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六章 (1) 聖堂



 学府へ向かう前に、アーロンが必要な資料の写しを頼むため聖堂へ行くと言うので、カゼスとエイルもここぞとばかり便乗して観光することにした。

「セレ、そこのとんまが正体を知られないように、よく見張ってやってくれ」

 そう言ったエンリルに対し、セレスティンは言葉遣いについて非難はしたが、付き添いが必要であろうことについては異を唱えなかった。出会って間もなく、彼女もまた、カゼスの迂闊ぶりを察していたのである。

 そんなわけで、三人はセレスティンに連れられて、ぞろぞろと聖堂へ向かうことになった。道々アーロンは、よそ者の二人のために聖堂の建立時期や様式、展示物などについて簡単に説明していたが、ふと気付いて問うた。

「二回目に来られた時には、聖堂は建てられていた筈ですよね。ご覧にならなかったんですか?」

「二回目?」カゼスは小首を傾げ、それからああとうなずいた。「盗難事件の時ですか。ええ、建っていましたよ。外から眺めた覚えがあります。でも中には入りませんでした。時間がなかったもんで」

 すると横でエイルがくすくす笑った。

「さて、どんなものが展示されているのかな。君にとっては衝撃かもしれないよ。覚悟しておいた方が良いだろうね」

「嫌なこと言わないで下さいよ」カゼスは苦笑いした。「むしろふきださないように気をつけないと。私がにやにやしてたら、腕でもつねって下さい」

 カゼスの言葉にエイルが微笑み、セレスティンは何とも複雑な表情をした。自分たちが信じ崇めてさえきたものを、ラウシール本人に笑われてしまったら、どうしたら良いのだろう。言うべき言葉が見付からず、セレスティンは結局黙って歩き続けた。

 目指す聖堂に辿り着くと、アーロンは「ここです」と手で示し、それから一足先に階段を上りだした。

「僕はラフスマズさんの後任の方に会って、それから書庫に行って来ます。ライエル様、すみませんがその間、お二人の案内をお願いします」

「ええ、どうぞごゆっくり。そうだわ、ついでに、ラフスマズ氏が使っていた部屋を見せて欲しい、と頼んでおいてくれるかしら。私からと言って」

「分かりました。それじゃ」

 アーロンはエイルとカゼスにちょっと手を上げると、若々しい機敏な足取りで建物の中へ消えた。それを追ってエイルが、待ちきれないとばかりにいそいそ段を上がる。セレスティンが慌てて続き、最後にカゼスが、一番下からうんざりした顔で段を見上げた。

「……年寄りに優しくない」

 ぼそっと独りごち、どこかに楽な抜け道はないかと見回してから、渋々と足を上げた。

「ラウシールの聖堂だって言うなら、何もこんなに高い位置に造らなくてもいいじゃないか。慈悲深いとかなんとか崇め奉るぐらいなら、よろよろの年寄りでもよちよち歩きの子供でも、楽に入れるように設計すれば良かったのに。そういう発想はないのかね」

 ぶつくさぶつくさ。ぼやきながら階段を上るカゼスに、後ろから追いついた誰かが面白そうに同意した。

「ああ、もっともな意見だね。でもまぁ、魔術が使えなくなるなんて事態は誰も予想しなかったんだろうさ」

 他人に聞かれているとは思わなかったカゼスは、ぎょっとすると同時に赤面して振り返る。日焼けした褐色の肌の青年が、口元に笑いの気配を漂わせて立っていた。黒髪だが、海の民の特徴は薄い。その逞しい肩の上に、光学迷彩の揺らぎが陽炎のようにうっすらと見えた。おや、とカゼスが目をしばたたくと同時に、青年はチャリッと音のする革の巾着を差し出した。

「落とし物。あんたのだろ?」

〈ヤンノさんからの遣いです〉リトルが注釈をくれた。〈言っておきますが、私は辞退したんですよ。ええ、お金はともかくもうひとつの方はね。ですが私には物理的な手段でもってヤンノさんの行動を阻止することは出来ませんので致し方なくて〉

 珍しく言い訳がましいリトルの台詞を聞きながら、カゼスは当惑顔で礼を言って手を差し出す。リトルの警告を受けたヤンノが、律義にもイブンから預かった金をこちらに届けてくれたのだろう。この青年には見覚えがないが、船にいた水夫の一人か。それは良いのだが『もうひとつ』とは何だ?

 と、青年はカゼスの手に巾着を渡しかけ、宙でぶらぶらさせた。

「わざわざ港で拾って、ここまで追いかけて来たんだぜ。礼をくれてもいいと思うんだけどな」

「……はい?」

「俺さ、あんたの財布に気を取られたせいで、大事な積み荷を海に落っことしちまって、クビにされちまったとこなんだよねぇ」

 恨み言にしては、あっけらかんとした口調だ。むしろ何やら不吉な図々しさがある。よもやまさか、とカゼスが眉を寄せると同時に、青年は満面の笑みを広げた。

「でさ、あんた、荷物持ちとか要らねえかな?」

「………………」

 がくりと肩を落とし、カゼスはうなだれた。要らない、というのが正直なところだが、ヤンノの差し金だとしたら、断ってもしつこくついて来るだろう。カゼスは頭痛を堪えて眉間を押さえた。

「あのですね。実のところ、そんなにほいほい人を雇えるほど、懐に余裕がないんです」

「えぇ? 俺は安いよ。贅沢言わないしさ、そこを何とか」

 頼み込むふりで青年は身を屈め、うんと小声でささやいた。

「船長から金を貰ったんだ。あんたは何も支払わなくていいよ」

「いや、あの……」

 邪魔なんですけど。こんな体格が良くて声の通る兄ちゃんがついて来たら目立つし。

 そんな本音をどう婉曲に言ったものかとカゼスが悩んでいると、青年は「よっし、じゃあそれで決まりだ!」などと笑って彼の肩をぽんぽん叩いた。

「ちょっと待って下さいよ、私は何も」

 決めてなんかいない、と言い返そうとした途端、カゼスの足が宙に浮いた。

「ぅひゃっ!?」

 奇声を発したはずみに舌を噛みそうになり、慌てて口を閉じる。あろうことか、青年はカゼスを軽々と抱え上げ、肩に担ぐようにしてひょいひょいと階段を上がり始めたのである。抗議しようにも何しろがくがく揺れるものだから、一瞬も口を開けていられない。カゼスが「下ろせ」の「お」も言えずにいる内に、青年はてっぺんまで登りきってしまった。

「ほい、到着。な、雇って得したろ?」

 カゼスを下ろし、青年は悪気のない笑顔でそんなことを言った。が、当のカゼスはその場にしゃがみこんでいる。

「麦の袋じゃ、ないんですから……うぅ」

「ありゃ、これしきで酔っちまったのかい? ああ、そう言やあんた、船でもげえげえやってたなぁ」

 忌まわしい過去をけろりと持ち出されて、カゼスは地面に沈み込みそうになった。

「大丈夫ですか? カゼス様」

 セレスティンがやって来てカゼスを気遣い、それから警戒の目を青年に向けた。

「あなたは誰です?」

「俺はナーシル。今さっき、荷物持ちに雇ってもらったところさ」

「……つまり私は荷物ですか」

 下の方からカゼスがうめく。ナーシルは愉快げに笑った。

「そうじゃないけどさ。階段に文句たらたらだったから、運んでやったんじゃないか。それで、この別嬪さんはどちらさんですかね」

 おどけて問うたナーシルに、セレスティンは眉を上げ、冷ややかに短く答える。

「セレスティン=ライエル。『長衣の者』の長です」

「へぇ、お偉いさんなんだな。ま、ひとつ宜しく」

 ナーシルは相手の肩書にも怯む様子なく、自然に手を差し出す。セレスティンは毒気を抜かれて握手を返した。その時になってようやくカゼスが立ち上がり、ため息まじりに言った。

「ナーシルさん、折角ですけどあなたの助けは……」

「必要ない? そうかなぁ。荷物運びだけじゃなくて、腕っ節には自信があるんだぜ。魔術が使えない魔術師にとっちゃ、ありがたいんじゃないのかい」

 ナーシルは朴訥さを装って小首を傾げたが、言外の意味はカゼスにも分かった。正体が総督にばれて面倒なことになりそうだ、というリトルの伝言を、ヤンノは深刻に解釈したに違いない。ナーシルは必要とあらば力ずくでカゼスを救い出すために遣わされたのだ。

 どうしたもんかな、とカゼスは顔をしかめて考え込んだ。

 そこへ、途中で全員に追い越されたエイルが、息切れしながらやって来た。

「ぜぃ、はぁ……カゼス、君、何だか知らないがツイてるね。ふぅ」

「悪いね」ナーシルが苦笑して振り返る。「あんたの姿も見えたんだけど、流石に二人担ぐのは無理だからさ」

「一人でも大したものだよ」

 エイルはそう答え、丸眼鏡を押し上げてナーシルを値踏みするように眺めた。

「で、彼は?」

 問いはカゼスに向けたものだ。カゼスはセレスティンの耳を意識しながら、曖昧な表現を選んで答えた。

「ヤンノさんが私たちの忘れ物を届けるように、寄越して下さったみたいです」

「追い出された、って方が近いよ」ナーシルが言い添える。「だから荷物持ちに雇って欲しいんだけどさ」

 エイルは二人を交互に見つめ、事情を察したらしく、おもむろにうなずいた。

「いいんじゃないかい」

「えぇ?」

 思わず不満の声を上げたカゼスを、エイルは「まぁまぁ」となだめる。

「実際、私たちだけでは重い荷物は運べないし……幸い今のところは荷物も少ないがね、しかしこの先、どんな買い物をすることになるか、分からないだろう?」

「……あなたがそう言うなら」

 渋々カゼスも承諾し、胡散臭げにナーシルを見やった。身辺警護となると、どうしてもアーザートの事を思い出してしまうのだ。このやたら陽気な青年も、実は腹の中は真っ黒なのではないかと疑いたくなる。

 そんなカゼスの心中を知ってか知らずか、ナーシルは子供っぽい仕草で両手を上げて喜んでいた。

 ともあれ聖堂に足を踏み入れた途端、不安も懸念もカゼスの頭からすっかり抜け落ちた。まず天井の高さに唖然とさせられ、次いで荘厳な装飾に目を奪われる。柱の間に置かれた彫刻や、壁際に並んだ展示品に気が付くのは、その後だ。

 カゼスとエイルは絶句したまま、ぽかんとそこいらを眺め回した。セレスティンに導かれるがままに、惚けた様子で展示台に近付く。

 流石にガラスケースということはなく、大半の史料は剥き出しのまま、木や石の台に据えられている。皇帝エンリルの剣や宝冠、名だたる武将たちの用いた武具、愛馬の装具。当時の書類や手紙。

 それらを目にする内に、カゼスの胸は痛み、喪失感が募った。どれも皆、懐かしい。だがこの古びようはどうだ。たった五年前に目にしたものが、これほど傷み、色褪せて。

 しばらくしてカゼスは、展示台に張り付いているエイルを残し、その場を離れた。天井を仰ぎ、柱の間を行き交う人々を眺める。

 ぼんやりそうしていると、セレスティンがやって来てささやいた。

「ご覧にならないのですか?」

 思い出があるでしょうに、と言いたげな表情に、カゼスは苦笑を返した。

「なんだか、自分がいきなりものすごい年寄りになった気がするもんで。今さら見なくても、あの頃には当たり前に目にしていたものばかりですしね」

 セレスティンは曖昧な表情になり、そうですか、とうなずくにとどめた。その横顔を見やり、カゼスはおどけて言った。

「こんな聖堂を建てて貰えるような大人物が、ここでぼんやり突っ立って年寄り臭いこと言ってるなんて、なんだか奇妙ですね。あなたも私と出会わなければ幻滅せずに済んだのに、悪いことをしてしまったかな」

 にやっとしたカゼスに、セレスティンは「まさか」と首を振った。

「勝手な想像をしていた私たちの方こそ失礼なんです。第一、幻滅だなんて……ラジーを助けて頂けたこと、本当に感謝しております。そうでなくとも、カゼス様にはどこかしら不思議な力を感じますから」

 思いがけない言葉に、カゼスが眉を上げる。セレスティンは真顔で続けた。

「力と言うか、何か……特別な空気です。私は……あなたを、よく知っているような気がしてならないんです」

 ためらいながらもそう言い、彼女は顔を上げて真っすぐにカゼスの目を見つめた。

(ああ、確かに知っている)

 カゼスの意識にも、確信が生じる。何の理由もなく、相手と自分とが近しいものだと分かった。同じ魔術師の長という立場にあるというほかは、年齢も出身も経歴も、何も類似したところなどありはしないのに。

「そうですね」カゼスは半ば無意識に同意した。「私があなたを知っているように思うのは、五年前に一度あなたの姿を見たことがあるからなんですが…… あなたの方でもそう感じるというのは、何か因縁でもあるのかな」

「五年前に?」

 セレスティンが飲み込めない様子で聞き返す。カゼスは「ええ」とうなずいた。

「何か書き物をしている所でした。今の姿とあまり変わらなかったんじゃないかな。だから、あなたにとっては最近のことかも。ああそうだ、その時、あなたの方も私に気が付いたようでしたね」

「まさか、ではあれはラウ……あなただったんですか? あの嵐の日に『目』の気配を感じたのは」

 ラウシール、と言いかけたのを飲み込み、セレスティンは目を丸くする。カゼスは苦笑しながら答えた。

「あれ、と言われても私にはわかりませんけど、何か心当たりがあるのなら、多分そうでしょうね。どうしてあなたと接触したのかは分かりませんが」

「私……そうです、あの夜の事ははっきり覚えています。誰かに見られていると感じたのですが、その感覚がなんだか……とても懐かしくて」

 セレスティンは心持ち赤面し、目を逸らしてもごもご言った。カゼスはちょっと頭を掻き、はて、と首を傾げる。

「その時も、今と同じぐらい『場』が近付いていたのかも知れませんね。でも……おかしいな、『場』そのものが近いにしては、作用が釣り合わない」

 もしカゼスを呼んだ声と、レントでの魔術師の失踪が同根の現象であるとすれば、どうにも奇妙な話になってしまう。こちらへ引き寄せられたのはカゼス一人、対して数十人の魔術師が、どこかまた別の所へ消えている、とは。

 しばし考え込んだ後、カゼスは不意に顔を上げて言った。

「失踪した魔術師の部屋を、見せて貰えるんですよね?」

「ええ。もう後任の方が使っておられると思いますが、念のために何か手掛かりを探そうと思って。ああ、カゼス様も手伝って下さるんですか」

 言葉尻で期待に声が明るくなる。こちらを信頼しきった表情に、カゼスはなんとも複雑な苦笑を返した。

「そんなに期待されると逃げ出したくなるんで、勘弁して下さい。まぁ……一応、故郷では治安維持のための仕事をしていたんで、こういう調べ物も多少は慣れていますから」

 そこまで話したところで、エイルが興奮に目を輝かせてやって来た。両肩に荷物を提げたナーシルが、後からついて来る。

「エンリル帝というのは実に名君だね!」

 何の前置きもなく、エイルは嬉しそうに声を弾ませた。カゼスが相槌も打たない内に、彼は身振り手振りをまじえて続けた。

「統一だけでもひとつの功績ではあるが、その後の統治が実に良い。治水に潅漑、公共事業に福祉、外交。いちいち例を挙げるときりがない。ともかく弱者の声によく耳を傾け、皇帝だからと権力をふりかざすことはなかったそうだ」

「元から鷹揚な人でしたからね」

 エイルの心酔ぶりが可笑しくて、カゼスはにやにやしながら言った。しかしエイルはカゼスの表情には構わず、いたって真面目に「いやいや」と首を振った。

「生来の気質だけでは、生涯権力に酔わずにいるのは難しいよ。やはり自覚があったんだろうね。自分が恐怖と力で支配を確立したって事に」

「はぁ?」

 カゼスは思わず変な声を上げた。恐怖と力。これほどエンリルに似つかわしくない言葉もなかろう。統一の経過はエイルも知っている筈だろうに。

 疑問顔のカゼスに、エイルは眼鏡の奥から本来の職業人らしいまなざしを向けた。

「君が気付いていなかったとはね。だってそうだろう、彼は結局、強大な皇族の力と、正統の血筋だってことを盾に、旧い帝国の玉座を瓦礫の中から掘り起こして、自らそこに座ったわけだからね。それだけを見れば、旧来の支配者たちと何ら変わらない。たとえ、皇帝の人間性をよく知る人々が大勢いたとしてもね。だからこそ彼は、自分とデニス双方の運命が、先に滅んだ帝国と同じ轍を踏むことのないよう、生涯をかけて新しい道を敷き続けたんだと思うよ」

「はー……なるほど」

 カゼスはまるきり素人の聴衆よろしく、ぽかんとした顔でうなずいた。エイルが苦笑したので、カゼスも自分が馬鹿に見えると気付き、頭を掻いた。

「流石ですね。私はそんな事、考えてもみませんでした」

 言い訳したカゼスに、エイルもくすくす笑って同意する。

「渦中にあって事態を見極めるのは難しいさ。後から振り返ってああだこうだと解説をするのは簡単なことで、偉くもなんともないよ」

「ふーん」

 相槌を打ったのはカゼスではなく、ナーシルだった。彼の存在を忘れていた二人は、ぎくっとして振り返る。陽気な荷物持ちは、相変わらず無邪気な顔でなにやらふんふんとうなずいていた。

〈リトル、彼はどこまで私たちのことを知ってるんだい?〉

 慌ててカゼスが確認すると、リトルも困惑気味の精神波を返した。

〈分かりません。ヤンノさんは船の乗員に真実を明かしてはいないと思いますが、私たちが船を離れた後、私が戻るまでの間に何かを話した可能性はあります。私が聞いた範囲では、ヤンノさんはただ、お客人が困ったことになったようだから、しばらく船を離れて助けてやってくれ、とだけ言っていましたがね〉

〈うあぁ、それだけじゃどうにも判断できないよ〉

 カゼスが心中で頭を抱えると同時に、ナーシルが感心した風情で言った。

「偉くないとか言ってるけど、俺には何の話だか、難しくてさっぱり分からないや。実はあんたら、すごく偉いんじゃないのかい?」

 カゼスとエイルは揃って脱力し、セレスティンが失笑した。ナーシルは口をへの字に曲げて、恨めしげにセレスティンを見やる。

「笑うこたないだろ? そりゃ俺は学がないけどさ」

「ごめんなさい」セレスティンは謝りながらも苦笑している。「でもきっと、あなたが船の話を始めたら、私たちには何の事だかさっぱり分からないと思うわ」

「本当かい?」

 途端にナーシルはもう、ころりと機嫌を直して笑顔になる。カゼスはこっそり安堵の吐息をもらした。

 ちょうどそこへ、アーロンが奥から出てきて手を振った。

「あ、いたいた。ライエル様、ラフスマズさんの部屋が……あれ? ナーシル?」

「やぁ学生さん。俺のこと、覚えてくれてたんだ」

「そりゃ、お世話になりましたから。でもどうしてここに?」

「お客人の荷物持ちさ。なんなら、あんたのも持つから貸しなよ」

 気安く言って、ナーシルはアーロンの鞄を受け取る。あわせて三つの鞄を提げたナーシルは、何やら滑稽に見えた。カゼスはこぼれかけた笑いを飲み込み、素知らぬふりでセレスティンを振り向いた。

「それじゃ、私たちはその部屋を見せて貰うとして、ほかの人はここで待っていて貰いましょうか。荷物を抱えてうろうろさせるのも気の毒ですし」

 ね、とさりげなく提案する。自分の正体はもちろん、魔術師の失踪などという事態をナーシルの耳に入れるべきではなかろう。セレスティンはカゼスの配慮に目礼して感謝をあらわし、「そうですね」と同意した。

「それじゃ」とカゼスは極力自然な調子で続けた。「すみませんけどアーロン、しばらくエイルさんのお守りをお願いしますね。ナーシルさんも」

 言いながら、カゼスはエイルに目配せする。言葉とは裏腹に、エイルにナーシルを見張っていて貰いたかったのだ。要らぬことに鼻を突っ込まれないように。

 しかしエイルは鷹揚に「待ってるよ」と応じただけで、無言の頼みが通じたのかどうか、さっぱり分からなかった。


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