テスト勉強
期末試験一週間前。
放課後のファミリーレストランは、この世の地獄と化していた。少なくとも、私、東雲葵にとっては。
テーブルの上には、山積みの参考書、プリントの束、そして空になったドリンクバーのグラス。
私の目の前には、二人の「問題児」が座っていた。
「あーもう! 無理! マジで意味分かんない! なんで魔法式のここに『虚数』が出てくんの!? 実在しない数とか詐欺じゃん!」
頭を抱えてテーブルに突っ伏しているのは、カミムラ・ジュン。
炎の天才は、数学Ⅲの教科書の前では完全に鎮火していた。
「……」
その隣で、石像のように固まっているのは、スミ・リョウガ。
彼は現代文の教科書を広げ、芥川龍之介の『羅生門』を睨みつけている。
いや、本当に睨んでいる。彼が集中しすぎているせいで、教科書の紙が少しずつ炭化し始めていた。
「……二人とも、落ち着いて」
私はこめかみを揉みながら、ため息をついた。
私は座学学年トップの優等生だ。自分の勉強だけなら、こんな場所に来る必要はない。
だが、この二人が赤点を取れば、今後の実習で同じ班になった時に私が困る。これはあくまで、私の生存戦略のためのボランティアだ。
「まずジュン。虚数は『存在しない数』じゃなくて、『回転』の概念を表すためのツールだと思って」
私はノートに図を書きながら説明する。
「魔力だって目に見えないけど、方向性はあるでしょ? それを計算するために必要なの」
「うーん……。アオイの説明は分かりやすいんだけどさー」
ジュンはストローを噛みながら、不満げに唸る。
「私の場合、こう、お腹のあたりが『グワッ』て熱くなったら、右手を『バァン!』て出して、そしたらドカーン!じゃん? そこに計算とか入る余地なくない?」
「……その『グワッ』と『バァン』の間に、脳内で無意識に行われているのがこの計算式なのよ」
感覚派の天才に論理を教えるのは、外国人に日本語を教えるより難しい。彼女の脳は「出力」に特化しすぎていて、「過程」を言語化する回路が焼き切れているのだ。
「じゃあ、リョウガはどう?」
私が話を振ると、魔王はゆっくりと顔を上げた。
「……下人が、老婆の着物を剥ぎ取る心理描写が、理解できない」
「えっ、そこ?」
意外なところで躓いていた。
「生きるか死ぬかの状況だ。奪うのは当然。なぜ躊躇う? なぜニキビを気にする?」
彼の世界はシンプルだ。弱肉強食。奪わなければ奪われる。
そんな彼にとって、近代文学の繊細な自意識や倫理的葛藤は、難解な魔導書よりも理解不能らしい。
「……リョウガ。これは『当時の倫理観』と『極限状態』の対比がテーマでね……」
私が解説を始めると、リョウガは眉間に深い皺を寄せた。集中が高まる。
ヤバイ、と思った次の瞬間。
バキィン!!
彼が握りしめていたシャープペンシルが、真っ二つに砕け散った。
破片が隣のテーブルまで飛んでいく。
「あ」
「……リョウガ、力みすぎ」
「すまん。……筆圧の調整が、難しい」
彼は新しいシャーペン(今日で三本目だそうだ)を取り出し、シュンと肩を落とした。
魔境の岩山を素手で砕く男が、0.5ミリの芯に悪戦苦闘している。
(なんなの、この空間……)
私は再び頭を抱えた。
一人は感覚の獣。一人は破壊の化身。
実技では神のような強さを発揮する彼らが、机の前では借りてきた猫(しかも凶暴な)のようになっている。
「ねえねえアオイ! 糖分補給しよ! 頭使ったらお腹空いた!」
「……さっきパフェ食べたばかりじゃない」
「別腹だって! すいませーん! メガ盛りポテトとパンケーキ追加で!」
ジュンが店員を呼ぶ。リョウガも無言でメニューを指差し、肉料理を追加オーダーした。
運ばれてきた大量の料理を、二人はブラックホールのような胃袋に収めていく。
食べている時だけは、彼らは静かだ。
「……ふふっ」
私は思わず笑ってしまった。
「え? 何? アオイもポテト食べる?」
「ううん、違うの。……なんだか、不思議だなって思って」
私は自分のノートを見た。完璧に整理された要点。美しい計算式。
私は、これしかできない。
彼らのような圧倒的な「本能の輝き」を持っていない。
けれど今、その天才たちが、私の言葉を頼りにしてくれている。
私が噛み砕いて教える論理を、彼らは(文句を言いながらも)吸収しようとしている。
「……私も、負けてられないわね」
私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
彼らに勉強を教えることは、私にとっても「感覚的な彼らの思考プロセス」を学ぶ機会になっていた。
タイラ先生の言う「思考を捨てる」ヒントが、この混沌とした勉強会の中にあるような気がしたのだ。
「よし、休憩終わり! ジュン、次は魔力保存の法則! リョウガは古文単語の暗記!」
「えー! 鬼! アオイ先生スパルタすぎ!」
「……ん。努力する」
ファミレスの喧騒の中、私たちの奇妙な試験勉強は、夜まで続くのだった。
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