その名を受け継ぐ者
本編前の予告風に書いた掌編。本編は次の頁から。
数百年の昔に偉大な王が葬られた地としては、そこはあまりにさびれていた。
目印になるような巨石も建造物もない。だが道だけは、数は少なくとも絶えることのない墓参の者によって、細々と続いていた。
小さな泉が湧き出るほとりに、齢を重ねた堂々たる老木が枝を広げている。その下で憩うよう、差し招くかのように。
今も、ひとりの青年が木陰を目指していた。革の鞄を肩から提げ、ひっきりなしに手帳に何かを書きつけている。どうやら学生らしい。おっとりした雰囲気で、長い黒髪を今風に編んでいる。
ようやく陰に入ったところで、彼は先客に気付き、慌てて立ち止まった。
ふたつ並んだ碑の前に、ひざまずく人影。背格好は彼と同じ年代の青年に見えた。鮮やかな金髪を、束ねもせず流している。その上に木洩れ日がふりかかると、小さな光がちらちらと舞った。
最近では珍しく、先客は細い黄金のサークレットを着けていた。いにしえの王侯貴族と同じように。そのことに気付くと、青年は妙な気分になって、身じろぎした。
(まさか、ね)
帝国時代の幽霊にしては、衣服が新しい。それに、どう見ても実体だ。
ちらとでも恐れたことをごまかすように、彼は苦笑し、ごく小さく咳払いをした。先客にやんわりと、自分の存在を気付かせたかったのだ。
と、金髪の青年はふいに立ち上がった。振り向いた青褐色の双眸にとらえられ、学生は息を飲んで立ち竦む。
夜空のような深みを秘め、底知れぬ畏怖を呼びさます瞳。気高く、威圧的で、すべてを飲み込まんとする力を感じさせた。
だが、その強烈な力は、馬のいななきひとつで四散した。
二人はそろって声のした方を振り向いた。大樹の反対側で、馬がしきりに首を振っている。耳に虫でも入ったのだろうか。青年は馬に駆け寄り、落ち着くよう声と手で宥めた。
その間に学生は墓碑に歩み寄り、ひざまずいた。ひとまず手帳は置いて、祈りを捧げる。しかし、短い祈りを終えた途端、彼はまた手帳を開き、墓碑の銘文を書き写し始めた。
「何の調査だ?」
いきなり問いかけられ、学生は驚いて顔を上げた。金髪の青年が、こちらに戻ってくるところだった。
「あ……その、エンリル帝の伝記について、裏付け調査をしているんです。先生の手伝いなんですけど」
もごもごと答えてから、学生は手を差し出した。
「アーロン=シャーフィールです」
「エンリルだ」
答えて青年が握手する。アーロンは苦笑した。
「これでも本名なんですよ」
場所が場所だけに、自分の名前が冗談であると思われたのだろう。今までにも、よくからかわれたものだ。しかし、自称エンリルは笑わなかった。
「私もそうさ」
じっと見つめられ、アーロンは思わずぎょっとした。手を振り払うこともできず、硬直する。まさか本当に幽霊なのだろうか?
(だったら聞き取り調査ができるかも)
不敬な考えが脳裏をかすめたが、むろん、実際のところそんな雰囲気ではない。
と、ふいにエンリルは手を離し、にやりとした。自嘲と皮肉のまじった、あまり好ましくない笑みだった。
「エンリル=イ=アフシャール。家族どころか、見知らぬ他人にまで『小エンリル』などと呼ばれるよ。偉大なるご先祖様に、文句を言いに来たというわけだ」
「……!」
今度は別の驚きに襲われ、アーロンは息を飲んだ。アフシャール家といえば、まさに皇帝エンリルの子孫、それも直系だ。今もデニス人から特別な畏怖を集め、権力を有してもいる一族。
「アフシャール家の御曹司が、一人でこんなところに?」
おずおずと、それでも好奇心に負けて、アーロンはそう問うた。レムノスにある大聖堂に参詣するのは一族のならわしであるが、公式の行事としてこちらに来ることはない。交通も不便だし、高級な宿もない。それなのに。
エンリルは肩を竦め、感情のこもらない平坦な声で答える。
「皇帝エンリルだって、ひとりで遠乗りするのが好きだったというし、血筋だとすれば不思議じゃない。嬉しくはないが」
それだけ言うと、彼は馬のところに戻り、手綱を取った。
帰るつもりだと気付き、アーロンは咄嗟に引き留めようとした。が、うまい言葉が見付からない。皇帝の幽霊だった方が、まだしも気楽に話せたろう。
彼の複雑な表情を見て、エンリルは口元に苦笑をひらめかせた。
「昔話が聞きたければ、いつでもアフシャール家の語り部に頼めばいい。餌食に飢えているからな、何時間でも延々と聞かせてくれるぞ」
じゃあな、と言って、彼はひらりと馬にまたがった。そして、あとはもう、一瞥もくれずに駆けて行く。
その背を見送り、アーロンはぽかんと立ち尽くしていた。やがて人馬の影がすっかり見えなくなってから、彼はふと、物言わぬ墓碑を見下ろした。
「……皇帝も、あんな感じだったんですか?」
つぶやいてから、比較するのは両者に対して失礼か、と思い直す。
(少なくとも『皇帝の片翼』は、僕とはまるきり違っただろうけど。血のつながりだってないわけだし、第一武人と学生じゃ、比較にならないよな)
名前が同じだからと言って、気性までが似るわけではない。偉大な功績を残せるというわけでもない。
だがそれでも、その名は受け継がれて行くのだ。数々の物語、郷愁、憧れと共に。
この時代にもまた、未来に残される名があるだろうか。
アーロンは自分の手帳を眺め、びっしりと書き込まれた昔日の欠片に、ふと思いを馳せた。もし誰かが今、その名の由来となった人物の功績を霞ませるほどの偉業を成そうとするならば、それは平和的な政治か、あるいは学問や芸術の分野に限られることだろう。もはや、戦による征服が偉業とみなされる時代ではない。
たぶん、それで良いのだ。
「あなた方には、退屈かもしれないけど。それとも、喜ばれるのかな」
墓碑にむかって、ささやくように問いかける。温かな応えが返ってきたように感じて、彼はひとり、そっと微笑んだ。
(終)
念のための蛇足。
昨今は滅多に見ませんがthe youngerの和訳の「小」誰某は「しょう」と読みます。
(逆は「大」(the elder)で父親ないし年上の方の誰某を指します)
というわけで「小エンリル」は「しょうエンリル」です。
「こエンリル」とか呼ぶと本人暴れるので勘弁してやって下さい。