第三章 旅立ち
1
猫人間軍の本陣では、黒猫提督が部下を叱り飛ばしていた。
「この馬鹿どもが! 鹿人間軍は、南に落ち延びたに違いない。追うのだ! 直ちに後を追え!」
参謀の一人が恐る恐る進言した。
「しかし、要塞の裏の散策道は、土砂に埋まっています。復旧には数日かかります」
それを聞いた黒猫提督が怒鳴った。
「追えといったら追え! たとえ崖を這い上がってでも、敵の後を追うのだ!」
「心得ました。直ちに追っ手を放ちます」
その頃、鹿人間軍は熊野古道を南下していた。熊野古道は人ひとりがやっと通れるような嶮しい山道である。先頭を鹿上に任せ、正成はしんがりについていた。まるでアリの行列のような長い行軍となった。しばらくして、しんがりに熊鹿の部隊が追いついた。熊鹿が正成に報告した。
「敵の軍勢は、吉野の要塞とともに吹っ飛びました。二~三万は吹っ飛んだと思います。散策道も土砂に埋まったので、追っ手が追いつくにはかなりの日数がかかるでしょう」
「そうか、ご苦労だった。後は、熊野に向けて急ぐのみだ。この様子では熊野まで十日はかかるな」
何日も何日もひたすら行軍が続いた。真冬の熊野古道は、鍛え抜かれた鹿人間軍の兵士たちにとってもそれはそれは嶮しい道のりだった。靴底が抜け、それを布で縛り付けて歩いている者、ほとんど裸足に近い状態で、足の裏を血まみれにする者などが行軍から遅れ始めた。予想以上に熊野への行軍は、はかどらなかった。
十津川温泉郷を抜けて、小辺路にさしかかった時、正成が立ち止まった。
「熊鹿、お前は手勢を率いてここに残れ、この狭隘な地形は天然の砦だ。ここに残って追っ手の進軍を阻め」
「心得ました」
正成が眉間にしわを寄せながら熊鹿を見つめた。
「お前、私の命令の意味がわかっているのか?」
「はい、わかります。ここを死守して、全軍が乗船するまで時を稼げとおっしゃりたいのですな」
「そうだ。それは、お前たちは一緒に乗船出来ないことを意味する」
「わかります。ここで、弁慶の立ち往生をすればよろしいのですな」
「そうだ。ただし、死ねとは言っていない。三日も稼いでくれれば十分だ。その後は、ちりぢりバラバラに逃げて、春まで熊野に篭れ、春になれば、我が軍は必ず吉野に戻る。生きて吉野で会おう」
「心得ました。ここから先は一歩も敵を通しません。春に吉野で会いましょう」
「頼んだぞ、熊鹿」
熊鹿は、自分の部下である第五騎兵隊の兵士たちを集めた。
「この狭隘な地形なら、敵の進軍を阻止するのに大軍は必要ない、わしと共に残るのは三十人で十分だ。ここで死ぬ覚悟のある者は、一歩前に出ろ!」
第五騎兵隊の全員が一歩前に出た。そこには猫人間軍の脱走兵もいた。
「私たちに残らせてください。私たちにはどうせ先の希望はありません。いずれ奴らと同じように、人間らしい心を失ってしまうのです。それくらいなら私たちは人間として死ぬほうを望みます。お願いします。これは人間として死ねる最後の機会かもしれません。提督に恩返しが出来る最後の好機かもしれません。どうか、私たちを残らせてください」
熊鹿は黙って頷き、正成も了承した。
勝利のためとはいえ、冷酷な命令だった。正成はしんがりを進みながら、自らが下した残酷な命令に涙をこぼした。
2
二日後、熊鹿が待ち受けているところへ猫人間軍の先頭集団がやってきた。熊鹿が山道に立ちふさがった。
「化け猫ども、よう来た。しかし、ここから先は一歩も通さぬぞ!」
奮い立って敵兵がレーザー機関銃を構えた瞬間、脇の茂みに潜んでいた第五騎兵隊の伏兵が猫人間軍に向けて、マタタビ砲の集中攻撃が浴びせかけた。
マタタビの匂いに酔っ払って支離滅裂になった猫人間兵を、熊鹿は自慢の大矛で次から次へとなぎ倒した。熊鹿はまるで工場の生産ラインのように、次から次へと敵を斬り続けた。
いくら敵兵を斬って捨ててもきりがなかった。あたり前である。敵兵は三百万人いるのである。
三日三晩、熊鹿はまるで機械のように敵兵を斬り続けた。
四日目の朝、敵の放ったレーザーが熊鹿の右ひざを射抜いた。熊鹿はその場にガックリと膝をつきながらも、襲い掛かる敵を斬り捨て続けた。
二発目のレーザーが今度は熊鹿の左肩を貫いた。熊鹿は悪鬼のような表情で敵兵を睨み付け、右手一本で大矛を振り回し、敵兵を斬り裂いた。
三発目が熊鹿の左ももを射抜いた。熊鹿は、バッタリと両膝をつき、鬼神のような表情で大矛を振り続けた。苦痛に顔がゆがみ、次第に動きが鈍り始めた熊鹿の全身を無数のレーザーが貫いた。
「うーむ……」そう一言うなって熊鹿はバッタリとうつぶせに倒れた。それを見た第五騎兵隊の伏兵たちは、マタタビ砲を乱射しながら敵兵に向けて突撃した。
血で血を洗う戦場となった。伏兵たちは無数の敵を倒しながらも一人一人、レーザー機関銃の餌食となり、倒れた。
熊鹿を含め、四十一人の兵士が戦死した。しかし、その周りは彼らに斬り捨てられた猫人間兵の屍の山と化していた。熊鹿は正成との約束を守って、見事に三日の時を稼いで憤死したのである。
その頃、鹿人間軍の先頭、鹿上らが熊野にたどり着いた。鹿川は見事に五万人分の船舶を用意して待っていた。船上には、投石器や猫じゃらし砲など、集められる限りの武器弾薬が満載されていた。
鹿上と鹿川は抱き合い、お互いの無事を喜んだ。続々と鹿人間軍が熊野に到着し、二日後にしんがりを務めていた正成が到着した。隊列の中間で鹿姫の護衛をしていた佐和子が正成に駆け寄り、大粒の涙をポロポロこぼした。
「提督、良くご無事で……」
正成は、佐和子の肩にそっと手をやりながら穏やかな笑みを浮かべた。
「君こそ、よく無事だった。鹿姫様にはお変わりないか?」
佐和子が涙を拭いながら答えた。
「はい、鹿姫様はお元気です」
「そうか、それはよかった」
正成は全軍を集め、号令した。
「全軍、直ちに船に分乗し、東京に向かう。敵の主力は現在、熊野古道にいる。敵の大本営、東京永田町の大猫城は、少数の近衛兵により守備されているに過ぎない。我々は、今から敵の本拠地に奇襲攻撃をかけ、敵の大本営を殲滅し、敵の総帥、化猫大帝を討ち取る。これが我が軍に与えられた最初で最後の好機だ。失敗は許されない。勝利か全滅か二者択一の時が来たのだ!」
「ウオー!」という喚声が上がった。皆、口々に叫んだ。「東京だ!」、「東京へ行くんだ!」、「敵の本拠地を壊滅するのだ!」、「化猫大帝を討ち取るのだ!」
全軍が船舶に分乗し終えたのを見届けた正成が号令した。
「全軍、東京に向けて出陣!」
約千隻の鹿人間船団がゆっくりと港を離れた。
3
船団は、一路東へ進路をとった。日が暮れ、正成は黙って真っ黒な海面を見つめていた。そばには佐和子が寄り添っていた。
「この潮の流れなら、東京までは二日で着く。君とこうしていられるのも、あと二日だけかもしれない」
「一秒にも劣る二日間もあれば、百年にも勝る二日間もありましょう。私はこの二日間、ご一緒出来て十分に幸せです。もう思い残すことはありません」
「そうか、そう言ってくれると嬉しい。しかし、敵の大本営は、少数とはいえ、鉄壁の守備がなされているに違いない。例え勝利しても、生きて帰れるものは僅かだろう。私には、私の命令一つで、この五万の将来ある勇者たちの命が失われていいものとは思えない」
「何をおっしゃいます。私たちが今まで生きてこれたのは全て提督のおかげです。提督なくして私たちに明日はありません。今、提督と共に敵の本拠地に向かっていることを兵士たちは心から誇りに思っています」
「そうか、そう言ってくれると救われる。ところで、鹿姫様のことだが……」
「鹿姫様が何か?」
「決戦の間、どこかにかくまう場所はないだろうか?」
佐和子が鋭い視線を正成に向け、正成の憂いを払拭した。
「いえ、鹿姫様も我が軍の一員です。鹿姫様は御自分だけどこかに避難せよと言われても悲しむだけでしょう。同じ女の私にはわかるのです。決戦を前に、お前だけ避難しておけなどと言われるのは屈辱です。皆、生きるも一緒、死ぬも一緒、それが鹿人間軍です」
「そうか……」正成は頭上の月を見つめた。
「この自然の営みの中では、人の一生など瞬く間です。でも、私はその瞬く間を全力で生きてきました。瞬く間の全てを提督に捧げました。二日後の決戦でどうなろうと、私はそれを誇りに思っています。私だけではありません。皆そう思っています」
それを聞いた正成は、黙ってうつむいた。正成の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。月明かりに照らされてキラリを光った正成の涙が、佐和子には流れ星に見えた。
次の日の夜、正成と佐和子が同じように星空を眺めていると、緊迫した様子で鹿上がやってきた。
「提督、先頭の船から報告です。大船団がこちらに近づいています。ただ、船頭の報告では、どうも軍艦ではないようです」
「大船団? いったい何者だ?」
「それはわかりません」
「まあよい。今さら、どこの船団と出くわしたところで進路を変えるわけにはいかん。全軍、守備隊形を取り、このまま直進しろ!」
しばらくして、後方の船に乗っていた正成の肉眼でもその船団が捉えられるようになった。確かに軍艦ではないようだ。しかし大船団だ。よく見えないが、千隻ぐらいはあるのではないか?
船内にいた鹿上が甲板に上がってきた。
「提督、向こうの船団から入電です。こちらの船籍を尋ねています」
正成は無線機の前に立ち、謎の船団からの入電に応答した。
「こちら奈良の鹿人間軍、こちらに攻撃の意図はない。貴船団は何者だ?」
スピーカーから声が聞こえた。
「こちらは、どこの軍にも属さない民間の船団です。狂猫病の感染を恐れて海上生活をしています。船は約千隻、総勢約十万人の民間人を載せています」
「我が船団は、現在、猫人間軍の本拠地東京を攻撃するため、航路を東に向けている。速やかに航路を開けられたい」
スピーカーの向こうの男が訊いた。
「猫人間軍の本拠地を攻撃するのですか?」
「そうだ、猫人間軍の主力部隊は、奈良の吉野に足止めしてある。現在、敵の本拠地を守っているのは約十万の近衛兵だけだ。化猫大帝を討ち取るには最初で最後の好機だと考えている」
「それなら、我が船団も合流したい。女子供や老人を除いても、約五万人の兵を用意出来る。武器らしいものはほとんどないが……」
それを聞いた正成は、内心、天の助けだと思った。
「武器はこちらの船団に多少余分に積んでいる。兵員以外にも輸送や伝令など人手があると助かる。戦う意思のある者を集めてこちらの船団に合流されたい」
船団の旗艦らしき船が近づいてきた。ヒゲを長く伸ばした白髪の老人が甲板に立っていた。船団の長老らしかった。その老人が正成に話しかけた。
「猫人間軍の本拠地を攻めるそうじゃの」
「そうです」
「おそらくは生きて帰れまい」
正成は何も答えなかった。老人が話を続けた。
「戦える者は皆、合流させる。お前さんに託す。生かすも殺すもお前さん次第だ」
「私に約束できることは、彼らを犬死させないということだけです」
老人はそれを聞いて大きくうなずいた。その船はゆっくりと遠ざかって波間に消え失せた。
約五百隻の船が新たに加わった。兵力は総勢十万人になった。大猫城を守る敵の軍事力は強大だが、これで兵員の数は、ほぼ互角になった。正成は思った。
(これで勝負になる。後は、勝利の女神がどちらに微笑むかだ)
4
東京湾に着いた鹿人間軍の船団は、ひっそりと築地に停船し、全軍が上陸した。敵の首都、東京はほとんど無警戒だった。当然である。三百万の大軍に包囲されているはずの鹿人間軍が東京の大本営を急襲するなどとは、想像もつかないことである。正成は、鹿上、鹿田、鹿川、鹿光そして佐和子の五名を呼んで命じた。
「鹿上、お前には機甲師団を託す。投石器を用いて敵の城門を破壊するのだ。鹿田、お前には第一師団を任す。機甲師団の前衛を務め、城壁を攻撃しながら投石器を守るのだ。鹿川、お前には第二師団を託す。大猫城の両翼に展開して、城を包囲し、城内に猫じゃらし砲とマタタビ砲を撃ち込んで敵をかく乱するのだ。我々の第一目標は、敵の大猫城の城門を破壊し、内部に突入することだ。鹿光、お前には第三騎兵隊を託す。命に代えても鹿姫をお守りするのだ。そして美鹿野、お前と近衛中隊は私に続け、城門が開いたら、わき目を振らず真っ直ぐに敵の大本営に突入する。途中の敵兵は相手にするな。ただひたすら真っ直ぐに大本営を目指し、敵の総帥、化猫大帝を討ち取るのだ。化猫さえ倒せば、敵の残党は、指揮系統を失って、烏合の衆と化すだろう。佐和子、お前の近衛中隊は、私と敵の心臓部に飛び込むことになる。まず、生きては帰れぬだろう。覚悟はいいか?」
佐和子は鋭い視線で正成を見上げた。
「もとより」
「敵の関東軍二十万が千葉にいるはずです。挟み撃ちにされるのでは?」
鹿上の懸念を正成が払拭した。
「その心配はない。我々の動きに呼応して、日光の猿人間と豚人間の連合軍が敵の関東軍に突撃する。関東軍は、しばらく足止めを食うだろう」
鹿上が続けて訊いた。
「敵の中部軍は?」
「それも大丈夫だ。我々の攻撃と同時に信濃のカモシカ人間軍が迎え撃つ。大井川を渡る橋を全て爆破すれば、当分、中部軍は足止めを食うはずだ」
「わかりました。後方の憂いはないということですね。さすがは提督」
「最後に言う。皆、心して聞け。この戦に退却はない。退却しても我が軍が逃げ帰るところはない。勝利か、全滅か、二つに一つだ。どんな苦境に陥っても、決して退いてはならぬ。我が軍に逃げ場はない。前進あるのみだ。わかったな」
「はい!」全員が口を揃えて答えた。
出陣前に正成は、海上で合流した船団の民兵たちを閲兵した。その中には、まだ十二~十三歳ぐらいの少年たちがいた。
「君たちはまだ子供だ。戦争はまだ無理だ。このまま船に残って待て」
彼らのリーダーらしき少年が答えた。
「僕たちは、猫人間軍によって滅ぼされた海王軍の末裔です。僕は、海王の息子、海仁です。僕たちも戦闘に参加させてください」
正成は、少年たちの指の付け根に水かきがあるのを見た。間違いなく海上生活をしていた海王軍の末裔だ。正成が驚いてその少年に問いかけた。
「君があの海王の息子、海仁王子か?」
「はい、そうです」
「海王軍は、強力な水軍を持っていたはずだ。海上戦の苦手な猫人間軍などに何故滅ぼされたのだ?」
「猫人間軍と海王軍との間には、和平協定が締結されていました。海王軍が、猫人間軍に海産物を提供する代わりに、海王軍が陸上で物資を調達することを許すという協定です。でも、海王軍が港に停泊して物資の積み込み作業をしていた時、猫人間軍は、一方的に協定を破り、海王軍の艦船に攻撃を仕掛けてきたんです。海上での戦いなら海王軍は無敵ですが、停泊中に不意を突かれた我が軍は、なす術なく、猫人間軍に殲滅されました。僕とここにいる仲間は、救命ボートで海を漂流しているところを市民船団に助けられたんです」
それを聞いた正成が悔しそうにつぶやいた。
「卑劣な猫人間軍め…… 海仁王子、君の父君の仇は、きっとこの正成が取ってみせる。戦いに加わりたいという君たちの気持ちはわかるが、今日の戦いは陸戦だ。それに君たちはまだ若すぎる。ここで待っているんだ」
「わかりました。僕らには僕らの戦術があります。連れて行ってもらえないのなら別働隊として行動します。きっとお役に立つでしょう」
「君たちが別働隊として行動することは自由だ。だが、命を粗末にするなよ」
「わかりました」