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真 バレンタイン少女の恋とマシュマロ

掲載日:2025/12/19

二月十四日。バレンタインデー。

放課後の教室は、甘いチョコレートの香りと少女たちの弾んだ声で満ちていた。

「花音ちゃん、はい、これ!」

親友の美咲が差し出してくれたのは、ピンク色のリボンで結ばれた小さな箱だった。

「ありがとう、美咲。私からも」

花音――桜井花音は、自分で作ったクッキーの入った袋を美咲に手渡す。友チョコの交換は、毎年この時期の楽しみの一つだった。

「今年も本命チョコは作らなかったの?」

「うん。まあ、特に気になる人もいないし」

花音は肩をすくめて笑った。中学二年生。周りの友人たちは恋バナに夢中だけれど、花音にはまだピンとこない。漫画や小説に出てくるような運命的な出会い、なんてものがあるんだろうか。

「そっか。でも花音ちゃんって可愛いから、きっとすぐに素敵な人と出会えるよ」

「そうかなあ」

窓の外を見ると、空はどんよりと曇っていた。天気予報では、今夜遅くから雪が降るという。

2

美咲や他の友人たちと駅前で別れ、花音は一人、住宅街の中を歩いていた。

午後五時を過ぎて、辺りは薄暗くなり始めている。街灯が一つ、また一つと灯り始めた。冷たい風が頬を撫でる。

ポケットに手を突っ込みながら、花音は今日友達からもらったチョコレートのことを考えていた。帰ったら、お母さんとお父さんにも見せよう。弟の蓮は、きっと「僕にもちょうだい」とねだってくるだろう。

ふと、小さな白いものが視界の端をよぎった。

花音は立ち止まり、空を見上げる。雪だ。予報より早く降り始めたらしい。最初は小さな雪片が、次第に大きくなっていく。

「わあ、きれい」

思わず呟いた。雪は音もなく降り積もり、灰色だった世界を白く染めていく。

花音は再び歩き始めた。家まであと十分ほど。早く帰って、温かいココアでも飲もう。

住宅街を抜け、小さな公園の前を通りかかったとき。

花音の足が、自然と止まった。

3

公園の入り口、街灯の下に、誰かが立っていた。

雪の中で、じっと動かない人影。

男の子だ、と花音は思った。自分と同じくらいの年齢だろうか。学生服を着て、鞄も持たずに、ただそこに佇んでいる。

雪は容赦なく降り続け、少年の肩や髪に白い結晶を乗せていく。それなのに彼は、まるで風景の一部になってしまったかのように、微動だにしない。

何か様子がおかしい。

花音の中で、心配の気持ちが膨らんだ。もしかして具合が悪いのだろうか。それとも何か困っているのだろうか。

迷ったのは、ほんの数秒だった。

「あの、君」

花音は声をかけながら、少年に近づいていった。

少年がゆっくりと顔を上げる。街灯の明かりに照らされた横顔は整っていて、どこか人形のように美しかった。だがその瞳には、深い戸惑いと不安の色が浮かんでいる。

「大丈夫? どこか具合が悪いの?」

花音の問いかけに、少年は答えない。ただ、花音の顔をじっと見つめている。

「寒いでしょう? ずっとここに立ってたの?」

「……わからない」

ようやく返ってきた声は、か細く震えていた。

「わからないって?」

「僕は……」

少年は自分の両手を見つめ、そして再び花音に視線を戻した。雪片が彼の睫毛に降り積もる。

「僕が誰なのか、わからないんだ」

4

花音は息を呑んだ。

「どういうこと?」

「気づいたら、ここに立っていた。どこから来たのか、どこに行けばいいのか、何も思い出せない。僕の名前は……遥斗。それだけは、わかる。でも、他には何も」

遥斗と名乗った少年の声は、まるで雪のように儚かった。

記憶喪失? そんなこと、ドラマや小説の中だけの話だと思っていた。でも、目の前の少年の様子は明らかに尋常ではない。混乱と恐怖で、今にも消えてしまいそうな気配さえ漂わせている。

「遥斗……君」

名前を呼ぶと、少年が僅かに反応した。

「保護者の人とか、連絡先とか、何か思い出せることはない?」

「何も。本当に、何も」

遥斗は首を横に振った。その動作があまりにも心細そうで、花音は胸が締め付けられる思いがした。

雪はますます激しく降り始めている。このまま放っておくわけにはいかない。

「警察に行こう。きっと、家族の人が捜してるよ」

「警察……」

遥斗は怯えたような表情になった。

「なぜかわからないけど、それは……嫌だ。怖い」

「でも――」

「お願いします」

遥斗は花音の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、助けを求める子供のように純粋で切実だった。

「どこか、行くところがあるまで。少しだけ、待ってもらえませんか」

5

花音は迷った。

知らない人について行ってはいけない。それは小さい頃から何度も言われてきたことだ。でも、今目の前にいるのは、困っている同年代の男の子。しかも記憶を失って途方に暮れている。

このまま放っておいたら、どうなるだろう。

雪の中、一晩中さまよい続けるのだろうか。それとも、誰か悪い人に利用されてしまうかもしれない。

「わかった」

気づけば、花音は口を開いていた。

「とりあえず、うちに来る? お父さんとお母さんに相談してみよう。きっと、何か良い方法を考えてくれるから」

遥斗の目が、僅かに見開かれた。

「いいんですか?」

「うん。一人で雪の中にいるよりはいいでしょ。ほら、行こう」

花音は遥斗の袖を軽く引いた。遥斗は一瞬躊躇したが、やがて静かに頷いて花音の後についてきた。

二人は並んで、雪の積もり始めた道を歩く。

「あの、ありがとうございます」

「花音でいいよ。桜井花音。中学二年生」

「花音……さん」

遥斗が名前を呼んでくれた。その声は、さっきよりも少しだけ温かかった。

「遥斗君も、中学生くらいだよね?」

「たぶん……そうだと思います」

会話は途切れがちだったが、花音は無理に話そうとはしなかった。ただ、時々遥斗の様子を窺いながら、雪道を進んでいく。

花音の心臓は、早鐘のように打っていた。これで良かったのだろうか。でも、放っておくことなんてできなかった。

6

「ただいま」

玄関のドアを開けると、温かい空気とカレーの香りが花音を出迎えた。

「おかえり、花音。遅かったじゃない」

母の声が台所から聞こえてくる。

「ねえ、お母さん。ちょっと、話があるんだけど」

「何? 友達が来てるの?」

エプロン姿の母・由美が顔を出した。そして、花音の後ろに立つ遥斗に気づいて、目を丸くする。

「あら、どちら様?」

「あの、その……」

花音は母に、公園で遥斗と出会ったこと、彼が記憶を失っていること、放っておけなかったことを説明した。

由美は最初驚いた様子だったが、やがて遥斗の様子を観察するように見つめ、そして優しく微笑んだ。

「まあ、それは大変だったわね。とりあえず上がって。体、冷えてるでしょう」

「お邪魔しても……」

「いいのよ。花音が連れてきたんだもの。ね、お父さん?」

居間から父・健一が出てきた。読んでいた新聞を脇に抱えて、遥斗を見つめる。

「記憶喪失、か。それは困ったな」

父の言葉に、遥斗は俯いた。

「でも、今日は遅いし、雪も激しくなってきた。警察に行くにしても明日にしよう。今夜はうちに泊まっていきなさい」

「本当に、いいんですか」

「構わんよ。息子の蓮と同じくらいの年だろう。着替えも貸してやれる」

父の言葉に、花音は安堵のため息をついた。

「花音、お客さん?」

階段から、小学五年生の弟・蓮が顔を出した。

「わあ、お兄ちゃんだ! ねえねえ、ゲーム一緒にやろうよ!」

「蓮、ちょっと待ちなさい」

母が蓮を制止する。家族の温かな空気に包まれて、遥斗は少しずつ緊張を解いていくようだった。

7

夕食は、いつもより賑やかだった。

蓮は遥斗に興味津々で、学校のことやゲームのこと、色々なことを話しかける。遥斗は最初は戸惑っていたが、次第に小さく笑顔を見せるようになった。

「遥斗君、記憶が戻るまでうちにいてもいいのよ」

母が穏やかに言った。

「警察や病院には明日連絡してみましょう。でも、もし手がかりがすぐに見つからなくても、焦らなくていいからね」

「ありがとうございます。でも、そこまでしていただくわけには……」

「いいのよ。春までには、きっと記憶も戻るわ」

父も頷いた。

「そうだな。それまで、うちで過ごせばいい」

遥斗は目を潤ませて、深く頭を下げた。

「本当に、ありがとうございます」

花音は自分のカレーを食べながら、横目で遥斗を見つめた。儚げで、どこか遠くを見つめているような雰囲気。まるで雪の精霊のような少年。

どうして記憶を失ったんだろう。家族は、友達は、いないんだろうか。

不思議な出会い。まさか、今日がこんな日になるなんて。

窓の外では、雪がしんしんと降り続けていた。

8

その夜、花音は自分の部屋のベッドに横になりながら、考えていた。

遥斗は、今頃蓮の部屋で眠っているだろうか。蓮の部屋には二段ベッドがあって、下の段を貸してもらったはずだ。

記憶を失うって、どんな気持ちなんだろう。自分が誰なのかわからない。どこから来たのかわからない。それは、とても怖いことに違いない。

花音は目を閉じた。

明日からどうなるんだろう。遥斗の家族が見つかるだろうか。それとも、しばらくこのまま一緒に過ごすことになるんだろうか。

胸の奥で、小さな予感が芽生えていた。

この出会いは、何か特別な意味があるんじゃないか、と。

運命なんて信じていなかった花音が、初めてそんなことを考えた夜だった。

雪は朝まで降り続き、世界を真っ白に染め上げていた。

バレンタインデーの夜。花音と遥斗の、冬の物語が始まった。

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