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お願いです、どうか私と婚約破棄してください

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/14

「お願いです、どうか私と婚約破棄してください」


 第二王子ジークヴァルトの執務室で、リーナ・フォン・ハイデンは完璧な姿勢のまま頭を下げた。


 背筋は真っ直ぐ。視線の角度は15度。両手は臍の前で重ね、右手が上。


 王宮礼法指南役として6年。こういうときでさえ、所作だけは崩れない自分がいっそ恨めしい。


「……面倒だ」


 ジークヴァルトは書類から顔も上げなかった。


「面倒、でございますか」


「手続きが煩雑だろう。父上への報告書、枢密院への届出、ハイデン家への賠償金の算出。誰がやるんだ、それを」


「私がすべて揃えますが」


「ならますます面倒だ。お前がいなくなったら、代わりに誰が外交晩餐会の席次を組む」


 リーナは口を閉じた。


 ――6年間、一度も名前を呼ばれたことがない。

 この人は私を「お前」か「礼法指南役」としか呼ばない。婚約者なのに。いや、だからこそ。


「勝手にしろ。ただし、私から破棄の手続きを切る気はない」


 それが結論だった。


 つまり、こういうことだ。

 令嬢の側から婚約を解消すれば、ハイデン家の面子が潰れる。王子の側から破棄させるしかない。

 だが王子は、私に興味がなさすぎて、破棄する手間すら惜しんでいる。


 ――なら、嫌われるしかない。



 翌日の昼。

 リーナは中庭の東屋で、一人の近衛騎士と向き合っていた。


「粗相の仕方を、教えていただけませんか」


 近衛騎士団副長オスヴァルト・レーヴェは、手にしていた訓練報告書を取り落とした。


「……今、何と?」


「粗相です。無作法。非礼。殿下の前で失態を演じて、愛想を尽かされたいのです」


 オスヴァルトはリーナの顔をまじまじと見た。


 王宮礼法指南役。

 つまり、この王宮で最も正しい所作を教える立場の女性が、「粗相を教えろ」と言っている。


「……なぜ私に?」


「オスヴァルト様は、宮廷で最も礼法に疎いと評判ですので」


「それは褒められているのですか」


「事実の報告です」


 リーナの表情は真剣そのものだった。完璧な姿勢、完璧な発声、完璧な視線の角度で、「粗相を教えろ」と言っている。


 オスヴァルトは額に手を当てた。


「仮に。仮にですが。どのような粗相をお考えで」


「まず紅茶をこぼそうかと」


「……それだけですか」


「殿下の前で、わざと紅茶をこぼします」


 オスヴァルトは3秒ほど黙った。


「リーナ嬢。失礼を承知で申し上げますが、紅茶をこぼしたくらいで婚約破棄をする王族はいません」


「しかし、礼法指南役が紅茶をこぼすのは重大な失態では」


「重大ではありますが、それは『あの人らしくないわね』で終わる類の話です」


 リーナはしばらく考え込んだ。


「では、紅茶をこぼしながら、お菓子も落とすというのは」


「規模が大きくなっただけです」


「同時に椅子を倒す、というのは」


「それはもはや事故です。事故は粗相とは呼びません」


「……難しいものですね、嫌われるというのは」


 その呟きが、妙に静かだった。


 オスヴァルトは、この伯爵令嬢が6年間、王子のそばで一度も所作を崩さなかったことを知っている。晩餐会の席次、外交使節の出迎え手順、王妃の茶会の進行――すべてを完璧にこなし、そして一度も感謝されなかったことも。


「……本気ですか」


「本気です」


「なら、もう少しまともな作戦を立てましょう。紅茶では無理です」


 こうして、近衛騎士団副長オスヴァルト・レーヴェは、自分でも理由のわからないまま、王宮礼法指南役の「婚約破棄作戦」の共犯者になった。



 作戦その1。

 舞踏会で、婚約者以外の男性と親しげに踊る。


「オスヴァルト様、もう少し近づいていただけますか。殿下がこちらを見ているかもしれません」


「見ていませんが」


「……見ていませんか」


「王子殿下は、東の窓際で財務大臣と話し込んでおられます。こちらに背を向けて」


 リーナは一瞬だけ唇を引き結び、すぐにいつもの表情に戻った。


「では、もう少し目立つように笑いましょうか」


「笑えますか?」


「礼法指南役ですので、適切な場面での微笑みは得意です」


「いえ、そういう笑いではなく。楽しそうに、です」


 リーナは首を傾げた。心底わからないという顔だった。


 オスヴァルトはため息をついた。


「……作戦1、失敗ですね」


「判定が早くありませんか」


「相手に見られていない時点で失敗です」


 二人はホールの隅に移動し、壁際で並んでグラスを傾けた。

 傍から見れば、十分に親しげだった。

 ただし、二人はそのことに気づいていなかった。



 翌日、中庭の東屋で作戦会議。


 オスヴァルトが用意したのは、紅茶のカップだった。


「まず、こぼす練習をしましょう」


「さきほど不可能と仰ったのでは」


「不可能と言ったのは作戦としてです。技術として習得しておく価値はあります」


 リーナはカップを手に取った。完璧な角度、完璧な指の置き方。礼法指南役の手は、カップを持つために存在しているかのようだった。


「では、こぼします」


「どうぞ」


 リーナはカップを傾けた。

 ゆっくり、丁寧に、慎重に。

 紅茶が弧を描いてこぼれ――ソーサーの上に、正確に着地した。


「……受け止めてしまいました」


「見事な受け止めでした」


「体が勝手に」


「わかります。私も斬りかかられると体が勝手に受けますので」


「同じでしょうか、それは」


「職業病という意味では同じです」


 リーナは2度、3度と試した。そのたびにカップが微妙に角度を変え、紅茶はテーブルにもスカートにもかからず、行儀よくソーサーに戻った。


「……すごいですね、逆に」


「褒められている気がしません」


「褒めています。本気で。こぼせない才能というのは初めて見ました」


 リーナが不意に吹き出した。小さく、こらえるように。


「笑いましたね、今」


「笑っておりません。咳です」


「嘘ですね」


「礼法指南役は嘘をつきません」


「では咳をしながら口元が上がるのは、どの礼法書に載っていますか」


 リーナが真っ赤になった。

 完璧な姿勢が、ほんの一瞬だけ崩れた。



 作戦その2。

 殿下の前で、意図的に無礼な発言をする。


 これは3日後の茶会で実行された。

 前日の夜、リーナは一人で鏡に向かって練習した。


「殿下の服は似合っておりません」


 声に出した瞬間、自分の心臓が跳ねた。

 もう一度。


「殿下のお召し物は、少々……少々……」


 駄目だ。「少々」の先が出てこない。


 翌朝、中庭でオスヴァルトに相談した。


「どうしても完全な無礼が口にできないのです。『少々お似合いでない』が限界で」


「十分ではありませんか」


「あなたなら何と言いますか」


「私ですか? そうですね。『殿下、その色は壊滅的に似合いません。着替えてください』くらいでしょうか」


「……やはりこの方に頼んで正解でした」


「それは褒めていますか」


「事実の確認です」


 当日。茶会の席でリーナは王子の正面に座り、深呼吸をした。


「殿下」


「何だ」


「本日のお召し物の色合いですが」


 全身の礼法が悲鳴を上げているのがわかる。だが、やるしかない。


「少々、お似合いでないかと存じます」


 沈黙。


 ジークヴァルトがゆっくりとリーナを見た。6年間で初めて、まっすぐに。


「……そうか」


 そして再び書類に目を落とした。


 それだけだった。


 茶会の後、中庭でオスヴァルトに報告した。


「申しました。『お似合いでない』と」


「それで?」


「『そうか』の一言でした」


「……それは無礼ではなく助言です、リーナ嬢。しかもかなり控えめな」


「これが限界なのです。『お似合いでない』を口にするだけで、手が震えました」


 リーナは自分の手を見た。まだ微かに震えている。


 オスヴァルトは笑いをこらえた。こらえきれずに、少しだけ笑った。


「すみません。いえ、笑い事ではないのですが」


「笑い事です。自覚はあります」


 リーナがぽつりと言った。


「私は、人に嫌われた経験がないのです。正確に言えば、好かれた経験も、嫌われた経験もない。いつも、ちょうど良い距離にいただけで」


 風が中庭の薔薇を揺らした。


「ちょうど良い距離」


「ええ。近すぎず、遠すぎず。必要なときだけそこにいて、不要になれば下がる。それが礼法指南役の理想です」


「それは」


「完璧な透明、です」


 オスヴァルトは何も言えなかった。

 代わりに、手にしていたハンカチを差し出した。


「泣いておられますよ」


「泣いておりません。風が目に入っただけです」


「風は吹いていませんが」


「礼法上、風が吹いたことにしてください」


 オスヴァルトは黙ってハンカチを膝の上に置いた。

 リーナはしばらくしてから、音もなくそれを取った。



 作戦その3。

 偽の告白。


「オスヴァルト様」


「はい」


「殿下の前で、私に告白してください」


「……は?」


「偽の告白です。殿下が目撃すれば、さすがに怒るのでは」


「いくつか問題があります」


「どうぞ」


「まず、殿下がそもそも目撃する場所にいる保証がありません。次に、偽とはいえ告白の台詞を考えなければなりません」


「オスヴァルト様であれば、『リーナ嬢、剣を抜きたいほどあなたに惹かれています』などでよいのでは」


「それは告白ではなく脅迫です」


「すみません。告白の語彙が礼法書に載っていないもので」


「載せないでください今後も」


 リーナが小さく笑った。その笑い方は、舞踏会の微笑みとは全く違った。ほんの少しだけ崩れていて、ほんの少しだけ温かかった。


「最後に」


「最後に?」


 オスヴァルトは言いかけて、口を閉じた。


「いえ。最後のは、些細なことです」


「些細でないから言い淀んだのでは」


「些細です。礼法に則って、些細と判定します」


「礼法にそのような判定基準はありません。私が言うのですから間違いない」


 二人は顔を見合わせた。


 この1週間で、こういう会話が当たり前になっていた。

 中庭の東屋が「作戦会議室」になり、毎日昼に顔を合わせ、粗相の計画を立てては失敗し、反省会をしては笑い合う。


 リーナにとって、笑うのは新しいことだった。


 礼法指南役としての微笑みは6年間で数千回。

 でも、こんなふうに口元が勝手に緩むことは、一度もなかった。


 変化は、リーナ自身より先に周囲が気づいていた。

 午後の礼法教室で、若い侍女たちにカップの持ち方を教えているとき。


「先生、今日はなんだか楽しそうですね」


「そうですか? いつも通りですが」


「いつもより、少しだけ……やわらかいです」


 リーナは一瞬だけ動きを止めた。

 それから、いつもより丁寧にカップを置いた。



 結局、偽の告白は実行されなかった。


 代わりに起きたことがある。


 宮廷の噂が、先に走った。


『礼法指南役のリーナ嬢と近衛副長オスヴァルト様が、毎日二人でお茶をしているらしい』

『東屋で楽しそうにお話ししていたわよ。リーナ嬢が笑っているのを初めて見たわ』

『あの方、笑うとかわいいのね……』


 噂というのは便利なもので、作戦より早く、作戦より正確に、宮廷中に広がった。


 そしてついに、ジークヴァルトがリーナを呼び出した。


「近衛のオスヴァルトと親しいそうだな」


 リーナの心臓が跳ねた。作戦がようやく効いた。


「はい、殿下。お親しくさせていただいております」


「……ほう」


「つきましては、婚約破棄の手続きを――」


「それとこれは別だ」


「別、ですか」


「お前の交友関係に口を出す気はない。ただし、婚約は政治だ。父上が決めたことを、私の一存では覆せん」


 リーナは立ち尽くした。


 嫌われることすら、許されないのか。


「もう一つ」


「はい」


「先日の茶会で言ったな。私の服が似合っていない、と」


「……はい」


「あれは正しい。次から事前に見てくれ。それがお前の仕事だ」


 扉が閉まった。


 廊下に出ると、少し離れた場所にオスヴァルトが壁にもたれて立っていた。


「駄目でした」


「……聞こえていました。壁が薄いので」


「粗相をしたつもりが、新しい仕事が増えました」


「それは確かに裏目ですね」


 二人は並んで廊下を歩いた。

 宮廷の誰もが忙しく行き交う中で、二人だけが目的もなく歩いていた。


「リーナ嬢」


「はい」


「作戦、やめますか」


 リーナは歩きながら考えた。


「いいえ。やめません」


「それは婚約破棄のためですか。それとも」


「それとも?」


「……いえ。些細なことです」


「また些細ですか」


「些細というのは便利な言葉ですね」


「便利ではありますが、使いすぎると信用を失います。礼法書にそう書いてあります」


「書いてありませんね?」


「今、書き足しました。脳内の礼法書に」


 オスヴァルトが笑った。


 リーナも笑った。


 廊下の窓から差す夕日が二人の横顔を照らしていたが、二人ともそれに気づかなかった。


 リーナは少しだけ目を伏せた。


「おかしなものですね。婚約破棄されたくて始めた作戦なのに、破棄されないことがこんなに――」


 言葉が止まった。


「こんなに?」


「いえ。何でもありません」


 リーナはいつもの完璧な姿勢に戻った。背筋は真っ直ぐ。視線は15度。


 ただし、その目が少しだけ赤かった。



 その夜、オスヴァルトは宿舎で天井を見上げていた。


 1週間前まで、リーナ・フォン・ハイデンのことをほとんど知らなかった。

 王宮の礼法指南役。完璧な所作。それだけの認識だった。


 今は違う。


 紅茶のこぼし方がわからない人。

 「お似合いでない」を言うだけで手が震える人。

 偽の告白の台詞が「剣を抜きたいほど」になる人。

 泣いたことを「風が吹いた」とごまかす人。

 そして一度も、誰かに「いてほしい」と言われたことがない人。


 彼女が本当に求めているのは、「破棄」ではない。


 ――選ばれたいのだ。


 透明ではなく、ちゃんと見られて、名前を呼ばれて、「いてほしい」と言われたい。


 6年間、完璧な透明でいた人が、初めて「ここにいたくない」と声を上げた。

 それは「嫌われたい」ではなく、「ちゃんと在りたい」の裏返しだ。


 オスヴァルトは、自分の胸の奥にある温度に気づいた。


 些細なことだと言った。

 些細ではなかった。まったく。



 翌朝。


 オスヴァルトはジークヴァルトの執務室の扉を叩いた。


「近衛副長、入室を許可願います」


「何だ」


「リーナ嬢との婚約を、破棄していただきたく参りました」


 ジークヴァルトがようやく書類から顔を上げた。


「……お前が? なぜ」


「私が、この方を迎えたいからです」


 沈黙が落ちた。


 ジークヴァルトは初めて、まともにオスヴァルトの顔を見た。

 そして初めて、まともにリーナのことを考えた。

 6年間、隣にいた女性のことを。


「……俺はあの女に、一度も名前を呼ばなかったな」


「はい」


「不便だったか」


「不便以前の問題かと」


 ジークヴァルトは長い息を吐いた。

 そこに怒りはなかった。執着もなかった。ただ、薄い後悔のようなものが一瞬だけ通り過ぎて、消えた。


「手続きは枢密院を通せ。賠償金の算出は――」


「リーナ嬢がすでに全書類を揃えておられます。3日前の日付で」


「……準備がいいな」


「礼法指南役ですので」


 ジークヴァルトは鼻で笑った。


「持っていけ。あの――リーナ嬢に、迷惑をかけたと伝えろ」


 初めて名前で呼ばれたのが、最後の日だった。

 でもそれで、十分だった。



 中庭の東屋。


 いつもの場所に、いつものようにリーナが座っていた。

 膝の上に礼法書が開かれていたが、ページは進んでいなかった。


 オスヴァルトが歩み寄ると、リーナは顔を上げた。


「殿下が?」


「婚約破棄を承認されました」


「…………」


「書類は枢密院に回します。賠償金の算出書もお預かりしました」


 リーナは数秒、黙っていた。


「作戦は、結局すべて失敗でしたね」


「ええ。全部裏目でした」


「紅茶もこぼせず、無礼も言えず、偽の告白も実行できなかった」


「最悪の作戦参謀でした」


「いいえ」


 リーナが少し笑った。東屋の日差しの中で、その笑顔はやわらかかった。


「最高の共犯者でした」


 風が薔薇を揺らした。


 オスヴァルトは一歩、近づいた。


「リーナ嬢」


「はい」


「作戦の報告をしてもよろしいですか」


「どうぞ」


「先ほど殿下の前で、『この方を迎えたい』と申し上げました」


 リーナの目が止まった。


「偽の告白を頼まれたとき、最後に言いかけたことがあります。些細だと言いました」


「覚えています」


「些細ではありませんでした」


 オスヴァルトはもう一歩、近づいた。


「あなたは、紅茶をこぼす角度まで真剣に考える人です。『お似合いでない』を言うために前の晩から練習する人です。偽の告白を頼んでおいて、相手の気持ちを気にする人です」


「それは……」


「私はあなたの粗相の先生になるはずでしたが、結局一つも粗相を教えられなかった。代わりに教わったことがあります」


「何を」


「あなたの隣にいると笑えるということを」


 リーナの唇が震えた。泣いているのか、笑っているのか、本人にもわからなかった。


「あなたは完璧な透明だと言いました。でも、私にはずっと見えていましたよ。舞踏会のとき、誰にも見られていないのに一人で所作を正していたあなたが。茶会のあと、空のカップに微笑みかけていたあなたが。作戦を報告しに来るとき、東屋に走ってくる足音が少しだけ速くなっていたことも」


「……見ていたのですか」


「見ていました。最初から」


 リーナの目から涙がこぼれた。

 6年間、一度も泣かなかった人が。

 粗相一つできなかった人が。


 初めての粗相が、泣くことだった。


「すみません。礼法指南役が人前で泣くなど――」


「今のあなたは礼法指南役ではありません」


「では何ですか」


「リーナです。リーナ・フォン・ハイデン。――私がちゃんと名前を呼びます。何度でも」


 リーナは袖で涙を拭った。これも礼法違反だ。ハンカチを使わなければならない。だが、そんなことはどうでもよかった。


「……では、お聞きしてもよろしいですか」


「何なりと」


「婚約の手続きというのは、破棄と同じくらい面倒なのでしょうか」


 オスヴァルトが笑った。穏やかで、少しだけ不器用な笑い方だった。


「破棄より面倒です。枢密院への届出、両家への挨拶、式次第の策定、招待状の作成――」


「なるほど。それでしたら」


 リーナは涙の残る顔で、完璧な姿勢に戻った。


「書類の準備は、私がいたしますので」


 今度は、泣きながら笑っていた。


「ただし、紅茶をこぼす可能性だけは否定いたしません」


「……こぼしてください。いくらでも」



 後日。


 王宮の礼法教室に、新しい教本が一冊加わった。


 表紙には几帳面な字で「礼法指南 補遺」と記されている。


 最後のページを開くと、こう書かれていた。


 『補遺第17条。完璧な所作の持ち主が、一つだけ粗相を許される場面がある。――好きな人の前で、泣くときである』


 その横に、別の筆跡で書き足しがあった。


 『および、紅茶をこぼすとき。署名:オスヴァルト・レーヴェ』


 教本の余白は、少しだけ広い。

 二人分の筆跡が、ちょうど収まるくらいに。

【作者から読者様へお願いがあります】


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