NH02 借金の形に売られた先で
行間は空けずに詰めたままです。あしからず。
2011/12/09 修正・追記
――家が破産したらしい。
あたしはハイフィールド男爵家の長女アイル・ハイフィールドとして産まれた。先代の時に領地を取り上げられた名前だけの小さな男爵家で、父の仕事は農務水産省(MAF)で荘園の租税を扱う役人だった。裕福ではないけれどひどく困窮しているわけでもない日々だったけれど、よく困った事といえばパパの酒癖が悪く、珍しいらしいワインを見るとすぐその場で買ってきてお金がなくなるという事だった。今思えばこれが破産の原因なんだろうと思う。家の財布はあくまでパパが握って放さず、正直いつから家計が火の車になっていたのかは分からない。随分と前からどこかに行ってお金を借りているみたいだったから、最近は日々かなり不安に思っていたんだけれど……まさか今日、突然こんな事になるなんて。
今年13才になるあたしはパパと継母と異母妹2人の5人で小さな屋敷で暮らしていた。ママはあたしをメイドに手を出したパパが産ませた汚らわしい娘だって言ってろくな扱いをしてくれなかったし、パパも普段はあたしに無関心で何か気に入らない事があるとすぐに手をあげられた。幼い妹二人もほとんど会話らしい会話をしないままだったから、はやくこの家を出たくて仕方なかった。
そんな屋敷でいつものように朝早く目を覚まして、たった一人の使用人が来る前にお祈りを済ませてリビングに向かったらテーブルに便箋が置いてあった。物音一つしない静かな屋敷であたしは脳裏に「まさか」という言葉が浮かんで消えた。近くの厨房に入って食器棚を見ると銀製の食器を始め、高価な皿がなくなっていた。
最初は歩いて、けど動悸が収まらず次第に小走りになってパパの部屋の扉をノックした。
反応がない。殴られる事を覚悟してもう一度。やはり反応はない。
もう我慢できずに力任せにドアを何度も叩く。ドアノブを捻ると呆気なくドアが開いた。震える手を胸にやって、中へと入る。部屋はもぬけの空だった。
ママも、妹達の部屋も空だった。
改めて再びリビングの便箋の前に戻る。もう走る気力もなかった。
重い頭で何も考える事なくレターナイフで便箋を破り、中の羊皮紙を取り出す。
手紙を読んだ。
端的に言うと、パパとママは妹達を連れて夜逃げをした。
どうやらあたしは借金の形に家に残されて、借金返済として好きにされるらしい。使用人にも昨夜に話を通していたようで、知らなかったのはあたし一人……。
目の前が真っ暗になる気持ちだった。手の中からパパの置手紙がこぼれ落ちたが、もう二度も読む気にはなれない。
「あたしも逃げようかな……」
椅子にダラリとかけながら、とりとめもなく思う。でも家を出てどうすればいいんだろう。お金もろくにないし、街の外にだってほとんど出たことない。魔獣だって出るかもしれない。外はだめだ。やっぱり街で暮らすしかない。住み込みの仕事は? いつも鈍くさいと継母に言われていたあたしがすぐ働けるのだろうか。うまく仕事にありつけたとしてもすぐに追い出されたらもう乞食のように街の片隅で生きていくしかないんじゃないかな。水商売。いやだ。それだけは絶対にいやだ。
ぐるぐるとこれからのあたしが頭をよぎっていく。
鼻をすする音がする。目の前が滲む。
思い切って頭を振ってみたけれど、涙は止まってくれなかった。長い、簡単にしか手をいれていないブラウンの髪が顔にかかる。邪魔。けど直す気はおきなかった。
ああ……どうしよう。どうしよう。どうしよう。
なんで、こんな目に。あたしだけ一人。
「誰か……」
それは独り言だった。別段誰に向けて言ったものでもない。
そのあたしの声に返事があった。
「はい」
――?!
勢い良く顔を上げる。するとリビングの入り口に黒いスーツを着た誰かがいた。
「ど、どなたですか……!」
椅子から立ち上がる。椅子が大きな音を立てて揺れた。
たぶんあたしの声は震えていたと思う。いや、うまくろれつが回っていたのかも怪しい。
その人を一言で言うなら「異様」としか思いつかなかった。
スラリとした背の高い男性だと思われるその人の顔は目を残して全て包帯で覆われていた。いや、顔というより頭全部を包帯でぐるぐる巻きにした、まるでミイラ男みたい。髪の毛も全部剃っているみたいで、頭の形も丸分かりだ。よく見ると首の上の部分の肌は赤と黒に腫れあがってる。火傷みたい。あ、しかも片耳がない!
なに、怖い。怖い!
「突然のお邪魔失礼致します。私はアーデンボルグ家に仕えておりますスチュワード・バトラーのアレックス・ハミルトンと申します。再三の誰何にも返答がございませんでし たので失礼ながら勝手に上がらせて頂きました。
ハイフィールド男爵のご息女様であるアイル・ハイフィールド様とお見受けしましたが、如何ですか」
「は、はい」
もしかして、この人が借金取り? あたし、この人に連れていかれちゃうの?
「失礼ですが、ご主人様はいらっしゃいますか。先日に訪ねると予め申し出ておいたのですが」
包帯から除く青色の目が鋭くなる。まるでナイフを突きつけられたみたいに体が動かない。
「あ、その……あたし、あたし」
アレックスと名乗った包帯の男の人が靴を鳴らしてリビングに入ってきた。
息がうまく吸えない。足が震える。
いや……来ないで。
「おーい、このじょーちゃん怯えてんぞ」
男の人の背中から男の子の声がした。
見ると、男の人の肩からひょっこり小さな男の子が顔を出していた。そう、小さなオレンジ程度しかない頭の男の子が包帯の男の人の肩に手をかけてあたしに手を振っていた。 小人さんだ……! もしかしてホムンクルスのファミリア(使い魔)? この人、魔導士なの?
家庭教師の言葉を思い出す。
確か……ある特定の儀式を経て運良く騎士の資質を発現させた者で、草原を風のように駆けぬけるグラスパンサーの脚力と岩を割って木の幹を打ち砕く力を持ち、瞬間的に複数の作業を並行的にこなせる者を『騎士』と呼ぶ、だったかしら。うんと、ピュンピュン動いてとにかくとっても凄い人。鈍くさいあたしとは全然違う。
そして魔導士は普通の人より遥かに高い魔力を持って生まれた者だけがなれる。けれど魔導士は騎士みたいに速く動けなくて、どうしても先に殴られると死んでしまうから、騎士と同じくらいの動きができて、襲われたらすぐにガード魔法を使えるファミリアを常に連れているって話だったっけ。それで……うん、確か一般的なファミリアが騎士の血を使って創りだされたホムンクルスって言ってた。魔導士の魔力がないとすぐ死んでしまうって話もあったかような。
「お。なんか落ちてっぞ? なんだ、手紙か?」
「あっ」
ぴょこんと小人さんが床におりて、パパの手紙の羊皮紙を持ち上げる。
「アーデンボルグ殿へ……署名は、おいおいハイフィールド卿かよ。これうちの家に宛てた手紙みたいだぜ」
靴音が止んだ。男の人はあたしの手が届かないギリギリの所で止まっていた。
あたしは思わず顔を上げて見上げる。すごい背の高い人で、まるで巨人のよう。
あたしを見下ろす青い目は睨んでるみたいだった。
「拝見してもよろしいでしょうか」
……あたしは返事もできず、ただ頷いた。中にはあたしの事が書かれている。借金の返済人として。
もう、なんだろう、ベッドにもぐりこんで思いっきり泣きたかった。
手紙にかかれているお金の額は始めて見るくらい大きな額で、返す当ても未来もないよ。
「ケケケっ! ほほーう。なるほどなるほど。このかわいいかわいいじょーちゃんを借金代わりに好きにしていいってことかよ。いいねえいいねえ。俺らのご主人様がすっげえ喜びそうなネタだわ」
小人さんが舌なめずりをしてあたしをニヤニヤと見た。
あたしは思わず俯いてしまった。スカートの前を両手で握り締める。
「まー、返済期限がきたのに借金を返せねーっていうなら何されてもしょーがないよなー? お金借りて返さない方が悪いんだもんな。親がダメなら子供がちゃんと支払わないと。 うんうん。男だったら農奴っていうコースがあるけど、キミ女の子だからよかったね。重労働しなくて済むよ。あ、枕は自分の好きなのを持ってきていいからね。おー、俺やっさしー。あの人こういう小さくてぷるぷるしたのに弱いからなー。その日の夜にでも部屋に呼ばれるに違いないね。うん。ヒヒヒっ」
…………もうやだぁ。
「マイク。そう無闇に脅かすのはやめなさい。悪趣味ですよ。見なさい。泣いてるじゃないですか」
「なんだよー。じゃあお前はどうすんだよ」
「ふむ……踏み倒すつもりはない、と。そのつもりでこの娘を残していったとでも言うつもりですか。つくづくあの卿は……ご主人様も半ば覚悟しておられたとはいえ、やはり報告し辛いですね。とはいえ、あの方にとっては既に少なくない額を貸し出している以上、なんとしてでも返済してもらわねばこちらとしても頭が痛い事になりますか」
……どこか遠い世界で話し声が聞こえる。
知らない。あたしは何も知らない。お部屋に帰りたい。そしてずっと眠っていたい。
けれど、目の前の怖い二人の人たちにはそんな事が許されるわけもなかった。
顔を上げられないまま、包帯の男の人が手紙を仕舞うのがかろうじて見える。
「では一つ提案があります」
……はい。
「まず始めに私どもは法に則ってハイフィールド家からお金を返してもらわねばなりません。そして現状、あなた様では返済能力を認められるとは思えません。そうなった場合は私どもはしかるべき場に出て手続きを踏み、ひとまず家の全財産を差し押さえることになるでしょう」
……はい。
法に則って? 本当に?
「そうなればあなたは路頭に迷うことになるでしょう。もし他に何か伝手などがございましたら別になりますが……その様子ですと期待できそうにありませんね」
……はい。
ああ、そうでしょうね。あたしも薄汚れた未来しか思い浮かばないですよ。
「ではここからが提案なのですが、実はちょうどアーデンボルグ様は使用人を一人探しておられた所です」
……そうですか。
「少々お待ちください……ざっと大まかですがこの辺りの条件で当家で住み込みで働いてみませんか。働いている間、ある程度の借金返済の便宜を図るよう我がご主人様へと進言致しましょう」
……条件なんてよく分からないし、今更もう断れるわけもないじゃない。
どうせ断ったらもっとひどいことになるんでしょう。
住み込みね。あたしを逃がさずいいようにもて遊ぶつもりなんでしょう。
「無論、他に希望の仕事があり、そこで借金を支払えるのでしたらこの話はなかった事にしますが」
……他に仕事? なんにもできないあたしが?
もう、それでいいです。
「受けていただけますか。ではとりあえずは体で払って下さるということで。ご心配なく。今の雇用契約ならば二十年も働けば返済できる額でしょう」
……二十年。ああ、本当にそんな日が来るといいなぁ。
ふふ。やっぱりあたし売られちゃうのか。せめてご主人様が乱暴にしてくれないことを神様に祈ってよう。
もう何もかもが億劫な心で目の前の包帯の男の人をもう一度顔を上げて見る。
首の赤黒い肌は不気味にうねってて、恐ろしい包帯の顔からは冷たそうな青い瞳だけが見えた。
まるで血が通ってないみたいだ。悪魔っていうのはこんなものなのかな。
ああ、目の前の人たちも、パパも、ママも、妹達も、みんなみんな大嫌い。こんな世界なんて壊れてしまえばいいのに。
準備をしてきなさいと言われ、ノロノロと部屋に戻った。ふと柱型日時計を見ればもうこの部屋をでてからとても時間が経っていた。
昨日に戻りたいな。
元々あたしの部屋には自分の物はほとんどない。パパもママも買ってくるのは妹達にばかりだった。
簡単に荷物を詰め込み、また階下へと戻る。二人は門の所にいた。どうやら馬車を門へ連れてきていたみたい。
あたしは荷物を抱え、屋敷を出る。門へと向かう間、屋敷を振り返ろうとは思わなかった。
ふと庭を見ると、咲いていた薄紅色の牡丹の花がポトリと落ちた。
それを見て何故か薄く笑みがこみ上げてきた。
☆☆☆☆☆
こうしてあたしはアーデンボルグ様のお屋敷に連れていかれ、この小さい女の体一つをご主人様に差し出し、奉公し尽くす事になった。
使用人として。
……あれ?
早朝に起きてすぐ白のワンピースに着替え、キャップとエプロンを身に付けて向かった先は朝の点呼。部屋に入るともう皆揃っていた。
「皆さんおはようございます」
おはようございます、アレックスさん。
包帯を頭にぐるぐる巻いているスマートなシルエットの男の人、改めアレックス・ハミルトンさんは今日も背筋を伸ばして直立不動の構えであたしたちを見下ろしてくる。ちょっとその後ろの背を見せてもらえないでしょうか。きっと鉄の棒が一本挿してあるんじゃないかな。
まっすぐな目線だとアレックスさんの胸かお腹にしかいかないのはあたしの背が小さいからなのか、アレックスさんの背が高いからなのか。うん。たぶんあたしの背の問題だと思うな。
あ、ファミリアの小人のマイクちゃんはアレックスさんの後ろの戸棚で寝そべっている。
あたしとアレックスさん、マイクちゃん以外でこの屋敷で働いているのはコックさんともう一人の使用人さんだけ。つまり4人でこの屋敷を支えているの。
以前は使用人一人で大丈夫だったみたいのだけれど、最近ご主人様が一つ偉くなって新しくてより広い今のお屋敷に移る事になって、もう一人使用人……あたしを加える事になったんだって。
そうそう。あたしはまだこの屋敷のご主人様に会っていない。
聞くところによると、ちょっと偉い騎士様で今は任地で厄介事が起きて帰ってこれないんだって。どんな男の人なんだろう。
あれ、そういえばご主人様のお名前なんだっけ……うわ、あの時は半ば呆然としてたから覚えてない。こんどそれとなく聞き出しておかなくちゃ。
「では今日から新しく教育を終えた使用人のアイルが加わります。アイルには掃除と洗濯、厨房の手伝いといったものを主に担当してもらいます。アイル、くれぐれも気を抜かずに屋敷の迷惑にならないようにしなさい」
はい。しっかりやります。
アレックスさんの青い瞳があたしを射抜くみたいに細められた。どうしても怖くて真正面から見る勇気がなくて俯きがちになってしまう。
「まずは門の掃除です。それが終わりましたら井戸から水を汲んで裏の水がめ3つを満杯にしておきなさい」
「分かりました」
なんだか思ってたのと違って今のところその……夜の、その、あれはないみたいだけど、借金の形として連れてこられたんだからあたしは身を粉にして働いて当然なんだ。
これからあたしは二十年、ずっとこの屋敷に縛り付けられて何も望まずに借金を返済しなくちゃいけないんだ。うん。頑張ろう……
まずは朝の掃除。
「アイル」
「は、はい、アレックスさん。なんでしょう」
ドキリとする。おそるおそる振り返ると厳しい目をしたアレックスさんがいた。
「あちらに蜂と蝶の死骸が落ちていましたよ。あと目に見える範囲だけでなく、もっと奥もキチンと掃きなさい。お客様がお越しいただいた時に万一見苦しい物をお見せしてしまったらご主人様に恥をかかせることになります」
「す、すいません、すいません……」
「謝罪の言葉は一度で結構。さあ、すぐに取り掛かりなさい。
……箒が少し大きすぎましたか。明らかに体に合わずに掃くのも一苦労のようですね。すぐに手配して子供でも使えるものを寄越してもらわねば」
次に水汲み。
「えっと、まずは水瓶を探して……あった」
屋敷の裏手に行くとあたしの背丈ほどある水瓶が3つあった。井戸から水を汲んでここまで運び、水瓶に水を満たしていかなきゃ。
丸井戸に着いたら桶をとって滑車にかけて井戸の中に吊るし入れる。桶に水を汲んだら引き上げる。んしょっと……ああん、重いよ。
それでもなんとか水瓶と丸井戸とを往復して水瓶を全部満杯にできた。
も、もう腕と足がぱんぱん……ああ、お日様が真上にきてる。お昼になっちゃった。
「アイル」
「はいっ! こ、今度はなんでしょう」
「情けない。井戸から水を汲んで水がめ3つ満杯にする程度で午前が終わるとは。なんという非力で使えない使用人でしょう。もういいです。あなたに任せていては日が暮れてしまいます。厨房の手伝いにでも行ってなさい」
「す、すいません……」
「……後で湿布をもらっておくように。明日が筋肉痛で使い物にならなくなっては困りますからね」
お昼からの仕事は屋敷の窓拭きだった。
「んしょ、んしょ……」
布を片手に窓に張り付く。もう2回も怒られている。今度こそいい所を見せないと。
背が届かないだろうということで予め台を借りていたが……それでも窓のてっぺんには届かない。
ど、どうしよう……
「アイル」
「はい! すいません!」
背中から低い声がした。どこか苦い声みたいに聞こえた。あああ、また怒られるんだ。
「まさか台を使っても届かないとは……つくづく使いにくい使用人ですね」
くすん。今度もダメだった……
「……私の配置ミスですね。今度もっと高い台を作ってあげますから、今は小さなあなたでも掃除できる別館にいきなさい。無理して台から落ちたら怪我してしまいます」
「はいぃ……」
とぼとぼ。
窓拭きが終わって、次は厨房でお皿洗いだ。
「アイル」
「はい! すいません!」
こ、今度はなんだろう。
「水を無駄に使いすぎです。水はもっと効率よく使いなさい。それともまた水汲みをしたいのですか?」
こ、これ以上の水汲みはいやああああ……!
「ほら、貸してごらんなさい。洗い物をするときはこうするのです」
またダメ出しされちゃった……はああぁぁ。
「……アレックスさん。あんた今休憩時間なのに何やってるんですか」
「コック長が気にすることではありません」
「いや、気にするって。メイドからあちこちでのあんたとあの子の目撃証言をもらってるんだが……」
「問題ありません」
「……そうか」
いい時間になったから洗濯物をとりこんで、仕舞う。
今度は上手にやれた! やった!
「アイル。先ほどストロベリーを頂きましたので厨房に置いておきました。後で食べなさい」
「はい! すいません! 今すぐ食べてきます!」
上手くいったと思ったのに、どうしてこういつも怒られるんだろう。
食堂に行くと切り分けられたストロベリーが盛り付けられていた。
もたもたしていられない。急いで食べないとまた怒られてしまう。しっかり仕事をしないと。もう怒られるのはいやだ。
手を洗って真っ赤なストロベリーを摘む。瑞々しいそれはとても美味しそうだった。
口に運ぶと甘さと酸味が広がる。ああ、幸せ……
さあ。食べ終わった事だし、次の仕事へ行かなくちゃ! 本当、猫の手も借りたい忙しさってこの事を言うのね。
あたしは一つ溜息を吐いて本館へ向かった。ストロベリーご馳走様でした!
……ん? あれ? んん?
何か釈然としないものを胸に抱えてあたしはこの後も陽が暮れるまで屋敷を駆けずり回った。
★★★★★
お、終わった……!
夜もとっぷりと更けて、あてがわれたメイドの部屋であたしはベットに倒れていた。もう一人の先輩使用人さんは街からの通いだから、今のこの部屋はあたしだけの部屋だ。
終礼の頃にはもう疲労困憊でろくに歩けなかった……初日からこれじゃあ、あたしここで暮らしていけるのかなぁ。
いや、暮らしていくんじゃなくて、暮らさないといけないんだ。
ふと部屋を見渡すと、花瓶に牡丹の花が生けてあった。けれど牡丹の花はその自分の重さに耐えかねたみたいに床に花びらを散らして落ちていた。
ああ、そういえばここに来る前にも似たようなものを見た覚えがある。
これはあたしの未来なのかな……
そっと床の牡丹の花を手に取る。花は冷たかった。
「アイル。起きていますか?」
この声は。
「ア、アレックスさん?」
ど、どうしたんだろう。こんな時間に……もしや、ついに? 牡丹の花はまさかこの事を……?!
「失礼しますよ」
アレックスさんが一度断りを入れて扉を開けて中に入ってきた。
その姿はまだイブニングスーツのままだ。右手に花と袋を持っている。なんだろう。
「な、なにか……?」
まだ何かヘマをしていたのがあったのかな……。
「そう身構えなくても大丈夫ですよ。湿布はもうもらいましたか?」
あ。
「い、いえ。まだです」
「そうですか。ではこちらを使いなさい」
アレックスさんが袋から取り出したのは……? え、湿布?
えっと、もしかしてわざわざそれを届けに……?
あたしの手の中にねじこむように湿布が渡される。
おそるおそるアレックスさんの目を見る。包帯と火傷みたいな痕が怖くて今までまともに目を合わせてなかったけれど、手をぎゅっと握りしめてそおっと、そおっと真正面から見上げてみた。
「――」
「おや。その手の中のものは……ああ、牡丹の花が落ちてますね。
ちょうどいい。余り物ですがこれを飾っておきましょうか」
そう言って、アレックスさんは右手に持っていた新しい牡丹の花を花瓶へと挿し込む。 つぼみのそれは、明日の朝になれば太陽の光を受けてきっと綺麗な大輪の花を咲かせるに違いない。
「さあ、アイル。明日も早いですよ。もう火を落として眠りなさい。寝坊なんて真似をすれば厳しい罰を与えますからね。明日もしっかり働きなさい」
そう言って踵を返してドアに手をかけるアレックスさん。
この時、あたしは何も考えず、からっぽの頭で口が動いていた。
「あの、アレックスさん……!」
アレックスさんが怪訝そうな目で振り返った。
「今日はありがとうございました」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけアレックスさんの包帯から覗く青い目が丸くなった――ように見えた。
「お、おおおお休みなさい!」
思わず体当たりをするようにアレックスさんを部屋の外に押し出し、扉を閉める。
はあ、と熱い溜息がでる。体中が火照ってるみたいだ。
「うん。寝よう」
明日こそ、もっとしっかりやろう。
もらった湿布がひんやりとして気持ちよく、不思議と暖かな心地であたしは眠りについた。
ああ、今日はいい夢が見れるかも。
――おまけ。
「へえ……そう。逃げたの。あんな小さい子置いて」
屋敷の執務室にはようやく任地から帰ってきた主人の姿があった。
主人は17歳の少女だった。名前はシャルロット・アーデンボルグ。
ストレートの長い金髪を背中に流し、切れ長の紫の瞳は見る人に怜悧な印象を与えるだろう。胸には古めかしい首飾りが光っている。
元々他国から深い親交のあったガードナー侯爵を頼って亡命してきたという経緯があるが、今では彼女も立派なこの国の騎士である。
そしてアレックスはガードナー侯爵の指示を受けてシャルロット嬢の身辺の手伝いをするために仕えていた。
「いいわ。絶対にハイフィールド卿の首ねっこ掴んで是が非でもあの子の前に引きずり出してやるわ。そしてきっちり借金をあの男から取り立ててあげる。
アレックス!」
「はい」
「街に出て追跡屋の『隼』に依頼を出してちょうだい。多少高くついても構わないわ。絶対にあの男を逃がさないわよ」
「かしこまりました。では明日の朝一番にでも……」
「いいえ、今すぐよ。ただでさえ下手に見逃すと甘く見られるというのに、こんな真似まで仕出かしてくれるなんてね。ふふふ」
少女は目を据わらせ、静かな怒りで目に炎を揺らしていた。
「ご主人様。アイルの雇用条件の件ですが……」
「ああ、目を通したわ。あれで構いません。
……ふふっ。アレックスは甘いわね」
「申し訳ございません」
「謝りの言葉は不要よ。まあもっとも借金返済のメインはハイフィールド卿に支払わせるつもりだから、あの子はそれまでの繋ぎね。
あの子が当家に返済したお金はそのまま手をつけずにとっておいてちょうだい」
「かしこまりました」
アレックスとマイクは主の部屋から退室し、扉を静かに閉める。
「な、喜んだだろう。やっぱいいネタだったわ。ケケ」
「あなたは黙ってなさい」
了
すいません。農務水産省(MAF)に当たる昔の役職が分かりませんでしたorz
あと女性の、しかも子供の一人称は鬼門だと思いました。