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六章 (2) 呼び寄せる糸



 失踪した魔術師の部屋は、セレスティンの予想に反し、後任が使うでもなくそのままにされていた。職を辞した後のことではなく、不意に姿を消してしまったので、片付ける事ができないのだろう。

「半月ほど前に、特に病気の様子もなかったのに無断欠勤して、そのままぱったり来なくなってしまったそうです。独り者で近くに部屋を借りていたそうですが、訪ねてみたらとうに引き払った後で、別人が住んでいたとか」

 セレスティンが説明し、部屋を見回した。

「ですから、この部屋だけが唯一の手掛かりなんです。いったい何があったのか……」

 そこまで言い、ヴァフラムのことが脳裏をよぎって口をつぐむ。セレスティンは声をひそめてささやいた。

「実は、私が頼りにしている右輔官が、呼び声に悩まされているようなんです。行かなければならないように感じる、と言っていました」

「それが失踪の原因ですか」

「分かりません。ですから、学府においで頂きたいんです」

「私に何が出来るか分かりませんけど」

 カゼスは頼りなげにそう言いはしたものの、断りはせずにうなずいた。

「そういう事なら、ここを調べた後でその人に会ってみましょう。呼ばれていたのは私も同じですし、私にとっても何かの手掛かりになるかもしれませんね」

 言いながら、視線は室内をさまよっている。見た限りでは特に不審な点はない。ほどほどに整頓され、多少は散らかった――つまり明日も明後日も続いてこの部屋を使うことを想定した状態。

〈時間が経過していますし、この部屋が封印されていたわけではないことから、確実なことは何も言えませんが、不自然なところは見当たりませんね〉

〈だろうね。第一、この部屋で拉致されたってわけでもないんだし…… 手掛かりがあるとしたら、手紙や書類の中身かも。これ全部ひっくり返すわけにもいかないだろうけど〉

 姿の見えないリトルに向かって返事をしながら、カゼスは来客用と見られるソファに腰を下ろした。

「あまり期待出来ませんけど、精神探索をしてみましょうか。それとも、失踪が判った後で一通りは調べられたのかな」

「魔術関係の調査は何も出来ませんでした。力場の荒れがひどい時期で、迂闊に精神を開けば命を落としかねなかったんです。交友関係や職務上の問題については警備隊が調べましたが、姿を消す理由になりそうな事は何も見付からなくて」

 結局収穫なし、とセレスティンは首を振る。カゼスは目をしばたたいた。どうやら、精神体技術も一般的になってはいるようだが、まだ魔術ときっちり分けられていないらしい。カゼスたちは魔術師となる過程で、訓練によって力場に触れず精神を開くことが可能になるのだが、ここの魔術師たちはまだその方法を確立していないのだろう。

「あー……じゃあ、今からちょっとやってみます」

 曖昧にそう言ってごまかし、カゼスは軽く目を閉じた。同時に感覚が精神側に開かれ、薄明と静けさが意識を包む。失踪以来、ほとんど人が入っていないからだろう。セレスティンと自分の感情を除けば、あとは消えかけの残滓がうっすら漂っているだけだ。精神の網を広げると、霞のようにぼんやりしたそれらがひっかかり、弱く微かに光った。

 そうしてどうにか拾い上げた切れ端でさえ、たいした内容ではなかった。調査したという警備隊の人々が残した、淡々とした職務意識。消えた責任者に対する、職員たちの心配と不安。ラフスマズ本人のものと見られる残像は見付からない。

(半月経ってるんじゃ、当たり前か)

 予想していたとは言え、カゼスはがっかりした。網を収束させて切れ端が漂うに任せ、時間と空間の周辺を見回す。

(……あれ?)

 キラリ、と何かが視界の端で光った。カゼスは急いでそちらに意識を振り向け、精神の手を伸ばす。細くて今にも消えそうな蜘蛛の糸。どこから漂って来たのだろう?

 ふわりふわりと揺れるその端を何げなく捉えた、刹那。

(うわッ!?)

 いきなり『狭間』が開き、カゼスの精神を吸い込んだ。

(なんだ、どうして……!)

 一瞬の旅を経て、荒野に投げ出される。白っぽく乾いた大地、うずくまる灰緑の低木。哭くような風の音、寒々しいのに懐かしい空気。そして――

(ここは)

 プツン、と糸が切れる気配。あっと思った瞬間には、再びカゼスの精神は元いた場所に漂っていた。薄明の中、セレスティンの感情が動揺のしるしにめまぐるしく色を変え、渦巻いている。

(……呼んでいるのは、あなたなんですか?)

 ファルカム。

 その名を、強く意識して放つ。だがどこからも応えはない。カゼスは険しい目で周囲をもう一度確かめ、それから自分の体へと戻って行った。

 重くて開かない瞼をどうにか持ち上げ、意志の力で息を吸い込む。目の前に、青ざめたセレスティンの顔があった。

「ラウシール様」ささやいた声が震えていた。「良かった……」

 はあっ、と大きな息をつき、セレスティンは床に座り込んでしまった。カゼスはゆっくり身を起こし、手足の指を動かして体の感覚を取り戻す。

「死にそうに見えましたか」

 カゼスはおどけて問うたが、セレスティンは深刻な表情でうなずいた。

「息がどんどん弱まって、顔色も……本当に、無理にでも引き戻そうかと思いました」

 鳶色の目が涙で潤んでいる。カゼスは慌てて謝った。

「すみません、怖がらせてしまいましたね。時々あるんですよ、ちょっと遠くに飛ばされると仮死状態に近付くらしくて。今回はそんな事があるとは思わなかったもんで、先に言っておくのを忘れてました」

 まさか精神だけ『狭間』の向こうへ吸い込まれるなどとは、予想外だった。しかもあの場所は、間違いなく五年前にファルカムと出会った荒野だ。

(私を呼ぶ声はデニスからだった。でも、あの人が何らかの関りを持っているのは確かだよな。失踪した魔術師たちは、あの人に直接呼ばれたんだろうか?)

 どうもよく分からない。もしファルカムが何らかの理由で魔術師を呼び集めているのなら、なぜカゼスだけはデニスに落としたのだろう。

(デニスからでなきゃ引き寄せられない、ってわけでもないだろうし……大体、いくらあの大魔術師ファルカムだからって、何十人もの魔術師を無理やり、狭間を越えてまで呼べるものかなぁ?)

 眉間に皺を寄せて考え込んだカゼスに、セレスティンが遠慮がちに声をかけた。

「何か、分かったのですか?」

「うーん……どうやら、この部屋の主は、いくら捜しても見付からなさそうですよ。『狭間』を越えて別の時空から、糸が伸びていたんです」

「別の? つまり、カゼス様の故郷のような所からですか」

「そうです。いつ、どこなのかは私も知りませんけどね。誰かが『ここ』に糸を垂らして、魔術師を釣り上げているような感じがありました」

「何てこと」セレスティンは憤慨した声を上げた。「いったい誰が、何の権利があってそんな真似を? エンリルの言ではありませんが、まさか彼らは生け贄にされているのではないでしょうね」

「そこまでは、ちょっと分かりません」

 カゼスは肩を竦めた。誰が、の部分は推測できているのだが、それを言ったら、同じ惑星の住民として責任を追及されそうな気がしたからだ。

「ただ、失踪した魔術師はあくまで連れ去られたのであって、殺されたわけじゃないと思いますよ。そういう気配は感じられませんでしたから」

「だとしても……」

「安心は出来ませんけどね、ええ」

 カゼスは苦笑し、改めて室内を見回した。

「あの糸はもう切れてしまいましたけど、今まさに呼ばれている人がいるのなら、そこから糸を辿れるかもしれません。ほかに手掛かりもないし、やってみるしかないでしょう。もし糸が辿れなくても、切ってしまえば引き寄せられる心配はなくなりますしね」

 ファルカムが黒幕だとは思いたくない。だが、もしそうだとしたら、何の必要があってのことかを知りたかった。カゼスを含め数十人の魔術師の人生を変えるだけの、どんな理由があるのか。知ったところで納得出来るかどうかはわからないが、知らないよりはましだ。

 カゼスの決然とした顔を見つめ、セレスティンは安堵の笑みを広げた。

「あなたがデニスに来て下さって、本当に良かった。私たちだけでは、何もわからないままだったでしょう」

「それはないと思いますけど……まぁ、少しは役に立てて良かったです」

 カゼスは照れ臭そうに苦笑する。頼むからそんなに期待しないでくれ、このままトントン拍子に解決する筈もないんだし――そんな言葉が喉元まで出かかった。逃げ出したくて足踏みしているカゼスの内心には気付かず、セレスティンは全幅の信頼をその目に湛えている。

「ラウシール様は……」

 何事かを言いかけたセレスティンが、はっと息を飲む。その視線を追ってカゼスも振り向き、ぎょっとした。開け放しのドアの向こうに、ナーシルが立っている。

 二人の驚きと警戒に対し、ナーシルはきょとんと目をしばたたいた。

「お取り込み中、悪いんだけどさ。なんか、長殿を捜してるって人が駆け込んで来たんだよね。えらく慌ててたよ、髪をぐしゃぐしゃに振り乱して」

 言いながら彼は漠然と自分の背後を指さす。セレスティンは「まさか」とかすれ声を洩らした。

「リュンデ? クルクス左輔が来たの?」

「ああ、そんな名前だったな。眼鏡をかけた女……」

 皆まで聞かず、セレスティンはナーシルを押しのけて駆け戻って行く。ナーシルは目を丸くしてそれを見送り、首を捻りながらカゼスを振り向いた。

「なんかあったのかい?」

「さあ……」

 カゼスは曖昧に応じたものの、彼女の恐怖が伝染したように顔をひきつらせていた。

 今まさに噂していた当の魔術師が、消えてしまったのではなかろうか。事態を解明する糸口になる、あるいは少なくとも失踪を防ぐことは出来るだろうと言っていたのに。

「私たちも戻りましょう」

 急いでカゼスも部屋を出る。が、その行く手にナーシルが立ち塞がった。

 横を擦り抜けようとしたが、さっと腕が伸びてカゼスを阻む。

「何のつもりですか」

 カゼスは威嚇の表情でナーシルをねめつけたが、相手はおどけて笑うだけだった。

「分かってるんじゃないのかい。なぁ、」

 ラウシール様――そうささやいた声は、蛇のようだ。カゼスはうんざりしてため息をついた。

「まったく、アーザートと言いあなたと言い、つくづく私は護衛に裏切られる星巡りらしいですね」

〈どうします、カゼス? こんがりローストしてやりますか〉

〈いや、まだいいよ。でも実力行使に出て来たら、雷を落としてやってくれないかな〉

〈……それは構いませんが、恥ずかしい呪文もどきの命令を叫ぶのはやめて下さいね〉

〈は?〉

〈何でもありません。気にしないで下さい〉

 会話しながら、カゼスは片手を広げてリトルを受け止めた。迷彩を解いて水晶球が姿を現したので、ナーシルもわずかに怯んで後じさる。

「どうやらあなたは、ヤンノさんの見込み違いだったようですね。何が目的ですか」

「否定しないって事は、やっぱり本物か。思ってたのと大分違うなぁ。もっとこう、なよやかな美人かと……」

 仕入れた果物の品定めでもするかのように、ナーシルが腕組みして唸る。カゼスはむっとして、やっぱりローストしてやろうか、とリトルを持ち上げた。どちらかと言うと、このままリトルを投げつけてやる方が気持ち良さそうだが。

 ナーシルは慌てて両手を振り、なだめるような仕草をした。

「落ち着いて、落ち着いて。そんなに警戒しなくてもいいだろ。善良な庶民を脅すなんて、ラウシール様のするこっちゃないよ」

「連呼しないで下さい、人に聞かれたら面倒です」

「怖いなぁ。なんで隠すんだい、お尋ね者だってんならともかくさ。あんたが本物なら、国中大歓迎で飲み放題、食い放題なのに。もったいない」

 ナーシルの口調はどこまでも悪気がなく、とぼけている。カゼスは警戒しなければと思いつつも、気抜けしそうになった。もしかして彼は、単にちょっとばかり思考回路がずれているだけなのではなかろうか。

「そんなに歓迎されるとは思いませんね。特にその『国』っていうのが、デニスでなくてレントの場合は」

 厭味っぽくカゼスが言うと、ナーシルは「そりゃそうだ」と朗らかに笑った。

「総督にばれた時、よく無事だったなぁ。あんたを助けてくれと頼まれた時、本気で総督府の衛兵と一戦交えなきゃならないかと覚悟したんだぜ」

 そう言った時、彼の表情は相変わらず楽しげではあったものの、目つきは鋭くなり、口元には好戦的な笑みが閃いた。今度はカゼスが一歩後ずさる番だった。

「総督は、あなたのような人を警戒しているわけですね」

「あれ、どうして逃げるのかな。今の総督は大エンリルと名前は同じでも、立場はまるっきり反対だぜ。俺の方があんたの味方だと思うんだけどなぁ」

 ぬけぬけと言ったナーシルに、カゼスは呆れて口を開いたが、思い直してふたたび閉じた。カゼスがなぜここにいるのかも知らないだろうに、敵も味方もないものだ。

 しかし、自分はもうデニスの社会情勢にかかわりたくないのだ、などと正直に言えば、この男がどう出るか予測がつかない。のほほんとして見えて実際は熱狂的な独立運動家だったりした場合、カゼスを裏切り者とみなして攻撃してくるだろう。リトルがいるから危害を加えられることはなかろうが、ここで騒動を起こすのは得策でない。

 カゼスはナーシルをまじまじと見つめ、慎重に言葉を選んだ。

「見たところあなたはデニス人ではなさそうですが、なぜこの土地にこだわるんです?」

「いきなり痛い所を突くねぇ」

 ナーシルの苦笑には、冗談ではない本物の痛みがあった。カゼスが罪悪感に怯んだ瞬間それは消え、呑気な笑みだけが残る。

「確かに俺の見た目はあんまりデニス人らしくないけどさ、生まれも育ちも古都ティリスだよ。あんたがいた頃に比べたら、混血が進んでるってこと。大体それを言うならあんだたって、どっからどう見てもデニス人じゃないくせに、エンリル帝に力を貸したじゃないか」

「それは……」

 言葉に詰まり、次いで思いがけない解決法を向こうから与えてくれた事に気付く。カゼスは頭の中で考えを整理し、ゆっくり説明した。

「それは、あの時に『赤眼の魔術師』がいたからですよ。乱暴な言い方になりますけど、同じ魔術師が不正を働いたから、私はそれに対抗したんです。もし彼らがいなくて、単純にエンリル様がデニス統一の野望を抱いていただけなら、私は力を貸さなかったでしょう。おっしゃる通り私はデニス人ではありません。本来、デニスの行く末に手や口を出せる立場ではないんです」

 いささか強引だという自覚はあった。当時の状況を思い返せば、シザエル人がいなくとも手を貸したかも知れないし、実際シザエル人だけが理由ならば最後まで付き合う必要もなかったろう。だが今は詭弁でも何でも、目の前の青年を説得しなければならないのだ。

「あんたも『長衣の者』だから、か。国境を持たず、何にも属さず?」

「そういう事です。とりわけ今は、魔術師の方が大変な時期ですから。デニスの事はあなた方にお任せして、私は彼らを手助けしたいんです」

「うーん」

 ナーシルは真顔になって唸り、考え込む。沈黙の間にカゼスはセレスティンが心配になって、ナーシルの肩越しに向こうを見やった。爪先立ちしているカゼスに気付き、ナーシルも背後を振り返る。

「まぁ、確かに何か厄介事が起こってるようではあるけどね。それじゃ、あっちが片付いたら、俺たちの方に手を貸してくれるかな?」

「…………」

 カゼスは思わず床に両手をついた。何を聞いていたのだ、この男は。それともわざと理解していないふりをして、有無を言わせずカゼスを引っ張り込もうとしているのか。

「嫌だと言ったら?」

 もはや気力が果てて、カゼスは捨て鉢にそう言い返した。直後、ナーシルに腕をつかまれる。ぎょっとしたカゼスに、ナーシルはからかうような笑みを見せ、そっと丁寧にカゼスを立たせた。

「心配しなくても、ラウシール様を力ずくで拉致したりしないよ。俺たちは無法者の集団じゃないからね。一緒に来てくれるまで、気長に説得するさ」

「……いや、だから」

 こっちにも事情とか立場とか色々とですね。

 しかし何を言ったところで通じそうにない。カゼスは特大のため息をついた。

(王族に出くわさなきゃ大丈夫だろうなんて、考えが甘かった……)

「大丈夫だって」

 カゼスの内心を知ってか知らずか、ナーシルは励ますようにぽんぽんと肩を叩く。

「仕事は仕事として、ちゃんとやるからさ。あんたが大事なのはこっちも同じだし、怪我しないように守るから安心しなよ」

「それはどうも」

 カゼスは陰気につぶやき、眉間を押さえる。そしてもうひとつため息。

「ヤンノさんやイブンさんは、あなたの事を知っているんですか」

「まさか。いや、どうかな……イブンの旦那には気付かれてたかも知れないなぁ。でも二人とも、はっきり何か言ってきた事はないよ。それより、あっちが気になるんだろ? さ、行こう行こう」

 ほらほら、とナーシルはカゼスを急かした。カゼスはやれやれと頭を振り、気分を切り替える。当面、この青年のことは脇に置いておくしかなさそうだ。追い払うにも対決するにも、時間と気力が足りない。

〈彼に借りを作らないようにして下さいよ。この御仁は随分と図々しそうですからね。あなたに負い目が生じたら、間違いなくそこに付け込んでくるでしょう〉

〈そうだね。彼に関しては、借金も踏み倒すぐらいの気持ちでいるべきかな〉

〈無理ですね。あなたにそんな事ができるなら、私の苦労もずっと少なくて済んでいる筈です〉

 あっさりと一蹴され、カゼスは歩きながらがくりとうなだれる。

 しばしの間があってから、リトルがぼそっと独り言めかして言い足した。

〈一応、褒めたんですけどね〉

 カゼスはふきだしそうになって、慌てて口を引き結んだのだった。

 

 本堂に戻ると、セレスティンが誰かと話しているのが見付かった。ナーシルが言った通り、遠目にも分かるほど髪がくしゃくしゃの女だ。エイルとアーロンも一緒にいる。カゼスは急いでそちらへ駆け寄った。

「何があったんですか」

 声をかけると、セレスティンが青ざめた顔で振り返った。まさか、とカゼスも息を飲む。唇を震わせるだけで言葉を発せないセレスティンに代わり、エイルが言った。

「彼女の補佐役でヴァフラムという魔術師が、人事不省に陥ったそうだ。原因が分からない、と」

「……糸を追って行ったんだ」

 カゼスはつぶやき、唇を噛んだ。魔術師たちを束ねる重職にある人物なのだ、相次ぐ失踪の原因を確かめようと、訪れた呼び声を好機とばかりに自ら追って行ったに違いない。まさか『狭間』の向こうからだなどとは予想だにせず。力場に触れずに精神を開くことが出来ない魔術師にとっては、死の危険を伴うというのに。

「すぐにそちらへ行きましょう。まだ間に合うかもしれない」

 カゼスが言うと、セレスティンは黙って何度も小さくうなずいた。知らせをもたらしたリュンデは、見知らぬよそ者たちに不可解げな顔をしたものの質しはせず、先に歩きだす。セレスティンも顔を上げ、急ぎ足に続いた。

 カゼスも慌ててそれを追いかけようとして、ふと、意識の片隅で精神を開いた。

(これなら行ける)

 万全の状態とは言えないが、跳躍ぐらいは出来そうだ。セレスティンたちがどこを目指して歩いているにせよ、ここから跳ぶ方が早いのは言うまでもない。

「セレスティン!」

 名前を呼んだ瞬間、奇妙な感覚が胸をよぎった。

(――ティン……)

 玻璃の鈴が木霊を返す。だが、瞬きひとつの間にそれは消えうせ、驚いた様子のセレスティンと目が合った。カゼスは戸惑いながらも手招きし、アーロンやエイルたちをも呼び寄せる。

「跳べそうです。こっちへ」

 セレスティンはすぐに了解し、リュンデを捕まえて戻って来た。

「学府はどこに?」

 カゼスの問いに対する答えは、セレスティンとリュンデの両方から返ってきた。エデッサ、と聞いてカゼスはほっとする。知っている場所だ。他人の精神を介さなくてすむ。

 目を閉じて荒々しい『力』の波に手を伸ばし、必要な流れを引き出す。同時に、五年前に訪れた時の風景が鮮やかによみがえった。

 雪を戴いた山々、空を映してどこまでも澄んだ湖。手を浸した水の冷たさまでを思い出す。湖畔で出会った姫君の、悪戯っぽい声が聞こえた。

(そうだな、できればカイロンの目の前に現れて……)

 知らず口元に笑みが浮かぶ。カゼスの精神に同調することを拒んでいた流れが、不意に穏やかになり、ぴたりと添った。

 馴染みのある心地良い感覚が戻ってくる。カゼスは力を己の一部のように感じ、ごく自然にそれを動かした。

 足場が消え、空気がヒュッと音を立てる。

 冷たい風が頬を撫で、目を開くと――そこはもう、ウルミア湖のほとりだった。

 カゼスは懐かしさと澄んだ空気の爽快さに目を細め、うんと腕を広げて深呼吸する。それから、おっと、それどころじゃなかった、と連れを振り返った。

「すみません、城の中に跳ぼうと思ったんですけど。こっちの方が記憶に鮮やかで……」

 不満げな顔を予想して言い訳したのだが、セレスティンとリュンデは揃って惚けたようにカゼスを見つめていた。その目には、言葉にし尽くせない賞賛の念がこもっている。カゼスはたじろぎ、慌てて視線をそらした。次の瞬間、思わず声を立てて笑い出す。

「失礼、どうやら『跳躍』は初めてだったみたいですね」

 すぐそばで、エイルとナーシルが完全に座り込んでいたのだ。カゼスの船酔いをからかったナーシルだが、今は彼の方が吐きそうな顔で這いつくばっている。

 カゼスが意地の悪い喜びににやにやしていると、アーロンが横から言った。

「僕は何度か転移装置を使ったことがあるんですけど、それに比べたら今のはずっと楽でしたよ。ピリピリするような感覚もなかったし。ちょっと不思議な感じはしますけど、魔術の方が気持ちいいですね」

「残念ながら、魔術師なら誰でもこんな風だとは言えないのよ」

 セレスティンが苦笑すると、リュンデもうなずいて同意した。

「呪文を使わずに、こうも滑らかに力を動かせるなんて、直に経験しなければ信じられないでしょうね。セレスティン、こんな逸材をどこで見付けてきたんです?」

 悪戯っぽく問われ、セレスティンは答えに窮した。ナーシルの耳を警戒したのだ。カゼスはそれが分かったので、無造作に頭の被りものを取った。

「落ちてきたんですよ。どこかその辺から」

 おどけて言ったカゼスに、リュンデは目を丸くした。眼鏡を外して目をこすり、改めてしげしげとカゼスを見つめる。何度も瞬きしてから、ようやく彼女は「あらまぁ」と声を洩らした。

「まぁ何てこと。あらあら……どう言ったら良いのか……天の助けかしら」

 あらあらまぁまぁ、と感嘆詞を連発するリュンデに、セレスティンとカゼスは揃ってふきだした。急いでカゼスはごほんと咳払いし、失笑をごまかす。

「ともかく、急ぎましょう。ナーシル、大丈夫ですか? もう一度、城の中まで跳んでも構いませんか」

 わざと丁寧にお伺いを立てると、何やら言葉にならない、地を這うような呻きが返ってきた。カゼスはおどけて肩を竦めると、セレスティンに向き直った。

「渡し舟はありますか? ある? じゃあ、彼には後から来て貰いましょう。幸いまだ力の流れも使えそうですし、急がないとね」

 言いながら、自然に手を差し出す。セレスティンはリュンデに一言「お願いします」と頼んでから、カゼスの手を取った。次の瞬間にはもう、二人の姿はそこになかった。

 残されたエイルは、たまたま衝立になっていたカゼスがいなくなったので、まともに風に吹かれて身震いした。

「魔術師というのは、実に便利で羨ましいね。ところでナーシル、君、カゼスに何か言っただろう? 可哀想にねぇ。ああ見えて彼は怖いよ? 結構根に持つし」

 言葉だけは同情的だが、その口ぶりときたら露骨に面白がっている。しつこく込み上げる酸っぱいものと戦っていたナーシルは、恨めしげにエイルを睨み、低く唸ったのだった。


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