第一章 生駒・大和川攻防戦
1
時は西暦2828年、人類は滅亡の危機に瀕していた。
世界は、恐るべき伝染病である狂猫病に感染した猫人間軍によって支配され、わずかに感染を免れ、人間として生き残ったのは、生まれつき狂鹿病に感染している奈良県民、生まれつき狂猿病に感染している日光と箕面及び高崎山市民、生まれつき狂豚病に感染している茨城県民など、ごく僅かな人々となった。彼らは、生まれつきこれらの伝染病に感染しているために、狂猫病に対する免疫を持っていたのである。
狂猫病とはウイルスにより感染する伝染病で、感染すると二~三週間の潜伏期間を経て、次第に動作が猫に似てくる。前足を舌でペロペロなめたり、車のボンネットの上で昼寝をしたりするのが初期症状であるが、次第に四つんばいで歩くようになり、ついには、自分は猫だと思い込むようになる恐ろしい病気である。なによりこの病気の厄介なことは、仲間を増やすために、やたらと他の人に病気を移したがるという点である。
今や、日本全土のほとんどを征服した猫人間軍は、破竹の勢いで箕面の猿人間軍を滅ぼし、強硬に抵抗を続けている鹿人間軍の本拠地、奈良に迫っていた。
鹿人間軍は、若草山に前衛基地を布き、春日山に本陣の砦を構えて来たるべき猫人間軍の襲来に備えていた。
鹿人間軍の総司令官、鹿木正成提督は、降伏か絶滅か、選択を迫られていた。降伏すれば、一生、猫人間軍の奴隷として強制労働させられる。しかし、全国の猫人間軍の兵力は六百万人であるのに対し、鹿人間軍の兵力は僅か四万人、兵力差は実に百五十倍である。しかも、猫人間軍には圧倒的な破壊力を持つ最新兵器、『猫ニャン砲』があるのに対し、鹿人間軍が持つのは旧式のアントラーサーベルのみである。
『猫ニャン砲』とは、猫人間軍が開発した新兵器で、この砲撃を受けると、周囲に大きな火炎を生じるとともに、体中に猫に引っかかれたような傷を受けて即死する。一撃で数百人の敵を倒すことが出来る恐ろしい兵器である。
一方、鹿人間軍のアントラーサーベルとは、大和の国に古代から伝承されてきた剣術である鹿剣法の達人のみに与えられる剣であり、達人がこの剣を振るえば、分厚い鉄板でさえ断ち切ることが出来る秘法の剣であるが、飛び道具としては使えないため、一騎打ちには適するが、大量殺戮兵器ではない。つまり、鹿人間軍にとって猫人間軍は、まともに戦ってはとても勝ち目のない相手だった。
その日の朝、正成は本陣の砦に築かれた舞台から奈良盆地を見渡していた。その舞台は清水寺の舞台ほど立派なものではないが、奈良盆地を一望するには十分な高さと広さがあった。
舞台から見下ろす奈良盆地はのどかで優美だった。しかし、いずれここにも猫人間の大軍が押し寄せ、のどかな風景は一変して焦土と化すだろう。それを想像すると正成はやり場のない怒りを覚えた。
強大な軍事力を誇る猫人間軍と戦う鹿人間軍の総司令官としては、あまりにも華奢な体型で端正な顔立ちの青年、軍服の上から超合金の鎧を身に付けた若く凛々しい将校、その人こそが鹿人間軍の総司令官、鹿木正成提督だった。
午後になると、正成のもとに各地からの伝令が続々と到着し、入れ替わり立ち代わり戦況を報告した。
最初に到着したのは豚人間軍の伝令だった。この伝令は豚人間軍の総大将、豚田時近が戦況を伝えるために正成のところに差し向けた者で、長旅のため、まるで乞食のようにみすぼらしい服装になり、髪は乱れ、顔は擦り傷だらけになっていた。
「筑波山にたてこもっていた豚人間軍は、既に兵力の半数を失い、福島方面に撤退しつつありますが、猫人間軍の東京基地より攻め込んだ関東軍と宮城基地の東北軍による挟み撃ちに遭い、全滅は時間の問題です」
伝令からの報告を受けた正成は、関東・東北方面の地図を広げ、腕を組み、右手の親指と人差し指であごを触りながらじっと考えていた。しばらくの沈黙があった。そして、いきなり何かひらめいたように「よし!」と声を上げ、鋭い視線を伝令に向けた。幼い頃から学んだ兵法の知識が、今、彼に妙案を授けていた。
「豚人間軍の総大将、豚田時近に伝えよ。福島方面に退いてはならぬ。那珂川に沿って日光方面に撤退せよと。日光まで退けば、猿人間軍と合流出来るはずだ。日光で猿人間軍と合流し、東照宮に砦を構えて篭城するのだ。猫人間軍は寒さに弱い。冬まで持ちこたえれば、反撃の機会はある」
正成の前にひざまずき、黙って正成の指示を聞いていた伝令が顔を上げ、正成を見つめて異論を唱えた。
「しかし、敵の関東軍は約二十万、東北軍は十万、それに対して、豚人間軍はわずか二万に過ぎません。しかも豚人間は動作が鈍い。日光にたどり着く前に、一気に殲滅されてしまいます」
伝令の異論は正成が想定していた通りのものだった。正成は伝令に歩み寄り、自らも床に膝をついて、伝令の肩に手を置き、優しく諭すように言った。
「那珂川を右に左に横断しながら退却するのだ。猫人間軍は水を苦手とする。橋を探して迂回しながら豚人間軍を追跡しようとするだろう。豚田将軍に伝えよ、後方の橋を爆破しながら日光を目指せと、そうすれば退却の時間は稼げるはずだ」
それを聞いた伝令が目を輝かせながら大きくうなずいた。
「心得ました。直ちにそのご指示を伝えに向かいます」
「長旅ご苦労であった。今夜はこの砦で一晩疲れを落とせ。けがも酷そうだ。軍医に診させよう」
正成の思いやりに満ちた温かい言葉を聞いて、伝令は瞳を潤ませた。
「誰か軍医を呼べ! この伝令のけがの手当てをさせろ!」
側近の者が進み出て、「心得ました。私が軍医にこの伝令を診させます」と言って、伝令を抱きかかえ、本陣の奥にある医務室に向かった。
次に現れたのは、壊滅した箕面の猿人間軍の残党だった。
「提督、必死の抵抗むなしく、我が軍は壊滅しました。百万の猫人間軍に対して、我が軍は、たったの二万、箕面の山にたてこもって善戦しておりましたが、猫人間軍は、我が軍の兵士に対して卑劣極まる誘惑をかけてきました。兵士たちは、偽りの誘惑に負け、昨日は百人、今日は千人というふうに次第に猫人間軍に降伏していきました」
「猫人間軍は、いったいどんな誘惑をかけてきたのだ?」
「はい、ただちに降伏すれば、自由と安全は保障すると……。しかし、これは真っ赤な嘘でした。降伏した仲間の兵士たちはサルマワシに捕らえられ、毎日、芸を仕込まれております」
「御味方は全滅したのか?」
「いえ、敵軍は我が軍の前線基地を攻め落とし、箕面の山の上にたてこもった味方の本軍に対して、猫ニャン砲による無差別攻撃をかけてきました。砦は火の海と化しましたが、幸いにして箕面の山には、蛸の足のように無数の沢が流れております。味方の大半は、散り散りばらばらになりながらも沢伝いに逃げ延びたと思います」
「猿成将軍は?」
「将軍は、わずかな手勢と共に、砦にたてこもり、壮絶な最後を遂げられました。他の者が逃げ延びる時間を稼ぐために、自らおとりとなられたのです」
「おいたわしや……、猿成将軍……。しかし、少数とはいえ、鉄の団結力を誇った猿人間軍が、そこまで簡単に崩壊するとは……」正成はそうつぶやいて唇を噛んだ。
箕面の猿人間と奈良の鹿人間との間には古くから親交があった。正成自身も幼少の頃、猿成将軍に遊んでもらった思い出がある。正成がどんな悪戯をしても、猿成将軍は穏やかな笑みを浮かべて許してくれた。その猿成将軍が戦死するとは……。正成は口を真一文字に結び、瞳を潤ませながら伝令に指示した。
「貴殿は、ばらばらになった御味方の残党を集め、河内の国の千早城に入れ。千早城は小さいながらも天然の要塞だ。小勢でも大軍を迎え撃つことが出来る。猫人間軍は寒さに弱い。冬になり、雪が降れば、必ず逆襲の機会は来る。それを信じて待つのだ」
「心得ました。ただちに残党を集め、千早城に向かいます」そう言って、猿人間軍の残党は去って行った。
最後に報告に来たのは、鹿人間軍の密偵だった。
「提督、猫人間軍は、箕面の猿人間軍を滅ぼした後、軍を二手に分け、我が大和の国に向けて進軍しています。兵力はそれぞれ五十万、一方は、生駒の山越えのルートをとり、もう一方は、大和川沿いに進んでいます。猫人間軍の総司令は、猫条提督です。生駒ルートの指揮を執っているのは猫之上将軍、大和川ルートは猫利将軍です」
正成は、本陣の物見櫓に立ち、考えていた。猫人間軍が生駒ルートと大和川ルートを採るのは読みどおりだ。それぞれ、生駒ルートの生駒山砦には猛将、鹿田将軍、大和川ルートの亀の瀬砦には正成の従兄弟、鹿川将軍を置き、猫人間軍の襲来に備えさせてある。どちらもそう簡単に突破されることはないだろう。しかし、所詮、多勢に無勢、猫人間軍が奈良になだれ込むのは時間の問題だ。若草山の前衛基地は、長くは持たない。次の策を講じなくては……」
2
鹿木正成が二十九歳の若さながら、鹿人間軍の総司令官となった理由は、王家の血筋だということもあるが、それ以上に彼の知略の優秀さと民の人望を集める穏やかで冷静沈着な人柄にあった。
『持久戦』
それこそが正成の戦略だった。狂猫病に感染した人間は、発症後五年間は高度な知能と抜群の運動神経を持つ猫人間となるが、発症後十年を過ぎれば、猫化が進行し、ほとんど『ただの猫』となる。
今回の猫人間軍の総攻撃は、そうなる前に鹿人間、猿人間、豚人間を滅ぼすのが目的に違いない。
したがって、戦が長引けば猫人間軍は、次第にただの猫の集団となって統率を失う。何としてもそれまで持ちこたえるのだ。
各軍の勢力図を見ながら戦略を練る正成のところに参謀総長の鹿上が歩み寄って進言した。
「提督、大和川も生駒も、敵軍五十万に対して、味方は所詮一万、まともに戦っては勝ち目はありませぬ」
「鹿上、もとより両軍が長く持つとは思っていない。しかし、大和川も生駒も断崖絶壁が連続する狭隘な進路だ。大軍を迎え撃つには格好の立地だ。鹿川にも鹿田にも正面からは戦わず、奇襲攻撃で時間を稼げと命じてある。鹿川も鹿田も戦術には精通した最高の指揮官だ。そう簡単に敵軍の進行を許すことはないだろう」
「提督のお考えはよくわかりました。しかし、如何に両将軍の知略が優秀でも所詮は多勢に無勢、敵の突破は時間の問題でしょう。その後は如何なさるおつもりですか?」
「春日山の本陣は、大軍を迎え撃つには適さない。一旦、軍を退き、吉野に新たな拠点を構える。吉野は四方を川に囲まれている。水を嫌う猫人間軍を迎え撃つには最高の立地だ」
「提督のお考えはわかりました。吉野要塞の整備を急がせましょう」
「ああ、そうしてくれ。それから大和川の鹿川、生駒の鹿田に伝えよ、間違っても玉砕はするな。ある程度、時間を稼いだら、若草山の前衛基地まで退くように、今は、一兵の命も無駄に失うことは許されない」そう言って正成は「ふう」とひとつため息を吐いた。
沈痛な表情で戦略を練る正成の背中に鹿姫が声をかけた。
「提督、今のうちに少し休息を取られてはいかがですか?」
正成が振り返ってホッとしたように微笑んだ。
「ああ、鹿姫様ですか、私は大丈夫です。それよりも姫は一刻も早く吉野に御退き下さい」
「いやです。わたくしは提督と一緒にここに残り、提督と運命を共にします」
「ご心配なく、私もこんなところで命を捨てるつもりはありません。春日山では食料や水の調達が難しく、長期戦には向きません。私もここでしばらく時間を稼いで吉野に退きます。大和の民は、みな鹿人間軍の味方です。一旦、猫人間軍に占領されても、農民たちは猫人間軍に食料を供給しないでしょう。百万の大軍を維持するためには莫大な食料が必要ですが、奈良盆地に入れば、奴らはそれを手に入れることが出来ません。長期戦になれば兵糧に困り瓦解を始めるでしょう。我が軍は、吉野に篭り、ただ、ひたすらその時を待つのです」
鹿姫は、憂いを含んだ円らな瞳を正成に向けた。
「わかりました。今は、提督だけが頼りです。提督のご指示に従います。わたくしは吉野に向かう身支度を整えて参ります」
鹿姫は、正成の遠縁にあたり、まだ十六歳だが、十二単を身にまとった艶やかな姿、まるで小鹿のような大きく円らな瞳、長いまつげと栗毛色の艶めく長い髪を持つその容姿は、妖精のように美しい。
古代から大和の国の盟主として崇拝されてきた鹿王家の末裔である鹿姫は、鹿人間軍の心のよりどころであり、邪悪な猫人間軍から鹿姫を守るという目的が鹿人間軍に強固な団結力を与えていた。
「鹿姫様だけは命に代えてもお守りしなければ……」正成は、心に誓っていた。
3
その頃、大和川の大阪と奈良の県境では、熾烈な戦いが繰り広げられていた。
亀の瀬の丘陵地に砦を築いた鹿人間軍の知将 鹿川義成は、物見櫓から敵の動きを観察していた。鹿人間軍の猛者、角田が鹿川に進言した。
「敵軍は既に奈良側に進軍しつつあります。黙って行かせていいのですか? 敵は我が軍を甘く見ております。ぜひ、先制攻撃させてください」
鹿川は、冷静な視線を角田に向けた。
「いや、攻撃はまだ早い。敵軍の先鋒が奈良側に入りきったら、攻撃を開始せよ」
「はっ、わかりました」
待ってましたといった様子で角田は勇躍して砦を飛び出した。
大阪から奈良まで大和川沿いに進むルートは、急斜面が連続し、道は狭い。猫人間軍は東西に長く伸びて進軍を続けていた。
「今だ! 巨岩を落とせ!」
角田の大号令とともに、鹿人間軍が山上に仕掛けていた巨岩・岩塊は、猫人間軍の先鋒めがけて斜面を転がり、猫人間軍の頭上に雨あられと降り注いだ。
「ニヤ~!」
猫人間軍の先鋒は、断末魔の悲鳴をあげながら巨岩の下敷きになったり、斜面を転がり落ちて大和川に転落した。
角田が落とした巨岩・岩塊は、進路を完全に塞ぎ、猫人間軍の先鋒は、生き残った者も後方の味方から完全に孤立した。
「うろたえるな! 鹿人間軍はわずかな数だ! 恐れるに足りぬ!」
猫人間軍の先鋒は必死に体勢を立て直そうとしていた。その時、目の前に猛将、角田が現れた。
「猫人間の愚か者ども、ようこそ大和の地へ来られた。しかし、一人も生かしては帰さぬ!」
角田はアントラーサーベルを頭上に振りかざし、部下の兵士と共に猫人間軍の先鋒めがけて突撃した。
その様子を鹿川は砦の物見櫓から見ていた。
「あのままでは、我が軍にもかなりの犠牲者が出る。敵の先鋒めがけて『マタタビ砲』を撃ち込め! 角田を支援するのだ!」
号砲とともに敵の先鋒めがけてマタタビ砲が撃ち込まれた。マタタビを嗅いだ猫人間軍は酔っぱらいのようにフニャフニャになり、完全に戦意を喪失した。そこへ角田たちの軍勢がなだれ込んだ。敵の先鋒は全滅した。
敵の先鋒が壊滅する様子を砦の物見櫓から見ていた鹿川は、大きくうなずいて、側近に命じた。
「第一段の作戦は成功だ。敵の先鋒は全滅した。大和川ルートは巨岩・岩塊に埋まった。敵が進路を復旧するには、二~三日はかかるだろう。その間に再び斜面の上に巨岩・岩塊を積んでおくのだ」
しかし、その命令に側近は異論を唱えた。
「巨岩・岩塊の準備は二~三日では間に合いません。巨木ならなんとか準備出来ます」
「わかった。巨木でよい。巨木の表面に稲わらを巻き、たっぷりと油を浸み込ませておけ。今度は猫人間軍を火攻めにしてくれる。奴らめ、鹿人間軍の知将 鹿川義成の恐ろしさを思い知るがよい」
4
一方、生駒ルートでは、生駒山上に築かれた砦の物見櫓から、鹿田頼秀が敵軍の動きを観察していた。鹿田が部下の鹿之園に命じた。
「予想通り、敵は信貴生駒登山道を登っている。敵が山の中腹まで着たら、堰を切れ」
「はっ、心得ました」
鹿之園は堰の横に立ち、タイミングを見計らって叫んだ。
「今だ! 堰を切れ」
轟音と共に堰が切られ、猫人間軍の先鋒は濁流に飲み込まれた。生き残った敵の先鋒が撤退しようと逃げ惑っていた時、鹿之園が目の前に立ちふさがった。鹿之園は、部下に号令した。
「猫じゃらし砲を撃ち込め! 一気に攻め潰すぞ!」
鹿之園の軍は、俵一杯に詰め込まれた猫じゃらしを投石器で敵軍に撃ち込み、猫人間軍が猫じゃらしに興じている間に、一気に攻め込んだ。猫人間軍の先鋒は全滅した。物見櫓からその様子を見ていた鹿田は、部下に命じた。
「敵はすぐに体勢を整えて、再び攻撃してくるだろう。堰の再構築を急げ! そして、今日の結果を提督に伝えろ」
大和川、生駒、いずれの戦いも大勝利だったという知らせが本陣の正成のもとに届いた。それを聞いても正成は顔色ひとつ変えなかった。
「伝令を飛ばせ、今日の勝利は敵軍が我が方を甘く見ていたためのものだ。勝利したといっても、敵軍の損害はせいぜい二~三万人だろう。次の攻撃では、敵は主力を先鋒に置き、猫ニャン砲による攻撃をかけてくるだろう。鹿田と鹿川に伝えるのだ。砦は砲撃の目標になり易い。山野に散らばって敵の砲撃を避けよと」
「承知いたしました」参謀本部の鹿上はそう答え、すぐに伝令を発した。
「提督、初戦は大勝利です。ひとまずお体を休められては?」
近衛隊長の美鹿野が後ろから声をかけた。美鹿野佐和子はまだ二十二歳の若い女性将校だが、ひとたび戦が始まれば、その華奢で端正な顔立ちからは想像もつかないほどの勇猛果敢さを見せる鹿剣法の達人である。しかし、女性らしい細やかな心遣いにも優れ、今や正成の片腕となっていた。
「ああ、そうする。この間に参謀本部も食事を済ますように。我々もこの間に夕食を取ろう」
「承知いたしました。あちらに料理を用意してございますので、どうぞお召しあがり下さい」
食卓に着いた正成の隣に佐和子は正座し、お酌をしようとした。それを正成は制止した。
「いや、今夜は酒はよそう。食後に参謀会議を開く、皆も酒は控えろ」
食事の後、正成は、参謀全員と佐和子を集め、参謀会議を開いた。会議の冒頭、正成が諸将をねぎらった。
「今日の初戦は、我が軍の完勝に終わった。これはひとえに皆の努力によるものである。提督として心から礼を言う。皆、誠にご苦労であった」
「恐縮至極にございます。しかし、本日の勝利は、我々の手柄ではありません。ひとえに提督殿の知略によるところと存じます」
正成は、鹿上の言葉に対しては何も答えず、佐和子の方を見た。
「美鹿野、明日以降の作戦を皆に説明せよ」
佐和子は、「ハッ」と言いながら一礼し、説明を始めた。
「密偵からの報告では、本日の戦で、猫人間軍の先鋒隊は、生駒、大和川のいずれにおいてもほぼ壊滅し、敵軍の死者は、生駒で約一万八千、大和川で約一万六千、合わせて約三万四千に及ぶと推定されます。負傷者はその倍、約七万とのことです。
これに対して、我が軍側の死者は、生駒で十一名、大和川で十八名、負傷者は軽症を除いて七十八名です。初戦はひとまず我が軍の完勝と言えましょう。しかしながら、本日、撃ち破った敵の先鋒隊は、猫人間軍にとっては、あくまで偵察部隊のようなものであり、装備も比較的軽装でした。今日の完敗に懲りた猫人間軍は、明日以降、前戦に精鋭部隊を配置することが予想されます。密偵の報告によれば、明日以降、前戦に配置される敵精鋭部隊は、生駒、大和川ともに約十万、いずれにも猫人間軍の最新兵器である猫ニャン砲が多数装備されています。これを迎え撃つ我が軍は、生駒、大和川、共に約一万です。本日、我が軍が破壊した進路を敵が復旧するには、二~三日かかるでしょうが、それ以降、我が軍の前線基地は猫ニャン砲の集中砲火を浴びることになります。陥落は時間の問題でしょう。それを見越した提督は、既に、両前線基地の我が軍を砦から退去させ、付近の山野に潜伏させております。敵軍が進路を復旧し次第、再び崖の上から巨木による火攻め、鉄砲水による水攻めをかけ、時間を稼ぎながら、我が軍の先鋒部隊を若草山まで撤退させるというのが提督の作戦です」
それを聞いた鹿上が異議を唱えた。
「しかし、その作戦では、敵の本隊は、無傷で大和の国に侵入することになります。遠距離から猫ニャン砲の集中砲火を受ければ、若草山の前衛基地どころか、この春日山の本陣も火の海と化します。我が軍はひとたまりもなく壊滅するでしょう。それより、今から特殊工作部隊を敵の精鋭部隊に侵入させ、猫ニャン砲に細工して故障させ、敵の目算が狂ったところで、亀の瀬と生駒山に潜伏している味方の先鋒部隊に突入させた方が、敵に多大な損害を与えることが出来るのではないでしょうか?」
正成は、鹿上の戦術を最後まで黙って聞いていた。そして、
「鹿上、確かにそのとおりだ。私も最初はそう考えた。しかし、山の上から駆け下るのは、攻めるには有利だが、退却は極めて難しい。例え、敵の精鋭部隊に何万という損害を与えることに成功しても、亀の瀬と生駒山の我が軍は玉砕するだろう。我が軍は合わせて二万の兵力を失うことになる。今はまだ決戦の時ではない。今、我が軍にとって最も肝要な課題は、出来るだけ兵力を損ねることなく、吉野に撤退することだ。そのためには、時間を稼ぎながら、我が先鋒部隊を若草山の前衛基地まで退却させた方がよい」
今度は佐和子が異議を唱えた。
「提督様、それでは、若草山の前衛基地とこの本陣をタダで敵にあけ渡すとおっしゃるのですか?」
「若草山もこの本陣も長期戦には向かない。兵糧の調達が難しいからだ。大軍を迎え撃つには、吉野の方がはるかに立地がよい。したがって、今、我が軍に肝要なことは、味方の損害を最小限にとどめながら吉野に退く時間を稼ぐことだ。皆と同じように私も武将の端くれだ。敵に後ろを見せたくはない。しかし、奈良の民は我が軍の味方だ。奈良を占領した猫人間軍に対して兵糧を提供することはない。それぐらいなら奈良の民は田畑を焼いて、我々の待つ吉野に合流するだろう。今回襲来した猫人間軍は百万の大軍だ、農民の協力なくして兵糧は維持出来ない。いずれ、食料も水も底をつき、猫人間軍は自壊するだろう。まして猫人間軍は寒さに弱い。戦が冬まで長引けば、奴らは奈良盆地で立ち往生することになるだろう。それが私の狙いだ」
「焦土戦術か……」鹿上はそうつぶやいた後で言った。
「提督の戦略は理解いたしました。満座異論はないと思います。しかし、せっかく築き上げた若草山の前衛基地とこの本陣を何の代償もなく敵にくれてやるのはあまりにも無念です」
それを聞いた正成がニンマリと微笑んだ。
「いや、何の代償もなくあけ渡すのではない。敵は我が軍が撤退したことを知れば、若草山の前衛基地にも、この本陣にも、雪崩を打って押し寄せてくるに違いない。そこで、若草山と本陣には遠隔操作式の爆薬を埋め込んでおく、これにより敵軍には多大な損害を与えるに違いない」
それを聞いた鹿上が感嘆の声を上げた。
「いや、提督の戦術には感服いたしました。満座、異論ないな!」
正成が言葉を足した。
「それだけではない。奈良で食料に瀕した猫人間軍は、一旦、大阪に戻り体勢を立て直そうとするだろう。それまでに、亀の瀬の斜面には再度岩塊を積み上げておく。また、生駒の堰には水を貯めておく。奈良から大阪へ戻る敵軍に追い討ちをかけるのだ」
「なるほど!」と参謀たちは正成の戦術に感嘆の声を上げた。
正成が皆に号令をかけた。
「人類の命運は、貴公たちにかかっている。心してかかれ、頼むぞ!」
参謀会議は散会し、参謀たちはそれぞれの担当部署に散った。
正成は物見櫓の上に立ち、満天の星空を見ていた。そこへ佐和子が歩み寄って来た。
「提督、頭上の星空は、子供の頃と何も変わりませんね」
正成は、振り返って佐和子を見つめながら穏やかに微笑んだ。
「ああ、子供の頃、夜、外に出るといえば、神社の縁日ぐらいだった。君は橙色の柄が入った浴衣を着て、私と縁日に出かけたね」
「はい、記憶しております。思い出すと懐かしくて涙がこぼれそうになります」
「君は、金魚すくいで一匹も救えなかったと言って泣き出したんだ。私は君をあやすのに苦労したよ」
佐和子がはにかみながら小さな声で答えた。
「恥ずかしい……」
正成は、物見櫓の手すりに両手をついて、つぶやくように言った。
「その幼かった二人が、今や鹿人間軍の提督と近衛隊長か……」
「もう一度、あの穏やかで平和な日々を取り戻しましょう。提督なら出来ます。私は、提督のためならいつでも喜んで命を捧げます」
「佐和子、今の君は近衛隊長だ。君の役目は鹿姫様を守ることだ。自分の役目を忘れるでないぞ」
「はい、心得ました。命に代えても鹿姫様を守ります」
「頼むぞ」
そう言って正成は穏やかな笑顔を見せた。
満天の夜空に一閃の流れ星が走った。
6
翌朝、鹿姫は、近衛隊長の佐和子とその手勢に守られて吉野に向けて旅立った。
正成が一行を見送りに来た。
「物見の報告によれば、吉野までの道中は安全です。どうかお早めに吉野にお入り下さい。道中の安全は、美鹿野隊長がお守りします」
鹿姫が寂しげな視線を正成に向けた。
「吉野の要塞は、出来る限り整備しておきます。必ず生きてお越し下さい」
正成が高らかに笑った。
「ご心配は無用です。こんなところで犬死はいたしません。春日山で出来るだけ多くの敵を撃破して、吉野に向かいます。美鹿野、私が合流するまで、鹿姫様を頼むぞ」
佐和子は凛と姿勢を正して答えた。
「心得ました」
何度も後ろを振り返りながら、鹿姫は吉野に向けて旅立った。正成は次第に小さくなる一行の姿を見つめていた。
正成がそばにいた鹿上に言った。
「私は寝仏のご隠居のところに行ってくる。しばらく留守を預かってくれ」
「心得ました」
正成が沢沿いに三十分ほど馬を走らせると山の中腹に小さな集落が見えてきた。ここに正成に兵法を教えた寝仏のご隠居が住んでいる。
寝仏のご隠居の家に着いた正成は、馬を降り、小さな門を叩いた。
「ご隠居、正成です。少し相談があって参りました。ここを開けてください」
「正成様ですか? ようお越しくださいました。ご隠居は奥の部屋におられます」
そう言いながら若い娘が門を開けてくれた。この家にご隠居と住む。小夜子だった。
「小夜子、久しぶりだな。元気でいたか?」
「正成様こそ、お元気そうで安心しました。鹿人間軍の提督になられたということで、いろいろお忙しいでしょう。ご健康を案じていたのです」
「私は心配ない。それより、早くご隠居に会いたい」
「それなら奥へどうぞ」
小夜子が正成を奥の部屋へ導いた。奥の部屋では、寝仏のご隠居が座禅を組んで瞑想にふけっていた。
「ご隠居、正成です。相談があって参りました」
「そろそろ来る頃だと思っておった。戦況はどうじゃ。かなり難儀しておるようじゃが……」
「お察しの通りです。現在、春日山の砦におりますが、春日山では長くは持ちません。時期をみて吉野の要塞に退却するつもりです」
「確かに吉野は天然の要塞。籠城するには最適の立地じゃ。だが、所詮は多勢に無勢。長くは持たんじゃろう」
「そう思います。吉野の要塞もいずれは陥落するでしょう。私にはその後どうすれば良いか、わからないのです。どうか妙案をお授けください」
そう言って、正成は首をうなだれた。
「正成、わしはお主に兵法の全てを授けた。もうわしにはお主に教えることは何もない」
「では、我が軍には勝ち目はないと?」
「そんなことは言っておらん。確かに戦力の差は大きいが、勝てる戦じゃ」
「教えてください。どうすれば猫人間軍を倒すことが出来るのですか?」
「それじゃ、一言だけ言わせてもらおう。元を絶つんじゃよ」
「元を絶つ? その意味は?」
「おそらく、今回の戦で少し痛めつけてやれば、猫人間軍は東京の主力部隊を差し向けて吉野の要塞を滅ぼそうとするじゃろう。当然、東京の大猫城は手薄になる」
それを聞いた正成はハッとした。
「ご隠居さま、妙案を授けていただき、ありがとうございます。成功する自信はありませんが、他に方法はありませんね」
「ない。勝利を期すなら、それが唯一の方法じゃ」
「わかりました。やってみます」
そう言って正成は一礼し、寝仏のご隠居の家を出た。
本陣の司令塔に戻った正成のところに、各地の戦況を伝える密偵が次々と参上した。
一人目は、日光に派遣していた密偵だった。
「提督、豚人間軍は、猫人間軍を振り切り、何とか無事に日光東照宮にある猿人間軍の陣地に合流しました」
正成はホッと胸をなでおろした。
「それは良かった。貴殿もさぞかし疲れたろう。ゆっくりと休むがよい」
二人目の密偵は、大阪の千早城からの者だった。
「提督、千早城には、箕面で壊滅した猿人間軍の残党が集結しつつあり、現在、その総数は約八千となりました」
「猫人間軍が千早城を攻める気配はあるか?」
「いえ、今のところその気配はありません」
「そうか、ご苦労であった」
三人目の密偵が勇躍して正成の前に進み出た。
「提督、吉報です。信濃でカモシカ人間軍が武装蜂起しました。現在、長野城跡に砦を築きつつあります。総勢たった二万三千の小勢ですが、信濃は酷寒の地、寒さに弱い猫人間軍にとっては攻めにくい相手でしょう」
それを聞いた正成の表情がパッと明るくなった。
「あの気の弱いカモシカ人間が、とうとう蜂起したか!」
四人目の密偵は、生駒と大和川の攻防戦の状況を伝えた。
「我が軍が破壊した進路を猫人間軍が復旧するのは、おそらく明後日の午後になるでしょう。提督の予想通り、猫人間軍は、現在、両前線に猫ニャン砲装備の精鋭部隊を集結させつつあります。明後日の午後には、決戦の火蓋が落とされることになると存じます」
「そうか、明後日の午後だな。生駒の鹿田将軍に伝えよ。堰を切り、水を流したら、速やかに軍を退き、若草山の前衛基地に戻れと。大和川の鹿川将軍にも巨木の投下が終了次第、若草山まで退却せよと伝えるのだ。兵を損じずに退却することは、進軍以上に難しい。くれぐれも退却のタイミングを失わないよう伝えろ。生駒山も亀の瀬も砦を死守する必要はない。決して無理をするなと伝えるのだ。敵が猫ニャン砲の一斉砲撃を始める前に退くのだ。わかったか?」
密偵が答えた。「心得ました」
「鹿上、鹿上はおるか」正成が叫んだ。
「はい、おります」鹿上の声がした。
「爆薬の配備状況はどうだ。後、どれくらい時間がかかる?」
「ハッ、昼夜兼行で作業を進めれば、明日中には終わります」
「そうか、間に合うな」そう言って、正成は小さく微笑んだ。
正成は物見櫓に登り、砦の各所に爆薬が取り付けられる様子を眺めていた。幼い頃に鹿と戯れた若草山も、佐和子と遊んだ奈良公園も思い出の地は全て爆破され、焦土と化す。正成は無表情につぶやいた。
「国破れて山河あり……か」
その時だった。参謀総長の鹿上が血相を変えて飛び込んできた。
「提督! 一大事です! 猫人間軍の奇襲部隊が宇治を迂回し、城陽に入りました。兵力は凡そ一万、おそらく昨夜大阪を出発し、夜を徹して京都を迂回したものと思われます!」
一瞬の沈黙の後、正成は振り返って鹿上を見つめ、冷静なまなざしで指示を与えた。
「あわてるな! 一夜で城陽まで到達したのなら、おそらく猫ニャン砲を装備していない軽装の奇襲隊だ。敵の目的は、我が軍のかく乱だ。木津川の橋を落として川の対岸に第三騎兵隊を対峙させろ、猫人間軍は水を嫌う。川を渡る艦船の準備もないだろう。敵の奇襲隊は、木津川の北側で立ち往生するだけだ」
「しかし、もし敵軍に艦船の準備があり、木津川を渡って来た場合は?」
「その時は、渡し場に向けて、猫じゃらし砲を一斉砲撃しろ、敵が猫じゃらしに興じている間に第三騎兵隊で一気に叩け」
「心得ました」そう言って、鹿上は走り去った。
総司令官である自分は、どんな時でも見方に動揺した様子を見せることが出来ない。例え予想外の事態が起こっても、すべて想定内の出来事のように振る舞い、部下に適切な指示を与えなければならない。正成は孤独だった。ただ、幼なじみの佐和子がいつもそばにいてくれることが正成の心の支えになっていた。その佐和子も今朝、鹿姫の護衛に旅立った。正成の心を荒涼とした隙間風が吹き抜けていた。
(自分はこれほどに佐和子に支えられていたのか……。寂しい……)
狂おしいほどの佐和子への想いが正成の胸一杯に広がった。自分は、いつも佐和子に提督と近衛隊長として厳しく接してきた。でも、佐和子はいつも自分に女性らしい細やかな心遣いを払ってくれていた。何故もっと佐和子に優しく出来ないんだろう。正成は後悔した。佐和子に再会できるのはいつになるかわからない。再会できる保証はどこにもない。正成はつぶやいた。
「辛きかな…… 一軍の将」
鉄の意志を持つ鬼提督、鹿木正成の瞳が潤んだ。
そこへ再び必死の形相をした鹿上が現れた。
「先月からの渇水で木津川の水位が異常に下がっております。猫人間軍の奇襲隊に木津川の防衛線を突破されました。現在、我が第三騎兵隊と一進一退の攻防となっておりますが、兵力では我が軍が不利です」
「あわてるな! 第五騎兵隊にマタタビ砲を持たせ、援軍に差し向けろ、第五騎兵隊には我が軍随一の猛者、熊鹿重光がいる。彼が行けば軽装備の奇襲隊など一気に蹴散らすだろう」
「心得ました」そう言って、再び鹿上は前衛基地に戻った。
若草山の前衛基地に着いた鹿上は、第五騎兵隊に出動命令を発した。第五騎兵隊の隊長、熊鹿重光は一騎当千の猛者だが、血の気が多すぎて、上官の命令に背くことも多いため、あえて生駒と大和川の戦闘からは外されていた。
出陣の命令を受けた熊鹿はニヤリとほくそえんだ。
「御命令、心得て候。猫人間軍の奇襲隊など、一気に踏み潰してみせまする」
「ものども、出番だ!」
熊鹿が号令をかけると第五騎兵隊の猛者たちは勇躍して基地を出発した。
木津川の河原では、猫人間軍の奇襲隊と鹿人間軍の第三騎兵隊が一進一退の攻防を繰り広げていた。そこへ第三騎兵隊が到着した。鹿光が熊鹿に言った。
「敵は軽装だが、なかなかの強者ぞろいだ。油断するな」
「なんの、あんな連中、俺たちだけで十分だ。お主らはここで一服しておれ、ものども、行くぞ!」
熊鹿の号令と共に、第五騎兵隊の猛者たちは一気に河原に向けて進軍を開始した。熊鹿は長さ三メートルはあるアントラーサーベルの大矛を振り回し、まるで人なき野原を駆け巡るごとく、バッタバッタと猫人間軍を斬り捨てた。その様子を北側の対岸で見ていた猫人間軍は、恐れをなして退却を始めた。戦は鹿人間軍の勝利に終わった。
熊鹿は逃げ惑う敵兵の後を追おうとしたが、それを鹿光が諌めた。
「追ってはならぬ。今は、一刻も早く本陣に戻り、提督をお守りするのが我らの役目。敵の敗残兵と鬼ごっこをしている場合ではない!」
それを聞いた熊鹿は、苦々しそうにその場に踏みとどまり、吐き捨てるように言った。
「ふん! 運のいい連中だ。しかし、今度会ったら命はないぞ!」
こうして第三騎兵隊と第五騎兵隊は、木津川の合戦に勝利を収め、若草山の前衛基地に戻った。
伝令から勝利の一報を受けた鹿上は、物見櫓にいた正成にそれを報告した。勝利の報告を受けた正成は、こともなげに言った。
「そうか、ご苦労だった。第三、第五騎兵隊の隊員には十分な休息を与えろ。それから、けが人には手厚い手当てを施し、死者は遺体を収容し、法師に十分に供養させるように、けが人や死者を粗末に扱うことは軍の士気を低下させる一番の原因になる」
その日の夕刻、鹿人間軍の陣営は、連戦連勝に沸きあがり、兵の士気は頂点に達していた。参謀の中にも、ここに留まって徹底抗戦すべきだという意見が出た。しかし、正成の決意は揺るがなかった。
春日山には地の利がない。長期戦になれば必ず負ける。それは兵法に精通した正成にとって確信的事実だった。
深夜になり、信濃のカモシカ人間軍からの使者が到着した。使者は、カモシカ人間軍の総大将である加茂鹿之助からの密書を携えていた。密書にはこう書かれていた。
「貴軍は春日山に篭城し冬を待て。初雪を合図に我が軍が敵の退路を絶つ。猫人間軍を東西から挟み撃ちにすべし」
密書を読んだ正成は冷ややかな笑みを浮かべ、返書をしたためた。
「春日山は持久戦に利なく、我が軍は初雪を待たずして滅ぶ。我が軍は、春日山を捨て、吉野に退く。貴軍は、そのまま冬の到来を待つべし。幸運を祈る」
正成は、返書を使者に手渡し、その労をねぎらった。
「遠路はるばるご苦労であった。今夜は、ここでゆっくりと体を休め、明日の朝、帰られよ」
深夜になり、正成は眠れずに物見櫓に登った。頭上には満天の星空が広がっていた。正成はその中でひときわ明るく輝いている星を見つめた。そして思った。
(たとえどんなに離れていても、佐和子は今、同じ星を見つめている。こんなところで死んでたまるか……。連戦連勝に浮かれて戦略を変えてはならぬ。今日までに戦ったのは敵の主力ではない。連勝に浮かれて攻めに転じれば必ず墓穴を掘るだろう。戦に迷いは禁物だ。吉野に退くのだ、吉野に。そして時を待つのだ)
その頃、生駒、大和川の両前線では、猫人間軍の司令官、猫之上将軍、猫利将軍のもとに密偵からの報告が入っていた。いずれの戦線でも密偵の報告は、ほぼ同じ内容だった。
「将軍、夜になっても、敵の砦にはたいまつが灯っていません。人の気配は全くありません。鹿人間軍の先鋒は、砦を捨てて、若草山に退却したものと思われます」
それを聞いた猫之上、猫利はしたり顔で言った。
「無理もない、本軍は猫ニャン砲装備の精鋭部隊十万、それに対して奴らはせいぜい一万だ。装備も旧式だ。まともに戦って勝ち目はない。まして砦は猫ニャン砲の目標になる。奴らは、砦を捨てて若草山の前衛基地まで退却したのであろう。進路の復旧を急げ、一刻も早く大和の国に入り、鹿人間軍を根絶やしにするのだ」
7
先に進路の復旧が終わったのは生駒ルートの方だった。猫人間軍は、前線にずらりと猫ニャン砲を並べ、生駒山の砦に向けて一斉砲撃を開始した。ずらり整然と配置された黒光りする猫ニャン砲から轟音と共に次々と砲弾が発射される姿は壮観でもあった。瞬く間に鹿人間軍の砦は火の海と化した。
猫之上将軍が号令を発した。
「敵の先鋒は壊滅した。進路は開かれた。全軍進撃せよ!」
その時だった。「ドドド」という轟音と共に鉄砲水のような濁流が猫人間軍を飲み込んだ。鹿人間軍が再び堰を切り、水を放ったのだ。
「ニヤ~!」阿鼻叫喚とともに、猫人間軍の精鋭部隊は濁流に飲み込まれた。濁流に流された猫ニャン砲がむなしく泥に埋まった。
「おのれ、鹿人間軍め! 空の砦はおとりだったか……」
この鉄砲水により、猫人間軍の生駒部隊は、総勢十万のうち、約半数の五万人を失った。
生駒山の山上からその様子を眺めていた鹿田将軍は、振り向いて全軍に号令した。
「作戦は成功だ。我々の役目は終わった。若草山に戻るぞ」
部下たちが納得出来ない表情で反論した。
「敵は乱れています。今が好機です。突入して敵にとどめを刺しましょう」
「いや、今は、まだ決戦の時ではない。出来るだけ味方の損害を出さずに時間を稼ぐことが我々の任務だ。我々の任務は成功した。後は、一刻も早く若草山まで撤退するのだ」
結局、生駒の合戦で猫人間軍は約七万の兵を失った。これに対し、鹿田率いる鹿人間軍は無傷に近かった。
大和川の合戦もほぼ同じ展開となっていた。猫人間軍は亀の瀬の砦を猫ニャン砲による一斉砲撃で破壊し、悠々と進軍を始めたが、突然、頭上から燃え盛る巨木がまるでなだれのようにゴロゴロと転がり落ちてきた。ここでも、猫人間軍は兵力の半数を失い、猫ニャン砲は巨木と共に大和川の川底に沈んだ。
それを見届けた鹿川は、全軍に対して若草山の前衛基地まで退却を命じた。
結局、生駒・大和川の攻防戦では、猫人間軍の損害は兵員数にして約十五万人、猫ニャン砲四十門となった。一方、鹿人間軍側の死者は、僅か四十一名に過ぎなかった。
大勝利を収め、若草山の前線基地に戻った鹿田、鹿川、両将軍の労を正成がねぎらった。
「ご苦労であった。この度の勝利は、ひとえに両将軍の知略と勇猛果敢な兵士たちの手柄だ。今夜は、ささやかな宴を催すので、ゆっくりとくつろいでくれ」
それを聞いた鹿川が深刻な表情で正成に進言した。
「こんな些細な勝利に喜んでいる場合ではありません。猫人間軍の総勢百万のうち、今回の合戦で討ち取ったのはせいぜい十五万、明日の午後には進路の復旧を終えた敵の本隊八十五万が大和の国に入るでしょう。少しでも砦の補強を進めるべきです」
「いや、明日の朝、我が軍は若草山の前衛基地と春日山の本陣から撤退する」
「撤退? 敵に後ろを見せるのですか?」
「そうだ、敵の本軍には、約百門の猫ニャン砲がある。あれで一斉砲撃を受けたら、前衛基地も本陣も火の海になる。我が軍は戦わずして壊滅するだろう。我が軍はこんなところで滅びるわけにはいかない。一旦、吉野まで撤退し、時を待つのだ。吉野は天然の要塞だ。持久戦には極めて適している。今は、吉野に篭って時を待つのだ。反撃の機会は必ず到来する」
「しかし……」鹿田は納得しなかった。
正成は、鹿田、鹿川両将軍を見つめ、諭すように言った。
「明日の栄光のために、今日の屈辱に耐えるのだ。それが戦略と言うものだ」
「心得ました。提督の指示に従います」鹿田、鹿川が口を揃えて言った。
翌日の夜半、猫人間軍の本軍が到着した。猫人間軍の総指令、猫条提督は、若草の前衛基地と春日山の本陣に灯っている無数のたいまつを見て、参謀たちに命じた。
「鹿人間軍の兵力は相当なものだ。まともに戦っては、我が軍にもかなりの被害が出る。敵陣に突撃する前に、猫ニャン砲で徹底的に叩け! 敵が戦意喪失するまで徹底的に砲撃を続けろ!」
轟音と共に猫ニャン砲の一斉砲撃が始まった。若草山の前衛基地も春日山の本陣も瞬く間に火の海と化した。砦の中からは阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえてきた。砦は、ほぼ丸裸に近い状態となった。
猫条提督が号令を発した。
「今だ、全軍突撃!」
「ウニャー!」という喚声と共に、猫人間軍の大軍が若草山の前衛基地になだれ込んだ。しかし、意外にもそこは無人と化していた。猫人間軍は勢いに乗じて一気に春日山の本陣にも攻め込んだが、やはり、そこは無人だった。砦に灯っていた無数のたいまつは、実は、砦内に大軍がいると見せかけるために正成がしかけた偽装工作だったのだ。砲撃を受けた時に砦内から聞こえた鹿人間軍の悲鳴も、実は録音テープだったのだ。
伝令からその状況を聞いた猫条提督が言った。
「まあよい。敵は猫ニャン砲の一斉砲撃を恐れて、砦を捨てて逃亡したのであろう。全軍、敵陣に入れ、敵の砦で今夜は野営する」
参謀の一人が猫条に訊いた。
「敵の敗残兵は追跡しないのですか?」
「その必要はない。奴らにはもう再起を図る戦力は残っていまい」
その夜、猫人間軍は若草山と春日山の鹿人間軍の砦に野営し、戦勝を祝して大宴会を催した。その宴の様子を三輪山の山上から眺めていた正成が号令を発した。
「今だ!」
轟音と共に、若草山と春日山の砦に埋設されていた爆薬が次々と爆発し、猫人間軍は阿鼻叫喚に包まれた。
「ニヤ~!」という断末魔の叫び声と共に、猫人間軍の兵士たちがバタバタと倒れた。火ダルマになって悲鳴をあげながら逃げ惑う兵士も多数いた。
猫条提督が叫んだ。
「しまった! 敵のワナだ! 全軍、砦の外に退却せよ!」
その命令はもはや後の祭りだった。百万の猫人間軍は、全滅に近い大きな損害を受けた。その様子を見届けた正成は、視線を足元に落とし、鹿上に言った。
「作戦は成功だ。さあ、吉野へ行こう」
結局、猫人間軍の百万の軍勢は、二十万の敗残兵を残して壊滅に近い被害を受け、猫人間軍の本拠地、東京に逃げ帰ることになった。しかし、体勢を立て直すために一旦、大阪へ撤退しようと大和川ルートを退却していた敵の敗残兵を待ち受けていたのは、さらに苛烈な追い討ちだった。鹿之園は、斜面の上に、ずらりと積み上げた巨木に火を放ち、下を通って大阪に戻る敵の敗残兵に向けて解き放った。
炎の雪崩のように、巨木が敵の敗残兵に向けて転がった。巨木の下敷きになる敵兵、巨木と共に大和川に転落する敵兵、体中火ダルマになって逃げ惑う敵兵の阿鼻叫喚が渓谷に響いた。そこはまるで地獄絵だった。二十万の敗残兵は、ほぼ全滅し、約三千の兵が命からがら大阪に戻った。大阪に戻った敵兵は既に軍隊の態をなしておらず、まるで浮浪者の集団のような状態になって、東京を目指した。
猫人間軍の司令官である猫条提督は、まだ健在だったが、既に指揮官としては機能しておらず、烏合の衆の一員と化していた。
東京に逃げ帰ろうとする猫人間軍の敗残兵たちが静岡の浜名大橋に差しかかった時、目の前にカモシカ人間の軍勢が現れた。
カモシカ人間軍の総大将、加茂鹿之助が言った。
「そこにおわすは猫人間軍の猫条提督であろう。その首を頂戴するのでお覚悟めされい」
「ニヤ~!」逃げ惑う猫人間軍の敗残兵をカモシカ人間軍は完膚なきまでに叩いた。百万の大軍を失った猫条提督は、自刃して果てた。
「エイエイオー!」カモシカ人間軍の勝鬨がこだました。
8
その頃、日光では、猿人間・豚人間の連合軍に対して、猫人間軍の関東軍が猛攻撃をかけていた。しかし、猿人間軍の知将、飛猿将軍の戦術は、かなり効を奏していた。
彼の戦術とは、集中砲火を受け易い砦を自ら放棄し、ゲリラ戦に徹するというものだった。飛猿のイメージしていたものは、大昔の戦争で北ベトナム軍が米軍を駆逐したときの戦術だった。
ひたすら山に篭り、地下や樹上で生活し、攻撃はもっぱら樹上からの狙撃手によるというものだった。
都会生活に慣れた猫人間軍は山岳地での質素な暮らしだけでも士気を低下させていたし、いつどこから狙撃されるかわからないという恐怖感は、軍の統率を乱した。
豚人間軍が各所に設けた落とし穴も猫人間軍を悩ませていた。あらかじめ水が貯められてある落とし穴に落下し、溺死する猫人間軍の兵数は、三千人に及んだ。
特に、日を追って厳しくなる冬の寒さは、もともと寒さに弱い猫人間軍にとって、厳しい自然の洗礼だった。地の利と気候を味方につけた猿人間・豚人間のゲリラ戦術は、今のところ完全に成功していた。
猫人間軍は比較的温暖な千葉まで撤退し、そこに野営しながら、時折、猿人間・豚人間の連合軍に大規模な攻撃をかけたが、大軍による攻撃は失敗を繰り返し、関東軍の兵力は次第に減じられていった。兵力の損失以上に痛かったのは、寒さと猿人間・豚人間のゲリラ攻撃による兵士の士気低下であった。
ついに、関東軍の司令官は、千葉の駐屯地を出ず、春が到来するまで攻撃を延期するという判断を下した。
ただ、ゲリラ戦と言葉にするのは簡単だが、ゲリラとして戦う兵士には、鉄のような固い意志と超人的な忍耐力が要求される。
実際、猿人間・豚人間のゲリラたちは、木の枝の上や地下に掘った小さな穴で睡眠をとり、水溜りの水をすすって生活していた。食べ物といえば、木の実やワナで捕らえた野ねずみや野うさぎ、蛇でもカブトムシの幼虫でも、雑草でも、毒にならないものは何でも食べて飢えをしのいでいた。戦で怪我をしても手当てしてくれる医療班すらいないのである。傷口にうじ虫がわいていることなど珍しくもなかった。それでも日光の猿人間・豚人間の連合軍は猫人間軍に屈しなかったのである。
また、信濃のカモシカ人間軍も同様の戦術で猫人間軍を苦しめていた。カモシカ人間軍の総大将、加茂鹿之助は、一旦、本拠地の砦を放棄し、山野に撤退したように見せかけ、砦を占領した猫人間軍を逆に外から包囲した。
狭い砦内に閉じ込められた猫人間軍のストレスは極限に達し、また、兵糧も底を突いた。
せっぱ詰まった猫人間軍は、砦から脱出するための大規模な軍事作戦を何度も試みたが、全て失敗に終わり、結局、砦に撤退する結果になった。猫人間軍が寒さに弱いことを知っていた加茂将軍は、砦内に燃料となるものを一切残していなかった。暖をとることすら出来ずに篭城する猫人間軍の瓦解は時間の問題だった。
大分高崎山の猿人間軍も、日光と同様にゲリラ作戦に徹した戦術をとり、猫人間軍の大軍を苦しめていた。冬場の野戦には脆いというのが、今や、猫人間軍に対する定説となりつつあった。
『泥沼化』
正成が目指した戦略は、全国各地で着実に実現しつつあった。
同じ頃、正成率いる鹿人間軍は、吉野の要塞に向かっていた。紅葉で真っ赤に染まった獣道を正成たちは進んだ。遠くの方に両手を大きく振っている女性の姿が見えた。佐和子だ! 佐和子がここまで出迎えてくれたのだ! 正成は勝利の証にアントラーサーベルを抜き、頭上に大きく振りかざした。
佐和子は正成に駆け寄り、大粒の涙をこぼした。
「提督、よくご無事で…… お怪我はありませんでしたか?」
正成は穏やかな微笑を返した。
「怪我はない。我が軍の死傷者はわずかだ」
「猫人間軍は?」
「百万の敵軍は、ほとんど壊滅状態で東京に逃げ帰った。作戦は成功だ」
それを聞いた佐和子は、再び泣きじゃくった。
「それは…… 何よりです」
「鹿姫様はご無事か?」
「はい、ご健勝です」
「それは良かった」
正成はそっと佐和子の肩に手を置き、その労をねぎらった。
しばらく進むと吉野の要塞が見えてきた。それは、まだ石垣の構築工事中ではあったが、四方を清流に囲まれた天然の要塞だった。木製の城壁で守っていた若草山の前衛基地や、ほとんど城壁らしきものがなかった春日山の本陣とは、比べ物にならないぐらい堅固で広大な要塞だった。
正成軍が近づくと要塞の門が開いた。全軍が要塞の中に入った。正成は物見櫓に登り、兵士に向けて言った。
「諸君! この度の戦は我が軍の完勝に終わった。今夜はささやかながら諸君の労をねぎらう宴を催したい。皆、今夜だけは思いっきりはめをはずすがよい!」
「ウオー!」正成の言葉を聞いた兵士たちが歓声を上げた。歓声が静まった後で、正成が釘をさした。
「諸君、勝利したといっても、今回の敵は百万、全国の猫人間軍の総勢六百万の一部にしか過ぎない。それに比べれば、我が軍はたったの四万、敵の百五十分の一の兵力だ。しかし、我々には一騎当千の勇気と知恵がある。どんなに不利な戦でも必ずや勝利を手にするのだ! 勝ち負けはひとえに諸君の信念と我が軍の固い結束にかかっている。幸い、この吉野の地は天下の嶮、地の利は我が軍にある。猫人間軍は、再び大軍で攻め寄せるだろうが、勝利の日を信じて頑張るのだ! 今夜の宴が終わったら、早速、敵の大軍を迎え撃つ準備を始めるのだ。よいな!」
「ウオー!」、「提督万歳!」という潮のような歓声がこだました。
(勝てる、いや勝たねばならない)
正成は勝利への誓いを新たにした。皆の歓声を背に物見櫓を降りた正成は、本陣の奥にある鹿姫の御所を訪ねた。鹿姫の御所は、決して豪華な建物ではなかったが、要塞の中に造られた御所としては、神々しい品格を放っていた。
正成は御所の警備兵に小さく挨拶した。
警備兵は深く一礼して、御所の入り口に設けられた小さな門を開いた。
正成が中に入ると、正成の姿を見つけた鹿姫が簾の中から駆け出してきた。
「提督殿、よくぞご無事で……」
「鹿姫様こそ、ご健勝で……」
鹿姫は、瞳を潤ませて肩を震わせていた。そして言った。
「信じていたのです。貴公は必ず来てくださると…… そう信じてお待ちしていたのです」
「正成は約束を守る男です。犬死はしないと約束申し上げたはずです」
「ありがとう、本当にありがとう。生きてここにおいでくださって、本当にありがとう。今夜はこの御所で宴を催します。参謀本部の方とご一緒下さい」
「恐縮至極に存じます」
正成は、鹿姫に一礼し、本陣に戻った。本陣の縁側から紅葉を眺めていた正成のところに佐和子がやってきて茶と和菓子を差し出した。
「お疲れでしたでしょう。猫人間軍が再び体勢を整えて押し寄せるにはかなりの日数がかかるはずです。それまで、下々のことは私どもに任せて、ごゆるりとおくつろぎ下さい」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
正成は茶を一口、口に含んだ。
「ああ、旨い…… 不思議だな、何故か私の口には佐和子の茶が合う」
「フフ」佐和子は口元に右手を添えて小さく笑った。二人はしばらく黙って紅葉を眺めていた。静寂の時が流れたようにも、時の流れが止まったようにも感じられた。
その日の夜は、鹿姫を囲み、参謀本部の宴が催された。佐和子はピッタリと正成に寄り添い、酌をしていた。鹿上が懐から横笛を取り出し、笛を吹き始めると、鹿姫はゆっくりと席を立ち、舞を披露した。鹿姫のあまりにも優雅で美しい舞を、参謀本部の一同は言葉を失ってじっと見守った。つかの間の和やかなひとときだった。正成は、穏やかな笑顔を浮かべながら鹿川将軍の所に歩み寄り、一通の手紙を手渡した。鹿川がその紙を開くと、こう書いてあった。
「明朝、一万の兵を率いて熊野へ下れ、全軍が海路で移動出来るだけの船舶を整えよ」
それを読んだ知将、鹿川はハッとした。正成の意図が読めたからである。提督は、いずれこの要塞も捨てる計画だ。熊野古道を南下し、熊野から船でどこかに行くつもりなのだ。しかし、奈良を除けば日本全土は猫人間軍に支配されている。いったい、提督は船でどこに行くつもりなのか? それは鹿川にもわからなかった。
その頃、東京の永田町にある猫人間軍の大本営では、鹿人間討伐軍全滅の知らせを受け、御前会議が開かれていた。僅か四万の鹿人間軍に百万の軍勢が駆逐されたという事実に、猫人間軍の総帥、化猫大帝は激怒した。
「このうつけどもが! ろくな装備も持たぬたった四万のゲリラに我が軍の精鋭百万が敗れただと? どの面下げてそのような報告に来たのだ!」
怒りに震える化猫大帝に、副官の三毛猫参謀総長が恐る恐る進言した。
「大帝、ひとえに今回の敗戦は、敵軍の力を甘く見たためのものです。次回はより戦力を増強し、猫ニャン砲装備の主力部隊、三百万を持って討伐に向かいます。提督には、我が軍随一の知将、黒猫大将を当てます。そうすれば次回は万が一にも敗戦ということはございません。なにとぞお怒りを静められ、出陣の命をお下しください」
「うーむ」化猫大帝は、うなりながらどっかりと席に戻り、そして言った。
「黒猫を呼べ」
黒猫大将が化猫大帝の前に進み出て、ひざまずいた。
「大帝、お呼びでございまするか?」
「黒猫、そちに我が軍の主力部隊三百万を託す。ただちに奈良の鹿人間軍の討伐に向かうのだ!」
黒猫はニヤリとほくそえんだ。
「心得ました。冬の到来までに鹿人間軍を殲滅してお見せしましょう」
化猫大帝が威圧感のある声で命じた。
「ゆけ!」
「ハッ」黒猫はそう答えて起立し、振り返って大本営を出た。