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七章 (2) 学府の不協和音



 ヴァフラムが長い会話に耐えられるほどに回復するまで、一同は食事と休息を取ることにした。慌ただしい成り行きのためにすっかり忘れていたが、昼時はとうに過ぎていたのだ。セレスティンは部屋にいた魔術師たちに箝口令を出した後で、エイルがカゼスの髪を隠すのを待って、食堂へと案内してくれた。

 廊下を歩きながら、セレスティンは険しい声音でささやいた。

「ヴァフラムのことがあったので学府においで頂きましたけれど、ここにも長居はされない方が良いかも知れませんね。ナーシルの話を聞いた後では、もぐりではない正真の『長衣の者』であっても、全員を信頼はできません」

 言われたカゼスの方は、危機感のない様子で、五年前に観光しそびれたエデッサ城内をきょろきょろ眺め回しながら、はぁ、とかなんとか生返事をした。

 実際のところ、疑いだすときりがない。ピリピリ警戒すれば却って挙動不審で注意を引いてしまうだろうし、敵意や悪意は避けられても、善意の第三者は時に予想外の行動をするものだ。

「まぁ、あれこれ心配しても仕方ないです。エンリル様も警戒してらっしゃいましたが、私にはどうも、いまさらラウシールの一人や二人が現れたところで、大勢に変化があるとは思えないんですけどね」

 呑気な言い草にセレスティンが眉をひそめたが、アーロンはカゼスに賛成した。

「僕もそう思います。あなたは改革の指導者になれる性質ではありませんから」

「でしょう?」

「ただ、どんな集団でもそうですが、暴走する少数派はつきものです。その動きが活発化すれば、大勢は変わらなくても、局地的には悲劇だってあり得ますよ。そうなれば、総督が責任を問われるのは必至です」

「……賢い人って嫌だなぁ」

 ぼそりとカゼスがつぶやき、アーロンが失笑した。

「頭の使い方が偏ってるだけですよ。だから無知な僕に教えて頂きたいんですけど、『長衣の者』は確か、入門の誓約で、魔術を用いて悪事を働けないよう、縛られているんじゃありませんでしたっけ?」

 そう言って、ちらりとナーシルを見る。それがどうして、こんな心配をしなければならないのか、と訊きたいのだろう。セレスティンが足を止めて振り返り、カゼスと顔を見合わせて小首を傾げた。

「説明が難しいのだけど……入門の誓約というのは、魔術師の精神に扉を作るようなものなの。『力』に触れるためのね。その扉を保ち、開閉するための決まり事が誓約。だから誓約を破れば扉も壊れていくけれど、たった一回の過ちで扉が崩壊してしまうのでは、魔術師として暮らしていけないでしょう」

「はじっこにひびが入るとか、蝶番がきしむとか、そんな感じかなぁ」カゼスも扉のたとえで説明した。「ゆえなく命を奪わず、意志あるものの心を支配せず、といった類の誓いは力が強いから、破るとかなりの損傷を受けますけど、中立・公正を保ち他を侵さず、なんていうのはかなり漠然としていて、守るのは難しいですからね。多少の傷なら修復しなくても、魔術を使い続ける事が出来るんです」

 そこまで言い、カゼスは肩を竦めた。

「もちろん安全に使うためには、扉が傷んでいると自覚した時に、ちゃんとした魔術師に修復して貰わないといけませんけど。ぼろぼろでも使えなくはないんですよ」

(ついでに言うと、扉がなくなっても魔術を使える者もいるしね)

 私のように。

 口に出しはしなかったが、カゼスは微かに歪んだ笑みを浮かべた。

 大崩壊を引き起こした張本人が、誓約の力をまだ保っていられるわけがない。ゆえなく、ではないかも知れないが、しかしあまりに多くの命を奪った。

(あの時、ファルカムが私を導いていなければ……)

 それ以前から既に、誓約や呪文といった仕組みを無視するようになってはいたが、しかしあのファルカムの一押しがなければ、大崩壊の時にカゼスの精神も崩れ落ちていただろう。川底に沈んだまま、二度と浮き上がることはなかったに違いない。

 そして今やカゼスは、誓約によって作られた不便な扉を通ることなく、自在に力に触れることが出来る。そう、『力の流れに浴する』ことが出来るのだ。それは自分が特異だからだ、と勝手に解釈していたが……。

「カゼス?」

 エイルがそっとささやく。考え込んでいたカゼスはハッと顔を上げ、何でもない、と首を振ってから歩きだした。

 食堂は閑散としていたが、それでもセレスティンが食事を頼むと、あまり待たされずに人数分の昼食が供された。たまたま余っていたのか、それとも、いつでも出せるように態勢を整えているのか、厨房の秘密に疎いカゼスには分からなかった。が、それが何であれ味には関係ない。パンとチーズ、具のたっぷり入ったスープに新鮮な果物。どれも美味で、瞬く間に皿は空になっていった。

 食事がすむと、カゼスは紅茶のカップを手に、中庭にむかって開けたテラスに出た。庭は手入れが行き届いており、緑が目に眩しい。

 カゼスは花壇のそばのベンチに腰を下ろすと、ふうっと息をついて空を見上げた。視界の端で、エイルがノート片手にうろうろと見え隠れしている。貴重な空き時間に、せっせと取材しているのだろう。

 目を閉じると、時間が巻き戻されていく。アトッサの声、カイロンの淹れてくれたコーヒーの香り。アーロンとフィオの姿……

 不意に隣に人の気配がして、カゼスはどきりとして目を開けた。

「あ、驚かせてすみません」

 遠慮がちな表情で、アーロンが――今現在のアーロンが、立っていた。カゼスは曖昧に首を振り、改めて周囲を見回した。長衣姿の行き交う学府。それが今のこの場所だ。そして隣に座ったアーロンも、あのアーロンではない。

 どんな顔をしたらいいのか、カゼスには分からなかった。悲しいのか切ないのか、それとも虚しいのか。自分の気持ちもはっきりしない。仕方なく、ぼんやり宙を見ながら紅茶を飲む。その横でアーロンが、ためらいがちに切り出した。

「……アーロン卿って、どんな人だったんですか」

 ごほ、とカゼスがむせる。危うくエイルの二の舞を演じるところだったが、幸い惨事には至らず、なんとか茶碗を空にして傍らに置いた。

「私に何を言わせたいんですか」

 むせたのと恥ずかしいのとで赤面し、カゼスは責めるでもなく問う。専門家なら、当事者以上によく知っているだろうに、と。

 アーロンも何を聞きたいのかよく分かっていないらしく、困ったようにちょっと頭を掻いて、首を傾げた。

「すみません。あなたが、あのアーロン卿と同名の僕が相手だとやりにくいみたいに、僕も時々、かの『偉大なる青き魔術師』とカゼスさんとが同名の別人みたいに感じられて、なんだか戸惑ってしまうんです。それで、何となく……」

 当人だという確証を得たかったのか、それとも、何となく何か話そうとしたのか。曖昧に言葉を濁したアーロンに、カゼスは苦笑した。

「五百年も経ってますからねぇ。私のこともどう伝えられているのか…… 偉大だなんて言われる覚えは、本当にないんですけど」

 いったん言葉を切り、目を伏せて過去に思いを馳せる。

「……そうですね、アーロンは……あなたよりずっと、とっつきにくい人ですよ。最初は怖かったなぁ。面倒見はいいけど無愛想で。多分、身内とそうでない人の区別がはっきりしてたんでしょうね。どちらかというと無口ですけど、いつも的確で温かい言葉をくれる人でした」

「当代随一の剣士、だったんでしょう?」

「そうらしいですね。そんな風には見えませんでしたけど。体格で言えば、カワードさんの方が迫力がありましたよ。アーロンはよく水牛水牛って」

 カゼスは思い出し笑いをしてしまい、慌てて口元を覆った。が、芋蔓式に滑稽な会話のあれこれがよみがえり、エンリルの皮肉やウィダルナのぼやきまでが聞こえてくる。

 肩を震わせてくすくす笑っているカゼスを、横のアーロンはつくづくと眺めていた。

 ややあってカゼスが気を取り直すと、アーロンは得心した風情でうなずいた。

「やっぱり、本当なんですね」

「……?」

 カゼスがことんと首を傾げると、アーロンは「いえ」と小さく苦笑し、少し思い耽ってから、再び口を開いた。

「エンリル帝の時代は、良い時代だったんだろうな、ってことです。一応僕も歴史学者のはしくれですから、自分の望みで勝手な色付けをしてはいけない、とは分かっていますし、叙事詩は所詮創作だから、権力者に都合のいい捏造や庶民の夢が入っていて、現実はもっと厳しかった筈だ、という意見も認めはします。でもやっぱり、憧れはあるんですよね」

 そこで彼はカゼスを見つめ、にこりとした。

「あなたがとても懐かしそうに話をされたから、良かった」

「……しんどい事も多かったですよ? たまたま私は、暮らしに不自由しない身分でしたけど、普通の人がどうだったかは知りませんし……」

 素人が指摘することでもなかろうに、とカゼスは遠慮がちに言う。アーロンはそれに対してもうなずいた。

「ええ。厳しい暮らしの人も多かったでしょうね。でも、それはいつの時代でもあることです。ただ、エンリル帝やアーロン卿たちが、本当に叙事詩に謳われるような人たちだったのなら、あの時代なりの基準で、良い時代だったろうと思うんです」

「ああ……なるほど」

 カゼスも納得してうなずいた。ヴァルディアやマデュエスの治める国がどうだったかを見知っていると、エンリルの治世は『良い時代』だった、と言うのも分かる。技術や社会制度の未熟さゆえに、苦労も理不尽もあったろう。だがそれでも、その時点での基準で判断する限り、当時のデニスは暮らし良かった筈だ。

「だから今でも、憧れて、あの時代に戻そうとする人がいるんでしょうか」

 ぽつりとアーロンが洩らした言葉で、カゼスは現在に意識を引き戻された。横を見ると、アーロンはよそを向いている。その視線の先には、食堂で荷物番をしているナーシル。

「さぁ、どうですか」カゼスは小首を傾げた。「ナーシル個人に限って言えば、そういう懐古趣味があるようには見えませんけどね。民族の誇りだの、過去の栄光だの、そういったことは一言も口にしませんでした」

「だったらいいんですけど。ナーシルには、船で色々と親切にして貰いましたから」

「確かに、親切ではありますね」

 カゼスは手持ち無沙汰な風情のナーシルを遠くに眺め、苦笑した。その脳裏に、彼が一瞬だけ見せた表情がよみがえる。

 ――いきなり痛い所を突くねえ――

 あれは何だったのだろう。懐古主義でないのなら、何が彼をデニス独立へと動かしているのだろう。ただデニスに生まれ育ったからという理由で、皆が独立を夢見るわけではない。そのような愛国的教育が許されるわけもなし。

(何かあったのかなぁ……)

 だが多分それは、訊いてはいけない事なのだろう。

 そんなことをつらつらと考えながら眺めていると、ひとりの魔術師がナーシルに近付くのが見えた。

「あれっ」

 カゼスとアーロンは同時に声を洩らした。

「誰でしょう?」

「知り合い……じゃ、なさそうですね」

 ナーシルが言っていたような、賛同者の一人、というわけではさそうだ。遠目にはよく分からないが、少なくとも、にこやかに挨拶をしている様子ではない。

 どうしましょう、とアーロンが目で問いかける。カゼスも二人の様子を見ながら、割り込むべきかどうか悩んでいた。


「よくもあっさりと己の立場を表明できたものだな」

 自己紹介も挨拶も飛ばしていきなりそう言われ、ナーシルは眉を寄せて相手を見上げた。うっそりと佇んでいる男は、ヴァフラムの部屋にいた魔術師のひとりだ。言葉はまるで喧嘩腰であったが、口調はあくまで平坦で、表情も仮面のようにのっぺりしている。

 ナーシルは肩を竦め、立ち上がりもせず応じる。

「別に後ろ暗いことじゃないからな。それに、ここにいるのは全員が中立を守る魔術師のはずだ。俺が何者だろうと、叩き出される心配はない。歓迎されないとしても、だ。違うかい?」

 確認の問いは、嫌味たっぷりだった。

 中立を楯に、それ以外の者を排除するというのなら、それは中立とは言わないだろう。それともあんたは、俺たちに対立するのかい――と。

 言外の皮肉にも、相手はまるで動じなかった。薄暗い気配をまとって身じろぎもせず、感情の読めないまなざしでナーシルを見下ろしている。

 落ち窪んだ琥珀色の目は、大きくはないがぎょろりとし、痩せた顔を縁取る貧相な白髪と共に、老いた印象を与える。陰気で、死の河の渡し守でも勤まりそうな外見。でありながら、時折、内からの覇気が陽炎となって揺らめくのが感じられる。

 さすがにナーシルもぞっとして、我知らず腰を浮かせていた。

「我々を利用できるなどと思わぬことだ」

 男は静かに言い、ナーシルを見つめる。否、その視線はむしろ、ナーシルを通して彼の背後にいる者たちに呪いをかけているかのよう。

 たじろいだナーシルに、男はそれ以上の言葉はかけず、すっと影が消えるように身を退いて立ち去った。

 暗い後ろ姿が食堂の外に消えても、ナーシルはしばらく動けなかった。

「……なんなんだ、あいつは」

 ようやく呪縛が解け、椅子にどさりと腰を下ろす。恐怖が薄らぐと、まるで今し方のことが悪夢のように思えてきた。あの魔術師が現実の存在だったのかどうかさえ怪しい。

 だが、夢ではなかった証拠に、慌てた様子でカゼスとアーロンが戻ってきた。それだけでなく、エイルを案内していたセレスティンまでもが。

「ナーシル、大丈夫? 彼に何を言われたの」

 セレスティンに気遣われ、ナーシルはおどけて眉を上げた。

「爺さんの後で美人を見ると、ほっとするね。いやぁ、警告されただけだよ。で、あれは何者だい? 魔術師というより死神みたいだったけど」

 ナーシルの軽口に、セレスティンは笑いもしなければ、眉をひそめさえしなかった。

「その感想は二度と言わない方がいいでしょうね。彼は処刑人だから」

「えっ……」

「『破門』の役目を進んで引き受ける、数少ない魔術師よ。変わり者だけど、悪い人ではないの。死神だなんて言わないで頂戴」

「うわ」

 呻いたのはカゼスだった。アーロンが、どういう事かと問う目を向ける。カゼスは小さなため息をついてから、気が進まない様子で説明した。

「さっき入門の誓約について話しましたよね。破門というのは、入門で作った扉を取り壊してしまうことです。魔術師にとっては、命を奪われるも同然ですね。しかも、下手なやり方をすれば精神を傷つけて、廃人にしてしまう」

 誓約を破り、改悛することのない魔術師であれば、既に『扉』はぼろぼろになっているから、それを片付けるのは簡単だ。だがそれでも、乱雑にすれば精神に障害を残す。

「だから誰もやりたがりません」セレスティンがうなずいた。「ですがエクシスは、誰かがやらねばもぐりの魔術師をのさばらせる事になるからと、役目を厭わず引き受けてくれているんです。不幸な結果もありましたが……」

 それは彼のせいではない、と言うように、セレスティンは小さく首を振った。つらい仕事を押しつけている負い目もあろう。

 ナーシルは「ふぅん」とだけ言うと、あの男の――エクシスの去った方を見やった。

 自ら痛みを背負う魔術師は、苦行者なのか理想家なのか。あくまで『長衣の者』の理想を守りたいがために、それを乱す恐れのあるナーシルに警告したのだろうか。

(まずいな)

 ただの理想家だとしても、そのために手を汚すことを厭わないとくれば、ナーシルたちに味方する魔術師を見付け出して破門するぐらいのことをやりかねない。

 と、そんな彼の懸念を読んだように、カゼスがぽんと肩に手を置いた。

「心配しなくても、破門はそう簡単にほいほい出来ることじゃありませんよ。特に力場が荒れている今はね」

 穏やかな声音と表情が、その場に張りつめていた緊張を解く。セレスティンもほっとしたように顔を上げ、明るい口調で言った。

「さてと、そろそろヴァフラムも元気を取り戻しているでしょう。私たちは私たちの問題に戻りましょう」


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