五章 (1) 師弟の不安
高地の学府は、春の今も日が落ちれば冷える。とは言えラジーが暖炉に薪をくべているのは、それが理由ではなかった。青い顔で震えている師のためである。
「どうです? 何か分かりましたか」
ラジーはささやき、セレスティンの肩にショールを掛けた。精神を飛ばすと、どうしても肉体は冷えてしまう。セレスティンは老婆のように暖炉の前に座り、青白くなった指先を火にかざした。
「あんまり。でも、確かにラウシール様がいらっしゃる手応えは感じたわ。どこか……荒れた海のような気がしたけれど、精神界のことなのか、現実の海なのか」
初めてラウシールと遭遇した日以来、師弟は時間を見付けてはこっそりと、再び出会えないものかと精神を飛ばしていた。もちろん探索はセレスティンの役目であり、ラジーは人が来ないかを見張り、かつ師の体が冷えきってしまわないように世話をしているのだ。
魔術師の相次ぐ失踪の件も調査せねばならず、なかなかラウシール捜しの機会は作れなかったが、それでも今までに数回は試していた。そのいずれも何ら反応が得られなかったことを思えば、存在が確認できただけでも良しとすべきだろう。
二人はまだ、誰にもラウシールの事を話していなかった。左右の輔官にさえも。今この時代にラウシールが現れ、なおかつそれがいまだ秘せられていることの意味が、よく分からなかったからだ。
「前よりも、地図上では近づいていると思うわ。でも、本当にラウシール様なのかどうか確信が持てなくなってきたわね。もし本物なら、現状を見て何もなさらない筈はないでしょうし、何かされたなら……私たちにも分かる筈だもの」
セレスティンは言って、ラジーを振り向いた。弟子の黒い瞳には暖炉の火が映り、ちらちらと幻想的に瞬いている。ラジーは困惑顔で首を傾げた。
「ラウシール様でも、どうしようもない、とか」
だったらお手上げだ、とセレスティンが言おうとしたところで、不意に足音が聞こえた。師弟はハッと口をつぐみ、耳を澄ませる。深夜の廊下をこちらへ向かって来る。今から逃げようとしても、暖炉でこれだけ火が勢いよく燃えているのではごまかせまい。
じきに足音が戸口で困惑したように止まり、遠慮がちに誰かが室内を覗き込む気配がした。セレスティンとラジーは暖炉の前から、悪戯の現場を見付かった子供のように、首を竦めて上目遣いに様子を窺う。
「おや……長殿。ラジーも一緒に、こんな所で何を?」
眠そうな目をしばたたいたのは、ヴァフラムだった。セレスティンは「ちょっと」と答えにならない言葉でごまかし、相手に質問を投げ返した。
「あなたこそ、こんな時間にどうしたんです? 何か危急の事でも?」
「だったら今頃、長殿の寝室を訪って不在に慌てふためき、学府中を叩き起こしているよ。少し、寝付けなくてね。なんとなく……誰か、いや、何かの気配がしたようで、気になって廊下を覗いてみたら、遠くに明かりが見える。これはしたり、と慌てて火の元を確かめに来たわけだよ」
「それは……遠出をさせて申し訳ありませんでした」
セレスティンは苦笑まじりに詫び、立ち上がった。ヴァフラムが小さく震えたのを見て、火の前を空けたのだ。
「おやすみになれないのでしたら、少し当たって行かれます?」
「お言葉に甘えて。ついでにブランデーでもあれば文句はないんだがね。昔はちょいと手を一振りすれば、ぽんとグラスが出てきたものだが」
おどけて言い、ヴァフラムは火の前にクッションを引き寄せて座った。もちろん、昔だとてそんな便利な魔術はない。ブランデーをしまってある棚に転移陣を描いておけば別だが、魔術師とて無から有を生み出すことはできないのだから。
セレスティンはくすくす笑い、新しい場所に腰を落ち着けて火を眺めた。
「このところの疲れで、神経がたかぶっているのではありませんか」
「かもしれんね。自分がそんなに繊細な性質とは思えんのだが、どうも……ここしばらく、妙な感覚がして、かなわんよ」
「妙な感覚?」
セレスティンは胸騒ぎがして、眉をひそめた。ヴァフラムは炎を見つめたまま、いつもの癖で顎髭を引っ張っている。
「呼ばれている。行かなければ、とね」
「……! まさか、そんな」
セレスティンは息を飲み、青ざめた。ヴァフラムはちらりと彼女に視線を向け、おどけて眉を上げた。意図的に軽い口調で言っているのは確かだ。先日のエンリルとの会話で導き出された推論を、彼もまた聞き知っている。
「さよう、どうやら私の所にも、出奔したい病がどこからか飛んできたらしい。こうなると今は、魔術が使えないことがせめてもの慰めだな。この学府におる限り、寝ている間にふらふらしようとも、湖にはまってずぶ濡れで目を覚ますのが関の山だろうて」
「笑い事ではありません、そんな……原因はわからないのですか?」
「ま、この事態から逃げ出したくなっとるのは事実だがね」
ヴァフラムはなおもとぼけ、肩を竦めた。
「今のところ強制力は持っておらんようだ。その気になったらいつでも逃げて来い、と、誰かが扉を開けて待っていてくれる。そういう感覚と言えば近いな」
誰かが、ということはつまり、
「何者かの意図がはたらいているように、感じられるのですね」
やはりこれは『病気』などではない。そういうことだ。セレスティンは背筋を伸ばした。ヴァフラムも真顔になり、うなずく。
「リュンデ君には訊いたんだがね、彼女には呼び声は聞こえとらんらしい。今までの失踪者の発生順といい、何らかの条件があるのは確かだ。むろん中には、呼びかけて自発的に失踪させるのでなく、物理的な方法で拉致された者もいるかもしれんが、いずれにせよそこにも同じ、何者かによる選別がなされとるんだろう」
その法則はさっぱりわからんが、と彼は肩を竦めた。
「まぁもっともリュンデ君の場合は、書物に没頭しとるところを振り向かせようと思ったら、『そんな気がする』程度の呼びかけでは不足だろうがね。直に頭を殴りでもせん限り、机からひっぺがしてどこぞへ連れ出すことなど出来まいて」
「待って下さい。リュンデには訊いた、って……いつの事です? 二人とも、私には何も言ってくれなかったじゃありませんか」
色をなしたセレスティンに、ヴァフラムは不自然なほど素早く応じた。
「明日にでも話すつもりだったよ。ああそうだ、ラジーはどうかね? 何か感じたことはないかね」
いきなり話を振られて、ラジーはぎょっと身を竦ませた。おどおどと視線をさまよわせ、曖昧に「いえ、僕は別に」ともぐもぐ答える。それは、彼と師匠が隠している別の秘密を気取られまいとしての反応だったが、いかにも怪しすぎた。ヴァフラムは眉を寄せ、少年の方に身を乗り出す。
「本当かね? 師を心配させまいとして、嘘をついてはいかんぞ」
「嘘じゃありません、呼び声なんて、なにも」
そう言ってから彼はふと、悲しい思いつきに目を伏せた。
「きっと僕なんか、呼ばれる価値がないんです」
「何言ってるの」途端にセレスティンが憤慨した。「だったら私もお仲間よ、ラジー。それに、呼んでいるのが善いものなのか、悪霊なのかも分からないでしょうに」
「怖いことを言わんでくれんか」
ヴァフラムが大袈裟に身震いした。セレスティンはわざと厳しい顔付きをして振り返り、鼻を鳴らす。
「長に大事な問題を隠しておくような輔官ですもの。地獄の扉を開けた悪霊に、おいでおいでされても当然です」
「いや、だから明日にでもだね……」
わざとらしいやりとりは、ラジーの気分を変えさせようとしてのものだ。が、当のラジーは二人の田舎芝居を見ていなかった。
「悪霊……」
彼が小声でつぶやいたので、にわか役者二人は失敗を悟って演技をやめた。
「ラジー? まさか本気にしていないわよね?」
セレスティンが心配になってそっと問うと、ラジーは夢から醒めたように顔を上げ、慌てて首を振った。
「あ、すみません。ちょっと、思い出したことがあって」
何か、とセレスティンとヴァフラムが揃って首を傾げる。ラジーは言って良いものかどうか迷いながら、自信なさげに続けた。
「長はご存じですよね。以前エンリル総督が言ってたでしょう、誰かがいるような気がする、って。その時にほら、その『誰か』を指して、悪霊と目を合わせたくはないだろう、って脅かされた事がありましたよね。あの事が、魔術師の失踪と関係があるのかどうか分かりませんけど……」
「そんな事が?」
今度はヴァフラムが責めるまなざしを向ける。セレスティンは首を竦めた。
「ええ、個人的な相談だったものですから。それに、もうその気配は消えてしまったそうですし」
「でもライエル様、失踪が目立ち始めたのと、その気配が消えたのとが、同時期だったんでしょう。もしその『悪霊』が、それまでは様子を見ていたんだとしたら?」
ラジーが珍しく饒舌になっている。自分の考えに取り憑かれたように、遮る間もなく早口でまくしたてた。
「総督にも皇族の力の名残はあります。それが『悪霊』の危険を察知していたんじゃないでしょうか。でも、あの人にも止める力はないと分かって、悪霊が本格的に動き始めたんじゃぁ……」
「待って、落ち着いて、ラジー。何もそうと決まったわけじゃないのよ。悪霊なんて言ったのは言葉の綾。エンリルの時も、今さっき私が言ったのもね。そんなに怖がらないで」
諭されてラジーは我に返り、見る見る真っ赤になった。縮こまったラジーに、ヴァフラムが優しく言葉をかけた。
「得体の知れないものを恐れるのは分かるが、むやみに恐れてはいかんよ。恐怖はそれ自体が危険なものだからね。さて、私はそろそろ失礼しよう。長殿も、あまり弟子に夜更かしをさせんようにな」
ヴァフラムは立ち上がり、最後に炎に手をかざしてから、そそくさと出て行く。その背中に向けて、セレスティンは祈るように言った。
「ヴァフラム。どうか……消えてしまわないで下さいね」
応えが返るまでに、不安になるほどの沈黙が挟まる。
「私もそう願っとるよ」
暗い廊下から届いた声は、夜風のささやきのように微かだった。




