有田兄弟と正平 2025年6月10日PM7:23ソフトウェア開発会社
時は少し遡り、国文学科教授、六角正平と、生徒の有田千弦が、小学校6年生の進藤葵との面会を終え、帰路に着く途中の事である。
千弦が少女の言葉に何か閃きを得てから、千弦が指示を出す通りに車を走らせた正平は、ソフトウェア開発会社に辿り着いた。
何を閃いたのか正平はよく分からず、『先生は運転に集中しないと!』という、これは千弦らしい台詞でいなされて、何も聞かされず車を客用駐車場に停め、受付は閉まっているので守衛に連絡を依頼した。
正平がトイレに行って戻ると、もう首から下げるIDを二つ持った千弦が待っていた。
首に縄をかけられるがごとくふわりとIDは正平の首をまとい、あれよあれよとエレベーターに乗り込む。
「今日は残業してるみたいで、まだいるそうです。良かった、間に合って。」
「誰が?」正平が居住まいを正しながらキョトンとすると、
「兄です。プログラマーです。」と千弦が真顔で答えた。
有田万里はソフトウェア開発に日々精進するプログラマーである。千弦より10歳年上で、最近お腹周りが一回り、増えたことが悩みだ。頭を使うとお腹が減る。食欲が増える。
『お腹出てるのにお腹空いてるわ…。』と、理屈が真実へ結びつかないもの悲しさを、空腹を知らせる虫の音と共に呟いた。
今日は早く帰りたかったが、上司から急に近隣の小学校へ、『出前授業』の代打を頼まれてしまった。体調不良のフォローはお互い様である。故に万里は準備の為、人工知能にペルソナを与え、小学生がプログラマーに質問しそうなことは何か?というプロンプトを入力する。
小学五年生になったAIは、無邪気な語調で、インターネットの仕組みや、ゲームの作り方、AIは本当に自分で考えているのか、など質問してくる。
「…なるほどなるほど、なるほどです。」と、独り言を呟いていると、内線電話の着信音が鳴り響いた。点滅は『守衛室』である。来客に違いなかった。
「え?約束…ないよね。あれ?」と万里は焦りながら壁付のベージュの電話の受話器を取る。
「あ…あ、そうでうね、弟です。え?大学の教授さんと一緒に?え?え?通してください!はい!」
万里の頭の中には先生と生徒が、一緒に年の離れた兄を訪れる理由が一つしか浮かばなかった。
課題が出ていないとか、出席率が低すぎて落第しそうとか、迷惑をかけている部類である。
万里にとって千弦はいつまでも可愛い存在で、仏頂面で物欲を発揮されても応えてしまう程、万里は千弦に甘かった。
『何をやらかしたのかしら?』焦る万里の胸中を知るか知らずか、千弦は一回軽くノックをしただけで開発部のドアを勢いよく明けた。
「兄ちゃん!久しぶり!ごめん突然!」
「…。」万里はまず、二人の姿にぎょっとする。自分より、親父より、教授が千弦にそっくりだからだ。いや、年上なのだから千弦が教授に似ているのか、と何だか複雑な心持ちになっていた。千弦も寮住まいなので、会うのは久しぶりだった。垢ぬけたなぁと、パーマを見て思う。
「すみません、突然。千弦くんのゼミの教授で六角正平と言います。実は僕も今なぜここにいるのかよく分かってないので…。」と、万里以上にキョトンとしている。
「いや、いいの、二人とも座って!今説明するから!」
開発部は広くはない。6畳程度でテーブルと資料棚、パソコンなどの機器があるだけだ。千弦の紹介の元、丸いテーブルを囲むようにして万里と正平は名刺を交換し合い、深々と頭を下げ挨拶を交わす。正平の様子から二人が単位の問題などで来たのではないことが推測出来て、まずホッと胸を撫で下ろした万里だった。急須でお茶を淹れて振る舞うと、千弦の黒いリュックサックの中から、先ほど買ってきたという豚まんが登場した。万里の大好物である。3人は熱々の豚まんを頬張りながら、距離を縮める。
千弦と正平は、これまでの経緯を説明し、発足の会として個人的に活動している旨を万里に伝える。数時間前に少女が放った『魔法のステッキで核兵器を消してしまえたらいいのに』という、祈りにも似た願いの話をした。
「うん、うん、それで?」と万里は、程よく満腹で、肉、野菜、炭水化物と、バランスの取れた、しかも美味な一品を思いがけず食べられたことに満足し、弟が自分に何を求めに来たかを推測しながら話の先を促す。
「えと…。核兵器は負の連鎖が怖い。撃たれる位なら先に撃つ、そんなぎりぎりのことになるわけで、そうなってもおかしくない、この世にある限り。」
「うん。」と、万里と正平は頷く。
「ならば、核保有国のリーダーが、全員揃って、同じ日、時差はあれど同時刻、一秒も違わずピタリと、同時に核のボタンを放棄するっていう世界で平和プロジェクトみたいなものを組んだら、魔法のようにこの世から核兵器は廃絶されるんじゃないか、と。同時に放棄するなら、撃ち合いにならない。」
万里と正平は顔を見合わせ、またそれぞれ千弦の方へ向き直った。
「いや…でも。核兵器は抑止力として必要だと言われてるし…核保有国のリーダー全員が放棄するって…あり得るのかなぁ?」と万里は腕を組んで思い悩む。
「兄ちゃん、これまで、被爆体験をした方々が、私財を投げうってまで、世界で核廃絶を叫んで、署名活動して抗議して、体験を語り継ぐ、すんごい努力をされてきたのに、核拡散防止条約に反して核保有国は増えた。これは凄く悔しいことだなぁって僕は思って。で、具体的にどうすれば、実際に、本当に実際に、核兵器廃絶というもう一つの世界へ行けるのかなって思った時に、葵さんのあの言葉が鐘を鳴らしたっていうか…。皆で同時になくすしかない、そう僕は思ったんだ。」と千弦はうなだれる。
魔法のように。万里は思う、千弦は絵空事の様な事を言うタイプではない。天邪鬼だけど、冷静で、いつもきちんと分析する。
万里は戦後80年の節目で、色々な記事を目にする機会があったことを思い出していた。中でも、被爆体験者の方の声だ。印象に残っている文章が二つある。
『生きているうちに核廃絶を』と、
『自分に出来る事を少しでも』である。
どちらも反核の意思でありながら、前者は当事者の胸が締め付けられるような、願い。
後者はその願いを理解し支えたい、変えていきたいと思う周りの、次世代の、切ない思い。
ー生きているうちに。ー
万里はこの言葉に、胸が震えたのを思い出す。この一言に宿る、言葉に言い尽くせないほど沢山の想い。悔しさや、祈り、次世代への愛。
自分も、『自分に出来る事を少しでも』そう思う、弟のように。
「どうして核兵器を保持したいのか…それは、他の国が持っているからだ。地政学の通り、引けば押される。だが、誰も持ってないのなら必要なくなる。発想の転換だなぁ。」と万里が呟く。
「僕がリーダーなら、みんなが放棄してるのに自分だけ持っているような孤独には陥りたくない。例え撃てても、輸入や輸出が出来なくなれば、無言無行為という『無い』にあるエネルギーを、全世界から受ける様なものだから。」兄の同意のような台詞に、千弦は元気を取り戻す。
「それに、自国民の意思ですね。リーダーは国民のあまりにも大きな強い意思は、無視しない。リーダーはリーダーかるが故にリーダーなのだから。」と、ここでようやく正平が一言述べた。
「それに全世界で核兵器廃絶が同日同時刻に行われたら、その時の決断した核保有国のリーダーの名前は、永久にヒーロー達として語り継がれ、忘れられないだろう。」万里が言ったこの台詞が、事において大事な鍵なのかもしれないと正平は思った。
道はきっとこうだ、と万里は書き出す。
①まず日本から、核兵器廃絶の世論を広める
②全世界世論を広める。全世界が核兵器廃絶の世論となる
③同時に核兵器を廃棄するプロジェクトを組み、歴史上の一日として地球一丸となって実行する
「その為に、俺が浮かんだ?」と万里がキョトンとする。
「だってさ、今はITを味方に付けるのがいい時代なんだよ、兄ちゃん!戦後に語られた言葉の数々は、地球の裏側の人には届かなかったけれど、今なら光の速さで、言葉は飛んでいけるんだ。伝えられるんだ。だから、何かその、『核兵器廃絶への道』に対して、兄ちゃんのアイデアを聞かせてよ。」と千弦が呟き、ようやく正平は、豚まんの行列に並んだ意味も、ここへやって着た意味も理解した。
「さっき、デジタル平和プラットフォームを作るって言ってたよね?」と万里が尋ねると、二人は頷く。
「そのプラットフォームを、とにかく良い物にすることだよね…。例えば…反核へのデジタル署名をすると、その数に比例してデジタルで現された木が伸びて成長が目に見えて分かるとか…。それが…うーん、その国ごとの木、にして、全世界分用意したら、それを世界地図のようにしたら、一目で今、反核の意思が全世界でどのくらい伸びているか分かる、とかさ。署名の力は大きい。日本の木…スギとか?が一番先にどっかーんと大きくなるために、まず、身近にいる人から活動を伝え、積んで広げていけるといいね。」と万里が天井を見ながら架空の画面を思い浮かべて言う。
「国の数は一概に言えない部分があるから…それは熟考が必要だけど、やっぱりそこは『成長する木の世界地図』にしたいなぁ。」
万里の呟きに千弦は頷く。『日本』の視線から見た国の数なのか、『地球』から見た国の数なのか。
今もその場所で、苦しむ人々がいる。
「まず、毎日のようにそのプラットフォームに訪れてもらうことが大事だよね。『集めて配る』を大きなコンセプトにする感じだといいかなぁ?公募とか…。今朝俺が食べたお菓子の箱にあったみたいなさ、絵だけフォーマットとしてあって、物語は自分で入力して、自分だけの絵本を作れるって企画を見たんだけど、それを『平和』をテーマにして公募して、賞も設定するとかさ?物凄く大きな意味で、『平和』を集めて『平和』を配るみたいな…俺のイメージはそんな感じで…。
参加者がエントリーポイントを貯めて、体験者団体の販売しているグッズが貰えるように繋げてみるとかさ。活動資金として支えられるように。そうすると子供達でも、毎日エントリーすることで手に入るし、子供達の行動が活動を支えることにも繋がっていくように思う。」
「子供達の参加は凄くいいよね。発想が自由で豊かだし。発足会で世界を自由に描いてみるみたいな案が出てたなぁ。日本はアニメの国とか、フランスはシェフの国とか、みんなで一つの地図を描くって。毎日が万国博覧会みたいな楽しいものって。」と、千弦が万里の案をメモに取りながら話す。
「それなら、50人規模で一つの町を設計出来るゲームとかは現にあるから、50人が全員違う国籍だとしたら、万国博覧会みたいな世界が作れるかもしれないし、それもチームを組んで賞も設けたらいいかもしれないね。」と万里が提案すると、千弦の表情は明るくなった。
『平和』をテーマに、主催者側も参加側も色々な表現をする、みんなが参加出来る場所。
反核の祈りを込められて、成長する木の世界地図。
子供達の為に、分かりやすい言葉や絵を使い、平和について学べる場所を作る。
オンラインツアーや戦時中の食を体験できる通販などは、学ぶことも出来、活動を支える源にもなる。
平和を願い、多くの人がオンラインで話し合える場所に。
次世代へ平和が受け継がれる場所となる様に。
ー『平和』を集め『平和』を配る、参加型のデジタル平和プラットフォームー
「あとさ、その電子署名で成長する木は、電子署名すると魔法のステッキの絵が現れて、木に対してぷいぷいーい!みたいに出来ないかな?」と、千弦がやや恥ずかしそうに言う。
「葵さんの、12歳の、純粋な平和を想う切ない願いを、具現化出来たらいいなと思ってしまう。」と、千弦は今日の出来事を思い出して言った。
「兄ちゃん、デジタル平和プラットフォームを作るのを手伝ってくれる?」と自然体のまま依頼すると、万里は笑顔で頷いた。
「俺に出来る事を少しでも。」
兄弟の会話に、正平はじんわりと心が熱くなるのを感じた。
「同日同時刻に廃絶プロジェクトはどのように標榜していくといいのだろうか?」と万里はまた頭を悩ます。
「廃絶する為にはそれしかないように思いますね…、それでこそ…皆で負けて皆で勝つとなる。でも、その標榜を掲げるのは、我々ではなく、長い間戦ってこられた団体の方達で、彼らが報われるべき主役なのだと思います。見て下さい、歴史を…。」と正平は抗議、声明の年表をタブレットに表示する。
「核実験に対する抗議、これだけでも数えきれない程に。世界各国の首脳に核兵器廃絶への努力を、と言葉を送り、戦争が起こる度に反対を表明。攻撃への抗議、派兵に反対し、9条を大切にして、平和の為の条約締結を求める。そう、地球上で、戦争が起きる度に、反戦を訴えてこられた。
目的、活動。核兵器廃絶と原爆被害への国家補償要求、日本政府、国連、諸国政府への要請行動、核兵器の廃棄、撤去、核兵器廃絶国際条約の締結、国際会議の開催、非核法の制定、原爆被害者擁護法の国家補償の法律への改正、被爆者対策の充実…。
原爆被害の調査、出版、展示、集会、代表派遣、被爆者の相談。語り、繋いでいく。
ここまで読んで僕は、相当に気合の入った猛者達の団体なのかなと、空手道場のような印象を受けました、物凄く多岐に渡る、長きに渡る、全世界に渡る活動だから。でも、見て下さい。」と、正平が団体の集合写真をタブレットに映すと、有田兄弟は少し目を大きくした。
「なんて…温かい笑顔の、優しそうな方々なのだろう。」と万里。
「そうですよね…。皆ご年配の方々だけど、お人柄が表情に現れている。朗らかで、優しくて、春の木漏れ日の様な、自然な笑顔、しかも全員の方が。これは授賞の時のお写真の様ですが…。」正平は写真を見て、思わず微笑みが移る。
「六角先生が読み上げた様な、物凄い偉業の数々をこなしたのは、この優しそうなお祖父ちゃんとお祖母ちゃん達なんだ。普通の。僕らの祖父ちゃん達みたいな。発足会はこの方達の、もんのっ凄い後輩の団体なんだ。」と千弦が正平を見る。
「そうですよ千弦くん。だから、教えてもらって、寄り添い一緒に、とにかく反核の世論を、ほぼ100%にして、そこへ彼らの積み上げて来られた力を発揮してもらうのがいいはずです。『核兵器廃絶への道を、全世界で同日同時刻に』を。彼らの力なくして成功はないと、僕は思います。」と正平はタブレットを閉じた。
「チームBは核兵器廃絶への道です。僕は大学教授としてでもなく、一人の人間、六角正平として、一緒に『道』を歩んでいけるといいなと思ってます、ご教授ご鞭撻をお願いしに行くつもりです。平和プラットフォームへの参加もお願いしてみます。平和プラットフォームから団体のホームページにもすぐ飛べるようになるといいな。
千弦くんと真奈さんは、今、署名活動や語り部活動を担っている若者団体の方々と話をしてくれますか?」と千弦に尋ねると、
「もちろんです。」と答え、
「未来にはさっきの集合写真に六角先生もいるかもしれませんね?」と、画面を思い出しながら呟いた。正平が被爆体験者三世だと知っているからだ。
「いえ…僕は黒子のような存在なので…。志のある若者に幸運にも囲まれた、発足会の一人で良いのですよ。使命さえ果たせれば…。先駆者達はきっと、皆そうなのです。自分の表現が、世に出るかどうか、未完に終わるのかどうかはさておき、ただ、与えられた『使命』を、自分の力の限りに果たしたい。僕を、信じてくれたのだから…。」と、うつろな目で呟いた。
「…先駆者達?」千弦は疑問符がついたが、正平の台詞は哲学的なニュアンスの事も多い。それ以上聞かなかった。
万里は思う、平和の為に活動をする人々は皆優しい顔をしている、今目の前にいる二人もそうだ。それなのに内に、熱い静かな炎を秘めている。輝いている。だからきっと、同じ目標を元に一つになれる。
暴力で、戦争で、核兵器で、平和は作れない。
敵同士だったリーダーのお孫さん、ひ孫さん達が、今、平和記念公園で握手し、一緒に祈る。
人間が作り出したものは人間が終わらせることが出来る。
「葵さんの魔法が全世界へかかるように…。」と、千弦は窓の外の月を見た。
魔法のステッキが具現化するかしないかの交差点を、今、しなやかに柔らかく通過した。まん丸から0.8%欠けただけの、ストロベリームーンの前夜の出来事だった。




