてなのに、あまり長時間体から離れては良くないですから」
カゼスの警戒を感じ取り、セレスティンの意識も不安に揺れる。はい、と答えて先に精神を閉ざした。
セレスティンの精神がこちら側から去り、ぼんやりした光点だけになっても、カゼスはしばしそこに残っていた。
(気に入らないな)
誰かの掌中で転がされているような感覚。操られているとまでは言わずとも、行く先々で小石を投げ込まれ、やむなく進路を変えさせられているような。
カゼスは険しい目で周囲を見回してから、ゆっくり精神を閉ざした。
気に食わないのはともあれ、セレスティンの件だけでも進展があったのは、ありがたいことだった。ここしばらくエデッサに足止めを食ったまま、なかなか物事が進まずに焦っていたカゼスは、肩の荷をひとつ―― 小さなひとつにすぎないとは言っても――下ろせて、ふうと息をついた。
転移装置の方は相変わらずだった。
戻ってきたリトルが言うには、幸いにも制御室に入ることは出来たらしいのだが、やはり外側から見るだけで分かる部分はほとんどなく、ただ疑惑を深めたにすぎなかった。
「私は魔術に関して技術面の情報を有してはいますが、あれは共和国で作られたものではありませんから、なんとも判断しかねますね。ただ……」
どこかおかしい、それは確実だ。
リトルはそう言ったのだ。精確さを身上とするリトルヘッドでありながら、
「どこがどうおかしいと断言はできません。ですが、あの装置は……何かが不完全です」
そう感じるんです、と。カゼスはそれを笑わなかったし、リトルの性能に疑いを持つこともしなかった。リトルの感覚はカゼスもよく分かっていたからだ。この界の力場の現状はどう考えても異常だ、その中で正常にはたらく装置というのは何かがおかしい――と。
問題は、違和感の原因が何なのかを知る手がかりさえ掴めないことだ。
セレスティンと別れて、カゼスはあれこれ考え耽りながら廊下を歩いていたが、そこへアーロンとエイルが揃ってやって来た。
「あぁ、いたいた。カゼス、イブンさんから返事が来たよ」
エイルが封書を振って見せる。カゼスはほっとして笑みを返し、小走りに駆け寄った。
「早いですね。相変わらずマメな人だなぁ」
いそいそと封を切るカゼスに、アーロンがちらりと訝る目を向ける。相変わらず、と旧知の仲のように言ったのが、引っかかったのだ。カゼスの方は自分の失言に気付かず、もどかしげに便箋を開いていた。
「ええと……ああ良かった、船は使わせてくれるみたいですね。行き先は、レムノスから直接レント領内のカウロニアって港に向かうように、って。どこだかわかりますか?」
質問はエイルに向けたものだ。リトルに訊いてもいいのだが、あまりこの『しゃべる玉っころ』の性能を大っぴらに見せるのはよろしくない。
エイルは自分の手帳に書き写した地図を開き、「あった、ここだ」と指差した。デニス半島から見ておよそ北東、海を越えた先の河口都市。レント大陸を東西にほとんど分断するように横たわる、青い大蛇の頭に位置している。
「これが『大河』ですね。本当にすごい長さだなぁ……ここを船で遡れば、安全だし早いそうですよ。ただ、ヤンノさんの船は大河の航行許可がないから、川船はイブンさんがなんとか都合をつけるって書いてありますけど」
ふむふむ、と二人は額を寄せて地図を覗き込む。大河が本来の国境線だったことは明らかだった。大河の南側には西からレクスデイル王国、レーデン都市連合、ヘジェン王国と並び、レクスデイルの南にウィーダル王国、香料半島と続いている。いずれも『元』の但し書き付きで、現在はすべてレントの属州だが、さすがに王国も地名までは変えなかったらしい。
「ヴロドリゲル大河は、王国の動脈ですからね」
ルートを聞いて、アーロンが説明してくれた。
「ずーっと遡って……ほら、ここで支流のディキュラ川に入ると、王都レンディルです。完全に内陸でしょう? 小麦も油も、布や木材も、ほとんどすべてのものが大河で運び込まれるので、王国も大河の治安には心血を注いでいます。地上のどんな街道よりも安全だって言われてますよ」
「それなら安心ですけど、警備が厳しくて、取り調べられたりしませんかね」
カゼスが眉をひそめると、アーロンは小首を傾げた。
「どうでしょうね。大河の航行許可をもつ船に乗れさえすれば、王都に入る直前まで、調べられることはないと思いますよ。それだって、旅券があれば大丈夫です。王宮に入ろうって言うんじゃないんですから」
「旅券……かぁ」
カゼスは堪え切れず、ふぅっとため息をついた。アーロンも察して顔を曇らせる。
エンリルに旅券の発行を頼むだけは頼もうと決めたものの、時が経つほどに、相手が承知するとは思えなくなっていた。
単に関所を通過するだけなら、それが正規の旅券である限り、正体がラウシールだろうと何だろうと問題はない。が、厄介なのはその先だ。
もし何か揉め事になったり、最悪カゼスの正体が露見した時に、その彼らに旅券を発行したエンリルの責任は重い。しかもナーシルという問題もある。知らなかったでは済まされないのだ。たかが数人のこととは言え、それを口実に総督の首をすげ替えるぐらいは充分に可能だし、そうなればデニスそのものの立場も悪くなる。
何と言ってもエンリルはアフシャール家の御曹司なのだ。いかに本人の落ち度でも“たかが数人のこと”で王国側から処罰されたら、皇家の面目を潰されたと感じる一族は多かろう。そして、彼ら一族は多くがデニス属州の要職に就いている。とくれば、出る賽の目も決まろうというもの。どう考えても、エンリルはそんな賭けに乗る人物ではなかった。
カゼスが何とか良い方法はないかと悩んでいると、アーロンがふと顔を上げて言った。
「どうしてもとなったら、旅券なしで行ける所まで行って、あとは僕が代わりに大図書館に入りますよ。あの水晶球があれば、カゼスさんたちが王都に入れなくても、調査の指示は受けられるでしょう?」
「あ、そうか。あなたには正規の旅券もあるし、図書館に入れる理由もあるわけだ」
「ついでに本来の調査もできますしね」アーロンは笑った。「実はもう先生には手紙を出したんですよ。王都に行ってもう少し資料を探したい、ってね。うまくいけば紹介状か何かを貰えるかも知れません。それがあれば、旅券がなくても少しは信用されるでしょう」
「手回しがいいですねえ」
カゼスが感心すると、アーロンは少し照れたように頭を掻いた。
「イブンさんに比べたら、僕に出来るのは小さな事ですけど。それより、イブンさんが川船を手配するってことですけど、ヤンノさんは……」
「ああ、ヤンノさんには別便で指示を送るそうですよ。予定変更のついでに、カウロニアで下ろせる品物を買い付けさせるとか。便乗して一儲けするから気にするな、ってことなんでしょうね、これは」
カゼスは苦笑し、手紙の先を読み進めた。
「へえ、カウロニアにはイブンさん本人が来てくれるそうですよ。商談があるから、そのついでに、って。随分遠くまで手を広げてるんだなぁ」
「カウロニアに伝手があるかないかで、だいぶ商売の内容も変わるみたいですから。それより、船の段取りがついたのなら僕らも準備しておかないと。レムノスに戻るのに転移装置を使わずに済ませようと思ったら、力場が落ち着いた隙を逃さず魔術で行くか、さもなきゃ徒歩と馬車で行くしかありませんからね」
「転移装置……やっぱり、やめといた方がいいでしょうかね」
うーん、と唸ったカゼスに、アーロンが首を振った。
「この前ヴァフラムさんと総督府に行った時も、僕は旅券を見せなければなりませんでしたから。ライエル様の権威を借りられなくもないでしょうけど、今は魔術師の立場も微妙なところですし」
「そうだね」エイルも横で困り顔をした。「賄賂を使えるほど懐に余裕もないし」
あったら使うのか、と言いたげに、カゼスとアーロンが揃って胡散臭げな目を向ける。エイルはそれには気付かず、ずり落ちた眼鏡を押し上げた。その横を一人の魔術師が通り過ぎ、軽く肩を当ててしまって「失礼」と頭を下げる。いいえ、と応じてそれを見送ったエイルは、不思議そうに小首を傾げた。
「……ところでね、微妙と言えばここ数日、魔術師の皆さんが落ち着かないような気がしないかい」
「え? そうですか?」
カゼスはきょとんとして、改めて周囲を見回した。自分のことに手いっぱいで、他人の様子にまでは気が付かなかったが……
「別に変わったところはないように思えますけど」
はてな、とカゼスは目をしばたたく。アーロンもそこいらを見渡して首を傾げ、少し考え込んだ。そして。
「……どうも、まずい事になっているようですね」
徐々に眉を寄せ、難しい顔つきになった。えっ、とカゼスが驚くと、彼は声をひそめて続けた。
「よく見て下さい。さっきすれ違った人もそうですけど、ほら、あの人と……そこの角にいる人も、腕に青い布を着けているでしょう。魔術師にとって青色が表すのは、あなたのことしかありません」
「本当だ」カゼスはやっと気付き、愕然とした。「って、じゃあまさか、私がまたここに来たってことが……?」
「あの時あの部屋にいた誰かの口から漏れたんでしょう。はっきりとした言葉ではないにしても、現状では救い主の噂に飛び付きたがる人は多いでしょうから。正確にどういう意図で青色を身につけているのか分かりませんけど、こんな動きが広まれば、僕らも動きにくくなるでしょうね」
「ええ、困ったことにね」
アーロンの言葉を肯定したのは、つい今し方、廊下の角を曲がって現れたリュンデだった。相変わらずの爆発頭を軽く振って、やれやれという顔をして見せる。
「お気付きの通りです。ここ数日で、青い布や装飾品を身につける者が目に見えて増えましたし、これからも広まりそうな雰囲気ですわ。イシン右輔は、むしろ魔術師としての自覚と結束を高めることになるだろうと楽観してますけど、私にはどうもそこまではね。その効果があるとしても、過剰に出たのでは悪い結果を招くだけですわ。本当にもう、困ったこと」
「そうなんですか……弱ったな。この事、エンリル様がまだ知らないといいんだけど」
カゼスは独り言のようにつぶやき、情けない顔で、額に落ちている数本の前髪をつまんだ。この程度なら見えても気付かれはしない、だがもしも被り布を取られたりしたら。
「髪に煤でも塗っておきましょうか。エンリル様の心証を良くするためにも。もしこの青色の流行が知られたら、今度こそどこかに閉じこめられるかも知れない」
「それか、『呪われた故郷』に強制送還だろうね」
エイルが苦笑しつつ冗談を飛ばす。だがもちろん、笑う者はいなかった。




