第五章 掃討作戦
1
その夜、正成は鹿上を呼んだ。
「皆に伝えよ、勝利の美酒に酔うのは今夜で終わりだ。明日の朝からは、城の補修を急げ、武器の整備も怠るな。ウルトラ猫ニャン砲やレーザー機関銃など、敵の武器でも使えるものは使う。忘れるな、本拠地を滅ぼし、化猫大帝を討ち取ったとは言っても、日本全国には、まだ三百万以上の猫人間軍の残党がいる。もちろん、指揮系統を失った烏合の衆だ。以前ほどの力はないだろうが、他の指導者が現れれば、息を吹き返す可能性は十分にある。幸い、この大猫城は、攻めるにも守るにも最高の城だ。今後当面は、この城の名前を『大鹿城』と改名する。我が軍の本拠地とするのだ。そのために城の補修を急げ」
「心得ました」鹿上はそう答えて医療室を出て行った。
隣のベッドから佐和子が声をかけた。
「あと二ヶ月で、吉野に戻れなければ、二人で桜を見る夢は叶いませんね」
正成が穏やかに微笑んだ。
「今年の桜にこだわる必要はない。私たち二人は、これから毎年二人で同じ桜を見るのだから……」
佐和子にはその言葉の意味がわかった。
「嬉しい……」
佐和子は、涙を流してすすり泣いた。そして、突然、「ワッ」と少女のように泣きじゃくった。
医療室には、他にも大勢の負傷者が収容されていた。重篤なけが人も多くいた。でもその夜だけは、佐和子の瞳に他のけが人は映らなかった。
翌朝、『大鹿城』の前の広場では、戦没者を弔う大祭典が催された。
正成は、敵味方の区別なく、戦没者を弔うように命じていた。
城壁の物見台に車椅子に乗った正成が姿を見せると、全軍が大歓声を上げた。
「提督万歳! 提督万歳!」
その歓声はいつまでも静まる気配がなかった。
正成が右手を前に差し伸べると、歓声がぴたりと収まった。全軍が固唾を呑んで正成の言葉を待った。
「諸君、この度の勝利はひとえに皆の努力によるものである。私は、あなたたちの指揮官であることを心から誇りに思う」
その言葉を聞いて「ワアー!」という地響きのような歓声が上がった。正成は再び右手を差し伸べて歓声を抑えた。
「しかしながら、勝利の影には、命をかけて敵と勇猛に戦い、亡くなっていった多くの仲間がいることを忘れてはならない。今日は、戦没者を弔い、彼らが成仏して天国に召されることを祈願して祭典を行う。皆も、今日の日を忘れず、明日のために努力を続けて欲しい」
一呼吸おいて正成は話を続けた。
「確かに、我が軍は猫人間軍の本拠地を攻め落とし、化猫大帝を討ち取った。しかしながら、日本全国にはまだ、三百万の猫人間軍の残党がいる。もちろん、奴らは指揮系統を失った烏合の衆だが、数の上では我が軍をはるかに上回っている。したがって、我々は、敵の残党が新たな指導者を立てて体勢を立て直すまでに、完膚なきまでに敵軍を叩かなければならない。今回の勝利は、その第一歩に過ぎない。」
正成はさらに話を続けた。
「幸いにして、我が軍の友軍である日光の猿人間・豚人間の連合軍、各地の牛人間軍、信濃のカモシカ人間軍、高崎山の猿人間軍も有利な戦いを進めている。敵の残党を掃討するには、今が最高の好機である。我が軍は、今後、この城を『大鹿城』と呼んで本拠地とし、まずは千葉に野営している猫人間軍の関東軍を掃討する。諸君は、今日の祭典後、早速その準備に入ってもらいたい。敵関東軍の包囲から、日光の猿人間・豚人間の連合軍を解放するのだ!」
全軍の「ウオー!」という潮のような歓声と拍手がいつまでも鳴り止まなかった。
正成は、小さく右手を上げて、物見台を降りた。
物見台の下では、やはり車椅子に乗った佐和子が満面の笑みをたたえながら拍手を送っていた。
正成は、それを見てニッコリ微笑んだが、その後の表情は固かった。佐和子が心配そうに尋ねた。
「提督、何か憂いごとでも?」
それを聞いて正成が小さく頷いた。
「直近の憂いごとと言えば、やはり敵の関東軍だ。関東軍にもし優秀な指導者がいるとすれば、猿人間・豚人間の連合軍に対する攻撃を一旦中止し、ここを奪還しに来るだろう。敵の関東軍は総勢約二十万、それに対して我が軍の生き残りは約七万だ。いくらこの城があるだけ有利だとは言っても、数の上では向こうが有利だ。早く対策を考えないと……。特に、今、我が軍の兵士たちは戦勝気分に浮かれている。不意を突かれたらひとたまりもない」
「関東軍の動きは監視しているのですか?」
「ああ、大勢の密偵を送って、一時間毎に報告させている。敵は、既にこの城を奪還するための戦闘準備に入っている。進軍を始めるのは時間の問題だろう」
「敵がこの城に向けて進軍を開始したら、日光の猿人間・豚人間の連合軍に背後を突かせ、挟み撃ちにするのがよろしいかと……」
「私も最初はそう考えた。しかし、猿人間・豚人間の連合軍の東には、猫人間軍の東北軍がいる。うかつに撃って出ると、逆に猿人間・豚人間の連合軍が挟み撃ちにされかねない」
「確かにそうですね……」そう言って佐和子は考え込んだ。
しばらく沈黙の時間があった。
正成は鹿上を呼んだ。
「お呼びですか?」
「鹿川を呼べ」
鹿上が鹿川を連れてきた。
「先制攻撃をかける。第一師団一万を率いて、今夜、敵関東軍の陣地に夜襲をかけろ。それに呼応して、猿人間・豚人間の連合軍にも総攻撃をかけさせる。敵は、まさかこんな安全な城を占拠した我が軍が、わざわざ外に撃って出るとは思っていないだろう。敵の不意を突くのだ」
「心得ました」
その会話を横で聞いていた佐和子が言った。
「如何に鹿川将軍でも手勢が一万では敵の二十分の一です。少し少なすぎませんか?」
「いや、昔から大軍による夜襲が成功した例はない。夜襲というのは少人数の精鋭でやるものだ」
「確かに……」
正成が鹿川に言った。
「敵から奪ったレーザー機関銃を持って行け、きっと役に立つだろう」
「いえ、レーザー機関銃は城の守備に必要です。それに夜襲にレーザー機関銃は必要ありません。僭越ですが、私には私の戦い方があります」
それを聞いた正成がニヤリと笑みを浮かべた。
「火攻めか?」
鹿川は黙って頷いた。
2
深夜、作戦は決行された。鹿川の軍勢は、尖兵に敵の警備兵を討ち取らせながら、投石器の射程距離まで軍を進めた。寒風吹きすさぶ酷寒の夜だった。猫人間軍の野営地は静まり返っていた。
鹿川は、前線に投石器をずらりと並べ、油を満載した樽を搭載させた。
その前に、火矢を携えた兵士たちが進み出た。
鹿川が大号令をかけた。
「攻撃開始!」
「ドーン!」という轟音と共に次々と投石器から油樽が投下された。油樽は、敵陣に着弾すると「パーン!」と破裂し、周囲に油が飛び散った。
鹿川が次の命令を発した。
「火矢を放て!」
ヒュンヒュンという音をたて、無数の火矢が放たれた。火矢は、油にまみれた猫人間軍の陣地に次々と突き刺さった。
「ボオッ」という音とともに、一瞬にして敵陣地内は火の海になった。
「ニヤ~!」という悲鳴をあげて猫人間軍の兵士たちが逃げ惑った。
阿鼻叫喚が乱れ飛び、敵陣地内は地獄絵の様相を呈した。
猫人間軍の兵士たちは完全に統率を失い、次から次へと、陣地の外に逃げ出してきた。
鹿川が号令を発した。
「全軍、突撃! 敵関東軍を殲滅せよ!」
鹿川の軍勢が敵の兵士に襲いかかった。敵関東軍は、体勢を立て直す間もないまま、バタバタと討ち取られていった。
鹿川の攻撃に呼応して、陣地の東側からも、猿人間・豚人間の連合軍が総攻撃を開始した。あまりにもあっけなく、敵二十万の関東軍は全滅した。
鹿川は、その様子を表情ひとつ変えずに見守っていた。
東の空が明るくなり、敵関東軍二十万の亡骸が日の光に晒された。この世の光景とは思えなかった。
鹿川は、全軍を集めた。
「敵関東軍は全滅した! 我が軍の勝利だ!」
「ウオー!」兵士たちの喚声がこだました。
喚声が静まるのを待って、鹿川が号令した。
「任務は完了した。さあ、大鹿城へ帰ろう!」
鹿川は、ほとんど兵を損じることなく大鹿城に戻った。正成が彼の帰りを待ちわびていた。戦勝の報告を聞いた正成は、鹿川の労を深くねぎらった。
「鹿川、誠に大儀であった。敵関東軍の殲滅は、我が軍にとって、当面の安泰を意味する。ゆっくりと休んでくれ」
鹿川が去った後、正成は、車椅子に乗り、大本営の中庭に出た。同じように車椅子に乗り、佐和子がついてきた。正成と佐和子は車椅子を並べ、二人で中庭の風に当たっていた。寒風吹きすさぶ寒い日だったが、二人の心は暖かかった。
「関東軍は、想像以上に弱かったようですね」
「ああ、敵軍は完全に指揮系統を失っているし、兵士も戦意を喪失している。例え兵力が二十倍でも、鹿川の敵ではなかったようだ」
佐和子がニッコリと微笑んだ。
「これで、この城は当面安心ですね」
「そう思う。しかし、吉野にいる敵の本隊を倒すまでは、戦は終わったとは言えない」
「確かにそう思います。でも、猫人間軍は既に指揮系統を失った武装集団です。たとえ、兵力が三百万と言っても、こちらが戦術を誤らない限り、勝利出来るのではないでしょうか?」
「その三百万だが、結局、我が軍を追って、熊野にたどり着いたのは二百五十万、残りの兵は、途中から吉野に引き返して逃亡した模様だ。熊野の二百五十万は、船を用意出来ずに、尾鷲、鳥羽、伊勢と紀伊半島の東側を海沿いに北上しているようだ」
「それでは、兵糧も底を尽き、士気の低下も甚だしいのではないですか?」
「そう思う。その状態で、名古屋に入ろうとすれば、おそらく木曽川でカモシカ人間軍の急襲に遭うだろう。カモシカ人間軍の兵力はたった二万だが、川を挟んだ戦いでは、カモシカ人間軍に有利だ。猫人間軍は、相当な被害を受けるに違いない」
「木曽川をはさんで対峙すれば、猫人間軍は多大な損害を受けるでしょうが、猫人間軍にも知将、黒猫提督がいます。カモシカ人間軍だけで完全に殲滅するのは難しいでしょう。我が軍はどうなさるおつもりですか? この城で敵を向かえ撃つのですか?」
「いや、篭城はしない。篭城という戦法は、時間が経てば有利になることがわかっている場合にのみ通用する戦法だ。篭城だけでは敵を殲滅出来ない」
「では、あくまで攻めに出るのですか?」
「そのつもりだ、今、その戦術を考えている」
「考える時間は十分にあります。それまでささやかな平和を楽しんではいけませんか?」
それを聞いて正成がニッコリと微笑んだ。
「いや、束の間でも平和を楽しむことは良いことだ。兵の休息にもなる。我々も今日、明日ぐらいは、ゆっくりと休もう」
その夜、参謀本部ではささやかな宴が催された。化猫大帝を討ち取り、当面の敵である関東軍を殲滅した安堵感が皆の表情を和らげていた。
宴会の席上で鹿上が言った。
「提督、実は、皆の総意として一つ提案があるのですが……」
正成が穏やかに微笑んだ。
「何だ、遠慮せずに言え」
「提督は、もともと王家の血筋に当たります。鹿姫なき後、我が軍には象徴的存在が必要です。兵は皆、提督の王への即位を望んでいます」
それを聞いた正成は苦笑いを浮かべた。
「私はそんな柄ではない。私の望みを叶えさせてもらえるのなら、この戦が終わって平和な世が来たら、佐和子と二人で、田畑でも持たせてもらって、ひっそりと暮らしたい」
それを聞いた佐和子は、ほほを赤らめた。
正成の発言に鹿上は仰天した。
「とんでもない。たとえ、平和な世が来たとしても提督に隠居されては困ります。平和な世にも、それなりに国家運営上の様々な難しい課題があるのです。例え、議会制民主主義の国を目指すとしても、象徴的存在として国王の存在が必要なのです」
「象徴的存在か……」そう言って、正成は口ごもった。正成の心の中を鹿姫との想い出が駆け巡った。正成の瞳が潤んだ。
佐和子が心配して声をかけた。
「提督、お加減が悪いのですか?」
正成は、慌てて首を横に振った。
「いや、なんでもない。今夜はみんな楽しんでくれ、それから、鹿川、今より、貴公を、副提督に任じる。参謀総長の鹿上と協力して私を助けてくれ」
鹿川が恐縮して言った。
「私は、副提督などという器ではございませんが、今までどおり、全力を尽くします」
正成が言った。
「明日の十四時より、参謀会議を開く。皆、出席するように」
その夜は珍しく、皆、深酒した。束の間の平和を満喫した。
3
翌日、予定通り、参謀会議が開かれた。会議の席上、鹿上が現況報告をした。
「猫人間軍の残存兵は、全国に散らばっていますが、そのほとんどは指揮系統を失い、ただの武装集団と化しています。その中で、吉野で我が軍と戦った敵の主力部隊だけが、黒猫提督の指揮のもと、正規軍として活動しています。兵力は約二百五十万、我が軍の、約三十五倍です。兵力だけで考えれば、我が軍よりはるかに強大な勢力を持っています。ただ、本拠地であるこの城を奪われ、総司令官の化猫大帝なき今、敵軍の士気の低下は確実です。兵糧も弾薬も底を突きつつあります。現在は、木曽川をはさんで二万のカモシカ人間軍と対峙していますが、この戦でも、猫人間軍は相当な被害を受けることが予想されます。本日は、敵軍が木曽川のカモシカ人間軍を突破した後の我が軍の戦術を決定するためにお集まりいただきました」
鹿上がそのまま話を続けた。
「この城に篭城して敵を迎え撃つというのも、一つの戦術です。ただ、この作戦には提督は賛成ではないようです。敵軍に包囲された状態で持久戦に入ると、この城ではこちら側の兵糧が先に尽きるというのがその理由です。皆、忌憚ない意見を述べて下さい」
鹿川が言った。
「私も篭城には反対です。篭城という戦術は、長期戦になれば必ず有利になるという確固とした根拠があるときにのみ採用すべき戦術です。戦は、城の外に撃って出るのが基本です」
正成が鹿川に言った。
「そちの作戦を述べてみよ」
鹿川が自分の意見を説明した。
「仮に、木曽川を突破した敵軍の総数を二百万と仮定します。我が軍は、静岡の富士川まで南下し、まず、川を渡ろうとする敵を徹底的に叩くべきです。猫人間軍は水を嫌いますから、必ず船で川を渡るでしょう。その時に、投石器と火矢による攻撃をかければ敵の半数は壊滅するでしょう。そこで、我が軍は、一旦退却し、今度は箱根で敵を迎え撃ちます。箱根は天下の嶮、大和川や生駒の戦で用いた戦法がそのまま使えます。ここでも、敵は、兵力の約半数を失うでしょう。つまり、東京までたどり着く敵兵は、総数五十万ぐらいだというのが私の読みです。五十万と言っても我が軍の七倍です。単純な篭城作戦では、城を攻め落とされる可能性は十分にあります。そこで、我が軍は、二万の兵を城に残し、篭城するふりをしながら、実際には残り五万の兵で、敵の背後を突きます。具体的には新宿御苑に五万の兵を伏せておき、敵が城攻めを始めると同時に、敵の退路を絶ちます。行き場所を失った敵軍はパニックに陥って自壊するでしょう。これが私の提案です」
鹿川の戦術を聞いた正成が苦笑いを浮かべた。
「鹿川、貴公には参ったな、私の作戦とまったく同じだ」
鹿上がニッコリと微笑んだ。
「提督と、副提督の作戦が、期せずして一致したということは、それが最良の作戦だという証明だと思います。異議はありますか?」
異議を唱える者はいなかった。作戦は決定した。
「よし、作戦は決まった。後は、皆の努力のみで雌雄が決せられる。我が軍が敗れるとしたら、些細な連絡ミスや油断が原因となるだろう。皆、心してかかれ!」
「おう!」と一同が声を上げた。参謀会議は散会した。
その頃、木曽川では、猫人間軍とカモシカ人間軍の壮絶な死闘が繰り広げられていた。カモシカ人間軍の総大将、加茂鹿之助は、ありとあらゆる知略を用いて、猫人間軍を苦しめた。その上、但馬の牛人間軍に背後を突かれたことも猫人間軍には大きな損害を与えた。挟み撃ちに遭った猫人間軍の黒猫提督は、木曽川の強行突破を命じた。
血で血を洗うような激戦になったが、所詮は二百五十万対二万の戦いである。木曽川の東岸を支えきれないと判断した加茂は、全軍に退却を命じた。木曽川を渡りきった猫人間軍は百七十万までその数を減じていた。
正成のところに密偵からの報告が入った。
「猫人間軍は、木曽川を突破しました。兵力は百七十万です」
それを聞いた正成は、鹿上、鹿川、鹿光、鹿之園を呼び、それぞれに命令した。
「鹿川、そちに機甲師団と第一師団を託す、富士川に陣を築き、敵軍を迎え撃て。予定通り、支えきれなくなったらあっさりと退却し、箱根で鹿光と合流せよ。鹿光、そちには第二師団を預ける。箱根街道の両側に、巨岩、巨木を積み上げろ、戦術は、大和川の戦と同じだ。鹿之園、そちには第三、第四、第五師団を任せる、新宿御苑に兵を伏せて、敵の城攻めが始まったら、その背後を突け。鹿上、そちは第六、第七師団で城の防備を固めろ、よいな。皆、即座に行動にかかれ」
一同、声を合せて答えた。
「心得ました」
翌朝、全軍が城門の前の広場に集められた。正成が城門の物見台の上から号令を発した。
「諸君、これが最後の戦いだ! 勝てば昔のような平和で豊かな暮らしが出来る。負ければ全滅だ。人類の存亡をかけて諸君の活躍に期待する!」
「ウオー!」という地響きのような喚声がこだました。全軍が武者震いしながら、行動を開始した。
午後には、富士川に向けて鹿川の軍勢が出発した。その後を追うように、鹿光、鹿之園の軍勢も進軍を開始した。その様子を物見台の上から正成と佐和子が見つめていた。佐和子が正成に尋ねた。
「彼ら、やってくれますよね?」
正成が無表情に答えた。
「やる。必ず……」
4
鹿川の軍勢と黒猫提督の猫人間軍は、ほぼ同時に富士川に到着し、川を挟んで対峙した。猫人間軍は、船の手配に手間取っているようだった。その間に、鹿川の軍勢は、河原に投石器を並べ、陣地の整備をした。知将、鹿川は、河川敷の至るところに釣り糸を張り巡らせた。川を渡りきった敵軍が足を引っ掛けて転ぶようにワナを仕掛けたのである。そしてそのワナの先には、弓矢を持った伏兵を配した。
鹿川は考えていた。敵は、熊野古道を通ってきた軍だ。猫ニャン砲を運べるはずがない。敵の主力兵器はレーザー機関銃だろう。それももう、どれだけバッテリーが残っているか怪しいものだ。富士川の水深から考えて、大きな船では渡れない。十人乗りの小船を千隻用意したとしても、一度に渡れるのは、一万人だ。十分に戦えると。
富士川の河川敷に立って敵軍を観察する鹿川のほほを生暖かい強風が撫でた。鹿川はつぶやいた。
「春一番か、もうすぐ春だったな……」
翌日の夜半から、猫人間軍の渡航が開始された。先頭の船が川の中央に達した時、鹿川が号令を発した。
「攻撃開始! 投石を始めろ! 火矢を放て! マタタビ砲を撃て! 猫じゃらし砲を発射せよ!」
富士川の上空にまるで花火のように無数の火矢が放たれた。敵軍は船上からレーザー機関銃で反撃してきたが、十分に守備体勢を整えていた鹿川の軍勢には、ほとんど当たらなかった。投石器による攻撃の直撃を受けた敵船が次々と沈没した。火矢の集中砲火を受けて炎上する船も多かった。沈没する船から川に飛び込んだ敵の兵士の悲鳴が聞こえた。
「たっ、助けてくれ! 俺、泳げないんだ! ニヤ~! ゴボボボ……」
阿鼻叫喚の飛び交う中で、ほとんどの敵兵が川底に沈んでいった。川底が埋まるほどの大軍が溺れ死んだ。それでも、敵軍は強行突破を諦めなかった。次第に、鹿人間軍の攻撃をかいくぐって川岸に着岸する敵船が数を増した。上陸した敵兵は、レーザー機関銃を乱射しながら突撃してきたが、鹿川が仕掛けたワナに足を引っ掛けて転倒する兵士が多かった。転倒した兵士に向けて、一斉に矢が放たれた。瞬く間に、河原は敵兵の屍の山となった。それでも、敵は突撃を続けた。所詮、猫人間軍百七十万に対して、鹿川の軍勢は一万である。次第に敵は、勢力を増して攻撃を仕掛けてきた。河川敷では敵味方入り乱れての壮絶な攻防戦が続いた。投石器が全て破壊され、火矢が底を突いたとき、鹿川が判断を下した。
「全軍、退却!」
既に、東の空が明るくなっていた。富士川の河原は八十万人の猫人間軍の屍で埋め尽された。鹿川の軍勢も約三千人の兵を失った。
鹿川軍の総退却を見届けると、敵兵は、それ以上追っては来なかった。敵兵の疲労も極限に達していたのである。結局、猫人間軍はその日、一日を富士川の河川敷で野営した。
翌朝、黒猫提督が号令を発した。
「全軍、進軍を開始せよ!」
東側の堤の上には、不自然な敷板のようなものが敷かれていた。それを踏んだ兵士が「ウッ」とうめいてバタバタと倒れた。それは、鹿川が仕掛けた『置き土産』であった。板を踏むと、自動的に矢が放たれる仕掛けになっていたのである。この仕掛けだけで、敵兵は千人の犠牲者を出した。数にすれば僅かだが、この『置き土産』で猫人間軍の士気は大きく低下した。
箱根で鹿光の軍と合流した鹿川は、作業の進行状況を視察して驚愕した。何と、巨岩・巨木の積み上げ作業がほとんど進行していなかったのである。
鹿川は、鹿光を呼んで怒鳴りつけた。
「いったい、どういうことなんだ! 遠足に来てるんじゃないんだぞ!」
鹿光が申し訳なさそうに言った。
「それが、一旦積み上げた巨岩・巨木が一昨日の春一番で倒壊してしまったんです」
「……」
鹿川には次の言葉が見つけられなかった。これでは、敵の通過に間に合わない。
しばらく考え込んだ後、鹿川が鹿光に言った。
「とにかく作業を急げ、私は、もう一日稼ぐ」
そう言い残して鹿川は、第一師団を引き連れ、もう一度静岡方面に進軍を始めた。三島市の東端まで南下した鹿川は、兵を二班に分け、南北の両斜面に配置した。鹿川が命じた。
「ここから矢を放ち、猫じゃらし砲とマタタビ砲で敵の進軍を阻め、どうしても、もう一日稼ぐ必要がある。矢が尽き、砲弾がなくなったら、全軍突撃せよ」
鹿川の作戦は、九十万の敵軍の中に七千人で突撃するという無謀極まるものだった。
命令を聞いた兵士たちがざわめき始めた。
鹿川が言った。
「士はおのれを知る者のために死ぬ。私は私を信じて、この大役を命じてくださった提督のために死ぬ。私はここを墓場に決めた。逃げたいものは逃げろ、責めはしない」
それを聞いた一人の兵士が言った。
「士はおのれを知る者のために死ぬのです。副提督は我々が逃げたりしないことをご存知ですよね」
「……」
鹿川は何も答えず、声を殺してすすり泣いた。
夕刻になり、猫人間軍の軍勢が見え始めた。鹿川軍は、斜面にそっと身を潜めていた。
敵軍の通過が始まった時、鹿川が号令をかけた。
「攻撃開始!」
不意を突かれて敵兵がバタバタと倒れた。猫じゃらし砲、マタタビ砲が次々と発射された。敵の先鋒はパニック状態に陥った。逃げ惑う兵士たちを黒猫提督が叱った。
「退くな! ここで退いてどうなるというのだ! 首都東京は占領された。我が軍の本拠、大猫城は陥落した。もう我々には帰るところはない。逃げ場はない。大猫城を奪還するしか生きる道はないのだ! 全軍、守備隊形で突撃!」
敵兵たちは、再び進軍を開始した。鹿川軍の壮絶な攻撃が続いた。敵兵は、味方の屍を踏み越えて前進を続けた。登山道は屍の山となった。それでも猫人間軍は進軍を止めなかった。猫じゃらし砲の砲弾が尽きた。マタタビ砲の砲弾が尽きた。遂に矢が尽きた。放つ矢がなくなった鹿川軍は一斉に剣を抜き、斜面を駆け下りて敵軍に突入した。敵味方入り乱れての白兵戦になった。しかし、猫人間軍の総数は、鹿川軍の百倍だ。どれだけ時間を稼げるか? それだけが鹿川軍の課題だった。鹿川は、悪鬼の形相で敵軍に斬り込み、バッタバッタと敵兵を斬り倒した。しかし、所詮は多勢に無勢、結果は見えていた。体中に斬り傷を受け、血まみれになった鹿川が西の空を見上げて言った。
「一日稼げたな……」
それが鹿川の最後の言葉となった。
5
猫人間軍は味方の亡骸を踏み分け、進軍を続けた。そして、深夜に、鹿光の待つ芦ノ湖の西側の急斜面までたどり着いた。徹夜の戦いを終えた上に徹夜の進軍である。猫人間軍の兵士には、過酷すぎる登山道だった。それでも猫人間軍は、重い足を引きずりながら進軍を続けた。その進軍を山の上から鹿光が冷めた目で見つめていた。
鹿光がつぶやいた。
「鹿川副提督の仇、思い知るがよい」
次の瞬間、鹿光が大号令を発した。
「攻撃開始!」
山上に高々と積み上げられた巨岩・巨木が一斉に斜面を転がり落ちた。
「ニヤ~!」猫人間軍の兵士たちは、断末魔の悲鳴をあげて、巨岩・巨木の下敷きになり、あるいは巨岩・巨木と共に谷底に落ちていった。昨夜の鹿川の奇襲と今夜の鹿光の攻撃で、黒猫提督率いる猫人間軍は総勢三十五万人にまで激減した。秋に城を出発した時のほぼ十分の一である。
巨岩・巨木は完全に登山道を塞いだ。黒猫提督は仕方なくそこで野営した。これ以上先に進む力が誰にも残っていなかった。それを見届けた鹿光は、軍を退き、鹿之園が待つ新宿御苑の軍に合流した。
正成のところに密偵からの報告が入った。
「味方の作戦は成功です。敵軍は総勢三十五万にまで激減しました」
正成が密偵をねぎらった。
「そうか、ご苦労だったな」
密偵が報告を追加した。
「提督、残念なお知らせがあります。鹿川副提督が戦死なさいました」
「えっ」正成は一瞬目の前が真っ暗になった。呆然とその場に立ち尽くす正成に密偵が言葉を足した。
「箱根に積み上げた巨岩・巨木は春一番のために一旦崩壊しました。鹿川副提督は、もう一度巨岩・巨木を積み上げる時間を稼ぐため、手勢を引き連れて敵軍に突撃しました。その結果、鹿川副提督と第一師団は全滅しましたが、箱根の作戦は成功しました」
密偵を帰らせた後、正成は一人になり、声を上げて泣いた。その姿を佐和子が見守っていたが、慰める言葉を見つけられずにいた。
翌日、他の密偵からの報告が入った。猫人間軍は、登山道を塞いだ巨岩・巨木をよじ登りながらも進軍を開始したとの報告だった。正成がそばにいた佐和子に言った。
「黒猫提督の猫人間軍は、以前、吉野の要塞を攻めたときの猫人間軍ではない。もう、彼らには逃げて帰る場所はない。彼らが生き残る方法は、この城を奪還するしかない。
佐和子、以前、我が軍がこの城を攻めたとき、私は我が軍に逃げ場はないと通知した。今度は猫人間軍が同じ立場でこの城に攻め込む。あの時の我が軍は総勢十万だったが、今度の敵軍は三十五万だ。手強いぞ……」
「提督のおっしゃること、よくわかります。背水の陣を布いた軍は強い。そうおっしゃりたいのですね」
正成は黙って頷いた。
その日は、密偵からの報告が続々と届けられた。最後の報告は、猫人間軍が川崎に野営の準備を始めたとの報告だった。
鹿上が正成に進言した。
「敵は川崎に野営します。鹿之園の伏兵がいる新宿御苑とは目と鼻の先です。鹿之園に今夜、夜襲をかけさせれば、一気に敵を殲滅出来るのではないですか?」
それを聞いて正成が苦笑いを浮かべた。
「鹿上、そちには何故、猫人間軍が川崎のような見渡しの良い平地に野営したかわかるか?」
「は?」鹿上が問い返した。
「川崎に野営しているのは、敵軍のおとりだ。敵の主力は、今夜、移動を開始し、品川方面から迂回して、城に攻め込むつもりだ。今夜、鹿之園の軍が川崎を攻めれば、敵の主力は、後方の憂いなく城攻めができる。黒猫提督の狙いはそこにある」
鹿上が首を傾げながら正成に訊いた。
「何故、提督にはそこまで敵の作戦が読めるのですか?」
「簡単だ、私が黒猫の立場だったらそうするからだよ」
そう言って、正成は鹿上に背を向け、空を見上げた。そしてつぶやいた。
「今夜の敵は強いな……」
深夜、大鹿城の正門の前に猫人間軍の大軍が姿を現した。
「ニャー!」という黒猫提督の号令を合図に敵が突撃を開始した。まるで地震のような地響きがした。
鹿上が号令を発した。
「ウルトラ猫ニャン砲発射!」
轟音と共にウルトラ猫ニャン砲が発射された。かつての鹿人間軍と同じように、ウルトラ猫ニャン砲の直撃を受けた敵兵たちが、まるで紙切れのように飛び散った。ウルトラ猫ニャン砲の連射を受けた猫人間軍は瞬く間に屍の山を築いた。しかし、敵軍は全く怯むことなく突撃してきた。ウルトラ猫ニャン砲は猫人間軍が開発した兵器である。黒猫提督はその弱点もよく知っていた。あまり近くの敵は撃てないのである。
ウルトラ猫ニャン砲の射程を越えて敵軍が接近したとき、再び鹿上の号令が響いた。
「レーザー砲掃射開始!」
レーザー砲の閃光が走ると、城壁に接近した敵兵がバタバタと倒れた。それでも敵軍は全く怯まず、突撃を続けた。鹿人間軍は城壁の上から無数の矢を放ち、城壁の周りは敵兵の屍の山と化した。それでも敵軍は怯まずに突撃してきた。とうとう敵兵の屍の山は高さ二十メートルある城壁の頂点まで到達した。猫人間軍は、味方の屍の上をよじ登り突撃を続けた。遂に城壁の一部が突破され、猫人間軍が城内になだれ込んだ。城内で、壮絶な白兵戦が始まった。
その時、敵軍の後方から鹿之園の軍勢が攻撃を始めた。城壁との間で猫人間軍を挟み撃ちにするという作戦通りだった。一瞬作戦は成功したかに思えた。しかし、鹿之園軍のさらに背後から川崎に野営していたはずの猫人間軍が攻撃を開始した。もはや、敵と味方の区別もつかないような凄絶な白兵戦となった。その様子を大本営の物見台から観察していた正成の胸にかつてないような緊張感が走った。正成の目で見ていても、どちらの軍が優勢なのか判断出来ないほどの乱戦となったからである。
正成は、大本営の中庭に待機させていた第一、第二騎兵隊に命令を発した。
「城内にマタタビ砲を発射しろ、猫じゃらし砲も発射しろ、砲弾が尽きるまで撃って撃って撃ちまくれ!」
轟音と共に、城内の各所に砲弾が着弾した。城内に、マタタビと猫じゃらしの雨が降り注いだ。それを契機に城内の猫人間軍は劣勢になった。次々と城内に突入してきた敵軍は、マタタビの匂いに戦意を失い、猫じゃらしと戯れ始めた。そこに、鹿人間軍が攻撃を加えた。城内は、敵兵の屍で埋め尽くされた。
一方、城外での戦いでは、敵の背後を突いたはずの鹿之園軍が逆に敵に挟み撃ちにされ、危機に瀕していた。
物見台からその様子を見た正成が命令を発した。
「第四騎兵隊は鹿ロボットに騎乗せよ!」
正成は物見台を降り、自らも鹿ロボットに跨った。そして号令をかけた。
「第四騎兵隊は私に続け、敵の司令部に突入する。黒猫提督を討ち取るのだ! 今から城門を開ける。準備はいいか?」
全員が一斉に答えた。
「はい!」
正成がアントラーサーベルを振りかざして城門の守備兵に合図を送った。城門が開いた。正成が叫んだ。
「全軍、敵司令部に向けて突撃! 黒猫提督を討ち取るまで帰還は許さん!」
「ドドドド」という鹿ロボットの足音と共に、正成軍の突撃が開始された。正成軍は、周りの乱戦にはわき目もふらず、敵の司令部に向けて直進した。正成軍は、城外に出て、血で血を洗う乱戦が繰り広げられている戦場の中を突き進んだ。敵の司令部が見えてきた。敵司令部の衛兵たちがレーザー機関銃の掃射を始めると、第四騎兵隊の兵士たちは次々と討ち取られ、鹿ロボットから転げ落ちた。正成は、レーザー機関銃をかいくぐりながら衛兵の集団に飛び込み、まるで人なき野原を行くごとく、バッタバッタと衛兵を斬り捨て、敵の司令部に飛び込んだ。そこに、黒猫提督の姿があった。
黒猫提督がゆっくりと立ち上がって言った。
「どうやら私の負けのようだな……」
黒猫は、腰の短剣を抜き、それを自分の喉元に突きつけた。
(自刃して果てるつもりか……)
正成がそう思って、黒猫の様子を見守っていた時、物陰に潜んでいた敵の衛兵がいきなり正成に斬りつけた。
「ガチン」という金属音がした。
衛兵が振り下ろしたサーベルを佐和子のサーベルが受け止めていた。佐和子は鮮やかに身を翻して衛兵をバッサリ斬り捨て、黒猫提督をにらみつけて叫んだ。
「この卑怯者! 天誅!」
「ニャ~!」という低いうめき声を発して黒猫提督がバッタリと倒れた。
その様子をあっけに取られて正成が見守っていた。
「佐和子、君も来ていたのか……」
佐和子が小さく微笑んだ。
「これでおわかりになったでしょう。提督には私が必要だということが……」
指揮系統を失った猫人間軍は戦意を喪失し、総崩れの状態となった。
勝敗は決した。
正成と佐和子は、鹿ロボットに跨って累々たる屍の海と化した戦場をゆっくりと進み、大鹿城に戻った。城壁の物見台の上に登った二人は周りを見回した。既に夜が明けていた。見渡す限り屍の海が広がっていた。味方も約半数が戦死した。正成は、サーベルを振りかざして、生き残った鹿人間軍に向けて叫んだ。
「全軍、静まれ!」
正成はサーベルをさやに収めて、右手のこぶしを振りかざし、もう一度叫んだ。
「勝利だ! 平和だ!」
「ウオー!」という地響きのような歓声が響いた。
「鹿木! 鹿木! 鹿木!」という連呼がいつまでも続いた。
正成は、全軍が見守る中で、佐和子の手を握り、そっと抱き寄せた。
それを見た一人の兵士が叫んだ。
「王様万歳! 王妃様万歳!」
それを聞いた全軍が連呼した。
「そうだ! 王様だ! 国王万歳! 王妃万歳!」歓声の連呼が続き、鹿人間軍が互いに抱き合って喜びを分かち合った。
正成が佐和子の耳元でささやいた。
「帰ろう、まだ吉野の桜に間に合う」
佐和子が弾んだ声で答えた。
「はい」
雲の隙間からこぼれた朝日が、まるでスポットライトのように二人の姿を照らしていた。
― 了 ―