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金の檻、月の声

作者: 早坂知桜
掲載日:2026/04/23

 松明の火が揺れるたびに、影が踊った。


 大広間の奥、高い玉座の下で、ダークエルフたちの笑い声が波のように押し寄せては引いていた。酒の匂いと獣脂の煙が混じり合い、天井の高いその空間をどんよりと満たしている。宴は深夜を過ぎてなお続いていた。


 ラエリアは連れてこられた。


 手首に細い鎖、首には白銀の首輪。それはライトエルフの姫が身につけるべきものではなかった。しかし彼女は俯かなかった。薄い唇を一文字に結び、暗色の石畳の上に立ち、広間を埋め尽くすダークエルフたちの視線を正面から受けた。


「歌え」


 玉座に腰掛けた男が、低く命じた。ラーシェン卿——ザイドの父、この地の領主にして大貴族。白髪交じりの黒髪を後ろに束ね、その瞳には人を値踏みするような光があった。


 ラエリアは黙っていた。


「聞こえなかったか」


 鎖がわずかに引かれた。痛みではなく、屈辱だった。それでも彼女の瞳は揺れなかった。


 やがて、ほんの少しだけ、彼女は口を開いた。


 声は歌というより息だった。細く、透明で、しかし広間の端まで届いた。音というより光のようなものが、空気の中に溶けた。松明の炎がゆらりと揺れ、笑い声が止んだ。誰かが杯を置く音がした。


 ザイドはその時、柱の傍に立っていた。


 父の宴には義務として出席していたが、興味はなかった。捕虜の姫を晒し者にする催しに、胸が躍るほど若くはもうなかった。酒を口に運びながら、広間の向こうをぼんやりと見ていた。


 だから、声が来た時、彼は不意をつかれた。


 その声は彼の胸の、自分でも知らなかった場所に触れた。それはまるで、ずっと昔に失くしたものの名前を、突然誰かに呼ばれたような感覚だった。


 歌はほんの十数秒で終わった。


 広間に沈黙が落ちた。それから、ラーシェン卿が低く笑った。他の者たちも笑い、また酒を注ぎ合い、宴は続いた。


 ラエリアは連れ去られた。


 ザイドだけが、彼女が立っていた場所を、しばらく見つめていた。


  *


 塔の部屋は広くはなかった。


 しかし窓は大きく、晴れた夜には月が真正面から差し込んだ。それが父の配慮なのか皮肉なのか、ラエリアには判断がつかなかった。ライトエルフは月の光の中でわずかに力を取り戻すと言われていた。あるいはただ、美しい鳥には美しい檻がふさわしいと、そう思っただけかもしれない。


 部屋の中央に、鳥籠があった。


 金の細い支柱で編まれた、人の入れるほどの大きさの檻。その中に、白い敷布と小さな卓と、ラエリアのすべてが収まっていた。


 最初の数日、彼女は歌わなかった。


 食事は運ばれ、水は換えられ、しかし誰も口を利かなかった。ラエリアも黙っていた。故郷を思った。父王の声を、母の手の温もりを、緑の森の風の匂いを。思えば思うほど、それらは遠くなった。


 ザイドが初めてその部屋を訪れたのは、捕われて三日目の夜だった。


 扉が開く音に、ラエリアは顔を上げなかった。


「眠れているか」


 予想していなかった言葉だった。命令でも嘲りでもなかった。ラエリアは籠の中で膝を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。


 ダークエルフの男は、部屋の入り口に立っていた。黒い髪、濃い灰色の瞳。父親に似た高い頬骨と、しかし父親とは違う、どこか不器用な表情。


「あなたが、ザイド卿ですか」

「そうだ」

「私に何の御用ですか」


 男は少し間を置いた。


「用というほどのものはない。……ただ、様子を見に来た」


 ラエリアは何も言わなかった。様子を見に来た、という言葉の意味を考えた。管理されている、という事実を改めて突きつけられた気がした。しかし男の声に、悪意はなかった。それがかえって、どう扱えばいいか判断しにくかった。


 ザイドはそれ以上何も言わず、部屋を出た。


 次の夜も来た。その次の夜も。


 いつからか、ラエリアは彼が来る前に歌うようになっていた。それは意識的な選択ではなかった。ただ、月が出ると、声が漏れた。それだけだった。


 ザイドはいつも扉の外で聴いていた。


 ある夜、ラエリアは敢えて言った。


「盗み聴きはお行儀が悪うございますよ、ザイド卿」


 扉が開いた。男は少し耳の先を赤くしながら入ってきて、籠から二歩ほど離れた場所に腰を下ろした。


「好きだ」


 突然の言葉に、ラエリアは歌いかけた息を止めた。


「そなたの声が」と、ザイドは付け加えた。しかし最初の二文字は、もう取り消せなかった。


「……失礼な方ですね」

「そうかもしれない」

「捕えておいて、好きだと言うのですか」

「捕えたのは父だ」

「あなたは止めなかった」

「…………止められなかった」


 正直な答えだった。ラエリアはそれ以上、責める言葉を探せなかった。


  *


 ラーシェン卿が塔を訪れたのは、ある昼下がりのことだった。


 ラエリアは窓の格子越しに空を見ていた。ダークエルフの領地の空は、ライトエルフの森とは違う——青よりも深く、どこか重い色をしている。慣れてきたとは言えなかった。ただ毎日それを見ていた。


「姫よ」


 卿の声はなめらかで低く、それだけで空気が変わった。ラエリアは振り返らなかった。


「息子は毎夜ここへ来ているそうだな」

「……それが何か」

「可愛い息子が溺れているようで、父としては心配でな」


 卿はゆっくりと部屋を歩いた。


「そなたもご存知だろう、ライトエルフとダークエルフが交わると、互いの属性が打ち消し合い、二人とも消滅するという」

「知っています」

「息子はそなたに惹かれている。このまま放置すれば、いずれ取り返しのつかないことになりかねない」


 ラエリアはようやく振り返った。卿は籠の前に立ち、彼女をまっすぐ見ていた。


「それを私に言いに来たのですか」

「教えておいてやろうと思って」


 卿は薄く笑った。


「ザイドがそなたを手に入れたのはな——そなたの故国と引き換えだ」


 沈黙が落ちた。


「……何と言いましたか」

「聞こえなかったか。あの子は私に言われて、そなたの故国を落とした。見返りにそなたをもらった。それだけのことだ」


 ラエリアの手が、金の支柱を握った。


 父の顔が浮かんだ。母の声が聴こえた気がした。緑の森が、光の王宮が——。


「……出て行ってください」


 卿は満足したように頷き、踵を返した。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 その夜、ザイドが来た時、部屋に歌はなかった。


 月が満ちていた。光だけが豊かな、静かな夜だった。籠の中でラエリアは膝を抱え、俯いていた。泣いてはいなかった。泣き終わっていた。


 ザイドは部屋に入り、いつもと違う空気を感じた。歌がない。それだけで、何かが起きたとわかった。


「ラーイ」

「そのように気安く呼ばないでください」


 声は穏やかだったが、その穏やかさが刃のようだった。ザイドは立ち止まった。


「……何があった」

「あなたのお父上がいらっしゃいました」


 沈黙。


「ラーイ——」

「私の父や母を、殺したのですか」


 直接的な問いだった。ザイドは答えなかった。答えられなかった。その沈黙が、答えだった。


「そなたが欲しかった」やがて彼は言った。「ただ、それだけだった」

「……私の父や母を殺してですか」

「そうだ」

「私の心が、それで手に入ると思っておられたのですか」

「……ラーイ」

「そのように呼ばないでと申しました」

「ラーイ、愛している」

「わかりません」


 ラエリアの声は静かだった。


「わかりません、ザイド卿。その手で私を抱けますか。父や母を殺したその手で——私を」


 ザイドは黙った。


 籠に近づき、金の支柱に手を触れた。細い指で、細い柱を、ただ握った。それからゆっくりと床に膝をついた。


 二人の間に、金の格子があった。月の光があった。言葉にならないものがあった。


  *


 日が経つにつれ、ラーシェン卿はザイドをより遠くへ遣るようになった。


「ラエリアを大人しくさせたければ、故国の生き残りを探し出せ」「ラエリアの情報を引き出したければ、今度の戦に勝ってこい」——命令には必ず、ラエリアの名前が添えられた。


 ザイドはそれに気づいていた。気づいていて、それでも従った。ラエリアのために動くこと以外に、理由を見つけられなかった。いや——ラエリアのために動くことが、ラエリアを傷つけているとわかっていながら、止まれなかった。


 ある夜、遠征から戻ったザイドは、いつものように塔へ上がった。


 月はなかった。雲が厚く、星も見えなかった。部屋は薄暗く、籠の中でラエリアは横になっていた。目は開いていた。


 ザイドは籠の前に立ち、低く言った。


「戻った」


「……お帰りなさいませ」


 ラエリアは起き上がり、ザイドを見た。彼はいつもより疲れて見えた。ただの疲労ではなく、もっと深いところが消耗しているような目をしていた。


「ザイド卿」

「なんだ」

「あなたは、いつまでこうするのですか」


 男は答えなかった。


「お父上の命令に従い続ける。私を餌に使われ続ける。……それで、あなたは」

「うるさい」

「私は檻の中にいます。あなたは外にいる。でも、どちらが囚われているか——」

「うるさいと言った」


 ザイドは籠の前に来て、扉に手をかけた。鍵を取り出した。


 ラエリアは動かなかった。


「消えてもいい」


 彼は言った。声が低く、静かだった。


「俺が父の駒であり続けるなら、それは俺ではない。俺は——ただ、そなたが欲しかった。そなたの声が、そなたの怒りが、そなたの目が。それだけが本当だった。消えてもいい。ただ一度だけ、そなたを——」


「ザイド」


 初めて名前を呼んだ。卿もなし、敬語もなし。ただ名前だけ。


 男は動きを止めた。


 ラエリアは立ち上がり、扉に手を触れた。内側から。


「私も……」


 声が少し揺れた。


「最初から、嫌いではありませんでした。だから、拒み続けたのです。嫌いなら、こんなに苦しくない」


 鍵が回った。


 扉が開いた。


 月のない夜に、金の鳥籠が開いた。


  *


 何も起きなかった。


 二人はしばらく、そのことを理解できずにいた。


 消えなかった。光が打ち消し合わなかった。闇が滅びなかった。ただ、夜があった。二人がいた。それだけだった。


 ラエリアが先に声を出した。


「……消えていない」

「……消えていないな」


 また沈黙。


 それからザイドが、ふっと息を漏らした。笑いとも嘆息ともつかない、力の抜けた音だった。


「嘘、だったのか」


 ラエリアは少し遅れて言った。


「……最初から、嘘だったのですね」

「……俺も知らなかった」

「存じております」


 長い沈黙があった。やがてラエリアが言った。


「種族が交わらないようにするための、嘘」

「そういうことだろうな」

「……怒っていいですか」

「存分に」

「怒る気力も、少し、なくなりました」


 ザイドは何も言わなかった。ラエリアも何も言わなかった。


 窓の外で、雲が動いた。月が顔を出した。遅れてきた月の光が、部屋の中に静かに差し込んだ。金の籠が、その光を受けて、かすかに輝いた。


「父に、どうするつもりですか」


 ラエリアが訊いた。


「わからない」


 ザイドは正直に言った。


「ただ——そなたを返さなければならないと思っている」

「……故国はもう、ないのでしょう」

「王家の血を持つ者が一人でも残っていれば、国は終わらない。俺はそう思っている」


 ラエリアは彼を見た。灰色の瞳が、月の光を映していた。


「それは、私を追い払いたいということですか」

「違う」


 即座に答えが来た。


「ただ——そなたを、ここに閉じ込めたくない。そなたが選べる場所に、そなたを置きたい」

「選んだ結果、ここに留まったとしても?」


 ザイドは少し間を置いた。


「……それは、俺には決められないことだ」


 ラエリアは窓の外を見た。月が、ダークエルフの夜空に浮かんでいた。ライトエルフの森の月と同じ月が。どちらにも属さない光が、ただそこにあった。


「歌っていいですか」

「なぜ俺に訊く」

「……訊きたかったから」


 ザイドは黙って頷いた。


 ラエリアは歌った。


 宴の夜とは違った。首輪もなく、鎖もなく、命令もなく——ただ歌いたいから歌う、そういう声だった。細く、透明で、しかし今夜は震えていなかった。


 ザイドは目を閉じた。


 この声が聴きたかった。最初からずっと。ただそれだけが本当だった。


 月が、夜の中で静かに輝いていた。


 金の籠の扉は、開いたままだった。

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