四章 (2) 船旅
船出の時には、生憎と外せない商談があるとかで、イブンは見送りに来てくれなかった。カゼスは心細く思ったが、事前に時間を割いて船長に引き合わせるなど色々と手配をした上、前夜には送別会代わりの宴まで開いてくれたので、寂しいとは言えなかった。
彼はもうクシュナウーズではない。イブンとしての生活があるのだ。妻子もいる。それを二の次にさせることは出来ない。
(それに元々、あっさりした人だったしな)
人と関る時もどこか割り切ったものを感じさせる男だった。それを考えれば、久方ぶりの再会だからとて、べたべたしないのも納得が行く。
カゼスは前回よりも格段に進歩した帆船の縁で、水夫たちの邪魔にならないようにその仕事ぶりを眺めていた。近海をうろちょろするだけだったデニスの船と違い、この船は外洋を渡って各地に商品を運ぶ船だ。時代の経過だけでなく、その使途のゆえに性能が違うのも当然だろう。マストは三本、三角帆も使われ、索具も滑車もはるかに数が多い。
船長は北方でイブンが雇ったという、大柄で無口な男だった。イブンは彼をカゼスに引き合わせた時、名はヤンノだ、と紹介してから、そっと耳打ちした。
「俺の身の上を知っている一人だ。おまえの事も話してある。正体を隠すのに、おまえとお連れさんだけじゃどうにもならんだろうからな」
言われてカゼスは、イブンが見た目よりずっと気働きの出来る男だということを思い出した。カゼスとエイルがのんびりアーロン先生の歴史講義を受けている間に、イブンは積荷にいかにも毛の落ちそうな青い織物を追加したり、時間稼ぎぐらいにはなりそうな偽造旅券まで手配したりと、細々した準備をしてくれたのだ。
その恩を思い、カゼスは遠ざかる陸影をそっと拝んだ。
やがて陸がすっかり見えなくなり、出帆の慌ただしさも一段落した頃、ヤンノが呼びに来た。縦にも横にも並外れて大きなその姿は、まるで今し方消えた陸地の山が追って来たかのごとき感がある。だがその声は静かで穏やかだった。
「お客人。茶でも飲むかね」
「あ、船長。ありがとうございます」
巨体に圧倒されて心持ち後じさりながら、カゼスは笑顔で礼を言った。ヤンノも髭に埋もれた口でにこりとし、ついて来いと言うようにくるりと背を向けて歩きだす。船室に向かう途中で、彼はもう一人の「お客人」つまりエイルにも声をかけた。
ヤンノはアーロンを「学生さん」と呼び、カゼスとエイルのことはただ「お客人」とだけ呼んだ。カゼスという名を、むやみと人の耳に入れないためなのだろう。水夫たちも、名を知らされていないのか、船長と同じ呼び方しかしなかった。
その二人の客人を船長室に招くと、ヤンノは給仕に茶と茶菓子を出させ、自ら菓子を切り分けた。そしてそのまま、何を言うでもなく黙っている。カゼスは野苺のソースを載せた菓子をありがたく頂戴し、拍子抜けしながら相手を見つめた。てっきり、船上生活の心得だとか、正体を隠すための注意十箇条だとか、そんな話がくるものと思ったのだが、どうやら本当にお茶に誘ってくれただけらしい。
大男が黙っていればそれだけで威圧感がありそうなものだが、不思議とヤンノはそうではなかった。それこそ小山のように、その存在が自然で落ち着くのだ。船乗りは荒っぽいものと思い込んでいたカゼスには、ちょっとした驚きだった。
ややあって、何の前触れもなくヤンノが言った。
「今の時季、レムノスまでの航路にはそれほど難儀があるとも思えないが、万一ということがある。最近は風も昔と違うから、予測がつきにくくてね。学生さんは平気なようだが、お二人は船酔いする性質ですかい?」
多分、とカゼスが答えると同時に、エイルが「多少は平気です」と応じる。カゼスは羨ましそうに連れを見やった。どこででも眠れる特技といい、考古学者というのは案外、冒険家にも通じる資質があるのかもしれない。
「多分?」
ヤンノが聞き返したので、カゼスは肩を竦めた。
「あまり船そのものに乗ったことがないんです。前の時はデニス近海だけで、海も荒れたことがありませんでしたし。どの程度の揺れでどのぐらい酔うか、わからなくて。でも多分、乗り物酔いしやすい性質だから、外洋を渡るこの船だと……」
あとは言わぬが花、とばかり、カゼスは言葉を切った。あまり船酔いのことを考えていると、それだけで気分が悪くなりそうだ。しかも今は魔術が使えないので、対処のしようもない。絶望的だ。カゼスの顔色からその内心を読んだらしく、ヤンノは口元におどけた気配を浮かべた。
「なら、もしも嵐に遭った時は、船室で壷を抱えていることですな。間違っても船縁から海に吐こうとしちゃいけませんぞ。波に攫われたら、こちらも助けようがありません」
「ええ、荒れそうだったらおとなしく引っ込んでますよ」
カゼスも苦笑し、「そうならなきゃいいですけど」と付け足した。第一、嵐の中に突っ立っていたのでは、頭の被り物が風にもぎ取られる恐れがある。せっかくエイルが特訓を受けて、イブン並の技を会得してくれたというのに。
それから三人は、茶を飲みながら他愛ない話をして過ごした。ヤンノの故郷、デニスのはるか北の土地のこと。ヤンノの子供時代や、イブンと出会ったいきさつについて。
ヤンノは饒舌ではないが巧みな話し手で、話題は尽きず次々に変わり、そのどれもが時間を忘れるほど面白かった。そんなわけで茶会が終わる頃には、カゼスもエイルも、最初の話が何だったかをすっかり忘れてしまっていた。
が、数日後、嫌でもそれを思い出させる事態がやってきたのである。
予想通り船酔いしたカゼスが船縁にしがみついていた時、怪しげな黒雲が追いかけてきたな、と思ったら、あれよと言う間に嵐に呑み込まれた。
流石に熟練の船乗りたちは、黒雲に気付くとすぐに嵐に備えて走り回っていたが、それでも間に合わないほどの急変だった。カゼスは空っぽの胃袋がまだしつこくのたうつのを恨みつつ、青い顔で船室に避難しようとしていたところで、いきなり叩きつけるような土砂降りを浴びて足を滑らせた。
「あいっち! う……おぶ」
妙なうめきを洩らしつつ、なんとか立ち上がって船室への扉を目指す。中からエイルとアーロンが顔を出し、焦って手招きしていた。吐き気とめまい、それに滝のような雨のせいで、視界がぼんやりして左右も分かり辛い。
それでもカゼスがよたよた進んでいると、背後で鈍い音と共に悲鳴が上がった。反射的にカゼスは振り返り、見なきゃ良かったと後悔した。雨でけぶる視界にもはっきりと、人が倒れているのがわかる。何か落下物を避け損なったのだろう。近くにいた水夫が駆け寄るのが見えたと思った次の瞬間、船に乗り上げた波がその水夫を押し流した。
「こんな時に……くそッ!」
何に対してか唸り、カゼスは船室に背を向けて用心深く甲板を逆戻りした。エイルが喚いているのが聞こえたが、風雨と波の音で内容までは聞き取れない。荒波に揉まれて船が傾く度に、ギギギッ、と不吉な軋みが神経を逆なでする。
また波をかぶっても攫われないよう、カゼスは絶えず何かにしっかりと掴まりながら、倒れたままの人影へ近付いた。
(おまえに何が出来るって言うんだ?)
頭の上から冷ややかな声がささやく。だが、それもそうだと引き返す気にはなれなかった。体が勝手に、負傷者に向かって行くのだ。カゼスは束の間状況を忘れ、皮肉な笑みを浮かべた。
(『内線一本で呼び出せる救世主』か。確かに、散々こき使われたもんな。嫌でも救世主根性が染みつくってもんだよ)
奇蹟的な活躍も、五年も続けば皆、慣れてしまう。救世主だったのは初めの内だけ、しまいには「とにかく師長室に放りこめばなんとかしてくれる」とばかりに、厄介な事態を山ほど押し付けられてきたのだ。
(これで死んだら労災になるかなぁ)
認められたとて、賠償金を託す相手もいないのだが。カゼスはそんな場違いな事を考えながら、じわじわと進み続ける。うつぶせに倒れた水夫は樽にせきとめられ、流されずにすんでいた。カゼスは全身ずぶ濡れでその傍らに座り込み、息を切らせて甲板の赤い染みを見下ろした。用心しながらそっと腕を伸ばし、水夫の首に手をかける。
(魔術が使えなくて、この体たらくで、何が出来るって言うんだ)
今度のささやきはカゼスの胸を冷たく貫いた。
何も出来ることはなかった。
泣きたいのを堪えて、微かにでも拍動が感じられないかと探ったが、脈はぴくとも打たなかった。伏したままの水夫の頭は絶えず雨に洗われていたが、その下に広がる赤い染みは消えることなく鮮やかなままだ。それが示唆する状態を、わざわざ目で見て確かめようとは思えない。
「クソッ!」
噛みしめた歯の間から罵声を吐き捨て、カゼスはがばと起き上がって船室に向かった。
直後、船体が大きく傾いだ。
「うわ……っ、あぁ!」
波が足をすくい、予想外の力で引きずった。一瞬で上下左右がわからなくなり、しまった、と思った時には宙を飛んでいた。
大荒れの海は、さしたる音も立てずに人ひとりを呑み込んだ。もがく手足に衣服が絡み付き、カゼスを下へ下へと引き込んでいく。冷たく暗い、光のない世界へと。
(冗談じゃない!)
こんな所で死ぬなんて。だが必死になればなるほど体は重みを増し、手足は空しく水をかいた。無意識に『力』を頼り、精神を開く。だがそこもまた嵐であり、力のうねりは助けを求めるカゼスの手を無慈悲に振り払った。
(どこかに……何か……)
ほんの一瞬、一筋の力でいい。すぐそこの船室に戻るだけの。
(こんなに何も出来ないなんて)
魔術が使えない状況は前にも経験した。だが今回は相手が違う。自然の猛威を前にして、まさに手も足も出ない。諦めかけたことでようやく少し冷静になり、息が続く内にと、靴や上着など脱げる限りのものを脱ぎ捨てた。わずかながら身軽になり、体が浮き始める。
希望をもって海面を仰ぎ見た時、目を疑うものが降りて来た。
樽が沈んでくる。浮き上がる様子もなく、まっすぐに。
〈カゼス、早くこれに掴まって〉
届いた精神波に驚く間もなく、カゼスは反射的に手を伸ばし、樽にしがみついた。途端に樽は沈むのをやめ、今度はぐんぐん上昇を始めた。
「ぶはっ! げほげほっ、ごほッ!」
海面に出ると、相変わらずの雨が顔を殴りつけた。だが、少なくとも空気はある。カゼスは胸一杯に息を吸い込み、波しぶきを呑み込んでむせ返った。
〈気をつけて。水が耳管に入ったら三半規管がやられますよ。私には手足がないんですから、あなたにしがみついていて貰わないと、どうにもなりません〉
〈分かってるよ〉
泳げる人間でも溺れるのは、衣服や恐慌だけが理由ではない。カゼスは樽にしっかりと腕を回し、ひりひりする目で辺りを見回した。
荒れ狂う波間に、船の姿がちらちらと見え隠れする。樽がゆっくりそちらへ動き出したので、カゼスも足を動かして協力した。
しかし、激しいうねりに翻弄され船との距離は一向に縮まらず、次第にカゼスの体から力が抜けて行く。なんとか浮いていなければという一心で樽を手放しはしなかったが、気が付くと足はだらりと垂れたままになっていた。
〈カゼス! しっかりして下さい、落ちますよ!〉
リトルが刺すような精神波を送りつける。だがそれも、不幸にして慣れてしまったカゼスにとっては刺激にならない。
(疲れたなぁ……暗いし、寒いし……)
そんな言葉がぼんやりと脳裏をよぎっただけ。カゼスは朦朧とした意識の中で、ふと、以前にも沈んだ覚えのある暗闇を探していた。あれはもっと心地良い、星空のような深淵だったが……
(ラウシール様)
小さな小さな声が、玻璃の鈴のように響いた。
もう少し潜れば、あの声が聞こえるかもしれない。懐かしい響き、ふたつの声――
〈やれ、懐かしい〉
と、いきなり全く別種の声が聞こえ、カゼスは半ば閉じかけていた瞼をぱちりと開いた。束の間、自分の状態が分からずに呆然と周囲を見回す。うねりはまだ高いが、雨は勢いを弱め、真っ暗だった空が灰色に変わっている。船影は遠く小さくなっていたが、消えてはいなかった。
まさか、今の声は。カゼスは我に返ると海面を覗き込み、波の下に白い影がひらめきはしないかと目を凝らした。
〈イシル? そこにいるんですか〉
返事の代わりに、すっと体が浮き上がった。海水の一部が乗り物のようにカゼスを支え、ゆっくり動き出したのだ。カゼスは体の下を覗き込んだが、かつて世話になった水竜の姿は見えなかった。
〈儂にはもう力がない。だが汝をそこまで送るぐらいは出来よう。また会えて嬉しいぞ、ラウシール〉
水底から泡が昇るように、微かな声が届く。寝言かと思うほどの小さなつぶやき。カゼスは水竜の老いを痛感した。五百年の時は長い。長すぎた。
〈もっと早くに会いたかったですね〉
〈そうじゃな。だが汝の働きようによっては、儂の命も延びるやも知れぬ〉
〈え? それ、どういう意味……〉
〈汝はラウシールに似て非なる者じゃからな。しかしならぬとて、それもまた流れというものじゃろう〉
カゼスの問いには答えず、ではな、と小さな泡を残して、水竜の気配は消えた。途端にカゼスは溺れかけ、慌てて樽にしがみつく。
「お客人、あと少しだ! しっかり!」
「頑張れ!」
いきなり声が届いて、カゼスは驚きにはっと顔を上げた。すぐそこまで船が近付いている。船縁からヤンノやエイル、水夫たちが身を乗り出している。いつの間にか雨は上がっていた。カゼスは我に返って再び足をばたつかせ、樽を抱えて船に泳ぎ戻った。




