真 バレンタイン少女の恋とマシュマロ
二月十四日。バレンタインデー。
放課後の教室は、甘いチョコレートの香りと少女たちの弾んだ声で満ちていた。
「花音ちゃん、はい、これ!」
親友の美咲が差し出してくれたのは、ピンク色のリボンで結ばれた小さな箱だった。
「ありがとう、美咲。私からも」
花音――桜井花音は、自分で作ったクッキーの入った袋を美咲に手渡す。友チョコの交換は、毎年この時期の楽しみの一つだった。
「今年も本命チョコは作らなかったの?」
「うん。まあ、特に気になる人もいないし」
花音は肩をすくめて笑った。中学二年生。周りの友人たちは恋バナに夢中だけれど、花音にはまだピンとこない。漫画や小説に出てくるような運命的な出会い、なんてものがあるんだろうか。
「そっか。でも花音ちゃんって可愛いから、きっとすぐに素敵な人と出会えるよ」
「そうかなあ」
窓の外を見ると、空はどんよりと曇っていた。天気予報では、今夜遅くから雪が降るという。
2
美咲や他の友人たちと駅前で別れ、花音は一人、住宅街の中を歩いていた。
午後五時を過ぎて、辺りは薄暗くなり始めている。街灯が一つ、また一つと灯り始めた。冷たい風が頬を撫でる。
ポケットに手を突っ込みながら、花音は今日友達からもらったチョコレートのことを考えていた。帰ったら、お母さんとお父さんにも見せよう。弟の蓮は、きっと「僕にもちょうだい」とねだってくるだろう。
ふと、小さな白いものが視界の端をよぎった。
花音は立ち止まり、空を見上げる。雪だ。予報より早く降り始めたらしい。最初は小さな雪片が、次第に大きくなっていく。
「わあ、きれい」
思わず呟いた。雪は音もなく降り積もり、灰色だった世界を白く染めていく。
花音は再び歩き始めた。家まであと十分ほど。早く帰って、温かいココアでも飲もう。
住宅街を抜け、小さな公園の前を通りかかったとき。
花音の足が、自然と止まった。
3
公園の入り口、街灯の下に、誰かが立っていた。
雪の中で、じっと動かない人影。
男の子だ、と花音は思った。自分と同じくらいの年齢だろうか。学生服を着て、鞄も持たずに、ただそこに佇んでいる。
雪は容赦なく降り続け、少年の肩や髪に白い結晶を乗せていく。それなのに彼は、まるで風景の一部になってしまったかのように、微動だにしない。
何か様子がおかしい。
花音の中で、心配の気持ちが膨らんだ。もしかして具合が悪いのだろうか。それとも何か困っているのだろうか。
迷ったのは、ほんの数秒だった。
「あの、君」
花音は声をかけながら、少年に近づいていった。
少年がゆっくりと顔を上げる。街灯の明かりに照らされた横顔は整っていて、どこか人形のように美しかった。だがその瞳には、深い戸惑いと不安の色が浮かんでいる。
「大丈夫? どこか具合が悪いの?」
花音の問いかけに、少年は答えない。ただ、花音の顔をじっと見つめている。
「寒いでしょう? ずっとここに立ってたの?」
「……わからない」
ようやく返ってきた声は、か細く震えていた。
「わからないって?」
「僕は……」
少年は自分の両手を見つめ、そして再び花音に視線を戻した。雪片が彼の睫毛に降り積もる。
「僕が誰なのか、わからないんだ」
4
花音は息を呑んだ。
「どういうこと?」
「気づいたら、ここに立っていた。どこから来たのか、どこに行けばいいのか、何も思い出せない。僕の名前は……遥斗。それだけは、わかる。でも、他には何も」
遥斗と名乗った少年の声は、まるで雪のように儚かった。
記憶喪失? そんなこと、ドラマや小説の中だけの話だと思っていた。でも、目の前の少年の様子は明らかに尋常ではない。混乱と恐怖で、今にも消えてしまいそうな気配さえ漂わせている。
「遥斗……君」
名前を呼ぶと、少年が僅かに反応した。
「保護者の人とか、連絡先とか、何か思い出せることはない?」
「何も。本当に、何も」
遥斗は首を横に振った。その動作があまりにも心細そうで、花音は胸が締め付けられる思いがした。
雪はますます激しく降り始めている。このまま放っておくわけにはいかない。
「警察に行こう。きっと、家族の人が捜してるよ」
「警察……」
遥斗は怯えたような表情になった。
「なぜかわからないけど、それは……嫌だ。怖い」
「でも――」
「お願いします」
遥斗は花音の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、助けを求める子供のように純粋で切実だった。
「どこか、行くところがあるまで。少しだけ、待ってもらえませんか」
5
花音は迷った。
知らない人について行ってはいけない。それは小さい頃から何度も言われてきたことだ。でも、今目の前にいるのは、困っている同年代の男の子。しかも記憶を失って途方に暮れている。
このまま放っておいたら、どうなるだろう。
雪の中、一晩中さまよい続けるのだろうか。それとも、誰か悪い人に利用されてしまうかもしれない。
「わかった」
気づけば、花音は口を開いていた。
「とりあえず、うちに来る? お父さんとお母さんに相談してみよう。きっと、何か良い方法を考えてくれるから」
遥斗の目が、僅かに見開かれた。
「いいんですか?」
「うん。一人で雪の中にいるよりはいいでしょ。ほら、行こう」
花音は遥斗の袖を軽く引いた。遥斗は一瞬躊躇したが、やがて静かに頷いて花音の後についてきた。
二人は並んで、雪の積もり始めた道を歩く。
「あの、ありがとうございます」
「花音でいいよ。桜井花音。中学二年生」
「花音……さん」
遥斗が名前を呼んでくれた。その声は、さっきよりも少しだけ温かかった。
「遥斗君も、中学生くらいだよね?」
「たぶん……そうだと思います」
会話は途切れがちだったが、花音は無理に話そうとはしなかった。ただ、時々遥斗の様子を窺いながら、雪道を進んでいく。
花音の心臓は、早鐘のように打っていた。これで良かったのだろうか。でも、放っておくことなんてできなかった。
6
「ただいま」
玄関のドアを開けると、温かい空気とカレーの香りが花音を出迎えた。
「おかえり、花音。遅かったじゃない」
母の声が台所から聞こえてくる。
「ねえ、お母さん。ちょっと、話があるんだけど」
「何? 友達が来てるの?」
エプロン姿の母・由美が顔を出した。そして、花音の後ろに立つ遥斗に気づいて、目を丸くする。
「あら、どちら様?」
「あの、その……」
花音は母に、公園で遥斗と出会ったこと、彼が記憶を失っていること、放っておけなかったことを説明した。
由美は最初驚いた様子だったが、やがて遥斗の様子を観察するように見つめ、そして優しく微笑んだ。
「まあ、それは大変だったわね。とりあえず上がって。体、冷えてるでしょう」
「お邪魔しても……」
「いいのよ。花音が連れてきたんだもの。ね、お父さん?」
居間から父・健一が出てきた。読んでいた新聞を脇に抱えて、遥斗を見つめる。
「記憶喪失、か。それは困ったな」
父の言葉に、遥斗は俯いた。
「でも、今日は遅いし、雪も激しくなってきた。警察に行くにしても明日にしよう。今夜はうちに泊まっていきなさい」
「本当に、いいんですか」
「構わんよ。息子の蓮と同じくらいの年だろう。着替えも貸してやれる」
父の言葉に、花音は安堵のため息をついた。
「花音、お客さん?」
階段から、小学五年生の弟・蓮が顔を出した。
「わあ、お兄ちゃんだ! ねえねえ、ゲーム一緒にやろうよ!」
「蓮、ちょっと待ちなさい」
母が蓮を制止する。家族の温かな空気に包まれて、遥斗は少しずつ緊張を解いていくようだった。
7
夕食は、いつもより賑やかだった。
蓮は遥斗に興味津々で、学校のことやゲームのこと、色々なことを話しかける。遥斗は最初は戸惑っていたが、次第に小さく笑顔を見せるようになった。
「遥斗君、記憶が戻るまでうちにいてもいいのよ」
母が穏やかに言った。
「警察や病院には明日連絡してみましょう。でも、もし手がかりがすぐに見つからなくても、焦らなくていいからね」
「ありがとうございます。でも、そこまでしていただくわけには……」
「いいのよ。春までには、きっと記憶も戻るわ」
父も頷いた。
「そうだな。それまで、うちで過ごせばいい」
遥斗は目を潤ませて、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
花音は自分のカレーを食べながら、横目で遥斗を見つめた。儚げで、どこか遠くを見つめているような雰囲気。まるで雪の精霊のような少年。
どうして記憶を失ったんだろう。家族は、友達は、いないんだろうか。
不思議な出会い。まさか、今日がこんな日になるなんて。
窓の外では、雪がしんしんと降り続けていた。
8
その夜、花音は自分の部屋のベッドに横になりながら、考えていた。
遥斗は、今頃蓮の部屋で眠っているだろうか。蓮の部屋には二段ベッドがあって、下の段を貸してもらったはずだ。
記憶を失うって、どんな気持ちなんだろう。自分が誰なのかわからない。どこから来たのかわからない。それは、とても怖いことに違いない。
花音は目を閉じた。
明日からどうなるんだろう。遥斗の家族が見つかるだろうか。それとも、しばらくこのまま一緒に過ごすことになるんだろうか。
胸の奥で、小さな予感が芽生えていた。
この出会いは、何か特別な意味があるんじゃないか、と。
運命なんて信じていなかった花音が、初めてそんなことを考えた夜だった。
雪は朝まで降り続き、世界を真っ白に染め上げていた。
バレンタインデーの夜。花音と遥斗の、冬の物語が始まった。




