☆1
「いきることについて考えたことはある?」
目の前の彼が目を輝かせながら聞いてくる。
「いや、一度もないよ」
いつものように適当にあしらう。この問答は彼と僕の間でもうすでに何度も繰り返されている。いい加減嫌になる、ことはない、なぜならこの言葉を聞く度に僕は彼の存在を確認できるからだ、この言葉を聞く度に彼の存在をより深く認識できると言ったほうが正しいかもしれない。ちなみにあしらい方は適当だが嘘をついている訳ではない。死についてはよく考えるが、生きることについては本当に考えたことがないのだ。
彼はまだ9歳の子供だ。僕は29歳、恥ずかしながら定職につかずフリーター生活をしている。そのためきちんと大学を出させてもらった親に合わす顔がない。このことも僕が田舎暮らしをする一つの要因である、が些細な要因にすぎない。世界地図で例えると地球に対しオーストラリアくらいの割合だ。残りのユーラシア大陸や海などは何にあてはまるのか、そこで当然のようにこの疑問が浮かぶだろう、しかし僕はそれについては答えることができない。実は答えが無いわけではない、口にだせる程のものではなく至極曖昧なものだからだ、この「曖昧なもの」は厄介だ、こいつは僕の脳味噌の七割程を我が物顔で占拠している。こいつのせいで僕は慎重にならざるを得ない、だから僕は普段は無口なのだ。そんな無口な僕に彼は何のおかまいもなしに話しかけてくる。そんな彼を鬱陶しくは思わない、むしろ彼に対し申し訳なく思う。話し相手が空気みたいな返事しか返さないことはおそらく悲しいことだろう、しかしこれは必然なのだ。この必然の上に僕と彼の関係はなりたっている。まぁトムとジェリーみたいなものだと思ってくれていい。ただし僕らはフライパンをもって追いかけあったりしない。
僕が彼に初めて会ったのは二年前の夏だった。今でもあの日のことは鮮明に覚えている。空は曇一つない青空だった、僕の晴れの日の日課は一番いい椅子に座りながらながら読書をすることだ。
その日はクンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んでいた。ちょうどカレーニンが死んだとき、遠くの方から子供の大きな泣き声が聞こえてきた。最初は近所の子供が喧嘩でもしたのだろう、とあまり気にかけてはいなかったが、トマーシュとテレザが死んでも泣き声がやむ気配がなかったので、さすがに気になって声のする方向に体を運んだ。畦道に入るかどを曲がったとき泣き声の正体、理由がわかった。当時7歳の彼がかがみこんで泣いていた。彼は全く今と変わらない様子で絹で包み込まれたような肌をしていた。その彼の足下にはまだ産まれてまもないような小さな黒猫がまるでぼろ雑巾のようにしわくちゃになって死んでいた。どう対処すればいいか困惑していると、彼は僕に気づいて涙目でこういった。
「仕方がないことなんだよ」
その第一声が僕の想像と余りにもかけ離れていたため、僕は思わず、えっ、と声を漏らしてしまった。
「いいの、僕が悲しいだけだから、クロはこうなりたかったんだから。また僕の友達が一人いなくなっただけだから」
嗚咽を漏らしながらそう言う彼の言葉をきいて、さらに僕は混乱した。夢を見ているのかとさえ思った。大好きだったおばあちゃんが病院のベッドに腰を掛けて言ったことを思い出した。
「いいかい、生きているもんは必ず死ぬ、それは悲しいことじゃない、一番悲しいのは、死んだときに、誰も悲しんでくれへんことや。お前さんは誰かが悲しんでくれるような人になりなさい」
気がつくとなぜか胸が熱くなっていた。
「そうか、じゃあクロは幸せものだね」
そう言った僕の顔をみて、彼は、うん、と首を大きく縦に振った。とてもきれいな目だった。
その日から彼はよく家に来るようになった。別に家に来るように誘った訳ではない、彼の方から家に来たいと言った訳でもない、秋が来て山が紅くなったり、暑い日に中学生が図書館でたむろするように、彼は僕に会いに来る。もしかしたら僕が勘違いしているだけで、僕に会いに来ているのではなく、家の前の二番目にいい椅子に座りにきているだけなのかもしれない。そもそも僕にとって二番目であっても彼にとって一番かもしれない、そう彼に気づかされたのはごく最近のことだ。
「価値観ほど面白いのはないよ、きっと豆腐より脆くて、磁石よりくっつきやすくて、どんな政治家よりも欺瞞に満ちているものはそう他にないよ。」
度々彼の言葉は僕の想像を超える。初めてあったときから、僕が彼への興味を保ち続けてるのはおそらく彼のそういったところが原因だろう。何にせよクロの墓をたてた時から、彼は僕にとって二番目の椅子に座り僕に話しかけるようになった。
僕の家には犬が一匹いる。僕は別にとりわけ犬が好きなわけでわない、彼が見つけたのだ。
裏山の銀杏が散り始め、そろそろ寒さが本格的になろうとしている頃だった、日が落ち始めたと同時に彼が急ぎ足で玄関前の階段を昇ってくる音が聞こえた。普段なら昼過ぎにくるのに何かあったんだろうか、そんなことを考えながら、ドアを開けると額に汗を浮かべ激しく息を切らしている彼の顔があった。
「来てっ!!」
「どうしたんだ、こんな時間に」
「いいから 早く来て!」
どうやら犬が捨てられていて、寒さで震えているそうだ。どうしてやることもできないと思いつつも、取りあえず見に行くだけならと思い、急かされるまま彼に押されていった。家から500メートルほど離れたところにその犬はいた。小さな子犬をイメージしていたが、とても悠々しいシェパードだった。右の耳が少し欠けていたが、余りある凄みでそれを補っていた。どうやら彼が言った震えているという表現は大袈裟なものではなく、本当に震えていた。それは寒さからくる震えではなくまるで何かに脅えているような震え方だった。
「ねぇ、取りあえず連れて帰ってやってよ」
拳を強く握りしめながら彼は真っすぐな目で僕の目を突き刺した。
「いや、そういわれても」
「いいでしょ、少し我慢すれば命が一つ助かるんだよ、しかもついでに犬と触れ合えるんだよ、一石二鳥じゃん」
いくらか押し問答を繰り返した挙げ句、仕方なくつれて帰ることにした。
家に連れて帰って気づいた事が4つあった。まず一つ目にどうやら元は飼い犬であったということ、首に少し汚れた深緑の首輪を付けていた。二つ目に絶対に鳴かないということ、口は息か食事の為だけについているらしかった。三つ目に余り動かないということ、体を丸めた状態が一番しっくり来るらしく、使い古しの毛布を敷いてやると動きはのっそりだったが、嬉しそうに体をうずめた。四つ目にオスだということ、これは彼が見つけた。
「ねぇ、もちろん飼うんだよね?」
目を輝かせながら彼が聞いてくる。
「犬は飼えないよ」
「どうして?」
「だって…散歩とか大変だし…」
足下では犬が全く関心がないように蓮斜め前を向きながら欠伸をしている。
「散歩だったら僕が毎日来て面倒みるから」
「僕がバイトの時はどうするんだい?」
「大型犬は外で飼うんだよ、だから迷惑はかけないよ」
こんな時だけ彼は子供を全面に押し出してくる。
いくら彼が散歩に連れて行くといっても餌やりやお風呂の当番は僕になるに決まっている。
「それにシェパードって頭いいんでしょ?きっとお手伝いもしてくれるようになるよ、僕が訓練するから」
必死に説得しようとする彼の熱におされて心に隙間ができたと感じた瞬間、僕は、仕方ないな、と呟いてた。
そんなこんなで家族が一匹増えることになった。名前は彼が3日間考えた結果、コルブスという名前になった。どこかの国の言葉でカラスと言う意味があるらしい、どこかで読んだ児童書から得た知識らしかった。彼が、コルブス、と名前を呼ぶと、少し首を上げて反応した、かに見えたが欠伸をするために上げただけらしかった。
今回僕が筆を執ったのはそんな彼とコルブスとの記憶を心の奥だけではなく形として残しておきたかったからだと思う。死んだ後も一緒に焼いてもらえば向こうにいっても忘れないという思いもある。ちなみにここでいう、向こう、とは天国でも地獄でもない、僕はみんなが言う死後の世界は信じていない。じゃあどこなのか、残念ながらそれは解らない。僕は今まで一度死んだことがある人に会ったことがないからだ、でもどこかがあるっていうことは本能的に知っている。もし、向こう、が無であったとしてもだ、そのどこが無であったとしても無があることには変わりはない。