スロウ・ダウン
1
瞬く間に、加藤浩次の昨年のシーズンは終わってしまった。
浩次は表彰台に3度も登ったと言うのに、入賞がやっとだったチームメイトの高倉が、最終的なポイントで浩次を上回っていた。
浩次は幾度もポールポジションを獲得した。
トップを走りながら、熱さでタイヤが垂れて、仕方なくコースを譲った事もあったし、ゴール寸前のマシントラブルもあった。
そして、もちろん、不注意なミスからの転倒で、レースの全てを駄目にした事もあった。
しかし、速さと言う点に限れば、表彰台の一番上に乗る可能性は、高倉に比べて浩次の方が明らかに高かっただろう。
でも、もちろんレースは一周勝負の予選だけで争われるのではない。全周回を終え、更に一シーズンの連戦を終えた後、はじめてチームにとってのレースは終わるのだ。
トップチームとの契約に成功した高倉は、シーズン後に一つクラスを上げ、今年は世界GPに大きく近付いている。
反対に、今年の二戦を終えた加藤浩次は、チームでの微妙な位置に立たされていた。
今年、下のクラスから上がって来た河原優が、これまでにとてつもない走りを見せているのだ。
開幕戦。浩次は河原の後塵を拝し、表彰台の一番上の河原を、三位の位置から見上げるしかなかった。
第二戦。二位で最終ラップを迎えた浩次に、ピットからポジションキープの指示が出された。
同じチームのライダー同士が無理な競り合いをして、何かのトラブルに巻き込まれるのを、ピットは恐れたのだ。
そして、それは同時に、チームが浩次よりも、ルーキーライダーの河原優を重視していると言う、屈辱的な現実の現れだった。
(ヤロー、まだ17のハナタレのクセに!)
加藤浩次は23歳。
決して年寄りではないが、世界グランプリに上がるのには、5年の国内での足踏みは明らかに長すぎた。
大学に進学した浩次の高校の同級生だって、大方、ネクタイを締め、まともな就職をしていると言うのに…。
そして、第三戦。決勝を前にした浩次は、ピットの隅の椅子に座り、精神統一を計ったが、なかなか落ち着けなかった。
予選三番手と言う、そう悪くないポジションを獲得したのだが、ピットの空気が、何となく浩次には冷たく感じられた。
きっと、河原がポールにいるからだろう。 監督の権藤が、サングラス越しに浩次を睨んでいるのに気付いた。浩次と目が合うと彼は慌てて視線を逸らした。
『同じマシンに乗っているのに、何故あんたと河原にタイム差が付くんだ?』
と、その顔には書いてある。
浩次は立ち上がってピットを出る。
「どうだい、調子は?」
パドックを歩いていると、『チーム金城』監督。金城ケンが、長い右手を上げて、笑いかけて来た。
浩次も手を上げ、掌をぶつける挨拶をする。
「いつもの通りだ」
「いつもの通りか、そいつはヤバいな…」
「………」
「河原はポールだ。お前は三位だ。まるで、上り調子と落ち目のライダーだ」
金城は悪意のない笑顔で言う。
レースの前にそんな事を言われれば、普通は腹が立って当然なのだが、神経質な連中の多いレースの世界で、金城ケンの無邪気さは、浩次の救いとなっていた。
金城が黒人とのハーフである事も、その屈託のない印象に関係しているのかもしれない。
「うるさい。プライベーターはチャンプ争いの邪魔にならねえように、隅を走れよ。そこのけそこのけ加藤様が通る、てな!」
浩次が言い返すと、金城はイッヒッヒと笑って、浩次の肩を叩いた。
「あんただって、来年はプライベート参加かもよ。何せワークスはライダーの入れ替えが早いから…、何だったらウチのバイクの乗せてやってもいいぜ」
「…………」
浩次は黙る。
笑いながら、金城はガレージの奥へ消えて行った。
レースには、バイクメーカーが出資するワークスチームと、個人が趣味に近い形で参加しているプライベートチームがある。
潤沢な資金と特別製のマシン。その上に一流のメカニックを集めたワークスと、スポンサーすらままならないプライベーターでは、チーム体制が全く違うのだ。
プライベーターは、ワークスに太刀打ちできないのが普通だが、金城のチームは常に上位を保っていた。
それは、レーサーとしては平凡だった金城に、メカニックとしての天才的な才能があったからだ。
ワークスのチームから、メカニックとして何度も誘いがあるそうだが、何故か彼は、副業に細々とバイク屋を営みながら、自分のチームにこだわってレースを続けていた。
「浩次いー!」
メインスタンドから、麗菜の声がした。
麗菜を見付けた浩次も、軽く手を振り返す。
麗菜は嬉しそうだったが、浩次は少しうっとおしく感じた。
偉大なチャンピオンのケニー・ロバーツは雑誌のインタビューでこう言った事がある。
「普段は何を考えているのですか?」
「レースの事だ」
「それじゃ、シーズンオフには?」
「家族の事だ」
迫り来るコーナの連続、繰り返されるシフトチェンジ。追い抜いたり、後ろのマシンをブロックしたり…。
そんな死と隣り合わせのゲームにとりつかれた変人は、少なくともレースシーズンには、恋人や家庭の事など、考えられなくなるのだ。
*
ウォームアップランを終え、浩次は一列目の三番手の位置にマシンを止める。
一人を挟んで右横にいる河原優を、横目で覗いた。
フルフェイスのヘルメットの向こうの表情なんか見える訳がないが、そのたたずまいはやけに落ち着き払っているような印象を与える。
『見てろよ。レースを教えてやるぜ…』
ライダー全員がグリッドに着いたのを確認して、赤旗を持ったオフィシャルがコースをゆっくり去っていく。
前方に浩次の視線を遮る物は何もない。
ただ、第一コーナーの右カーブが、直線の彼方に見えるだけだ。
浩次はそれを睨みながらアクセルをあおり、回転の落ちた所でクラッチを握り、ギアをローへシフトした。
シグナルに視線を向け、アクセルを捻る。
エンジンの唸りに合わせるように、心臓と興奮の回転数も上がる気がした。
シグナルの赤が点灯し、周囲のエンジン音が高鳴って行く。
浩次はシグナルを睨みつける。
叫びたいような衝動が、体の奥から突き上げる。眩暈に似た感覚が、脳を駆け抜ける。
ベットリとした汗が額に染みだすのを感じ、ヘルメットの中の自分の呼吸音がいやに大きく聞こえる。
シグナルが青に変わる。
瞬間、両足で地面を蹴る。風景が少しずつ加速を付けながら視野の中を流れはじめる。 半クラッチのまま引っ張り、エンジンの回転が上がった所で、二速に踏み込む。
第一コーナーで、河原に並ばれかけたので、アウトにマシンを寄せてブロックする。河原は無理をせずにマシンを引っ込めた。
『後でいつでも抜いてやると言う事か?』
インを開けたスキをつかれ、一台のバイクが浩次の前へ滑り込んだ。
『チーム金城』
佐竹のマシンだ。予選では9番手だったのに、どういう事だ?
金城ケンのほくそ笑んでいる顔が瞼に浮かぶ。
やがてオープニングラップを終えた佐竹のマシンが、浩次、優を従えて、最終コーナーを立ち上がった。
メインスタンドに戻ると、残り周回を示すL17と書かれたサインボードが出されていた。
(まあいい、レースはまだ始まったばかりだ)
十周目、佐竹のタイヤが傷んで来たのを見て、浩次が仕掛ける。
最終コーナーの立ち上がり、マンンの後ろに出来る真空地帯を利用して、ストレートで一気に追い抜く。
Posision2Lap7と書かれたボードを横目に見た。
(たった今から、一位だぜ!)
心なしかバイクは快調な音を上げ、一コーナーに突っ込む。
(………!)
その時、河原のマシンが突然インに滑り込んで来た。
(野郎。ナメるなよ!)
強引な割り込みに、浩次も懸命にインを押さえる。
河原のマシンのフロントに浩次のマシンのリアタイヤが当たった瞬間。浩次はマシンごと、宙に舞い上がった…。
2
気が付いた時は、病院のベットの上だった。
左大腿部の骨折。捩じり取られるように捻られた左足首は二カ所で骨折があり、腫れが引くのを待って手術をするらしい。
足首はボルトを入れればすぐに動けるようになるだろうが、大腿部はかなり深刻と言う話だ。プレートで固定しギブスで固め…。
今シーズンを棒に振るのに十分な怪我だ。
いや、今シーズンで済むかどうか分からない。医者は足が元どおりに動く保証は出来ないと言った。
「日常生活くらいは大丈夫でしょうが、レースとなると何とも…ねぇ」
*
「足は、ちゃんと治りそうだって、お医者さんは言ったんでしょ」
麗菜は昼過ぎにやって来た。見舞い客の置いて行った花束を、花瓶に刺したりしている。
「おまえ、今日学校は?」
「具合が悪いって、早退しちゃった。だって本当に心配で具合が悪くなったんだもん」
言葉とは裏腹に、ニコニコしている。
「おまえ、心配だと言うわりには、うれしそうに見えるぜ」
「少しね。レースが始まってから、浩次は、全然一緒にいてくれなかったでしょ。今は私を必要としてくれているように思えて…」
「当たり前だろ。おれはレーサーだからな。気持ちは有り難いが、学校にはちゃんと行けよ。足はおれが治すんだからな。おまえに関係なんかないよ」
浩次は、そう言ってしまってから、少しキツい事を言ってしまったと思った。
「…本当は凄く心配だったんだからね。客席から見てて、救急車が来て、浩次はピクリとも動かないで…、何度名前を呼んでも、本当に動かないで…、死んだらどうしようって…」
そう言うと、みるみる麗菜の表情は崩れ、目に涙が溜まった。
「悪かった。少し言い過ぎた」
慌てて浩次は言ったが。麗菜は乱暴にドアを閉め、何も言わないまま、病室を出て行った。
「クソッ!」
浩次は枕元のリンゴを掴んで、床に投げる。
浩次の苛立ちの原因の一つは、朝に来たチーム監督の権藤だった。
病状を聞いたらしい権藤は、哀れむように浩次を見下ろして言った。
「ゆっくり治せよ。無理をする事はない…」
権藤がそんなに親切な事を言う男ではない事は、二年の付き合いで、よく知っていた。
要するに彼は『もう、レーサーとしてのおまえには期待していないよ』と言ったのだ。
本音では、いい厄介払いなのだろう。
今後のレースに出場できない浩次の代わりとして、浩次のマシンに他の選手が乗るのは当然の事だ。
しかし、浩次の怪我が治っても、そのマシンに浩次が乗れる保証はない。
「コウジ、足はまだ付いてるか?」
金城が病室に入って来た。「どうした。さっき、レイナは泣いてたぞ。何があったかは知らんが、レディに当たる男なんて、最低だぞ!」
金城はいつもの様に手を伸ばす。浩次もなんとか上半身を起こして、手を叩き合わせて答える。
「それに、マシンを壊すライダーもだろ。これは、あんたの口癖だ」
金城は笑って言った。
「それは、ウチの様な貧乏チームの話だ。おまえらのチームは毎レース一台づつ壊れたって何も困らん…」
「連中は困らんだろうが、おれは困った事になりそうだ…」
浩次が言うと、金城は目を閉じて首を振る。
「余計な事を考えるな。まず、お前が考えなくてはいけないのは足の事だ。いくらあがいたって、ベットの上でレースは出来ないんだ。思い切って忘れろよ…」
「人ごとだと思いやがって…」
浩次は返したが腹は立たなかった。
金城が自分の身になって考えてくれているのは、よく分かっていた。
「怪我が治って、それでもバイクに乗りたいってビョーキが治らねえ時には、オレに言ってくれ。おれが何とかしてやるからよ」
「感謝するぜ」
差し出された手を握り返した。
*
翌日から、麗菜は学校の後、友達を連れて病室にやって来るようになった。そいつらは、はしゃいで写メを撮り、ギブスに落書きをしたり、シールをペタペタ張ったりした。
浩次は麗菜に、前の事を謝りたいと思っていたが、病室で二人きりになれたのは、一ヶ月以上たった後。手術後のリハビリをようやく始めた頃だった。
「足は治りそう?」
「筋力が落ちてしまって、足首が曲がらない。おれの体の一部じゃないみたいだ」
「お医者さんの話では、そのうち、歩けるようにはなるんでしょう?」
「歩けても…、歩けるくらいじゃな…」
「…………」
麗菜は俯く。
「なあ、この前は悪かったよ」
「何の事を言ってるの?」
「足の事はおまえに関係がない、って言った事だ」
麗菜は浩次を見ずに言った。
「いいよ。そんな事忘れたから。浩次も足が治ってサーキットに戻ったら、どうせ忘れるんでしょ」
「………」
浩次は返す言葉を失っていた、
浩次は懸命にリハビリを続けた。筋力を付けるための器具も使った。とは言ってももちろん上半身だけだ。
足はまだどうにも動かない。赤ん坊の様に転びそうになりながら、歩く練習をするのがせいぜいだ。
ベットでは目を閉じ、頭の中でレースを再現しようとしたが、どうにもうまく想像が出来なくなっていた。あんな高速の世界に自分が戻れるのか、いや、本当に戻りたいのかすら、分からなくなっていく…。
(でも、おれは、走る事しか知らないんだ…)
浩次の悩みを知ってか知らずか、麗菜は、明るく振るまいながら浩次の看病を続けた。
有り難い事なのか、彼女はレースの事について何も言わない。
麗菜は浩次より五歳以上も年下なのだが、そんな麗菜に接していると、浩次は自分が余りに子供なように感じられた。
ブンブン唸るマシンにこだわる自分が…。
(まるで、オモチャに夢中になっているガキみたいだ…)
*
ある日、病室のドアが乱暴にノックされた。
「はい、どうぞ…」
浩次は待合室から持って来て貰ったマンガを眺めていた。差し入れのバイク雑誌なんか、悔しくて見られない。全部箱に詰めてベッドの下に放り込んである。
雑誌から目を上げると、体格の良い仏頂面の男が立っていた。
「あなたが、加藤浩次さんですか?」
中年の男は頭を掻いた。
何を言ってるのだろう。そんな事は表のプレートを見れば一目瞭然だ。
「そうですが…」
「申し遅れました。神崎です。私は神崎麗菜の父親です」
「…………」
「親馬鹿かとは思うんですけどね。きっとこんな勝手な事をしちまったら、後で怒られるんじゃねえかと…」
「………」
何が言いたいのだろう?
浩次は彼の顔を見上げた。
「最近の若い人の付き合いだ。娘と結婚してやってくれとか、そんな話じゃないんです。実は、娘がね。泣いてるんですよ。加藤さんの事故以来、元気をすっかりなくしちまってね…。親としてはね。あんまり心配な顔を見たくないんですよ」
「どうしろと、おっしゃられるんですか、彼女と別れろと?それともレースを止めろと?」
「いやいや…」
男は慌てて首を振った。「加藤さんは命を掛けて、オートバイに乗ってらっしゃるんだ。それを、私なんかがとやかく言える物ではないです」
「命を掛けるなんて少し大袈裟ですよ。レースは人が考えるよりはずっと安全なんです。もちろんスピードは出しますけどね…」
「…………」
男はおもむろに上着を脱ぎ、その下のシャツを脱いだ。青い竜…。背中には見事な入れ墨が彫られていた。「勘違いしないでくださいよ。私はもちろん、あなたを脅かそうと思ってこんなもん見せるんじゃないんです。あなたを不快にしたなら、謝ります」
そう言って、彼は慌てたしぐさで再び服を着た。「私も、昔は命知らずだった。正直、世間様に顔向けできないような事も随分しました。もちろん、レースをする人と極道者が同じ種類の人間だとも、決して思ってはいませんが…」
「…………」
「私は今の家内と一緒になった時、きっぱりと極道に別れを告げました。怖くなったんです。惚れた女を不幸にしちまう事が…。私は中学もまともに行っていないので、手に職を付けるしかないと思って、料理人の道を歩みました。それまで、一度も人様に頭なんて下げた事のない人間でしたが、修行に耐え、こんな自分でも、今はやっと自分の店が持てるようになりました」
男は顔を赤くし、体を丸めるように頭を下げた。「もし、加藤さんにその気があればですがね。うちで修行をしてみませんか。もちろん、厳しい世界です。でも、百分の何秒とかに命を掛けれる男なら、きっと、立派に勤まると私は思うんです…」
浩次は、彼の柔らかな物腰の奥にある。鋭い真剣さを感じ、正直圧倒されていた。
「…僕はレーサーです。前を走るバイクを追い抜く事しか、まるで能のない男です…」
浩次がそう言うと、男はまた頭をかいた。
「…そうですか、学がないもんで、また余計な事をしちまったかな。この事は娘には内緒にしてやってください。背中の墨だって、ずっと娘には隠して来たんですよ」
男はそう言って、深く頭を下げ、病室を出ていった。
彼が帰った後、浩次は自分の将来について考えた。ベットの天井を眺めた。
『おれは、一度でも、自分の人生の重みを感じた事があるのだろうか…』
田舎に残した兄や両親。そして、当たり前のようにそばにいてくれる麗菜。
レースを口実に、彼等の事なんて何も顧みなかった自分が、今、病室で倒れている。
それは、誰かのくれた警告のようにも、浩次には感じられた。
3
二ヶ月程病院にいた後、浩次は自分のアパートに帰った。
やがて、足はかなり思い通りに動くようになり、日常の生活には不自由しなくはなったが、街中を走る時でも、バイクのシフトチョンジなどでは、僅かにタイミングがずれる事があった。
サーキットでは命取りになりかねない。
やがて、アルバイトにバイク便の配達を始めた。
浩次はバイクの様なものに毎日乗っている事が、感覚のリハビリになるかと考えたのだが、200㌔を越えるサーキットの世界と渋滞した車と信号が並ぶ街中の一般道では、当然の事ながらあまりに世界が違い過ぎた。
権藤からの連絡はない。レースに戻れる足掛かりもないし、戻りたいのかすら浩次には分からなくなっていた。
代わりに日曜日に麗菜とよく遊びに出掛けるようになった。よく考えれば、レースはいつも休日にあるので、暖かい季節にこんなふうに外でデートをする機会は少なかった。
自分が今まで何にこだわっていたのか、浩次には、よく分からなくなって来ていた。
*
金城からのその電話があったのは、秋の終りの事だった。
「最近のウチのチームの事を知ってるか?」
「いや、バイクとは無縁の生活をしてる…
」「実は、コンストラクターの一位なんだぜ。もちろん、ワークスを除けてだがな…」
「毎年の事じゃないか」
「ところが、今年はヤバイ事になったんだ」
金城の声のトーンが下がった。
「実は昨日、ライダーの佐竹がコケちまってね。最終戦を走れる奴を探しているんだ」
「オマエが走ればいい」
浩次が言う。
「バカを言うな。もうあんな危ない物なんかに乗る気はないぜ。息子が出来てから、おれ人なみに命が惜しくなってな」
「そんな奴が、他人を走らせるなんて、随分酷い話だな」
「ハハハハ、言えてるぜ。ハハハ…」
電話の向こうで、ひとしきり笑った後、金城は真面目に言った。「足が治ってるなら、ウチのバイクに乗ってくれないか?」
「………」
「今週末だ。どうだ、OKか?」
「断る理由なんて、ないぜ…」
浩次はそう言って電話を切った。
これは、いつかはっきりさせなくてはいけない事だった。自分との決着は、いつまでも曖昧にはできないのだ。
もちろん、麗菜が喜んでくれるとは、思えなかったが…。
*
「おまえの後釜に来た若い坊主は、線が細い感じがするね」
翌日、部屋まで迎えに来た金城と一緒に夕食を食べた。
「でも、速いんだろ?」
「まあね。でも、バイクを速く走らせる事が出来れば、チャンプになれるとは限らない。チャンプには、いわば風格って言うのが必要だ。ガンガンに熱くなりながら、脳味噌の芯は氷の様に冷えきっている。そんなカミソリの様な危ないヤローでないと、チャンプは張れねえよ…」
「おれにはそんなものがなかったのかな」
「バカ言えよ、お前がヤワな坊主だと思えば、ウチのマシンに乗せたりしない」
「…………」
金城は身を乗りだすようにして、低い声でゆっくりと言う。
「怪我から復帰しての最初のレースだ。おれも多くは期待しない。精神的なリハビリのつもりで、軽く走ればいい。以前のチームに勝とうとか、見返してやろうとか、余計な事は頭から捨てろ。怪我の後のレースは誰でも怖いんだ、慣れるまで時間がかかる。上手く走れなくて当たり前だと思え…」
「あんたも怪我をした事があるのか?」
浩次が聞くと、金城は微笑みながら目を閉じて、左右に首を振った。
「あれは怪我なんてものじゃなかったね。ブッ壊れたと言った方がいい。あの後しばらくは恐ろしくて自転車にも乗れなかったよ」
そう言って、ニヤリと笑った。
*
電話でレースに戻る事を話すと、麗菜は黙りこんだ。浩次はあえて無神経な男を演じ、明るい口調で話し続けた。
何も言わなくても、彼女が何を言いたいのかくらいは、誰にだって分かる。
*
「凄いぜ。浩次! 八番手だが、トップから一秒しか違わねえ」
予選が終り、金城が両手を上げて浩次を迎えた。
「セッティングがいいんだ」
浩次が返す。
決してお世辞ではなかった。金城のマシンは浩次の意思に的確に反応して、浩次の理想の走りを表現してくれる。
短期間でこんなに調整できるメカニックなんて、そうはいない。
「この調子なら明日が楽しみだな」
金城はそう言って笑った。
*
予選の後、繁華街の裏通りにある、麗菜の父の店を訪ねてみた。
店は小さな日本料理屋だった。カウンターと、奥に座敷が一つだけの店でカウンターは十人も座れば満席になる。
「いらっしゃいませ」
彼は、浩次の顔を見て、少し驚いたようだった。浩次は黙ってカウンターの席に座る。 まだ開店して間もないためか、他に客はおらず。カウンターの裏で何かがコトコトと煮えていた。
「お怪我は、もうよろしいんですか?」
まな板に魚の身を置き、包丁を薄く滑らせながら、彼は言った。
「ええ、まあ、完全に治った訳ではないのですが…」
「明日、走られるそうですね?」
「………」
「………」
しばらくの沈黙があった。
「前のチームには戻れなかったのですが、知り合いのチームのバイクに乗れる事になりました。決して早いマシンでははないのですが、なんとか予選の八位を取れました…」
彼は俯いたまま、ガラスの皿を浩次の目の前に置く。砕いた氷の上に湯通しされたさっきの魚の肉が乗せられている。
「お待たせしました。はもでございます」
彼は頭を下げる。梅肉に付けて口に運ぶと、何とも言えない甘酸っぱい味覚が、口にひろがった。浩次が見上げると、彼は軽く頭を下げた。「実は時期的にはそろそろ終りなのですが、今日はなかなかいい素材が入ったものでね…」
椀に葛たたきのいくらを浮かせたすまし汁も、何ともいえない風味が口に広がった。
牡蠣の塩辛をつつきながら、日本酒を口に運ぶ。「その酒はね。新潟の蔵元から直接買い付けた、蔵出しの吟醸酒なんですよ。いくら金を積んでも、信用のおける店にしか売らないって品で…、蔵元が頑固な人でね。それでも、とにかく、私が知る中では一番上手い酒です」
彼はまな板の魚に包丁を滑らせながら浩次を見ずに言った。
やがて、店には身なりのいい中年のサラリーマン二人が入って来た。
その後は、お互いに何も話さなかった。
「明日が今年の最終戦なのですってね。ご健闘をお祈りいたします」
帰り際、彼は丁重な調子でそう言った。
店を出た後、あの男も勝負師なのだ、と浩次は感じていた。
彼はきっと、浩次がコーナーに飛び込む時のような興奮を感じながら、毎日、客や食材と真剣な勝負をしているのだ。
その夜、浩次はなかなか寝付けなかった。 大事なレースの前にはよくある事だ。
*
決勝は雨になった。
土砂降りと言う程でもないが、予報では夜まで降ったり止んだりが続くらしい。
秋雨と言うよりは、冬の匂いのする冷たい雨だ。
「復帰第一戦が雨とはな…、怖かったら無理はしないでいいぜ」
雨を意識した最後のセッティングをしながら、金城は空を見上げた。
浩次はただ笑って首を振る。
雨の路面は確かに滑りやすく危険だ。
しかし、それは全てのチームのライダーに言える事なのだ。
ワークスより性能の劣る浩次のマシンにとって、雨中の低速レースがチャンスとなる事もある。
やがて、ウォームアップランが始まった。 水飛沫を撒き散らした各マシンが、パレードの様にコースを一周して、スタート位置に付く。
二列先にある、河原優の背中。
彼はこのレースで入賞さえすれば、年間チャンピオンが確定する事になっていた。
まあ、それはあくまで数字の上での話で、チャンピオンはもう何カ月も前に約束されたも同然のポイント差だった。
「河原。すぐにそこに行くぞ。権藤、見ていろよ、ド肝を抜いてやるぜ…」
心を落ち着かせようと小さく呟いてみたが、自分が何のためにそんな事を言うのか分からず、バカバカしい気すらした。
(そんな事のために走るんじゃない。それじゃ、おれはこんな雨の中でバイクに跨がり、一体、何をしてるんだ?)
不意にシグナルが青に変わる。
浩次は全ての余計な思考を停止して、マシンを走らせた。
スタートにミスをしたマシンがあり、前方に渋滞ができた。浩次は的確なラインを進み、減速なく一コーナーに飛び込む。
五台のマシンが第一集団を作り、一周目を終えた。
浩次は四番手で集団の後方につけた。
雨の路面で、二度、三度とリアタイヤが滑る。
何とかマシンを押さえ、集団に食らいつく。 河原のペースが思った程には上がらないせいか、河原を先頭に、五台のマシンが第一集団を形勢した。
それでも、河原のブロッキングが巧みで、誰もなかなか前に出られない。
また、このコンディションでブッちぎりの走りが出来る自信のある者はいないらしく、集団の中で時折順位が入れ替わるだけの静かなレース展開になった。
金城も浩次に『ポジションキープ』の指示を出している。
五人のライダーは、共通した考えを持っていたようだった。
河原のタイムから見て、全てのマシンに一位の可能性がある。最終盤になって本当のレースが始まるのだと言う点で、全員の考えが一致しているようだった。
中盤からは大した波乱もないまま、静かなレースはやがて、最終ラップを迎えようとしていた。しかし、それはあくまで嵐の前の静けさに他ならなかった。
最終コーナーの立ち上がりで、遂に嵐が起こった。
それぞれのマシンが、ラインを崩しながら、限界の加速を始める。
第一コーナーで有利な位置を獲得するために、ストレートを目一杯で駆け上がる。
浩次のポジションは三番手だが、コントロールラインを通過する時点で、五人のライダーに順位など、あってないような物になっていた。
浩次は先頭を走る河原のトレースラインを慎重になぞり、加速していく。
前のマシンが水を掻き分けてくれるので、浩次のマシンの方が、タイヤのグリップが良くなる。
河原の真空地帯を利用して、浩次は第一コーナーに二位で飛び込んだ。そのままインに飛び込み一気に抜きにかかろうとするのを、先頭の河原がブロックした。
それが波乱の始まりだった。
河原のテールが僅かに滑り、減速を強いられた間隙を突いて、三位のマシンがアウトから河原に並びかけたのだ。
浩次の進路は塞がれ、しかたなくブレーキングをしたため、四位に落ちてしまう。浩次はコーナーで確実に差を詰めながら、一瞬のチャンスを待ち、慎重にトップ争いを眺めた。 河原と並んだマシンが、サイド・バイ・サイドで裏ストレートに飛び込んでいく。
最高速に差のない二人はこの後、ストレートエンドのコーナでブレーキの我慢比べになるだろう。
視線の彼方に右コーナーが近づく。当然だがお互いに譲る気配はない。
浩次はマシンを右に寄せ、慎重にイン側のラインにつける。
これは賭けだった。
インのラインでは最高速でコーナーを駆ける抜ける事が出来ない。河原が浩次の企みに気付いて抜け目なくブロッキングすれば、浩次は減速を強いられ、もう前に出るチャンスはなくなるだろう。
しかし、浩次の目には河原は熱くなり過ぎていて、後続のマシンへの配慮が薄れているように感じられた。
コーナーのブレーキングポイントが来る。
河原に並んでいたマシンが転倒してコースを飛び出した。オーバースピードの河原のラインが、少し外に膨らんだ。
(来たっ!)
すかさず河原のインを差して、浩次がトップに立つ。しかし、直後の左コーナーで、すぐに河原が抜き返した。
テールトゥノーズのまま、浩次と河原は最終コーナーを迎えた。浩次はアウトに出て、アクセルを全開に開き、河原に勝負を挑む。 他のマシンも殆ど差はない。一つのミスをしたライダーが表彰台から転げ落ちるのだ。 マシンが左右に揺れるが、浩次は構わず加速を続ける。
アウトに出た浩次に、河原がマシンを寄せて来た。コースの端の縁石に浩次のマシンのタイヤが触れる。
河原は、それでも浩次を押し出すようにマシンを走らせる。
(…………)
浩次はアクセルを緩めた。何が起きたのか自分でも良く分からなかった
気付いた時には河原が一位でチェッカーを受け、浩次はほんの僅かな差で四位に破れていた。
ウイニングランをする河原優が、速度を落として、浩次に近寄って来た。
「凄いバトルでしたね。加藤さん。さすが、僕が憧れてたライダーだけの事はある」
「憧れ?」
河原は、大きく頷いた。
「僕は加藤さんに憧れて、レースの世界に飛び込んだんですよ。最後のミスはやっぱり、久々のレースだからですか?」
「ああ、カンが狂ってしまった…」
「来年はもっと凄いバトルをしましょう」
「何を言ってるんだ。チャンピオンが…」
浩次が肩を叩くと、河原はバイザーを下げて走っていった。
*
マシンを降りた浩次を、金城は厳しい表情で迎えた。
「オイ。何故、最後に諦めた?」
「分からない」
浩次は俯いて首を振る。
「勝てたレースだったぞ。おまえらしくもない」
「…………」
「もう、おまえはレースには向かん様だな…」
浩次が顔を上げると、金城はいつもの様に人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「おれがレースを止めた時と同じだぜ」
そう言って、金城は浩次の体を抱いた。「人生にゃ、レースより大切な事が色々あるって事よ。おれは、あんたの事が、ますます好きになっちまったぜ」
「来年のレースはどうするんだ?」
「もう、次のレースはないんだ。ちょうど、チームをたたもうと思っていた所だったんだ。佐竹がコケた所で、そろそろ潮時かと思っていてな。今日のお前の走りを見て決断したよ。今日のおまえの走りは、チーム金城のラストレースに相応しい。おれはこのままバイク屋のオヤジに戻るよ。おまえは不満か?」
浩次は首を振る。「さあ、彼女がお待ちかねだ。早く行きな」
ガレージの奥に麗菜が立っていた。
「ここは、勝手にはいっちゃいけねえんだぞ」
浩次が言うと、金城が肩を叩いた。
「おれが呼んだんだ。ヤボな事行ってねえで、行ってやれよ」
麗菜は微笑み、浩次の胸に頭を埋めた。
「心配をかけて悪かったな。許してくれるか」
「許さないんだから、簡単には…」
麗菜はそう言って言葉に詰まった。
表彰式が始まったらしく、華やかなファンファーレと喚声が聞こえて来た。
そのファンファーレが、レースの季節の終りを告げているように浩次には聞こえた。
雨雲の切れ目から光の帯が差し込み、路面を金色に照らしながら、ガレージに、二人の重なった長い影を作っていた。
筆者はバイクを触った事もありません。悪しからず。。。。