四章 (1) 歴史学徒
数日後、昼食に件のアーロンがやって来る、とイブンが告げた。カゼスはそれを平静に聞く事が出来たが、髪を隠す方法はまだ決められずにいた。
イブンに相談すると、彼は「簡単さ」と事もなげに言い、細長い模様織りの布や、頭に被る大きな白布を持って来た。この土地では寝る時以外、何らかの被り物をしている者が多い。イブンはカゼスの髪を編んで模様織りの布を巻き付け、ピンや帽子や白布を使って手際よく髪を隠してしまった。仕上げに眉墨を使って完成。
鏡を見たカゼスは、まやかしなしでも見事に化かすイブンの手並みに感嘆した。
「器用ですねぇ。これなら絶対ばれそうにありませんよ」
「風が吹いても、往来で派手に転んでも、大丈夫ってわけだ」
イブンに揶揄され、カゼスは赤くなった。
「五百年も経ってるんだから、私が鈍臭いことなんか忘れてくれたらいいのに」
「そりゃ無理だ。何せおまえは千年に一度の逸材だからな」
「……褒め言葉で貶すなんて、本当に器用なことで」
リトルが黙っているかと思えばイブンがこれだ。カゼスはうんざりと天を仰いだ。
エイルはいそいそと記録を取るための紙と筆記具を用意し、水晶球をこっそり拝んだりしている。当初の目的や管理委員としての立場を僅かなりとも意識しているのかどうか、甚だ怪しい。
やがて居間に昼食の皿が並び、料理が湯気を立てる頃、招待者の思惑など何も知らない客人が表の呼び鈴を鳴らした。
下男に案内されて居間に現れたのは、まだ二十歳に手の届かない、青年になりかけの少年だった。黒髪と浅い褐色の肌はこの半島の血を示しているが、顔立ちも雰囲気もおとなしく控えめだ。彼はカゼスとエイルに目礼し、イブンの傍らに腰を下ろした。
「こんにちは、おじさん。お久しぶりです」
「ああ、元気そうで何よりだ。帰ったばかりなのに呼び付けて、悪かったな」
二人は親しげに握手と笑みを交わし、再会の挨拶をした。カゼスは強いて彼らから視線を外そうとしたが、気が付くとアーロンの横顔を見つめていた。
遠慮がちな笑い方も、若々しく明るい声も、身振り手振りのどの仕草も。名前以外は何ひとつ、あのアーロンとの共通点がない。その事にホッとすると同時に、理不尽な苛立ちをおぼえた。
「イズメイは?」アーロンの声が問う。
「まだ学校だよ。今日はおまえに会わせたい客人がいてな。紹介しよう」
そこで二人がこちらを向いたので、慌ててカゼスは目をそらした。イブンはそんな彼に配慮してか、先にエイルを示した。
「こちらの方がデニスの歴史に興味があるそうだ。特に大エンリルによる統一の頃にな。エイル、彼がアーロンだ」
「エイル=シーンです。どうぞよろしく」
「こちらこそ。アーロン=シャーフィールです。僕のような学生では知識もたかが知れていますけど、あの時代は僕も大好きなんですよ。同好の士に会えて嬉しいです」
にこやかに握手を交わすと、彼は次いでカゼスに向き直った。鳶色の瞳がまっすぐにこちらを見据え、カゼスは怯んで目を伏せる。
「こっちは俺の古い友人で、カゼスだ」
「カゼス?」アーロンが驚きの声を上げる。
「変わった名前だろう」
イブンがごまかそうとしたが、アーロンはぽかんとした顔のまま、信じられないとばかりに首を振った。
「変わったも何も、『偉大なる青き魔術師』の本名ですよ。あまり知られてはいませんけど ……すごいな、あの名前を持った人に出会うなんて。まるで何かの運命みたいだ」
彼がまじまじと見つめているのが分かり、カゼスは目を上げられなくなった。何とか言い訳を捻り出すべきなのだろうが、こんな時には悲しいほど機転がきかない。黙ってしまったカゼスの代わりに、イブンが苦笑して言った。
「それを言うなら、おまえも『皇帝の片翼』だろう」
「僕のは違いますよ」
アーロンが即座に言ったので、カゼスは思わず顔を上げた。アーロンはこちらを見ず、イブンに向かって釈明している。
「確かにあのアーロンが元なんでしょうけど、僕は曾祖父の名前を貰ったんです。偉大な戦士で、当時の族長に仕えて数々の功を立てた、って。それだけでなく、貰った領地には井戸を掘って潅漑の水路を整え、領民を豊かにしたそうです。まぁ、今じゃ僕らの家が持ってる土地もちょっぴりになりましたけど」
肩を竦め、彼はカゼスに向き直った。その時にはもう、『皇帝の片翼』アーロンの幻影はすっかり消え去っており、カゼスも眼前の少年をまったく別個の存在として見ることができていた。両者の間にもう一人の知らないアーロンが入ることで、その距離が大きく開いたのかもしれない。
微笑したカゼスに、アーロンは照れ臭そうに苦笑した。
「すみません、我が家の歴史なんてどうでもいいですよね」
「いえ、興味深いお話ですよ」
カゼスはそう応じて、自然に手を差し出した。アーロンも笑顔でそれを握り返したが、ふと怪訝な表情になって問うた。
「あなたの家は、どちらに? 失礼ですが、あなたはデニス人ではありませんよね。ラウシールの本名を知っていて、しかもそれを我が子に授けるなんて、ご両親は……」
「何を考えていたんでしょうね」
カゼスはおどけて言い、苦笑した。適当な作り話をしたら、後々その継ぎ当てに四苦八苦するはめになる。だから何も言わないのが一番。彼はイブンにそっと目配せした。察したイブンがアーロンの肩をつつき、注意を引く。
「さあ、いつまでも話してないで食べよう。冷めてしまうぞ」
「あ、はい、そうですね。すみません」
慌ててアーロンは座り直し、両手を合わせた。イブンも同じく手を合わせ、短い食前の祈りを捧げる。全員が唱和し、すぐに和やかな食事が始まった。
食べ始めると空腹だったことに気づいたらしく、アーロンは二人の客人そっちのけで、次々に皿を空けていった。あまり食べるようには見えないが、育ち盛りゆえだろう。
一段落着くと、アーロンとエイルは茶を片手に何やら専門的な話を始めた。やれ、陶器の製法がどうとか、織物の図柄がどうとか、槍の穂先の鍛造技術がどうとか。
(本当にもう、過去の『歴史』なんだなぁ)
たった五年前にこの身をもって経験した事なのに、既に地層に埋もれているとは。カゼスは妙な気分でイブンを見やった。相手はこんな状況にも慣れているらしく、面白そうな表情で二人のやりとりを聞いている。
やがてエイルが、ふと思いついたように問うた。
「あの時代は魔術師にとっては大きな意味をもつわけだが、歴史家の君から見てその辺はどうかな」
おや、とカゼスは内心で苦笑した。彼も仕事を完全に忘れたわけではないらしい。
アーロンはカゼスを一瞥してから、遠慮がちに答えた。
「魔術師の発祥に関してはまだ不明な点が多くて、なんとも言えませんね。ただ、ラウシールは聖人として今でも崇められていますが、僕は『赤眼の魔術師』の功績をも認めるべきだと思っています。まあ、それは先生の影響なんですけど」
言い訳を添えたのは、全員に注目されていると気付いたからだ。彼は急に恥ずかしくなったように鼻の頭を掻いた。が、ふたたび口を開くと、すぐに羞恥は消え、明晰な論理が取って代わった。
「もし彼らが魔術師の軍団を作っていたら、当時の戦争は凄惨なものになったでしょうし、そうなればいかなラウシールでも、人々を救うことは出来なかったでしょう。デニスは一大軍事国家になっていたかもしれません。そうならなかったのは、彼らが叙事詩に言われるような悪の権化ではなかった証だと思うんです」
「そうですね」カゼスも同意した。「勝てば官軍、ってのは歴史上よくある話ですから」
「ええ。ラウシールと違って『赤眼の魔術師』たちは、魔術の技術的側面を重視していたようなんです。だからこそ、統一後に魔術を普及させることが出来たんじゃないでしょうか。現に、今の王国が開発した転移装置もその理論に基づくものだという事ですし」
さもありなん。カゼスは納得してうなずいた。生き残った唯一の『赤眼の魔術師』キースは、確か数学者でもあった筈だ。天才的な娘もいたし、さぞや文明の発展に貢献したことだろう。カゼス本人より、彼らの方がよほど強い影響を残したに違いない。
「まあ実際ラウシールなんて、大した事はしてませんからね」
安心したカゼスがうっかりそんな台詞を吐いたもので、途端にアーロンは咎めるまなざしを振り向けた。
「そこまで言うのは極論ですよ。彼のおかげでエンリル帝はデニス統一を果たせたんですし、何より、五百年も前に……武勇と力強さこそが誉れだった時代に、ささやかで個人的な美質とされていた慈悲や互助の価値を、広く社会に認めさせたんです。ほかの人間には出来なかったことですよ。ラウシールは系統だった教えは何も残しませんでしたし、魔術を広めることもしませんでした。にも関らず彼が魔術の祖とされているのは、その言行に表れていた気高い理想のゆえなんです。魔術の技そのものよりも、どのように用いるべきか、という手本を示したからなんですよ」
真顔で言われては、当のカゼスが失笑するわけにもいかない。と言って、否定しようにも専門家相手に勝ち目はないだろう。仕方なくカゼスは複雑な顔で肩を竦め、話をそらせた。
「デニスではそんな事まで調べられるんですか? つまり、文献が多いとか?」
「そうですね」うーん、とアーロンが首を傾げる。「文献の数だけで言えば、王都レンディルの大図書館の方が揃っているかも知れません。征服した国の文化や歴史も、破棄するのではなく貪欲に収集していますからね。でも現地には民間の口伝が豊富ですから。ターケ・ラウシールの本部や『長衣の者』の学府、それにエンリル帝の廟や聖地もありますから、碑文なんかも残っていますし」
「廟と、聖地?」エイルが目をぱちくりさせる。
「はい。ご存じないんですか? 廟はレムノスにありますが、亡骸はティリスの草原に葬られているんです。長らくその場所は分からなかったんですが、十年ほど前の調査で墓が見付かったんですよ。『皇帝の片翼』アーロンのものとみられる墓と並んでいます。あんまり質素なんで、地元の人でさえほとんど知らなかったぐらいですけど、皇帝の墓所と判明して以来、訪れる人が絶えません」
「あらら……」
カゼスは思わず妙な声を洩らした。脳裏に最後の別れをした時の記憶がよみがえる。
永の眠りにふさわしい、静かで気持ちの良い場所だった。エンリルも草原を愛していたから、アーロンと並んで眠ることを望んだのだろうが、そのせいで五百年も経っていきなり賑やかになろうとは。アーロンが渋面で文句を言っている姿が目に浮かぶ。
物思いにふけるカゼスを、現在のアーロンは不思議そうに見つめていた。が、不意に彼は小さく笑いを洩らし、「そういえば」と続けた。
「聖地で面白い人に出会ったんです。最初は皇帝の亡霊かと思ったんですけどね。それが傑作で、なんとデニス総督のエンリル様でした。さっき『何かの運命みたいだ』と言ったのは、その事もあったからなんですよ」
イブンが茶にむせ、カゼスはぽかんとなり、エイルは目を丸くした。アーロンは彼らの驚きを見回し、得意げな笑みを広げる。
「おひとりで来てらして、ちょっとお話ししただけですぐに帰ってしまわれましたけどね。古の皇帝もあんな風に、一人で草原を駆けたのかもしれないなぁ」
「それ……」
アーロンの言葉を聞いた瞬間、カゼスの脳裏に一人の青年の姿が閃いた。呼び声が強まると共に、しばしば見えるようになった後ろ姿。エンリルに似ているからには高地系のデニス人だろう、としか思わなかったが、もしかしたら彼もまた“エンリル”なのだろうか。
「ええっと、そのエンリル様って、高地系の方ですか」
「そうですよ。皇家の人は、今も特徴が残ってますからね。鮮やかな金髪で、ちょっと忘れられないような深い藍色の……青褐色とか夜空色とか言われる瞳で。さすがにエンリル帝みたいに不思議な力を発揮する人は、もういませんけどね」
説明しながら、アーロンはしげしげとカゼスを見つめた。いったいどこの出身で、何を知っていて何を知らないのか、推し量ろうとしているらしい。カゼスは慌てて言った。
「そんなところで総督に会うなんて、不思議ですね。ただ会おうとしたって、なかなか会える人じゃないんでしょう」
「用事もないのに会うのは無理でしょうね」アーロンが笑った。「でも総督府に行けば、姿ぐらいは見られるかもしれませんよ。興味がおありなら、ですけど」
「ええ、見てみたいですね」
カゼスはつぶやくように答えた。もしあの後ろ姿がその総督であるなら、何かの意味があるのかも知れない。ただ、行くなら用心しなければ。せっかく離れた呼び声の源に、自ら近付いたのでは何をやっているやら分からない。
「ふうん……それなら、ご一緒しましょうか?」
アーロンがそう言い出したもので、カゼスとエイルは揃って驚きの目を向けた。アーロンは肩を竦め、イブンを見る。
「そのつもりで呼んだんでしょう、おじさん」
「そこまで期待してはいなかったさ」
イブンはとぼけたが、にやにや笑いを隠しきれていなかった。アーロンはやれやれという顔をして、カゼスに向き直る。
「どうせ僕もまたじきに、向こうに戻る予定があるんです。調査に便宜をはかってくれた人が、理由は知らないんですけど急に連絡がつかなくなってしまって、それで手続き上のあれこれで一度帰国したんですけど……そんな事情なんで、向こうでもう一度総督の許可を貰わないといけないんです。と言っても総督府に書類を提出して署名捺印して貰うってだけですけどね。でもとにかく、口実はあるでしょう?」
「それなら、是非!」
身を乗り出したのはカゼスではなく、エイルだった。イブンが呆れ、カゼスは天を仰ぐ。アーロンはきょとんとなったが、すぐに笑い出した。
「あなたとご一緒出来たら、道中楽しいでしょうね。こちらからお願いしたいですよ」
「レムノスに行くなら、うちの船を使うといい」イブンが言った。「本当なら俺が自分で案内してやりたいところだが、しばらくデニスの方には行けそうにないんでね。足の速い船と腕の良い乗り手、まとめて格安で貸してやろう」
「あなたの格安は、高くつきそうですけどね」
カゼスはにやりとして茶々を入れる。それから、あれと気付いて目をしばたたいた。
「でも、国の転移装置とかは……」
そんなものがあると、つい先刻言っていなかったか。それに最初に会った時も確か、稼働しているが使用料が高くて、とかなんとか聞いた気がするのだが。
曖昧な問いかけに、イブンは駄目だというように手を振った。
「個人が利用するには高すぎるぞ。それに、荷物はともかく人間を送るとなると、昨今はあれこれとうるさいからな。特にデニス行きとくれば」
どういう意味かとカゼスが問うより先に、アーロンが眉をひそめて言った。
「そうですね。僕がいた頃も、なんとなく不穏な空気がありましたから。暴動はなくても、あちこちで集会が開かれているみたいでした。過激な張り紙も目についたし。転移の前後でも厳しく身元や手荷物を調べられましたよ」
「日数はかかるが、船の方が面倒がなくていい」
イブンの口調はさりげなかったが、カゼスにははっきり、転移装置を使えば正体がばれると思え、と言われているのが分かった。イブン自身も、あまり詳しく身元をつつかれると困るからだろう。カゼスは「そうおっしゃるなら」と気軽な態度を装って応じた。
〈また何かきな臭いことになってるみたいだねぇ、あの国は〉
〈今は国ではありませんよ。私としては、魔術がうまく働かないと言われていながら、国の転移装置だけが正常に機能しているのはなぜか、というところが気にかかります。それを確かめる前に正体がばれたら、厄介なことになりそうです。装置に近付かず、その理論を調べる方法があれば良いんですが〉
リトルに指摘され、カゼスも微かにうなずく。
〈確かに、私もそれは気になるね。大図書館がどうとか言ってたけど、そこに行く方法があればなぁ。転移装置そのものの理論は国家機密になっているとしても、魔術の歴史や論文から何か分かるかもしれないし〉
〈このアーロンさんが調べ物に行く事があれば、ついて行けなくもないでしょうが……出来れば、何らかの方法で図書館まで『跳躍』できるよう祈りたいですね〉
〈どうして?〉
〈旅費がかさむからに決まってるでしょう! 滞在日数が延びれば食費もかかります。管理委員会と治安局が預けてくれたお金は、無限ではないんですよ? この世界に銀行口座を持っているわけでもなければ、大金持ちの主もいません。いつ帰れるか分からない以上、あるだけの資金を上手く運用しないと後で泣きを見ることになりますよ。もっとも、私は何も困りませんがね〉
長々とお説教され、カゼスは思わずため息をつく。アーロンがきょとんとなった。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、なんでも。ちょっと色々考えることがあって」
カゼスは曖昧に笑ってごまかし、部屋の隅に転がる水晶球を一瞥する。もう一度出かかったため息を飲み込むのに、少しばかり苦労した。
(その内、自分のため息で窒息するんじゃなかろうか)
憂鬱な気分で己の死に様を想像し、カゼスは遠い目をしたのだった。




