第2話:ひとつだけの条件と、実習室のわがままな先輩
あのガパオの味なんて、ほとんど覚えていない。緊張で喉が詰まっていたからだ。午後の授業中、フェース先輩のいたずらっぽい笑顔がずっと頭から離れなかった。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、重い足取りで第3実習棟へ向かった。旋盤や溶接機が並び、機械油の匂いが立ち込めている。薄暗くなった実習室の隅、窓際で先輩が待っていた。
「遅いよ、サン君。待ちくたびれちゃった」
作業台の上に座り、機嫌よさそうに足をぶらつかせている。夕日に照らされた彼女のシルエットは、黄金色の縁取りに包まれているようだった。
「先輩、カードを返してください。明日、登校のスキャンに必要なんです」
手を差し出すと、彼女はくすくすと笑って、僕の学生証をツナギのポケットに隠してしまった。
「そんなに急がないで。条件、覚えてる? 『先輩の言うことを一つ聞くこと』」
彼女は台から飛び降り、猫のような足取りで近づいてきた。たまらず後ずさりすると、背中が冷たいスチールロッカーに当たった。もう逃げ場はない。
「……何をすればいいんですか?」
彼女は僕の胸元にそっと手を置き、吐息が触れるほどの距離まで顔を近づけた。いたずらっ子のような、でもどこか真剣な瞳。
「今度の土曜日、街まで付き合って。実習用の新しい手袋を選びたいんだけど……サン君に選んでほしいな」
「えっ……それって……デート、ですか?」
「デート」という言葉を聞いた瞬間、先輩の頬が一瞬だけ赤くなった。けれどすぐに、いつもの小悪魔のような笑みに戻る。
「うーん……どうかな? 答えは土曜日までお預け。ほら、これ。約束だよ?」
カードを僕の手に押し付けながら、指先で手のひらをゆっくりとなぞる。そして彼女は、上機嫌に実習室を去っていった。
「遅刻しちゃダメだよ、私のサン君!」
一人残された僕は、学生証をぎゅっと握りしめた。カードに残る彼女の手の温もりが、ゆっくりと体中に染み渡っていくようだった。
そして約束の土曜日。駅前の噴水広場で待っていると、フェース先輩が現れた。僕は一瞬、息をするのを忘れた。私服姿の彼女は、学校とはまるで別人のようだったから。
オフショルダ―の白いブラウスに、タイトなデニムスカート。緩く巻かれた髪が風に揺れている。通り過ぎる誰もが振り返るほど、彼女は綺麗だった。
「待たせちゃったかな、サン君……ふふ、そんなに見つめちゃって」
彼女は首をかしげてからかうように覗き込んできた。僕は照れ隠しに俯き、足早に歩き出した。
「べ、別に。……手袋、買いに行くんですよね?」
「もう、相変わらず冷たいんだから。でも、そんなところも可愛いけどね」
そう言うと、彼女は自然に僕の腕に絡みついてきた。腕に伝わる柔らかな感触に、心臓が口から飛び出しそうになる。
工具店に入ると、彼女の目はプロのそれに変わった。さっきまでの甘えるような態度はどこへやら、真剣な眼差しで棚の手袋を吟味している。
「これはどうかな、サン君? 私の手に合ってると思う?」
革手袋をはめた彼女の手が、そっと僕の頬に触れた。革の冷たさと、彼女の手の熱が混じり合う。
「……いいと思います。先輩は手が小さいから、スリムタイプの方が使いやすいですよ」
「ふーん……私の手のこと、よく見てるんだね?」
満足そうに微笑むと、彼女はその手袋に決めた。けれど用件が済んでも、彼女は僕の腕を離そうとしない。
「さて、お仕事はおしまい。次はサン君……私をどこに連れて行ってくれるのかな?」
「えっ? 帰るんじゃないんですか……」
「ダメだよ。今日は一日中、私に付き合うって約束でしょ?」
彼女は僕の耳元に顔を寄せ、二人だけに聞こえる囁き声で言った。
「それとも、学校で言いふらしちゃおうかな? 『一年生のサン君が、放課後の実習室で先輩と二人きりでえっちなことをしてました』……って。どう?」
「ちょ、ちょっと! 何もしてないじゃないですか!」
「本当かどうかなんて関係ないよ。みんな、楽しい話の方を信じるものだと思わない?」
獲物を追い詰めるハンターのような瞳。僕は悟った。今日のこの日は、ただの買い物では終わらないのだと。
結局、僕は先輩に連れられて郊外の遊園地までやってきた。黄昏時の遊園地は、家族連れが帰り始め、代わりにカップルたちが集まる時間帯だ。
「ねえ、サン君! 最後にあれに乗ろう」
彼女が指差したのは、ゆっくりと回る巨大な観覧車だった。拒否する間もなく、彼女はチケットを買い、僕を狭いゴンドラへと押し込めた。高度が上がるにつれ、地上の喧騒が遠ざかっていく。
「……先輩、今日は楽しかったですか?」
気まずい沈黙を破ろうと、僕は問いかけた。窓の外を眺めていた先輩が、ゆっくりとこちらを振り向く。夕陽のオレンジ色がゴンドラに差し込み、彼女の瞳をいつもより深く輝かせていた。
「うん、すごく楽しかった……ねえ、サン君。本当はね、手袋なんて一人でも買えたんだよ」
その声には、いつものからかうような響きはなかった。
「えっ……?」
「最初は、ただの気まぐれだった。あの日、一生懸命に整列させてる君を見て、ちょっといじめてみたくなっただけ。でも……」
彼女は座席を移動し、肩が触れ合う距離で隣に座った。彼女の体温と、かすかな石鹸の香りが僕を包み込む。
「実際に一緒に過ごしてみたら、君って本当に真っ直ぐで、優しくて……。もっと君のことを知りたくなっちゃった」
観覧車が頂上に達した瞬間、彼女は僕の肩にそっと頭を乗せた。
「学校では、ワガママな先輩かもしれない。でもここでは……ただの『フェース』として見てほしいな。いいかな?」
僕の心臓は、壊れた機械のように激しく鼓動していた。彼女の脆くて真っ直ぐな言葉が、胸に突き刺さる。
「……先輩。そんなの、ずるすぎますよ」
僕は勇気を振り絞り、震える手で彼女の小さな手を握り返した。彼女は驚いたように目を見開いたけれど、すぐに幸せそうに目を細めて、僕の手を強く握り締めた。
ゴンドラが地上へ向かって降りていく。僕たちの新しい関係は、今始まったばかりだ。月曜日からの学校生活は、きっと今よりもっと騒がしくなるだろう。
でも今は、この温もりを、できるだけ長く感じていたかった。




