第2話 召喚されたくなかった勇者
雑木林を抜けると、空気が変わった。
さっきまでのどかな田舎の匂いは消え、代わりに焦げた金属と、湿った魔力の臭いが鼻を刺す。遠くの空が、うっすらと赤く脈打っているのが見えた。
「……うわ」
俺は足を止めた。
面倒の匂いが濃い。
騎士団長——さっき思い出した、名前はハルトだ——が緊張した声で言う。
「隣国イシュタルが三日前に勇者召喚を敢行しました。ですが……」
「失敗した」
「はい」
遠くで、地鳴りのような振動が走る。
空が裂ける、というよりは、世界の継ぎ目が雑に引っ張られている感じだ。縫い目がほつれて、中から何かが無理やり押し出されている。
「勇者は?」
「……制御不能です」
あー。
やっぱり。
勇者召喚ってのは、異世界から強い人間を引っ張ってくる儀式だ。だが本来は“世界の均衡”に合わせて微調整が必要になる。あれは力が強すぎる。
それを政治的焦りで強引にやると、こうなる。
「勇者は自分を神の使いと称し、召喚国の王城を半壊させ、現在は首都外縁部で暴走中です」
「うわあ……」
俺は顔をしかめた。
自分を神の使いって言い出すタイプは、だいたい話が通じない。
「現在、勇者の放った魔力が空間を歪ませ、上空から“異物”が落下する現象が確認されています。先ほどの隕石もその一つかと」
「なるほどな」
つまりさっきの隕石は、勇者の副作用みたいなものか。
俺は空を見上げる。
赤い脈動が、少し強くなった。
「あれ、止めないと続くぞ」
「やはり……!」
ハルトが食いつく。
俺は頭をかいた。
止めるのは簡単だ。
“勇者が召喚されなかった可能性”を優先すればいい。
でも、それをやると。
——世界のどこかで、枝が切られる。
さっき隕石を消したときも、一瞬だけ何かが“薄く”なった。
まあいい。
考えると面倒だ。
「案内」
「はっ!」
騎士団は馬を引いてきたが、俺は首を振った。
「歩く」
「しかし距離が——」
「馬、酔う」
嘘だ。酔わない。でも馬に乗ると会話が増える。増えると面倒。
ハルトは一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「……全員、徒歩で進軍!」
騎士たちの顔が一斉に曇る。
ごめん。でも俺の精神衛生が優先だ。
◇
首都外縁部。
城壁の一角が崩れ、石材が転がっている。家屋は焼け落ち、人々が遠巻きに避難していた。
その中心に、“それ”は立っていた。
白いマント。金色の装飾。やたらと光る剣。
年は二十前後。黒髪。整った顔立ち。たぶん元は普通の学生とかだろう。
目が、濁っている。
「はははは! これが力か! これが選ばれし者の力か!」
勇者は笑いながら、剣を振るう。
振るわれた先で、空間が裂け、小さな火球が無数に降り注ぐ。
建物が砕け、石畳がめくれ上がる。
「あれが……」
ハルトが歯噛みする。
「レイ殿、どうか……!」
俺は一歩前に出た。
勇者がこちらを見る。
「なんだ貴様は! この俺に近づくとは!」
うるさいな。
俺は片手を挙げる。
「農家」
「……は?」
勇者が眉をひそめる。
「俺は選ばれし勇者だぞ! 神に選ばれし——」
「選ばれない方が楽だぞ」
俺はぼそりと呟いた。
勇者の背後で、再び空間が裂ける。
また隕石級の塊が顔を出そうとしている。
あれが落ちたら、この街は終わる。
さて。
最短は何だ?
勇者を殺す?
面倒だ。英雄の死は政治を呼ぶ。
封印する?
後で管理が面倒。
だったら。
「召喚、なかったことにするか」
俺は小さく息を吐いた。
世界には、分岐がある。
勇者が召喚された世界線。
召喚が失敗した世界線。
召喚が中止された世界線。
俺はその中から一つを選ぶ。
「——召喚、失敗。優先」
コトン。
また、生活感のある音。
勇者の笑い声が、途中で途切れた。
光る剣が、透明になる。
白いマントが、砂のように崩れる。
「……え?」
勇者が、自分の手を見る。
輪郭が、薄くなっている。
「な、なにを……!」
「元の場所、戻れ」
俺がそう言うと同時に、勇者の身体がふっと掻き消えた。
空の裂け目も、閉じる。
赤い脈動が止まり、静寂が戻る。
崩れかけていた石材が、崩れる前の状態に“戻る”。火球の痕跡も、最初からなかったように消えていく。
街は、半壊のまま止まった。
完全には戻らない。
“今この瞬間”から先の被害だけが消えた。
ハルトが呆然と立ち尽くす。
騎士たちも、言葉を失っている。
俺は肩を回した。
「終わり」
「……終わり、ですか?」
「うん」
「勇者は……?」
「元の世界。たぶん」
ハルトが膝から崩れ落ちた。
「……感謝いたします」
感謝はいらない。
俺は空を見上げた。
さっきまで脈打っていた赤は消えている。
青空。
でも。
——星が、一つ。
昼なのに、ほんの一瞬だけ、白い点が消えた気がした。
瞬きの間。
誰も気づかない。
俺だけが、なんとなく違和感を覚える。
「……気のせいか」
俺は首を振った。
考えるな。
考えたら面倒が増える。
ハルトが立ち上がる。
「レイ殿、国王が直々に——」
「行かない」
即答。
「え」
「畑、放置してる」
ハルトが口を開けたまま固まる。
俺は踵を返した。
「勇者はもう来ない。たぶん。隕石もない。今日は終わり」
「で、ですが——」
「政治は嫌いだ」
俺は振り返らずに言う。
「面倒だから」
騎士たちの視線を背中に受けながら、俺は歩く。
畑に戻って、昼寝の続きをする。
それでいい。
——はずだった。
そのとき。
遠く、街道の向こうから、砂煙が上がるのが見えた。
馬が一頭。
その背に、誰かがしがみついている。
追われている。
背後には、別の騎兵の影。
ああ。
これは。
また面倒が増えるやつだ。
俺は天を仰いだ。
「……今日、厄日か?」
青空は、何も答えない。
でも、さっきより少しだけ、広く見えた気がした。




