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鹿木正成  作者: nataliej
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第二章 吉野要塞攻防戦

        1


 正成が新しい要塞を築いたのは千本桜で有名な吉野山から東に五キロほど下ったところにある十二社神社からさらに一キロほど北上した地点である。ここは、吉野川が大きく蛇行しており、東・西・北側を川に囲まれている。唯一南側だけは急峻な斜面となっている。この急峻な斜面には三船山を水源とする小川が流れており、飲み水の調達にも有利である。この要塞にアクセスするには、吉野川に沿って狭い山道を進む以外にない。つまり、この地は、守るに易く、攻めるに難い天然の要塞なのだ。

 正成がこの付近の地理に精通していた理由は、幼少の頃を吉野山にある竹林院で過ごしたからである。佐和子とはそこで知り合った幼なじみである。幼い頃から山歩きが好きだった正成は、竹林院から三重県の熊野まで踏破したこともある。つまり、正成は、この付近の地理について隅から隅まで知り尽くしていたのである。

 その日、吉野の要塞で正成は工作班の作業を見守っていた。正成が開発を命じたのは、『鹿ロボット』だった。狭隘で急峻な渓谷が連続する吉野の地では、戦車や装甲車では身動きが取れない。そこで、正成が発案したのが『鹿ロボット』だった。これが完成すれば、急な斜面を駆け下って敵に奇襲をかけることも、逆に退却することも容易だ。技師長の鹿爪少佐が鹿ロボットの試作機を見せ、その構造や操作方法を正成に説明していた。正成が鹿爪を叱り飛ばした。

「貴様も軍人なら、これに乗って敵と戦う様子をよく想像しろ。鹿ロボットの操作は体重移動だけで出来る必要がある。足は鹿ロボットから振り落とされないように絶えず固定しておく必要がある。わからないのか? 両手でサーベルを振り回しても鹿ロボットから振り落とされることなく、自由自在に操れる必要があるのだ!」

「ご指摘の趣旨はよく理解いたしました。ただちに改良設計に入ります」

「頼むぞ!」そう念を押して正成は工作室を離れた。次に正成は、要塞内で武術の訓練を行っている若手の兵士たちを視察した。教官は、例の熊鹿だった。熊鹿は束になって襲いかかる若手兵士たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ、カカと笑って言った。

「ガキども! そんなへっぴり腰で戦が出来ると思ってるのか? もっと体を鍛えなおせ! 要塞の周りを十周走って来い!」

 若手兵士たちは武器を足元に置き、ランニングに出ようとした。熊鹿はそれをさらに叱った。

「このバカども! お前ら実戦で走るとき、武器を置いて行くのか? ちょっとは考えろ!」

 それを聞いた若手兵士たちは武器を身に着けて再び出発しようとした。それを正成が呼び止めた。

「ちょっと待て、君らに実戦の怖さを見せてやろう」

 正成は熊鹿の前に立ちふさがった。

「熊鹿、私を敵だと思ってかかって来い」

 それを聞いて熊鹿が困惑したような表情を見せた。

「かかって来いと言われても、提督にお怪我をさせるわけにはいきませぬ」

 それを聞いた正成はニヤリと笑みを浮かべた。

「さーて、怪我をするのはどっちかな?」

 その言葉にカッとなった熊鹿は、自慢の大矛を振り上げた。その瞬間、目にもとまらぬ居合い抜きで正成のアントラーサーベルが熊鹿の喉元に突きつけられた。

 正成の俊敏な身のこなしに若手兵士たちから驚嘆の声が漏れた。

「皆、よく見ておくように、これが実戦だったら、熊鹿は間違いなく死んでいた。実戦では一瞬の隙も許されない。わかったな!」

「はい!」兵士たちは、正成に一礼してランニングに出発した。

 次に正成は、鹿上が指揮している城壁の工事現場を視察した。鹿上の怒鳴り声が聞こえてきた。

「石垣のかみ合いが緩いではないか! 岩と岩をもっとガッチリかみ合わせるのだ! こんな石垣では、敵の猫ニャン砲の集中砲火ですぐに倒壊してしまうぞ! それから、北側の石垣はもっと高く、要塞の内部が完全に隠れるまで積み上げるのだ。敵は、吉野川の対岸から猫ニャン砲を放つだろう。こんな高さでは、砲弾が石垣を超えて要塞の内部に着弾するぞ!」

 額に汗を浮かべながら工事を指揮する鹿上に正成が声をかけた。

「作業は順調か?」

 鹿上が首を傾げながら答えた。

「いえ、地形が複雑なので、弱点が出来ないように入念に城壁を築いているため、少し手間取っております」

「まあいい、まだ時間には余裕がある。そう急ぐな、作業中に城壁の倒壊事故でも起こしたら、もともこもないぞ」

「はい、心得ました。作業中の安全には十分に注意します」

 正成が鹿上に尋ねた。

「ところで、川の対岸の山の中腹まで、トンネルを一本掘れるか? 敵陣に夜襲をかけたい」

「掘れますが、逆に敵に進入路を与えることにもなりかねません」

「それが狙いだ。我々の夜襲がそのトンネルを使っていると知った敵は、トンネルを通って要塞に侵入しようとするだろう。その時にトンネル全体を爆破するのだ。それで千人ぐらいの敵兵を生き埋めに出来る」

「なるほど! さすがは提督。早速、掘削を始めます」鹿上はそう言って作業に戻った。

 要塞の視察を続ける正成に佐和子が声をかけた。

「提督、少し休息なさっては?」

 正成がニッコリと微笑んだ。

「そうだな、今日は陽気がいい、少し歩こうか?」

 二人は要塞の裏手の散策道を歩いた。散策道には紅葉がカーペットのように敷き詰められ、踏みしめるとふわふわした感触だった。二人は散策道の脇の倒木に腰掛けた。

「提督様、紅葉が美しゅうございますね……」

 それを聞いた正成が少し表情を曇らせた。

「紅葉の赤は美しい。しかし、やがてこの要塞は人の血で朱に染まるだろう」

「それは、この要塞が陥落するという意味ですか?」

「いや、違う。もともとこの要塞は時間稼ぎのために築いているものだ。死守するつもりはない。やがてこの要塞は敵軍の血で朱に染まるだろう。少しでもこの要塞で時間を稼ぎ、敵軍に被害を与えて熊野に退く。それが私の戦略だ」

「熊野に? 熊野に何があるのですか?」

「鹿川に命じて船を用意させている。熊野から船に乗り、海を渡るのだ」

「でも、今や日本全土が猫人間軍に支配されています。船に乗っても行く当てはありません」

「いや、ある」

「それはどこですか?」

 正成は足元に視線を落とし、紅葉の葉を眺めながら答えた。

「それはいずれ皆に教えることになる。今は知らずともよい」

「味方にも教えられないほどの作戦なのですね。わかりました。これ以上は訊きません」

 それを聞いた正成は穏やかな微笑を浮かべた。

「さあ、もう暗くなる。要塞に戻ろう」

 ピッタリと寄り添って散策道を戻って行く二人の後ろ姿を野うさぎが不思議そうに見つめていた。



 翌々日の夕方、密偵からの報告が入った。

「猫人間軍は、近衛兵のみを東京に残し、主力部隊の三百万を率いてこちらに向かっています。十日後には到着するでしょう。敵の提督は黒猫大将です。約千基の猫ニャン砲を装備しています」

 それを聞いた正成はニヤリとほくそえんだ。

(敵は全軍を引き連れて来るのだな……。しかし、吉野の狭隘な地形では、大軍はあまり意味をなさない。まして四方を川に囲まれているこの要塞は、天然のお堀に守られているようなものだ。水を苦手とする猫人間軍には最悪の立地だ。来るなら来い)

 夜の参謀会議で正成が作戦を説明した。

「敵の兵力は三百万、率いるのは知将、黒猫提督だ。猫ニャン砲を約千基装備している。しかし、この地形では、大軍はあまり意味をなさない。敵軍は、南北に長く伸びた陣形を取らざるをえない。おそらく敵軍は、前回と同じように、猫ニャン砲の集中攻撃で、この要塞を滅ぼそうとするだろう。しかし、今、構築中の石垣なら要塞の内部は猫ニャン砲の死角になり、要塞の内部は安全だ。したがって、我が軍は、この要塞にたてこもり、猫人間軍の苦手な冬の到来を待つ。戦が長引けば長引くほど、気温は下がり、敵軍の士気は低下するだろう。幸いにして、この要塞の裏山には、豊富な湧き水と木の実がある。兵糧の心配もないだろう」

 鹿上が言った。

「敵の自壊を待って撃って出るのですね」

「いや、ここも最終決戦の地ではない。出来るだけ敵の士気を低下させ、少しでも兵力を削ぐのがこの要塞の役割だ。敵を十分に叩いたら、我々は、熊野古道を南下し、海に出る。既に熊野では、鹿川の軍が、船舶の準備を進めている。我が軍が熊野に着くまでには、四万人分の船が揃うだろう」

「海に出る?」鹿上が不思議そうに尋ねた。

「既に日本全土は猫人間軍に支配されています。一旦、海に出たら、もう上陸出来るところはありません」

 正成は表情を変えずに首を横に振った。

「いや、ある。そこが決戦の地だ」

「それは、どこですか?」

 正成はニヤリとほくそえんだ。

「それは、その時が着たら教える。今は訊くな。我々が熊野から乗船するのが二月なら、勝利の女神は我が軍に微笑むだろう」

 正成は、鹿上に三通の密書を手渡した。

「使者を放て。千早、信濃、日光の友軍にこの密書を届けさせるのだ。いいか、絶対に封を切ってはならぬ。友軍の将に直接手渡すのだ。途中、猫人間軍に捕まるようなことがあれば、この密書を食べ、自刃するのだ。使者は、この密書を命がけで守れる者を選べ、よいな」

「心得ました」

 参謀会議が散会した後、正成は一人で物見櫓に登り、夜空の星を眺めていた。以前、春日山で眺めた星空を思い出した。あの時、自分は、同じ星を佐和子も見ていることを祈った。心から佐和子を愛しいと思った。この戦が終わったら一緒になろう。そう思っていた。でも、戦が終わる保証などない。勝利の保証もない。たとえ戦に勝利しても、自分たちが生きている保証はない。戦とはそういうものだ。いや、人間の命自体がそういうものだ。明日の保証など何もない。今、やりたいことは今すべきだ。しかし、正成にはそれが出来なかった。それが、鹿人間軍四万の命を預かる提督としての使命だった。気がつくと、すぐそばに佐和子が寄り添っていた。正成が驚いて振り返った。

「何だ佐和子、来ていたのか」

 佐和子が少しむくれた表情を見せた。

「何だとはご挨拶ですね、提督。星を見ていたのですか? 今夜は満天の星空ですね。どの星を見ていたのか当てましょうか? あれ、あのひときわ明るく輝いている大きな星ですね」

「当たりだよ。実は、春日山でもあの星を見ていた。君の事を想いながら……」

 それを聞いた佐和子はほほを赤らめた。

「まあ、どうせ、私の悪口でも言っておられたのでしょう?」

 正成は、黙って首を横に振った。

「少し冷えてきたね。もう中に入ろう」

 二人はゆっくりと物見櫓を降り、それぞれの寝所に戻った。



 五日後、要塞の守りは完成した。正成は工作兵に命じ、要塞に渡る全ての橋に爆薬を仕掛けさせた。

(いつでも来い)正成がそう思ったときだった。密偵からの連絡が入った。敵の先発隊が奈良に入ったとの事だった。兵力は約二十万だという。

 正成は鹿上に命じた。

「明日の午後には敵の先発隊が襲来する。要塞に渡る全ての橋を爆破せよ」

「心得ました」そう言って鹿上が本陣を出た。しばらくすると、あちこちで「ドドドドッ、バシャン!」という爆破音が響いた。爆破音が収まり、しばらくして鹿上が戻った。

「橋は全て爆破しました。準備完了です」

 夕刻になり、敵の偵察隊がちらちらと姿を現した。こちらの要塞の様子を探っているようだった。正成は物見櫓からその様子を見つめていた。

(明日の正午には来るな)正成はそう感じた。正成は全軍を集め、号令をかけた。

「皆の者、よく聞け、敵の先発隊が明日の午後には襲来する。兵力は約二十万、ここまで一週間で来た事からおそらく猫ニャン砲は装備していないだろう。しかし、敵は猫人間軍だ。どんな新兵器を持っているかもわからぬ。みんな、今夜はよく寝ておけ、明日から激しい戦になるぞ」

「オウーッ!」という兵たちの喚声がこだました。何かを信じている軍は強い。鹿人間軍にとってその何かとは、鹿姫であり、正成だった。正成は身の引き締まる思いを胸に抱き、本陣に戻った。

 予想通り、翌日の正午頃に敵の先発隊が姿を見せた。敵軍の指揮官、社務猫(しゃむねこ)大佐が命令を発した。

「全軍、敵の要塞を包囲せよ! ただし、裏手の散策道だけは開けておけ、敵の逃げ道を残しておくのが城攻めの常道だ」

 本陣の正成のもとに鹿上が来て状況を報告した。

「敵の先発隊が到着しました。要塞全体が包囲されました。ただし、敵軍は裏の散策道だけには兵を配置していません」

 それを聞いた正成は「フッ」と小さく笑った。

「敵の指揮官にも多少は兵法の心得があるとみえる」

 一般に敵の城を攻めるときには一箇所だけ逃げ道を開けておくのが常識である。完全に城を包囲すると、逃げ場はないと覚悟を決めた城内の兵士が超人的な抵抗をするからである。しかし、一箇所でも逃げ道を残しておくと、勝ち目はないと判断した兵士たちが城から脱出を始める。そうなると、篭城側の士気は一気に衰え、城はあっけなく陥落する。

 鹿上が正成に問いかけた。

「敵には攻めてくる気配はありません。我が軍は如何いたしましょうか?」

「ほおっておけ。こちらの様子を十分に把握したら、敵はロケットアンカーを打ち込んで川を渡るつり橋を架けるに違いない。それが一箇所や二箇所なら我が軍の集中攻撃を受ける。おそらく、十分に準備を整えて、四方八方から同時に無数のつり橋を架けるだろう。しかし、ロケットアンカーで作ったつり橋では一度に大軍は渡れない。こちらの思う壺だ」

 正成の予想は的中した。要塞を包囲した敵軍は、一斉に要塞に向けてロケットアンカーを打ち込み、無数のつり橋を架けた。しかし、敵はすぐには攻撃してこなかった。しばらくして一人の白旗を掲げた猫人間軍兵士がつり橋を渡り、要塞の門を叩いた。

「私は、我が軍の社務猫大佐の使者、白猫です。門をお開けください」

 兵士たちはざわめいたが、その様子を物見櫓から見ていた正成は、使者を要塞に入れるように指示した。兵士たちは、使者の身体検査を行い、武器を持っていないことを確認した上で、要塞に入れ、本陣の正成のところに連れてきた。

「私は、我が軍の司令官、社務猫大佐の使者、白猫と申します」

「何の用だ?」正成がぶっきらぼうに訊いた。

「社務猫大佐のお言葉を伝えます。貴軍に一時間の猶予を与えます。それまでに、降伏して武器を捨て、要塞を開放しなさい。さもなければ貴軍を殲滅すると」

 それを聞いた正成は嘲笑を浮かべた。

「一時間経とうと、一ヶ月経とうと我が軍の答えは『ノー』だ。貴殿も早く軍に戻り、戦の支度をするがよい」

「貴軍は、自ら望んで滅亡するのですか?」

「我が軍は自ら望んで滅亡したりせぬ。ただし、隷属か滅亡かどちらかを選べと訊かれれば、迷わず戦って滅亡する方を選ぶ。もう話はない。早う帰られよ」

「そうですか……。わかりました」そう言って使者は帰って行った。

 それから約一時間後、社務猫大佐が号令をかけた。

「全軍、つり橋を渡り、敵の要塞を突破せよ!」

「ウニャー!」という怒涛のような喚声とともに敵軍が突入してきた。つり橋を渡りきった敵兵は、ハシゴを掛け、石垣を登り始めた。石垣を登りきった敵兵は、内側にもハシゴを掛け、雪崩のように石垣の内側に飛び込んできた。その様子を正成は物見櫓の上から黙って見守っていた。石垣の内側が敵兵で埋めつくされた時、正成の号令が響いた。

「今だ、煮え湯を注げ!」

 石垣は二重になっていたのだ。石垣と石垣の間に立ち往生した敵兵たちは、頭から煮え湯を被せられ、「ニヤ~!」という断末魔の悲鳴をあげながら次々と熱湯の池に沈んだ。二重石垣の内部は、瞬く間に敵兵の屍で埋め尽くされた。正成は次の命令を発した。

「今だ! 敵のつり橋に向けて油を注げ!」

 要塞の内部に配備された投石器から次々と油を溜めた樽が投じられた。敵のつり橋は油まみれになった。正成は次の号令を発した。

「今だ! 火矢を放て!」

 敵のつり橋に向けて火矢が放たれると、瞬く間に敵のつり橋は火の海になった。

「ウニヤ~!」全身火だるまになりながら敵兵が逃げ回った。要塞全体を焼け死んだ敵兵の死臭が覆った。見る見る間に要塞の全周が敵兵の屍で埋めつくされた。まるで地獄絵のような光景だった。結局、初戦だけで敵の先発隊は九千の兵を失い、ちりぢりバラバラに退却した。その様子を正成は無表情に見つめていた。佐和子が正成に歩み寄り、状況を報告した。

「敵兵の損失は約九千、対岸まで総退却いたしました。味方側は無傷です」

「そうか、ご苦労だった。敵兵の屍は吉野川に流せ。工作隊に命じてつり橋を一つ残らず撤去しろ。 

 間違えるな、アンカーごと引き抜くのではない。アンカーを無理に抜くと、要塞の岩盤が緩む。アンカーの先のワイヤーを切断するのだ。それから、敵兵の亡骸は、法師に命じて十分に弔うように」

「心得ました」佐和子はそう答えて物見櫓を降りた。

 正成は、吉野川に流される無数の遺体を眺めながら一句詠んだ。


「ちはやぶる 神のなき世の亡骸は 空しく流る 紅葉のごとく」



 それから正成は、近くにいた鹿上に言った。

「熊鹿を呼べ」

 鹿上が熊鹿を連れて物見櫓に戻ってきた。正成が熊鹿に命じた。

「今夜、お前は第五騎兵隊を率いてトンネルを抜け、敵の先発隊に夜襲をかけろ。敵の先発隊は我が軍に奇襲をかけるために昼夜兼行でここまで来たに違いない。その上に今日の惨敗だ。今夜は疲れきって深く寝入るに違いない。お前の部隊は、奴らの寝込みを襲うのだ。ただし、決して深入りするな、目的は敵を眠らせないことだ。敵陣に斬り込んで、ひと暴れしたら、すぐに撤退せよ。これは命令だ。どんなに戦況が有利でも、撤退するのだぞ! もう一度言う、目的は敵を熟睡させないことだ」

 熊鹿がひざまずいて正成に一礼した。

「心得て候」

 その日の深夜、熊鹿率いる第五騎兵隊は、トンネルをくぐり、敵先発隊を背後から急襲した。不意をつかれた敵軍は、総崩れになり、暗闇の中で逃げ惑う兵士でパニック状態になった。熊鹿が部隊に号令をかけた。

「提督の命令だ! 惜しいが今夜はこれで撤退する」

 熊鹿の部隊は、あっさりと兵を引き、再びトンネルをくぐって要塞に戻った。大変なのは、熊鹿らが去った後の敵軍だった。暗闇で不意を疲れてパニック状態になった敵軍は、なんと同士討ちを始めたのだ。二十万を誇った敵の先発隊は、翌朝には、約半数にまで激減していた。先発隊の司令官、社務猫大佐は、地団太を踏んで悔しがった。しかし、次の日、遂に敵先発隊は攻撃してこなかった。社務猫は、兵法ではとても正成に勝てないと悟ったのだ。

 社務猫は悔しそうにつぶやいた。

「本隊の到着を待って、猫ニャン砲の一斉攻撃をかけるしかない。それ以外にあの要塞を落とす方法はない。しかし、鹿人間軍の鹿木という男、さすがに百万の軍勢を全滅させただけのことはある。只者ではないな……」

 その頃、要塞の本陣では鹿上が正成に訊いていた。

「提督、今夜も夜襲をかけますか?」

「いや、今夜行ってはならぬ。敵軍は十分に夜襲に備えているだろう。鹿上、奇襲というのは予期せぬ時に予期せぬ所から攻め込むから奇襲なのだ。備えある敵に奇襲攻撃は通用しない」

 その夜、敵先発隊は一晩中徹夜で夜襲に備えていたが、結局、鹿人間軍は攻めてこなかった。敵先発隊の兵士たちは二晩連続で徹夜になり、疲労は極限に達した。

 翌日、猫人間軍の主力部隊が到着した。前線に到着し、味方の先発隊が既に十万の兵を失ったと報告を受けた黒猫提督は愕然とした。確かに猫人間軍の兵力が三百万であることを考えれば、兵力の損失は微々たるものだが、わずか二日間の戦いで疲弊しきった先発隊の兵士を見た黒猫将軍は、鹿人間軍の要塞の堅固さと、その戦術の巧みさに感嘆した。

(我が軍の兵力は敵の百倍だ。しかし、鹿人間軍の高度な知略と結束の固さ、地の利を考えれば、形勢は互角だ)黒猫提督はそう思った。黒猫は、鹿人間軍の夜襲に備え、堅固な野営陣地の構築を指示した。社務猫大佐とは違い、すぐに要塞を攻めようとはしなかった。

 密偵が正成に猫人間軍の状況を報告した。

「敵の本隊が到着しました。兵力は約三百万、約千基の猫ニャン砲を装備しています。しかし、敵は野営陣地の構築を行っており、要塞に攻め込む様子はありません」

 正成が密偵に命じた。「敵陣の陣形をもっと詳細に探るのだ」

 それから正成は、そばにいた鹿上と佐和子に言った。

「敵の提督、さすがに三百万の軍勢の総司令官となるだけあって、只者ではないな。まずは、敵の陣形を詳しく調べた上で戦術を立案しよう。苦しい戦いになるぞ」

『敵軍の総攻撃はいつか?』要塞の内部は、緊迫した状態が続いていた。正成は物見櫓に登り、全軍に指示した。

「何をそんなに緊張している。どうせ戦は長期戦になる。そんなに緊張していては体が持たんぞ。みんなもっとくつろげ。この要塞は戦場であると同時に、皆の生活の場でもあるのだ」

 提督は落ち着いている。提督の指示に従っていれば大丈夫だ。そんな安堵感が全軍に広がった。

 次に正成は、鹿姫の御所を訪れた。

「鹿姫様、何か不自由はございませんか?」

 鹿姫は小さく首を横に振った。

「わたくしは快適に暮らしています。それより戦況は如何ですか?」

「まだ、戦況というほどの戦いは始まっていません。戦はこれからです」

「そうですか? 今は、提督だけが頼りです。お風邪などお召しにならぬよう……」

「ありがとうございます」

 本陣に戻った正成に密偵からの報告が入った。

「敵軍は、南北に長い布陣を布き、東西に防護柵を築いています。先鋒には猫ニャン砲の配備を進めています」

 その報告は、正成の予想通りだった。ここの狭隘な地形では三百万の大軍が野営する陣地を構築することは非常に難しい。陣地は必然的に南北に非常に長く延びた形になる。黒猫は、まともに攻撃してこの要塞が簡単に陥落するとは考えていない。おそらく猫ニャン砲による集中攻撃で石垣を破壊するまでは、本格的な攻撃は仕掛けてこないだろう。

 密偵は、少し気になる報告もした。それは、敵陣から大量の土砂が搬出されているとの報告だった。

 正成にはピンと来た。鹿人間軍と同じように猫人間軍も要塞内部に侵入出来るトンネルを掘っているのだ。しかし、この陣地の周りは自立性のない砂礫層が多く、トンネルの掘削は容易ではない。正成は、敵のトンネルのルートを探るように密偵に指示した。

 猫人間軍は、野営陣地を完成させた後で、猫ニャン砲による一斉攻撃を開始した。

「ドカン! ドカン!」という轟音が要塞内部に響いたが、石垣は簡単には崩れなかった。また、高い石垣の死角になっているため、要塞の内部に猫ニャン砲が着弾することはなかった。このままでは、外側の石垣を破壊するのに一ヶ月以上はかかるだろう。思う壺だ。正成はそう考えていたが、兵士たちの間には、少しずつ崩れ始めた石垣に対する不安が広がっていた。外垣が崩れれば、敵軍は一気に押し寄せてくるだろう。そうなれば、所詮、多勢に無勢だ。要塞は簡単に陥落するだろう。皆はそう考えていた。

 参謀会議で、正成は皆の不安を払拭した。

「石垣は、あくまで時を稼ぐためのものだ。もうすぐ冬になる。寒さに弱い猫人間軍は、初雪までに要塞を陥落させようと焦っている。敵を滅ぼすのは、我が軍ではなく、吉野の真冬の寒さだよ」

 翌日、密偵から新たな報告が入った。敵のトンネルは、非常に深く、地表の砂礫層を貫通し、その下の粘土層を掘り進んでいるとのことだった。トンネルは東、西、北の三箇所を起点にして掘り進められているとのことだった。正成には黒猫提督の作戦が読めた。これらのトンネルは、要塞内に侵入するためのものではない。石垣の基礎地盤を爆破し、石垣を倒壊させるためのものだと。

 正成は、鹿上を呼び、要塞の内部から、敵のトンネルに向けて迎え掘りすることを指示した。

 鹿上が不思議そうに尋ねた。

「敵のトンネル掘りをわざわざ手伝ってやるのですか?」

「いや、迎え掘りの先には爆薬を仕掛けておく。敵のトンネルが迎え掘りに到達したら、一気にトンネルを爆破し、敵の掘削班を生き埋めにするのだ」

「心得ました。すぐに迎え掘りを始めます」

 猫ニャン砲による砲撃は連日続いた。要塞内は無傷だったが、外垣は少しずつほころび始めていた。

 朝夕の寒さが身にしみる季節になった。猫人間軍の陣内は、いつも暖をとるための焚き火がたかれていた。

(そろそろだな……)そう思った正成は、第三騎兵隊の鹿光を呼んだ。

「今夜、トンネルをくぐって敵に夜襲をかける。しかし、敵の野営陣地の東西には堅固な防護柵がある。貴公の仕事は、喚声を上げながら、敵陣に夜襲をかけるふりをするだけだ。貴公と第三騎兵隊は、敵の堅固な防護柵を見て、夜襲を諦めて逃げ帰るふりをするのだ。必ずや敵軍は、トンネルをくぐり、後を追ってくるだろう。貴公たちがトンネルを抜け、要塞に戻ると同時にトンネルを爆破する。敵の追撃隊を生き埋めにするのだ」

「心得ました」

 深夜になり、鹿光は第三騎兵隊を率いて出陣した。トンネルを抜けて敵に夜襲をかけた。しかし、敵の陣地には夜襲に対する十分な備えがあり、鹿光は奇襲を諦めて全軍に撤退を命じた。退却する兵士たちに対し、猫人間軍は、陣地内から『レーザー機関銃』で銃撃してきた。「うわ~!」という断末魔の悲鳴と共に、数名の奇襲兵がバタバタと倒れた。

 黒猫提督は千載一遇の好機だと思って号令した。

「第二師団は、敵の後を追い、トンネルをくぐれ、要塞の中に進入すれば、もう勝利は我が軍のものだ」

 猫人間軍の第二師団約一万兵が続々とトンネルに侵入してきた。トンネル内が敵兵で一杯になったのを確認した鹿上が号令をかけた。

「今だ! トンネルを爆破せよ!」

「ドドドドッ!」という鈍い爆音と共にトンネルは陥没した。トンネル内部にいた敵兵二千が生き埋めになった。

 鹿上は勇躍して本陣に駆け込み、作戦の成功を正成に伝えた。

 正成は安堵の表情を鹿上に向けた。

「そうか、よかった。鹿光と第三騎兵隊を十分にねぎらってやれ」

 鹿上は少し表情を曇らせていた。

「何か憂いごとでもあるのか?」と正成が問うと、鹿上が答えた。

「作戦の成功は間違いないのですが、鹿光から気になる報告がありました」

「気になる報告? それは何だ」

「はい、敵陣から退却する時、敵陣内から見たこともない『レーザー機関銃』による掃射を受けたそうです。実際に数名の犠牲者が出ています」

「レーザー機関銃? わかった。白兵戦では脅威だな」

「そう思います」



 翌日からの砲撃は熾烈を極めるものとなった。要塞内には一日中爆音が響いて会話が出来ないほどの状態になった。それでも外垣は崩れなかった。猫人間軍の黒猫提督のイライラは頂点に達していた。

 初雪までに敵の外垣は落ちない。この上は、要塞の裏の散策道から敵陣に侵入するしかない。黒猫はそう考えた。黒猫は、精鋭十万を用意し、要塞の裏の散策道からの攻撃を命じた。そして、それは正成の想定内だった。

 要塞裏の散策道は、両側を急斜面に囲まれた、人一人がやっと通れる程度の小道だった。小道の両側にはうっそうとした雑木が茂っていた。猫人間軍はその小道を一人ずつ通りながら、鹿人間軍の要塞を目指した。要塞までもうすぐ到着するというところまで来た。その時だった。両側の斜面の頂上に鹿ロボットに跨った鹿田、鹿川両将軍が現れた。鹿川が猫人間軍を嘲るように出迎えの言葉を発した。

「猫人間軍よ、ようこそ来られた。しかし、一兵も生かしては帰さん」

 その声を聞いて、猫人間軍は騒然となったが、雑木に遮られて鹿人間軍の姿は見えない。

 その時、鹿田が号令を発した。

「またたび砲を撃て! 行くぞ! 全軍突撃!」

「ウワー!」という喚声と共に、鹿ロボットに乗った鹿人間軍が、細い小道に長く伸びた敵軍に襲いかかった。逃げ惑う猫人間軍の兵士たちに鹿田、鹿川の軍勢は、容赦ない攻撃を加えた。猫人間軍は、新兵器『レーザー機関銃』を装備していたが、鹿人間軍が放ったマタタビ砲に惑わされ、銃撃はほとんど当たらなかった。「ニヤ~!」という猫人間軍の阿鼻叫喚が散策道に響き渡った。猫人間軍の精鋭十万は壊滅した。

 連戦連敗、冬の酷寒、猫人間軍の士気は、どん底まで低下していた。毎夜毎夜、戦線を離脱して脱走する兵は後を絶たず、昼間も兵士たちは焚き火を囲み、雑談に興じていた。戦況は、正成の狙い通りになりつつあった。

 ある日の夜、敵軍の脱走兵約四十名が、要塞裏の散策道を歩いているところを味方の番兵に捕らえられた。その脱走兵は、鹿人間軍に捕まることを覚悟で、散策道を要塞の方に向かって来たのだという。  

 脱走兵たちは、正成の前に引き立てられた。

 正成が脱走兵のリーダーらしき者に訊いた。

「君らは、猫人間軍の脱走兵だと聞いたが、何故、わざわざ我々に捕まることを承知で、要塞裏に向かって来たのだ?」

「私たちは間違いなく、猫人間軍の脱走兵です。我々全員、狂猫病に感染しています。でも、我々は皆、感染初期の患者で、まだ人間らしい感情が残っています。私たちは提督の軍と戦いたくはないのです」

 正成は、彼らの言葉を鵜呑みにはしなかった。隙を見つけて要塞の中をかく乱するためのスパイかもしれない。正成はそう疑っていた。しかし、その兵は言葉を続けた。

「どうか、私たちを牢屋に入れてください。私たちの狂猫病は確実に進行します。いずれ時期が来れば人間らしい心を失い、あなた方を滅ぼそうとするでしょう。それは、もうどうすることも出来ないのです。私たちが人間の心をなくしたら、どうぞ、私たちを処刑してください。私たちは人間でなくなってまで生きていたいとは思いません」

 彼の言葉に偽りはない。正成はそう思った。間違いなく彼らの病状は進行し、いずれ人間らしい心を失う。それを止める方法はない。かといって、今現在、人間らしい心を持つ彼らを牢屋に入れることは正成の本意ではなかった。正成は迷った挙句、一つの結論を出した。

「医療班、毎日彼らを診察し、病状を報告するように、彼らの病状が我が軍に危険を及ぼすまでは彼らを我が軍の一員として扱う、熊鹿、彼らをお前の第五騎兵隊に編入する。自分の部下として戦に参加させろ、病状が進行して人間の心を失ったと感じたときは、迷わず斬れ、私の了解は必要ない」

 熊鹿が「ハッ、心得ました」と答えた。脱走兵たちはすすり泣いていた。正成に許される精一杯の寛大な処置だった。

 それ以降、医療班から毎日、脱走兵たちの病気の進行状況が報告されるようになった。幸いにして、医療班からの報告は、今のところ深刻な変化は認められないという趣旨のものが続いた。

 来る日も来る日も、要塞内には敵軍が放った猫ニャン砲の轟音が響き渡っていた。その日、正成と佐和子は裏手の散策道を歩いていた。

「提督、提督は連戦連勝にも関わらず、いつも浮かぬ顔をしておられますね。何か懸念事項でもあるのですか?」

「いや、今のところ計画通りだ。しかし、連戦連勝とは言っても、敵の損失は、三百万のうちのわずか二十万だ。今までの勝利など、たいした意味はない。大切なことは、時を稼ぐことだ。以前にも言ったろう、我々が熊野で海に出るのが二月なら、勝利は我が手にあるだろうと……。今の状況なら、おそらく、この要塞は二月まで支えられる。私が憂いでいるのはその先のことだ」

 佐和子が心配そうに訊いた。

「その先の作戦はまだ言えないのですか? 兵士たちも気にしているようですが……」

「言えない。今は、まだ言うべきではない」

「わかりました。私は、提督の作戦がどんな作戦でも、黙ってそれに従います」

「ありがとう。君は近衛隊長だ。鹿姫様を守ることだけ考えておればよい」

「心得ました」

 翌日から猫ニャン砲による砲撃は昼夜兼行となった。鹿人間軍の兵士を熟睡させないことが目的だった。しかし、砲撃を行えば熟睡出来ないのは猫人間軍も同じである。長期間の篭城で、鹿人間軍の兵士たちにも疲労や苛立ちが目立ち始めたが、連戦連敗という結果と酷寒の吉野での野営に猫人間軍は疲弊しきっていた。その上に夜中の轟音である。猫人間軍の士気の低下は甚だしいものだった。兵士たちの不平不満の声は、黒猫提督の耳にも届いていた。しかし、連日の砲撃で、要塞の石垣は少しずつ緩みつつある。外垣さえ破壊すれば、内垣を突破することは難しくない。黒猫提督はそれに期待していた。

 十二月四日になり、吉野に初雪が降った。要塞の内部は十分な防寒対策が採られていたので、鹿人間軍にとってはたいしたことではなかったが、野営している猫人間軍にとっては一大事だった。猫人間軍の兵士たちは、陣営のテント内にコタツを作り、命令があったとき以外は、コタツにこもるという生活を続けた。それでも軍人である以上、夜警の順番などは回ってくる。テントから出た兵の「寒っー」という言葉がいつの間にか猫人間軍の合言葉になっていた。

 寒さと共に、猫人間軍を悩ませていたのが、毎夜のように千早城からやって来て、猫人間軍の陣地の両側の山上から、たいまつを炊いたり、喚声を上げたりする箕面の猿人間軍の残党による嫌がらせだった。兵力は、たかが一万程度でも、毎晩、陣地の近くまで来て、たいまつを灯したり喚声を上げたりされれば、一応、一通りの戦闘体制は整えなければならない。そのため、三百万の猫人間軍は、ほとんど毎晩熟睡出来ない状態が続いていた。

 数日後、鹿上から報告が入った。敵軍が掘り進めているトンネルが、今日中にこちら側の迎え掘りに達するとの報告だった。正成は、トンネルが貫通し次第、迎え掘りの先に据え付けられている爆薬に点火するように指示した。その日の夕刻、要塞の周りのあちこちの地下から爆音が響き、トンネルを開通させた数千の猫人間兵が生き埋めになった。



 敵軍の士気が極限まで低下していることを密偵からの報告で聞いた正成が鹿上に命じた。

「時期が来た。そろそろ火遊びに出かけるか?」

「火遊び?」鹿上が問い返した。

「そうだ。火遊びだ」

 その夜、鹿ロボットに跨った第三、第五、両騎兵隊は、要塞の裏の散策道を迂回して、猫人間軍の陣地がある谷の両側の山の上に移動した。夜中になり、鹿光、熊鹿の両隊長が号令を発した。

「全軍突撃!」

 鹿ロボットに跨った両騎兵隊は、敵陣の両側の斜面を駆け下り、防護柵沿いに鹿ロボットを走らせながら、火矢を放った。火矢は猫人間軍のテントに突き刺さり、次々と火災を起こした。もともと、風除けの簡易なテントなので、大火災とはならなかったが、テントを焼き尽くされた猫人間軍は、酷寒の中、風除けもない野宿を強いられるようになった。

 猫人間軍の参謀が黒猫提督に進言した。

「提督、このままでは、我が軍は自壊します。一旦、奈良まで退却してはどうですか?」

 黒猫は首を横に振った。

「枯れ木でも枯れ草でも何でもよい。とにかく陣地に防寒対策を採れ、寒さに耐えられるように陣地を改良するのだ。兵に伝えよ、あの要塞を落とすまで、どんな理由があっても退却はしないと。脱走を企てたものは処刑するとも伝えよ」

 翌日の参謀会議で、鹿上は、火攻めの効果で敵陣の士気が低下していること、防寒のために敵陣には稲わらや枯れ木が積み上げられていることを報告した上で進言した。

「提督、現在、敵陣には風除けのために稲わらや枯れ木が積み上げられています。巨大な焚き木のような状態です。もう一度火攻めをかければ、敵陣は火の海と化すでしょう」

 それを聞いた正成は苦笑いを浮かべた。

「いや、今、出てはならぬ。これは敵のワナだ。おそらく敵陣の両側の山の尾根沿いには、大勢の兵を伏せてあるだろう。敵の黒猫という提督はなかなかの知将だ。同じ失敗を繰り返しはしない。もともとこの篭城の目的は敵の殲滅ではない。今のところ全て予定通りだ。焦る必要はない」

 年が明け、西暦二八二九年になった。元旦も猫ニャン砲による砲撃は続いたが、要塞内ではささやかな宴が催された。宴の後、正成は物見櫓に登り、全軍に号令した。

「皆の者、よく聞け、今のところ、全て計画通りだ。諸君の勇気と努力に感謝する」

「ウオー!」という兵士たちの喚声がこだました。正成は話を続けた。

「しかし、皆も気づいているとおり、要塞の石垣は徐々にほころびつつある。外垣が倒壊したら、敵軍は一斉になだれ込んでくるだろう。そうなれば、我が軍に勝ち目はない。我が軍は外垣の崩壊に先立ち、要塞を捨てて熊野古道を南下し、熊野に出る。熊野では既に鹿川が四万人分の船舶を用意している。我々は、それに乗り、海に出るのだ。よいか、明日より全軍熊野に向けての撤退準備にかかれ!」

「ウオー! 提督万歳!」という合唱がこだました。

 宴の後、正成は佐和子と二人で散策道を歩いていた。木の枝にはうっすらと雪が積もっていた。

「春になれば、ここは千本桜で桃色に染まる。その景色を生きて二人で見よう」

「春にもう一度、生きてここに来ると約束してくださいますか? 提督が約束してくださるなら、私も約束します」

「ああ、約束する」

 それは哀しいかな何の保証もない約束だった。でも、その約束に佐和子の心は満たされた。佐和子が足元を見ながらポツリと言った。

「もし、桜の季節に提督がここに来られなければ、私もここにおりませぬ」

 本陣に戻った正成のところに密偵から報告が入った。

「提督、吉報です。但馬、飛騨、佐賀で次々と牛人間軍が蜂起しました。現在、それぞれの砦に篭り、各地の猫人間軍と対峙しています」

「そうか、それは良い知らせだ。ご苦労であった」正成は密偵の労をねぎらった。

 もう一人の密偵が来た。その密偵の表情に、正成はただならぬ事態を予想した。

「敵は、三十万の大軍を千早城に差し向けました。おそらく、猿人間の毎夜の嫌がらせに業を煮やした敵軍は、猿人間の殲滅を狙っているものと思われます」

「千早城は天下の嶮、例え、猿人間の守備隊がたった一万だとしても、そう簡単には落ちない。しかし、猿人間の残党は、武器らしい武器はほとんど持っていないはずだ。三十万の大軍には持たないな……」

 正成は少し表情を曇らせて鹿上に命じた。

「鹿光を呼べ」

 鹿上が鹿光を連れてきた。鹿光が尋ねた。

「提督、お呼びですか?」

「ああ、貴公に頼みがある」

「ご遠慮なく、お申し付け下さい」

「第三騎兵隊を率いて、千早城へ行ってくれ、千早城に三十万の敵軍が迫りつつある。猿人間の残党一万では長くは持たん」

「はっ、命令とあれば参りますが、第三騎兵隊も所詮は小勢です。大勢を覆すことは難しいかと思われます」

「それは、そう思う。そこで、猿人間軍の残党一万をこの要塞に合流させようと思う。貴公は、千早城に行き、猿人間軍がこちらに移動する指揮をとってもらいたい」

「そういうことなら、喜んで」

「しかし、実際はそんなに容易ではないぞ、猿人間が千早城を放棄したと知れば、猫人間軍は直ちに追っ手を差し向けて来るだろう。貴公は、千早城に残り、猿人間軍が撤退する時間を稼ぐのだ」

「心得ました。命に代えても」

「いかん、命に代えてはいかん、今は、一兵の命も損じたくはない。貴公は、千早城にまるで大軍がいるように巧妙に細工して、敵の進軍を阻み、自軍も被害を最小限にとどめて帰還するのだ。出来るか?」

「やってみます」

「よし! 行け!」

 鹿光は勇躍して本陣を飛び出して行った。



 鹿光の軍勢は、裏の散策道を抜け、吉野川沿いに西に進み、途中から山道を北上して千早城に入った。千早城の北側斜面では、既に激戦が繰り広げられていた。千早城は天下の嶮、三十万の敵軍の攻撃にもよく耐えていたが、武器や兵糧を十分に持たない猿人間軍の抵抗は、限界に達していた。既に全滅の覚悟を決めていた猿人間軍の兵士たちは、鹿光の援軍が来たと聞いて狂喜乱舞した。猿人間の残党を指揮していた猿渡大佐に鹿光が言った。

「大佐、残りの兵を率いて吉野の我が軍に合流してください。追っ手は私たちが防ぎます」

「そうか、願ってもない誘いだが、君たちはどうする。ここで玉砕してはならんぞ」

「ご心配なく、十分に時を稼いだら、私たちも速やかに撤退します。ここで犬死するつもりはありません」

「それを聞いて安心した。それでは、先に吉野に行ってるぞ、必ず生きて吉野に戻って来い」

 猿渡は、猿人間軍一万を引き連れ、吉野に向かった。

 鹿光は、ありとあらゆる謀略を駆使して、敵の追っ手を食い止め、数日後、ほとんど兵を損じることなく吉野の要塞に戻った。

 正成は、鹿光をねぎらった後、熊野の鹿川に密偵を送った。必要な船舶数が四万人分から五万人分に増えたことを伝えるためである。

 その夜、正成は、猿渡と鹿光を招いて、ささやかな宴を催した。

「鹿光、ご苦労だったな。猿渡大佐、猿人間軍の合流を心より歓迎します」

 猿渡が深々と頭を下げた。

「猿人間軍を滅亡の淵から救出いただき、感謝の意に絶えません」

「いや、こちらこそ、毎夜の貴軍のかく乱戦法には、どれだけ助けられていたかしれません。礼は無用です。それに、吉野の要塞に入ったからといって、決して安全になったわけではありません。この要塞はまもなく陥落します。我々は、熊野に落ち延び、海に出ます。どうか貴軍も同行してください」

「それはかまいませんが、海に出た後どうするのですか?」

「それは、今は言えません。熊野に着いたらお話します」

「そうですか、いずれにしても我が軍は貴軍と行動を共にします」

「ありがとうございます」正成が猿渡に一礼して、宴は散会した。

 その日の深夜、鹿上がドタドタと正成の寝室にやってきた。

「提督、番兵が一名刺殺されています。石垣にはロープがかかっていました。敵の忍びが侵入したと思われます」

 正成は寝所から飛び起き、鹿上に指示した。

「全軍戦闘配備、敵の忍びは、中から要塞の門を開けようとするだろう。門の周りの警備を固めろ!」

 正成は軍服に着替え、物見櫓に登って要塞の内部を見回した。そして、思わず「しまった!」と声を上げた。敵の忍びが攻撃しているのは、鹿姫の御所だった。御所は常時百名ほどの近衛兵が警護に当たっていたが、敵の忍びは小型の『レーザー拳銃』で近衛兵を襲っていた。飛び道具を持っていない近衛兵には圧倒的に不利な戦いだった。敵の攻撃を受けてバタバタと倒れていく近衛兵の様子が物見櫓から見えた。ただ一人、近衛隊長の佐和子だけが鮮やかな身のこなしでレーザー銃をかわしながら次々に敵の忍びを斬り倒していた。少し離れたところに潜んで、敵の忍びが佐和子にレーザー銃の照準を合わせていた。

「佐和子があぶない!」そう思った正成は、アントラーアーチェリーを力いっぱい引き絞り、アントラーアローを放った。アントラーアーチェリーとは鹿剣法の達人が使う秘伝の弓矢で、その飛距離は普通の弓矢の約十倍であり、アントラーアーチェリーで放たれたアントラーアローは、分厚い鉄板でさえ射抜くことができる。正成が放ったアントラーアローは、忍びの首を貫き、忍びはバッタリと倒れた。その音で、佐和子は初めて自分が背後から狙われていたことに気づいた。物見櫓を見上げた佐和子に、正成がアントラーアーチェリーを高くかざして合図した。佐和子もアントラーサーベルを高く振りかざして正成に合図を送った。残りの忍びは、騒ぎを聞いて駆けつけた熊鹿らによって斬り刻まれた。忍びによる急襲は事なきを得た。正成は、物見櫓を駆け下りて御所に向かい、鹿姫の安否を確認した。

「私どもの手落ちです。怖い思いをさせて申し訳ありません」

 正成は警備の手抜かりを鹿姫に詫びた。それに対して、鹿姫は毅然と答えた。

「わたくしは戦場にいるのです。わたくしだけ安全などとは考えていません。むしろ、提督の足でまといになって申し訳なく思っています」

 その後、正成は全軍を集めて号令した。

「この要塞はもう長くはもたない。だからと言って警備に手抜かりがあってはならぬ。全てこちらの予定通りに進むように努力するのだ。それが戦略というものだ」

 一月二十一日、ついに外垣が崩壊した。既に鹿人間軍は熊野に向けて退却を始めており、要塞内には僅かなしんがりだけが残っていた。しかし、正成はまだ要塞内に大軍が残っていると見せかけるため、時限式の投石器による自動攻撃をしたり、「ウオー、ウオー」という喚声を流すスピーカーを各所に配置するなど、様々な細工を施していた。

 猫人間軍の黒猫提督は、正成の作戦にまんまとはまって号令をかけた。

「外垣は破壊した。しかし、鹿人間軍に逃げる気配はない。敵は、要塞を死守するつもりだ。ロケットアンカーを打ち込み、つり橋を架けろ! 全軍突撃だ! 一気に敵を踏み潰せ!」

「ズドン! ズドン!」という轟音と共に、対岸の各所からロケットアンカーが撃ち込まれ、瞬く間に、要塞の周囲に釣り橋が架けられた。

「ウニャー!」という喚声と共に、猫人間軍が要塞内になだれ込んだ。しかし、そこはもう、もぬけの殻だった。

「提督、要塞は占拠しました。しかし中は、もぬけの殻です」その報告を聞いた黒猫提督は、とっさに「しまった!」と叫んだ。次の瞬間、轟音と共に、要塞の各所で爆発が起こった。猫人間軍は、またしても正成の策略にはまり、大軍を失う結果となった。

 鹿人間軍のしんがりを務めた熊鹿は、その様子を見て高々と笑った。

「ざまあみろ! バカ猫どもめ! 散策道も土砂に埋まった。しばらくは追っても来れまい。ウアハハハハハ! ウアハハハ! さあて、ものども、熊野に向かうぞ!」





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