五章 (2) 役者が揃って
約束通り翌日になって正式に『呼び声』のことを報告され、セレスティンはこれまでの調査結果をまとめて総督府へ向かうべく、転移陣の描かれた部屋に向かった。が、この前のような幸運はなく、荒れた力場の前に一瞬で精神を閉ざし、仕方なく渡し舟に乗った。
「エンリルが文句を言うのも分かるわね」
湖面を渡る風に吹かれ、セレスティンは小声でつぶやいた。まだ雪の残る山々の頂から吹きおろす風は、容赦なく冷たい。対岸の町に出ると、役所の転移装置に向かった。受付の者はセレスティンの顔を見ただけで使用を許可し、何も訊かずに係に向かって「デニス総督府」と行き先を告げる。
(他所に行きたいと言ったら仰天するでしょうね)
皮肉っぽくそれを眺め、セレスティンはため息を押し殺した。実際、彼女がここを利用するようになってから、総督府以外の場所へは行ったことがないのだ。
装置の操作は完全に孤立した別室で行われている。魔術師であっても、王国政府の許可がない限り、中を覗くことはできない。純粋な魔術によるものとは異なる転移陣の描かれた部屋に入り、ただじっとしているだけだ。
ジジッ、と髪が焦げるような嫌な感覚がして、セレスティンは顔をしかめた。装置が作動すると毎度これだ。彼女が装置を好きになれず、可能な限り自力で転移しようとするのは、何も魔術師としての自負心だけが理由ではない。
ブゥン、と唸りが室内の空気を揺らし、陣がめまぐるしく輝く。バッ、と一瞬の閃光が視界を覆い、それが消えると、似たような、しかし別の部屋に立っていた。
「ああ、気持ち悪い」
こめかみがチクチクする。セレスティンは堪えきれず声に出してぼやき、急いで部屋を出た。総督府の受付へ向かい、またしても面会を申し込む。『長』から『総督』へと。
(今度はどのぐらい待たされるかしらね)
前よりも忙しなく見えるホールを見回し、セレスティンはため息をついて近くのソファに腰を下ろした。
同じ頃、レムノスの港で明らかに観光客と見える二人組がぽかんと大口を開けていた。
「うわー……」
「これは凄いね。素晴らしい都だ」
言うまでもなく、前者はカゼス、後者はエイルである。アーロンはそんな二人を見て苦笑し、鞄を肩に掛けた。
「あんまりぽかんとしてると、スリとか置き引きに狙われますよ。それじゃ船長、ちょっと行って来ます」
「ああ、気をつけて」
ヤンノは鷹揚に手を振り、三人を見送る。カゼスはまだきょろきょろしながら、アーロンの後について行った。前に訪れた時とは、格段に規模が変わっている。王宮そのものも増築されているし、街の建物もより高く、洒落たものへと変化していた。
リトルは光学迷彩で姿を消し、早速とばかりあちこち飛び回っている。エイルの視線も負けず劣らず忙しそうだ。少し歩いてから、アーロンは結局足を止め、やれやれと振り返った。エイルはそれにさえ気付かず、危うく少年と正面衝突しそうになってたたらを踏む。なんとも情けない。
「お二人とも、観光なら後でゆっくり案内しますから。とにかく先に総督の署名をもらっておかないと、何かあった時に保護が受けられません。きっちり口を閉じて、迷子にならないようについて来て下さい。いいですね?」
随分年下の少年に叱られ、カゼスとエイルは揃って「はい」と恐縮したのだった。
総督府は王宮の――否、かつての王宮の、一部が使われていた。入り口からほど近い所にある迎賓館だ。他の建物は観光用に開放され、カゼスたち同様ぽかんと口を開けた人々がぞろぞろ見物している。カゼスはその姿に己を重ね、恥ずかしくなって慌てて前を向いた。何度も訪れたことがある場所ではないか。何をいまさら珍しがることがあろう。
とは言え、彼の場合は単に珍しいからではなく、懐かしさもあって目を奪われるのだ。なかなか視線を一定させるのは難しかった。
(ああ、あそこ、初めてここに落ちてきた時に歩いたのは、あの辺じゃないかな)
アテュスやアムル、あるいはエンリルやカワードたちの影が、そこかしこに見える気がした。だが、そう思って懐かしくそこらを眺めていると、いかめしい制服姿がどうしても目についた。観光客なら無視できるが、彼らは存在感がありすぎる。
「なんだか……警備の人ですか? やたら大勢いるように見えるんですけど。観光史跡にしては、ものものしくありませんか」
こそっ、とアーロンに尋ねる。するとアーロンはこともなげに答えた。
「ああ、ずっと奥の方には皇家の方々がお住まいなんです。だから警備が厳しいんですよ。あの人たちは親衛隊で、軍の中でも選りすぐりの精鋭だって話です」
軍、と聞いて怯んだカゼスの代わりに、エイルが呑気に言った。
「それは素晴らしい。それじゃ、壁に落書きする人もいないだろうね」
カゼスは思わず失笑し、それから不意にこの場所が愛しくなって、うなずいた。
「そうでしょうね。そうだといいな」
柱の一本一本、階段の一段一段に、思い出がある。そこにエンリルが立っていた、あそこでカワードとウィダルナが笑っていた、あの段をフィオが駆け降りていた。
そんな場所に無遠慮な落書きなどされたのでは、堪ったものではない。
懐かしむ目をしたカゼスに、アーロンが小声でささやいた。
「行きましょう。僕たち、ちょっと目を付けられてるみたいです」
「え? どうして」
きょとんとしたカゼスに、アーロンは眉をひそめて首を傾げた。
「分かりません。でも、なんとなく他と違うって勘付かれてるみたいです。ああいう人たちは、人を見る目が鍛えられていますから。とにかく用事を済ませないと」
「……そうですね」
言われてみると、なんとなく警備兵がこちらを睨んでいるように思われる。カゼスは強いて平気な顔を装い、歩きだした。そこへ、目には見えないがリトルが戻って来た。
〈敷地内の構造は把握しました。以前よりも拡げられた部分はありますが、大部分は昔のままです。いざとなったら地下にでも逃げ込めますよ〉
〈そんな事にならないように祈るよ〉
カゼスは渋面になり、行く手を見据えた。観光とは無縁らしき人々がぞろぞろと出入りする建物。屋根の上に、五百年前と基本的に変わっていないデニスの旗がひるがえっている。青地に白い小さな星形と、翼を広げた鷲。だがそれよりも高い位置には、見たことのない赤と緑の旗が揚がっていた。
(属州、か。あれがレント王国の旗ってわけだ)
ふむと考えてから、カゼスはふと不思議な気分になった。
(そう言えば、誰が第四惑星をレントって命名したんだろう?)
確かその由来は、失われた大陸の伝説だったはずだ。かつて第三惑星上にあり、海に沈んだとされる幻の大陸。今ではそれはただの言い伝えで、そんな大陸の名残はどこの海底にもないと判明しているのだが。
(偶然にしては妙な符丁だなぁ……レント王国の名は何に基づいているんだろう。何にしろ、そんな質問、ここではしない方がいいか)
総督府の入り口が目の前に迫り、カゼスは意識を切り替えた。
ここに、もう一人のエンリルがいる。あの呼び声と、何らかのかかわりがあるかも知れない人物。
気を引き締めたカゼスの横で、いきなりエイルが階段につまずいて、派手に転んだ。出端を挫かれて気抜けしつつ、カゼスは急いで駆け戻る。
「大丈夫ですか? しっかりして下さいよ」
「あいたた……どうも、うっかりして」
エイルは苦笑しながら身を起こし、パタパタと服をはたく。眼鏡を拭いてかけ直しながら、彼は小声でささやいた。
「穏当じゃないね。あそこの警備兵は転んだ私を助けるのでなく、剣を抜きかけたよ。何か怪しい細工をするとでも思ったみたいだ。名残惜しいが、用だけ済ませて早々に立ち去ろう」
そこまで言い、彼は落とした鞄をきょろきょろ探して、「いやはや」と照れ臭そうなごまかし笑いを浮かべつつ肩に掛けた。たまたま目撃していた通行人がくすくす笑い、エイルは「お騒がせを」とぺこぺこする。
「さ、行こう」
恥ずかしいから、とばかりにエイルはカゼスを促し、そそくさと階段を上った。一方カゼスは、どんな顔をしたら良いのか分からず、警備兵の視線を意識しながらその後を追いかけ、本当につまずいて危うくこけかけた。
建物の中に入ると、アーロンが受付で用件を告げているところだった。短いやりとりの後で、彼は二人の所に戻ってくると、「あっちです」と奥を指した。
「来客中だそうですが、合間に書記の人が署名をもらってくれるだろうから、とりあえず控室で待つように、ですって」
「了解。内部は随分改装されたみたいだね」
カゼスはぐるりを見回して半ば独り言のようにつぶやいた。内装もそうだが、総督府として使うためにより実務的な造りになっている。アーロンが「シッ」と小さくささやき、二人を案内した。
控室には、書記官一人のほかに誰もいなかった。
「ご用件は」
書記、つまりハキームは鋭い目で三人を観察し、短く問うた。アーロンが調査の許可証となる書類を差し出し、署名が欲しいとの旨を伝える間、カゼスとエイルは痛いほどハキームの視線を感じ、しゃちこばっていた。
〈明らかに疑われてるね。まずいなぁ〉
〈アーロンさんは学生に見えるとして、あなた方はそうではありませんからね。エイルさんは学者らしくは見えますが、それならば年長の彼が責任者として許可を取りに来るのが普通でしょうし、あなたに至っては……さて、どう見られていることやら〉
〈総督のお姿をちらっと拝見したいんですけど、なんて言い出せそうにないなぁ。扉の隙間から見えないかな〉
〈……なんとなく、厄介な展開になりそうな気がして来ましたよ。あなたの毎度の不運ぶりからして〉
〈おまえの『気がする』ってのは確率の計算に基づいてるんだろ? やめてくれよ、縁起でもない〉
〈カゼス、言ってる事が矛盾してますよ。気が付いてますか〉
知らないよ、とカゼスが言い返したと同時に、ハキームがアーロンの書類を受け取り、カゼスたちに厳しい目を向けてから「しばらくお待ちを」と立ち上がった。
奥に続く扉をノックし、入室の許可を求める。
入れ、と短く応じた声に、カゼスはぞくっと身震いした。その隙に、ハキームは素早くドアの向こうへと消える。首を伸ばして覗き込む暇もなかった。
中で何やらやりとりする声が聞こえる。カゼスとエイルは顔を見合わせると、無言のままどちらからともなく、そろそろと抜き足差し足、扉ににじり寄った。アーロンが目を丸くし、慌ててささやく。
「ちょっと、お二人とも、やめて下さいよ! そんな事して、見付かったら」
どうするんですか、と言い終えるより早く、ドアが開いた。エイルは避けたが、カゼスは扉に頭突きをしてしまい、よろけて書記の机に寄りかかる。
「あいたたた」
顔を覆いつつ、カゼスは指の隙間から奥を盗み見た。驚いた様子の青年が一人、立ち上がってこちらを見ている。その向かいに座る若い娘。
それだけ見て取った瞬間、
「ハキーム! そいつを押さえろ!」
青年が命じ、ほとんど同時にハキームがカゼスの首をつかんで机に押し付けた。
「カゼス!」
反射的にエイルが叫ぶ。その名に弾かれたように、奥で娘が立ち上がった。
一人冷静な書記だけが、無慈悲にカゼスを押さえ付けたまま、不愉快げに唸る。
「……で、何者ですか、彼は」
カゼスはじたばたしたが、ハキームの手は書記とは思えぬ力強さでカゼスを締め付け、抵抗を許さなかった。
「痛、いたたたた! ちょっ、痛いって! 離して下さい!」
手を後ろへ回して闇雲にハキームの腕を掴んだが、首を押さえつける力は微塵も揺るがない。あまりの痛さになりふり構っていられず、カゼスは絞め殺される鶏さながら、じたばた暴れた。
「エンリル、やめて! この人は……」
「下がるんだ、セレ。前に言ったろう、誰かがいる、と」
頭上で交わされる会話が、やけに遠く感じる。どうやら頸動脈を絞められているらしく、視界が暗くなってきた。
「痛いって……っ、ああもう!」
カゼスはとうとう自棄になり、『力』を無理やり引き出した。
精神を開いたのはわずか一瞬。髪ひとすじほどの隙間から引き出した力は、ほんの一滴。だが、それでも効果は予想以上だった。
閃光が弾け、突風がハキームを壁に叩きつける。机上の物が全部吹き飛ばされ、壁に当たって砕けた。ドアがちぎれんばかりの勢いで開き、蝶番が外れてガタンと傾く。煽りをくって、エイルやアーロンまでもがよろめいた。
「うー、いてててて」
当の本人はと言うと、目に涙を溜めて床に座り込み、真っ赤になった首をさすっていた。愕然としていたエンリルがまず我に返り、ハキームに駆け寄る。
「ハキーム! しっかりしろ、大丈夫か」
同時にエイルがカゼスに駆け寄り、助け起こした。
「逃げた方が良さそうだ。早く!」
ささやかれ、カゼスはまだ目をしょぼしょぼさせながら立ち上がる。だが、忠告に従いはしなかった。吹っ飛ばしてしまった相手が心配だったのだ。ここで怪我人を放置して逃げたら、自分の立場が悪くなるだけではない。アーロンはもちろん、ヤンノから果てはイブンにまで迷惑をかけてしまう。
そしてまた、ハキームを気遣うエンリルの後ろ姿が、カゼスに確信を抱かせた。
(この人だ。何回も姿が見えたのは)
「あの」
口を開きかけた途端、エンリルが燃えるような目で振り返った。
そのまなざしの厳しさに怯んだものの、カゼスは自分でも意外なほど、すぐにそれに慣れてしまった。何しろ、顔立ちが顔立ちだ。あのエンリルと―― かつてデニスを統一した少年と、眼前の青年は、瓜二つだった。違いと言えば、このエンリルの方が少しばかり年かさで、あのエンリルにはなかった覇気のようなものを備えているぐらいか。
「そんなに睨まないで下さいよ。そもそも、いきなりあんな手荒な真似をする方が悪いんじゃありませんか。私が何をしたって言うんですか」
まったくもう、とぶつぶつぼやきつつ、ハキームに歩み寄る。エンリルが警戒して行く手を阻んだが、カゼスはため息をついて邪魔だとばかり手を振った。
「どいて下さい。咄嗟のこととは言え、怪我させてちゃ寝覚めが悪いですから」
「何をする気だ?」
「手当するんですよ。それとも、あなたがしますか?」
遠慮のない物言いになるのは、つい二人のエンリルを重ねてしまうからだ。カゼス自身はそうと分かっていたが、エンリルは無論、そんな事は想像もつかない。当惑し、警戒を解けずに立ち尽くしている。
「エンリル、どいて。あなたが何を勘違いしたか知らないけど、この人は……あなたが思っているような人じゃないわ」
横から言ったのはセレスティンだった。カゼスは彼女を振り向き、あっと目をみはる。
「あなたは」
無意識に言葉がこぼれた。セレスティンが振り向き、目と目が合った。
だが今回は、あの不思議な共鳴はなかった。セレスティンがすぐに目を伏せ、頭を下げたからだ。エンリルはそんな彼女の態度に不審げな顔をしたものの、渋々とハキームの前からどいた。
カゼスはひとまず不運な書記に注意を戻し、頭にそっと手を載せた。『力』を使っての治療は出来ないが、精神体での作業なら可能だ。精神の糸を細く縒り、送り込む。すぐに支障のないことが分かり、カゼスはホッとして手を離した。
「大丈夫ですね。たんこぶは出来るかもしれませんけど。やれやれ、良かった」
言うと同時に、ハキームが小さくうめいた。エンリルがカゼスを押しのけ、しゃがみこむ。その場で一番気が利いていたのはアーロンだろう。奥に入って水差しを見付けると、手拭を濡らして差し出したのだ。
ハキームは礼を言って受け取り、自分で後頭部にあてがった。それから彼は、心配そうに自分を囲む面々を見回し、いまいましげに言った。
「どうやら、私ひとりが貧乏くじを引いたようですね」
その発言に、全員が失笑する。それでますますハキームは機嫌を損ねてしまった。あち、と顔をしかめて立ち上がる。皆に気遣われても、彼はより渋面になっただけだった。
「カゼス、これを」
後ろからちょいとつつかれ、カゼスが振り返ると、エイルが自分の手拭を差し出していた。アーロンにならって、水で濡らしてある。カゼスはありがたく拝借し、首に当てた。自分で治療出来なくもないが、後で戻ってくる疲労を考えると、少々の痛みは我慢した方が良いと思われたのだ。
ハキームがそんな彼を見下ろし、なんとも複雑な声で言った。
「失礼しました。お互い、間違った命令のために要らぬ傷を負ったようですね」
「あ、いえ、気にしないで下さい。まさか書記さんがこんなに強いなんて思わなかったもんで、びっくりして……」
カゼスは苦笑し、大丈夫、というしるしに手を振った。ハキームがちらりと上司を見やり、カゼスもその視線を追う。二人の負傷者に見つめられ、エンリルは苦々しげに、それでも一応は頭を下げた。
「すまん、ハキーム。それと、誰だか知らないが……ともかく、謝罪する」
そのしかめっ面に、カゼスは思わずふきだしてしまった。かつてのエンリルがこんな顔をする所は、見たことがない。冗談で渋面を作ることはあったが、こうもくっきり「いまいましい」と大書された顔などは、一度も。
くすくす笑うカゼスに、一同が不審げなまなざしを向ける。カゼスはそれに気付くと、慌てて「失礼」と詫びた。
「総督が、私の知人とよく似てらっしゃるもので、つい」
「知人?」
エンリルが眉を寄せると同時に、セレスティンが言った。
「まさか、皇帝エンリルその人ですか」
何だって、とエンリルがセレスティンを振り返る。カゼスは彼女を見つめ、ちょっと困った風情で頭を掻いた。どうやら相手には、完全にこちらの正体がばれているらしい。
「……どうします?」
ぼそっ、とエイルにお伺いを立てる。エイルは肩を竦めた。
「ばれてるんじゃ、仕方ないだろうねぇ。まぁ最初から、隠し通せないだろうと予想はしていたよ」
言うだけ無駄に決まってるじゃないか、と言った時と同じ、諦めと笑いのまじった口調だ。カゼスはげんなりした。干渉するなと禁じる一方で、まぁ無理だろうが、と突き放す。委員会も治安局も、いったいどうしろと言うのか。やれやれまったく。
カゼスはひとつため息をついてから、セレスティンに向き直って答えた。
「ええ、そうです。五百年も経ってそっくりさんがいるなんて、ちょっと信じられない偶然ですけど。背格好も顔立ちも声も、私が覚えているエンリル様そのものですよ。顔つきや表情は全然違いますけどね」
途端にエンリルが、ほとんど憎しみと言って良いほどの怒りを見せた。カゼスは慌てて言葉をつなぐ。
「私は事実を言ってるだけですよ。あの人と一緒じゃ、何かと堪らないでしょうけど」
「ふざけるな!」
怒声に頬を張り飛ばされ、カゼスは首を竦めた。エンリルはカゼスに詰め寄り、胸倉をつかみ上げて唸った。
「貴様は自分が何を言っているか分かっているのか? 悪ふざけも大概にしろ、何を企んでいる!」
言いざま、彼は怒りに駆られてカゼスの頭を覆う布をむしり取った。髪の数本も一緒に引き抜かれ、いてっ、とカゼスが小さく叫ぶ。
エンリルが息を飲んだ。そして、その手から力が抜けていく。カゼスは自由になると急いで数歩下がり、安全圏まで逃げてから髪に手をやった。
「ああ、せっかく隠して貰ったのに……」
「まさか」エンリルが喘いだ。「本物なのか?」
カゼスは眼前のエンリルを眺め、気の毒になった。ただでさえ同名で、しかも末裔で、デニス総督などという地位にいて。そこへもってラウシールなどが今更のこのこ出て来たのでは、発狂ものの事態だろう。
「あー……」
しばし言葉を探し、それからカゼスは何とも妙な言葉を口にした。
「ご愁傷様です」
エイルがふきだし、アーロンが慌てて口を押さえた。セレスティンは苦笑を堪えて唇を引き結んでいる。
いささか滑稽な沈黙があってから、ハキームが咳払いした。
「ともかく、中に入って頂いてはどうですか、総督。ちょうどお話し合いの件とも無縁ではないようですし。その間に私は、新しいお茶を用意してドアを直すように言っておきますので」
「……頼む」
エンリルはそれだけ言うと、よろよろと奥へ入り、ソファに沈み込んでしまった。




