第8話 宗教国家の問い
翌朝、黒い塊はまだ空に浮かんでいた。
落ちない。
消えない。
延期は続いている。
だが、永遠ではないことは、俺にもわかる。
「……揺れてます」
ハルトが空を見上げる。
確かに、塊の縁がわずかに歪んでいる。
均衡は、完全停止ではない。
抑え込んでいるだけだ。
小屋の前に、一人の僧が立っていた。
昨日の軍勢の中にいた、宗教国家ルーメンの代表だ。
白い僧衣。落ち着いた目。
護衛は連れていない。
「話を」
静かな声。
「短く」
俺は答える。
僧は空を見上げる。
「あなたは、循環を知っている」
「少し」
「戦争は世界の代謝です」
またそれか。
「代謝って便利な言葉だな」
俺は肩をすくめる。
「人が死ぬのも代謝か」
僧は否定しない。
「世界は静止すると腐る」
「腐らせない方法を探してる」
僧の目が細くなる。
「あなたは、可能性を削っている」
核心。
俺は黙る。
僧は続ける。
「星は、世界の枝」
エリシアが息を呑む。
ハルトが険しい顔になる。
僧は俺を見つめる。
「あなたは枝を切る」
「切りすぎると?」
「幹が痩せる」
なるほどな。
俺の感覚は間違っていない。
僧は静かに言う。
「完全に戦争を止めれば、世界は停滞する」
「だから止めない」
俺は即答する。
僧はわずかに目を見開く。
「……ほう」
「減らすだけだ」
僧は数秒、俺を見つめた。
やがて、深く一礼する。
「あなたは、破壊者ではない」
「面倒くさがりだ」
僧の口元がわずかに緩む。
「我が国は、あなたを“異端”とは認定しない」
それは助かる。
宗教国家に敵認定されると、面倒が増える。
「ただし」
やっぱりある。
「あなたが循環を完全に止めるなら、そのときは敵となります」
「止めない」
僧は頷き、去っていく。
エリシアが言う。
「三国が様子見に回りました」
「あと四つ」
ハルトが言う。
「残りは小規模国家と、二つの大国」
大国。
面倒度が高い。
俺は空を見る。
黒い塊が、ほんのわずかに縮んでいる。
自然減衰か。
延期が効いている。
削りすぎなければ、暴走は抑えられる。
◇
夕方。
軍勢の一部が撤退を始めた。
完全ではない。
だが緊張は緩んだ。
エリシアが地図を広げる。
「ここを交易の中心にするなら、街道を整備する必要があります」
面倒。
でも必要。
「人手は」
「亡命民がいます」
ヴァルノアから逃げ延びた民。
行き場がない。
俺は頷く。
「働きたいなら働け」
エリシアが微笑む。
「あなたは、本当に王にならないのですね」
「ならない」
「なぜ」
「責任が重い」
エリシアは真面目な顔で言う。
「もう背負っています」
俺は空を見る。
星。
まだ多い。
でも減っている。
「全部背負うのは面倒だ」
俺は言う。
「分けろ」
エリシアは静かに頷く。
◇
夜。
黒い塊が、さらに縮む。
完全に消えたわけではない。
だが落下の危険は減っている。
俺は空を見上げる。
星は、昨日より一つ少ない。
延期で一つ。
勇者で三つ。
隕石で一つ。
合計、五。
少ないようで、多い。
エリシアが隣に座る。
「レイ」
「ん」
「もし星が全部消えたら」
「消えない」
即答。
エリシアが小さく笑う。
「自信があるのですね」
「ない」
俺は正直に言う。
「だから遠回りしてる」
沈黙。
遠くで、亡命民たちが焚き火を囲んでいる。
小さな笑い声。
子どもの声。
その音を聞きながら、俺は思う。
最短なら、世界は一瞬で静かになる。
でも。
この声も、消えるかもしれない。
俺は空を見上げる。
星はまだ、十分にある。
だから。
削らない。
削りすぎない。
遠回りで行く。
面倒でも。
そのとき。
夜空の奥で、かすかに。
別の“揺らぎ”が生まれた。
黒い塊とは違う。
もっと深い。
もっと根源的な。
俺は目を細める。
「……なんだ」
エリシアが気づく。
「レイ?」
揺らぎは一瞬で消えた。
気のせいか。
いや。
違う。
世界の奥が、こちらを見た気がした。
俺は空から目を離す。
面倒が、もう一段階上がる予感。
でも。
まだ笑える。
まだ畑はある。
まだ星はある。
俺は小さく呟く。
「……来るなら来い」
遠回りで、相手してやる。




