八章 (2) 絡み合う『時』
客室は個室か二人部屋だというので、カゼスはエイルと相部屋にして貰うと、ドアが閉まるや否や「それで」と切り出した。
「私に隠していたことを、教えて下さい」
「え?」
一瞬エイルはぽかんとし、それから「ああ」と思い出してうなずいた。
「レーニアって名前のことだね。隠すつもりじゃなかったんだが…… 何のことか確証が持てなくてね。結果として黙っていたことになるのは悪かったよ。まあ座って」
椅子を示され、カゼスは落ち着く気分になれないまま、中途半端に腰掛けた。と、リトルがすいと飛んできて、机の上にことんと降りた。
「レーニア、あるいはそれに近い発音の単語がある言語もありますが、どの場合でも意味をなさないので、データとしては保存してありますが、あなたに知らせる理由がなかったんですよ、カゼス。何であれ、あなたの過去に触れるものは、あなたを傷つける恐れもありますから」
「……お気遣いどうも」
カゼスは陰欝に唸ってリトルを睨んだ。誰の味方だ、と責めたい気分になったが、そもそもカゼスの味方をしてくれた事などあったかどうか。常にリトルは『正しい』ところにいる。それだけだ。
じめっとした空気をまとったカゼスに、エイルが苦笑して言った。
「というかね、重要なこととは思われていなかったんだよ。君の過去に関る何事かの切れっぱしを、あちこちの書類の墓場やら、ゴミ山の中から探し出した、そのひとつでね。何かの試料のやりとりを記録した中に、レーニアという言葉もあったわけで……まぁ、だからつまり……そうだな、君の……」
「素材のひとつ、と思われるものの名前ですよ」
口ごもったエイルに代わり、ずばりとリトルが言った。カゼスはぐっと胸が詰まるような感覚を味わったものの、無情な言い方のせいで動揺したくとも出来なくなった。
「なるほどね。何で出来ているか分からないんだから、レーニアってのが何なのかも分からなくて当然か。何かの暗号として使われていた可能性もあるし」
まるで他人事のように言い捨てる。いまさら自分の原材料を知りたいとも、知ってどうなるとも思えなかった。――続くエイルの言葉がなければ。
「うん、私たちもそう思ってね。だけど、君がまったく新しく創られたのではなく、元々いたラウシールという種族を再現したものだとすれば、レーニアという言葉も意味が変わってくる。私が言いたかったのは、つまり……君の『親』の名前なんじゃないか、ってことだよ」
「――!」
思わずカゼスは息を飲んだ。
反射的に脳裏をよぎったのは、育て親の姿だった。親らしいことと言えば、扶養してくれたというそれだけの親。カゼスを理解しようともせず、歩み寄ろうともせず、温かい感情を与えてくれたこともない『親』。
幼い頃の夢想が再びよみがえった。どこかに青い髪の人ばかりの国があって、そこには自分の本当の家族が――
「……っ、違う」
カゼスは無意識につぶやき、激しく首を振った。
それは夢だ。『親』というのも、純粋に生物的な意味、遺伝子上の意味でのそれでしかない。もしかしたら、自分はその『親』のクローンかもしれないのだ。
理性はそう諌めるのに、感情の波は執拗に打ち寄せ続ける。遠い日の憧れと、持ちえなかった故郷への郷愁を乗せて。とうに諦め、振り捨てたつもりでいた幼い望みが、いまだ己の奥底に息づいていた――その事実に気付き、うろたえる。
動揺がなかなかおさまらず、カゼスは救いを求めるようにエイルを見た。
その視線を予期していたように、エイルは穏やかなまなざしを返して言った。
「そうだね、家族とか親類とか、そういうものとは違う。でも、少なくとも君は、人為的に生み出された自然に反する偽りの生命なんかじゃない、って事は確かになる。生まれ方は普通と違うかも知れないが、ちゃんと親がいて、命を受け継いで生まれたんだ」
――また会いましょう、『継ぐ者』よ――
エイルの言葉をなぞるように、カゼスの脳裏に青年の声がよみがえる。
(あれは……あれは、そういう意味で……?)
だとしたら、彼はカゼスを自分より後の時代の同族だと認められたのか。カゼスには何も分からなかったのに、彼にはカゼスが何者か、すべて見通せたと?
「ちょっと混乱してきました」
カゼスは半ば放心しつつ、眉間を押さえた。もし彼がカゼスの『親』なら、なぜカゼスにはそれが分からないのだろう。彼と同じ力はないということか。
(似て非なるもの……)
ぼんやりとそんな言葉が浮かぶ。誰に言われたのだったか。
(そうだ、イシルだ)
初めて会った時にも、あの水竜は「ラウシールか」と問うたではないか。そして、自分はただの魔術師だ、と答えたカゼスに対し、「確かに少し違うようだ」と納得した。
嵐の海で遭遇した時も、ラウシールに似て非なるものだから、と独り合点して。
「……っ、ああもう!」
カゼスがいきなり大声を上げて頭を抱えたので、エイルは驚いて身を退いた。それには構わず、カゼスは両手を振り回してじたばたする。
「どいつもこいつも、なんで一人で勝手に納得して、何も教えてくれないのかなぁ!? だから話がややこしくなるんじゃないか!」
「あなたの頭がお粗末なだけじゃないんですか」
容赦なくリトルが突っ込む。カゼスはお粗末な頭をテーブルにごつんとぶつけた。とりあえず外側は丈夫に出来ているのがありがたい。
そのままテーブルに額をあずけ、しばし無言で考えふける。ややあって、雑然とした思考の断片が自然にあるべき位置におさまり始めると、カゼスは不意にぞくりと背筋が冷たくなった。
「エイルさん」
身を起こした時、彼の顔に浮かんでいたのは、ほとんど恐怖と言って良い表情だった。
「彼に……レーニアに出会ったのは、五年前にファルカムを見たのと同じ……あるいは、とても近い場所でした。時も空間も。それに、彼が私の『親』なら、まず間違いなく、彼がいたのは第三惑星……それも私たちの共和国があるテラ大陸ですよね」
「ええと……そういう事になるね」
「なら、なぜ私たちの時代にラウシールがいないんです。それどころか、記録にすらない。ファルカム以前の時代の史料が、なぜほとんど見つからないんです? それに、彼がこの世界から魔術師をあちらへ呼んでいるのなら……」
「…………」
最初はきょとんとしていたエイルも、じきに愕然となった。「まさか」とつぶやいた声がかすれる。
「本来の住人だったラウシールが滅び、この惑星から連れ去られた人々が…… 我々の先祖になった、という事……か? 彼らは元々よそ者だから、彼ら以前の歴史については何も知らず、だから記録もない…… ファルカムが独力で魔術を拓いたと言われるのも、元々魔術の存在するこちら側から移住したから……?」
二人は共に絶句し、顔を見合わせて数回瞬きする。
「もしかして私たちは」
いっそ泣きたい気分で、カゼスはささやいた。
「とんでもない時代に来てしまったんじゃ……」
一国の命運、どころの話ではない。さすがにエイルも頭を抱え、即答はしなかった。
「ですが」リトルが口を挟んだ。「拉致されたのは数十人単位なのでは? 仮に数百人としても、大陸全土を占める民族の祖としては到底不足ですよ」
仮説の穴を指摘され、カゼスはむしろホッとする。だが笑みを浮かべかけたのも束の間、すぐに苦い表情になった。
「いや、『今、ここ』からだけのこととは限らないよ。時代や場所を分散させて少しずつ呼び寄せたら、それほど注意を引くこともないわけだし、もしかしたら、さらに別の界からも人を連れ去っているかもしれない」
「そして、それが我々の先祖なら」エイルが唸った。「私たちはそのレーニアとかいう人物のもくろみを阻止してはならない、いや、阻止出来ないんじゃないかな」
阻止すべきなのかどうかも分からないが、と言い足し、エイルはため息をつく。カゼスも両手に顔を埋めて呻いた。
「うう……何もかも嫌になって来た……」
いっそこの状況を放り出して帰ってしまえたら、どんなに楽か。力場がもっと安定していれば、帰り道も開けるのに。
(方法がないわけじゃない)
ちらと脳裏をよぎる悪知恵。誰か、あちら側に呼ばれている人間を見付け、糸をつかんで便乗すれば、ひとまずここからは脱出できる。あの場所が過去のテラ大陸なら、力場はここよりずっと静かで扱いやすい筈だから、そこから改めて本来の時代に戻ればいい。
「…………帰ろうかなぁ」
意識する間もなく、口から言葉がこぼれた。途端、
「えっ、もう!?」
これまた同じく、反射的に出たとおぼしきエイルの声。カゼスは顔を上げ、何とも言い難い表情で相手を見た。
「今、本音が出ましたね」
「え……う、まぁ、その」
ごほん、とエイルは咳払いした。どうやら彼が狸なのか能天気なのかという賭けは、後者に軍配が上がりそうである。……この状況下では喜べない。
カゼスはため息をつき、やれやれと背筋を伸ばした。
「まぁ、仕方ないですよね。なんとか帰る方法がないでもない、と気が付いたんですけど……今、投げ出して帰っても、また呼ばれるんじゃ意味がないし。どうして私がこっちに呼ばれるのか、その謎が解けたわけでもないし。それに」
そこまで言い、カゼスは自分に苦笑した。
「五年前もそうでしたけど、やっぱり気になってしまうんですよね。ちょっと知り合いになっただけの人たちなのに」
見届けたい、必要とされているのなら力を貸したい、共にいたい―― そんな思いを抱くことは、故郷ではなかったのに。それともあちらでは、誰もカゼスを必要としていなかったから、なのだろうか。だから、求められることが嬉しくて、そう思うのか。
エイルはカゼスの表情を眺め、丸眼鏡をちょっと押し上げた。
「うん、君がそういう気持ちでいてくれると、私も嬉しいな。確かにこの状況は私たちの手に余る。だがどうしたって、出来ないことは出来ないんだ。限界を超える重荷を負ったと思わずに、私たちは私たちに出来ることをして行こう。結果がどう出ても、それもそれでひとつの歴史ってことさ」
達観したような、あるいは単に呑気ともとれることを言い、エイルはにこりと微笑む。カゼスもつられて微笑んだその時、控えめなノックが会話に割り込んだ。
こほんと小さく咳払いするのが聞こえ、「カゼス様?」とセレスティンが呼ぶ。カゼスはエイルとちょっと顔を見合わせ、何だろうと訝りながらドアを開けに行った。
「お話中に申し訳ありません。少し……よろしいですか? お願いがあって」
「いいですよ。どうぞ」
カゼスが招くと、セレスティンは遠慮がちにエイルに会釈し、室内に入った。そして、カゼスが椅子を勧める間もなく、決然と顔を上げた。
「どうか、ご指導をお願いします。聖堂での精神探索、それにヴァフラムを助けて下さった折のカゼス様を拝見して気付いたのですが…… カゼス様は、どんな状態の力場に触れても平気、なのではなく、力場に触れずに精神を開けるのではありませんか?」
「え? ええ、はい」
勢いに押され、カゼスは深く考えずにうなずく。あれ、まずかったかな、と思考が足踏みしたところで、それを引き寄せるかのようにセレスティンがカゼスの腕に手をかけ、まともに目を見つめてきた。
「その技を、可能なら私も修めたいのです。あなたがいて下さらなければ、ヴァフラムは助からなかったでしょう。今後カゼス様が王都へ行かれている間、同じような事態が起こらないとも限りません」
セレスティンはそこまで一気に言い、それから不意に我に返って目を伏せ、恥ずかしげに手を離した。
「カゼス様と同じ事を、私などが容易く行えるとは思いませんが……」
「あ、いや」慌ててカゼスは口を挟んだ。「簡単ですよ。魔術師なら誰でも出来る筈です。入門したての初心者でもなければね」
だって私が出来るんだから、と言いかけて、カゼスはそれを飲み込んだ。ラウシール様の養成学校での成績が、実技も学科も中の下でまったくぱっとしなかった事など、わざわざ暴露することもあるまい。
そんなカゼスに、セレスティンはいささか複雑な顔をした。そんなに簡単な事ならなぜ自分たちには出来ないのだろう、あるいはラウシール様の『簡単』は基準が違うのだろうか、そう訝っているのが見て取れる。
カゼスは返答に困り、ちらりとエイルを見た。
「いい……ですよね? 前回よりも年代はかなり下りますし、この手の技術も進んでいますから、どっちにしろ遠からず誰かが見付けると思うんですけど」
「必要とされる社会的状況も揃っていることだしね」
ふむ、とエイルが眼鏡を押し上げる。
二人のやりとりに、セレスティンの表情はさらに困惑の度を深める。魔術に関してはラウシールの上に立つ者などいるはずがないのに、どういうことか――と。カゼスは彼女の胸に生じた様々な疑問をおよそ察したものの、説明はせず、ただうなずいた。
「それじゃ、すぐ始めますか?」
「あ……はい、お願いします」
人には向き不向きというものがある。
その事実をあらためて痛感することになったのは、言わずもがな、カゼスの方だった。つまり、教えるのが下手、なのである。
〈今までまともに何かを教授した経験もなければ、論理的な思考回路さえ備えていないんですから、当然予想されて然るべき結果ですがね。しかしこれほどとは、情けないを通り越して感動的です。どうすればそこまで要領が悪くなれるのか、まったく理解できません。神秘ですね〉
リトルの大仰な厭味にも何一つ言い返す気力がなく、カゼスは客室のベッドに突っ伏していた。時は既に深夜である。夕食のための休憩を挟んで延々と練習を続けたものの、セレスティンは結局、力場に触れずに精神を開く方法を会得できなかったのだ。
いかにセレスティンが魔術師として優秀でも、荒れ狂う力の波に何度も精神を晒せば、一回一回がわずかな時間であっても、さすがに消耗する。だが精神を開かないことには、カゼスの精神による導きが得られない。
言葉の説明だけで要領を伝えられたら良いのだが―― そして事実カゼスはそのようにしてこの技術を教わった筈なのだが―― 教える側がそれを能くしないのでは、生徒がいかに熱心かつ優秀でも、どうしようもなかった。
結局、やはり簡単なことではないのですね、とセレスティンは疲れた苦笑を浮かべて言い残し、ひとまず終業と相成ったのだった。
ちなみに、エイルはとっくに夢の中である。慰めの言葉をくれる人もいないので、カゼスは傷心を抱えて床についた。
そうして、悩みながら眠りこんだせいか、その夜は奇妙な夢を見た。
滔々と流れる、鮮やかな輝きの色、色、色。
それは川の如く地を這うのではなく、遥か足元から湧き上がり、天上の高みへと昇っては、何処とも知れない彼方からゆっくりと下り来て、無限に流れ続けている。だがすべての色が規則正しく動いてはいない。てんでに昇り、渦巻き、たゆたっては落ちて。にもかかわらず、全体の動きはどこかカゼスの感覚では捉えきれないところを目指していた。
その巨大な流れの手前に、ぽつんと一枚の扉が佇んでいる。あまりにもちっぽけなその扉が、まるで一切の流れを堰き止めているかのように、その足元から『こちら側』は、静かで色彩も動きもほとんどなかった。
(これは……)
外から見た力場のイメージだ。そう思い当たった時、扉の横に誰かが立っているのを見付けた。扉がちっぽけだと思ったのは、あまりに遠かったせいだろう。その人物も、カゼスからは糸屑程度にしか見えなかった。
その誰かが、扉を開くのが感じられた。
(待っ……、いけない!)
そんなことをしたら、あの流れが『こちら側』に押し寄せてしまう。カゼスは恐怖に駆られ、届く筈もないのに手を伸ばす。
だが、予想した事態は生じなかった。
――扉は、閉じていた。否、開くことによって閉じている、と言うべきだろうか。『こちら側』に向かって開くことで、『あちら側』は閉ざされていた。
(表裏……? いや、違うな、なんて言うか)
呆然とその様を眺めたまま、カゼスは言葉を探して立ち尽くす。
(定義が違うんだ)
『こちら側』の「開放」は、『あちら側』の「閉鎖」を意味する。別々の事を行なっているのではない。力場に対して「閉じた」まま、精神を「開く」、というふたつの行為ではないのだ。
カゼス自身は既に無意識に行なっていることに、改めて言葉による輪郭が与えられる。
(これならセレスティンにも伝わるかも知れない)
ほっと安堵すると同時に、鮮やかな色彩の夢は、水で流されるように崩れ始めた。
(覚えておかなくちゃ)
(覚えておいて)
チリン。小さな玻璃の鈴が繰り返す。あれっ、とカゼスはそちらに意識を向けようとしたが、眠りに引き込む力には抗えなかった。
(……伝えて……の……)
――知っている。この声を、知っているのに……
翌日、全員がセレスティンの部屋に顔を揃えて今後の計画を話し合った結果、概ね次のように決まった。
まず、なにはともあれ総督府へ出向き、カゼスとエイルがレント王国内を自由に行き来できるように、旅券を発行してもらうこと。ただセレスティンによれば、エンリルはしばらく予定が立て込んでいるらしい。であるから、先に会見の約束を入れなければならない。
また、レント本土への交通手段を考えると、やはりヤンノに頼むのが最も安全であろうから、彼が出航してしまわないよう、ひとまず連絡を入れる必要もある。ただこの連絡には、ナーシルではいささか都合が悪かった。転移装置を使うのに、身元が怪しいからだ。
というわけで、一度ヴァフラムとアーロンがレムノスへ出向き、ヴァフラムは総督府へ、アーロンは港へ、それぞれ用事を済ませに行くことになった。
その間、残りの者はエデッサで待つ。もちろん、そうは言ってものんびり観光しているわけにもいかない。
ヤンノの船をレントへ回してもらうなら、船主であるイブンの許可がいる。幸い郵便に関しては検閲などもないため、手紙で相談すれば良いが、その文面を考えるのはカゼスとエイルの役目だ。
加えて、カゼスとセレスティンには特訓もある。
そして――いつの間にか「しゃべる玉っころ」扱いされる身に堕したリトルにも、もちろん仕事があった。
〈運良く操作室に入れたら、でいいからね。外部からスキャンしないで〉
〈何度も言われなくても命令は記憶してます。あなたと一緒にしないで下さい〉
やれやれ、とすっかりお馴染みのため息。だが今のカゼスには、良く出来た合成ボイスに苛つく余裕はない。渡し船で対岸に向かうアーロンとヴァフラムに手を振り、どこか空中にいる見えないリトルに視線を向けないよう、平静を装うのが精一杯だった。
二人が転移装置でレムノス総督府に行く、と聞いて、カゼスはすぐに、リトルを偵察に出すことを考えついたのだ。ただし、転移装置は魔術と機械の複合体である以上、外部からのスキャンに何らかの反応を示す可能性がある。誰の仕業とまではばれなくとも、機密が盗まれかけた、などと騒ぎになっては大変だ。
だからカゼスは、くどいほど念を押したのである。
光学迷彩の小さな揺らぎが、すうっと湖上を遠ざかっていく。カゼスはそれを視界の端に捉えながら、不安を隠してアーロンたちを見送っていた。
船が対岸に着くのを見届け、見送り組はそれぞれの足取りで踵を返す。最後まで桟橋に残っていたナーシルが、うんと伸びをして言った。
「さて、俺は何をしていればいいのかなぁ。仕事がないと落ち着かないんだけどな」
「勤勉ね」
セレスティンが振り返らずに応じたが、その声は褒め言葉に反して冷ややかだった。
「でも、この学府であまりあなたの仕事を熱心にしないで貰いたいわ。でないと、あなたを物置に閉じ込める必要が出てくるかも知れないから」
「……長殿ってさ、いつもそういう厳しい態度なわけ? 俺、そんなに嫌われるようなことをしたかな。魔術師としては中立だけど、個人的には愛国者嫌い、ってことかい?」
ナーシルは目をしばたたき、ちょっと頭を掻く。何をぬけぬけと、とばかりにセレスティンはきっと振り向いたが、そこにあったのは、ただ困惑して途方に暮れた姿だった。勢いをそがれ、セレスティンは小さなため息とともに腕組みする。
「私があなたを気に入らない理由のひとつは、あなたがカゼス様を困らせるからよ。それともうひとつ、中立を保つべき魔術師を唆して――というのが気に食わなければ、説得して、と言ってもいいけれど――政治に関らせようとしているから。それだけのこと」
「やっぱり嫌われてるらしいね」
「そうじゃなくて」
咄嗟に否定したものの、ひと呼吸置いてセレスティンは肩を竦め、やれやれとうなずいた。
「いえ、そうね、少なくとも好意的とは言えないわね。正直な所、私にはよく分からないの。『愛国心』が、どんなに大切で、どれほど強く人を動かす熱情になるのか。……私には、故郷はあっても故国はないし、滅んだ国に対する思慕を教え込まれるより早く、ここに連れて来られたから」
そこまで言い、彼女はふと対岸の山並みを見やった。その向こうに何を見ているのか、遠い眼差しで。
「……少し、一方的すぎたかも知れないわね。ごめんなさい」
ややあってセレスティンはナーシルに目を戻し、淡々とした口調で詫びた。が、ナーシルが何と応じる間もなく、いつもの強い表情に戻って付け足した。
「でも、ともかく、学府での政治活動は厳禁ですから。暇なら、リュンデを手伝って書庫の整理をしてくれると助かるし、それが嫌なら……あまり人目につかないように、客室で大人しくしていて頂戴」
命令されて、ナーシルは降参のしるしに両手を上げた。
「はいはい、わかりましたよ……そうだなぁ、俺としても、あのおっかない爺さんに出くわしたくないし、鳥の巣頭の左輔さんと一緒に本に埋もれてるよ」
「誰にでも変なあだ名をつけるのは止して貰いたいわ」
「分かりやすくていいだろ? だけどそんなに俺が邪魔なら、学生さんじゃなくて俺を港に行かせてくれたら良かったのに」
ナーシルはそう言ってから、肩を竦めた。
「ま、あそこで止められる心配がなければ、の話だけどさ。せこいよなぁ、王国政府も。使用料はぼったくるわ、客の選り好みはするわ。貧乏人と胡散臭い奴は黙って歩けってことかね。よくあれで経営が成り立つもんだよ」
あそこ、と彼が視線で漠然と示したのは、対岸にある政府の施設だ。カゼスもそちらを見やり、リトルは無事に着いたかな、と考えていた。




