進藤葵12歳 2025年6月10日 PM3:30 南小学校6年1組教室
41人の児童が、体育館から6年1組の教室へ戻って来ている。間もなくホームルームが始まり、下校の時間だ。チャイムの音と共にランドセルと黄色い学帽をそれぞれの机に置き、担任教師の到着を待つ。
6年1組、と言っても、6年生は1クラスしかない。都会まで電車で30分程ではあるのだが、自然の中にある地域性のため住民は高齢者が中心だ。
進藤葵はこの学校から見える景色をとても気に入っていた。3、4階のどの教室の南窓からも、遠方にほんの少しだけ海が見える。そこから手前に視線を戻していくと、物心ついた頃から側にある、銀行や農協、教会、新しくはない民家、少し黄ばんだマンションなどの整列が広がる。その合間合間に木々や公園があり、遊歩道があって、4階の教室から見渡す景色はいつも絵画の様に佇んでいた。
葵は落ち着いた少女である。『大人びている』と言われることもよくあった。直毛のワンレングスの長い髪を、ゆるく後ろでまとめていて、身長も160センチを超えていたので、ランドセルを背負っていない時は高校生に見られることが多かった。
口数は少なく、快活ではないのだが、ここぞという時にリーダーシップを発揮し、誰もが頷けるような発言をする存在感は、クラスの中でも一目置かれるものだった。
彼女のランドセルにはいつもスケッチブックがあって、絵や物語を時間を見つけては小まめに書き綴っている。その知的な姿も、同級生の男子児童には密かな人気があった。
今日はそのスケッチブック以外に、彼女のランドセルには家に持ち帰りたい大切な物があった。これは他の児童たちも皆持っているものである。先ほど体育館で行われた、被爆体験者の方の体験を聞く授業においての資料である。葵は被爆体験者の祖母の、ひ孫にあたる。生まれた時からそれは側にあり、家族の背景の一つで、平和への祈りは日常風景の中にある。
戦後80年の節目から、戦争と平和を考える授業も増えて、先週は学校で平和記念公園へ行った。葵はクラスから選ばれテレビニュースのインタビューに答えた。予め推敲した文章であったが、語る時の気迫と、全く物怖じしない風格に、インタビューアーはいたく感心していた。
そうは言っても家では子供らしい面も見せるので、今日の出来事として先ほどの体育館の講話を、早く母に話して聞かせたかった。『みんなで語り継ごう』が母の口癖だ。
担任の吉田尚子先生が配布物を渡し終えて明日の持ち物などを確認すると、もう一度チャイムが鳴る。解散だ。葵が席を立とうとすると、先生は葵を呼び止めた。
「葵さん、実はあなたに会いたいという人が来ているの。校長先生の知り合いの方だそうで、お母さまには連絡して許可をもらっているし、終わったら私が家まで送るので、少しだけお話してもらってもいいかしら?」と、葵の目の前で両手を合わせ、頭を下げる。
葵は新任でお姉さんの様に優しい先生が好きだったし、頼られると引受ける度胸が相まって、『いいよ。』と即答した。母に話すのは夕飯の後で良い、と、少しだけ自身に我慢の魔法をかけた。
校長先生と共に教室に入って来た二人は、『県立大学の国語の先生と生徒さん』と紹介され、給食の時間のように机を四つ向かい合わせに皆で並べ、窓側に大学の先生と生徒さん、向かい側に葵と尚子先生となり、校長先生は入口付近の椅子に座り、笑顔で見守っている。
葵は最初に二人を親子かな?と思った。パーマの黒髪と、青い襟付きのシャツ、黒いズボン、やせ型の体形も、濃くも薄くもない顔や眼鏡も、まるでお揃いにしたかのようで、違うのは年齢だけに見えた。けれど、自己紹介では『六角正平』と『有田千弦』と名乗り名字が違うので、他人の空似ということのようだ。
葵は緊張していた。校長先生が見守っているし、普段、詩や物語を書くこともある葵にとって、『大学の国語の先生』は雲の上の様な存在だ。その緊張が伝わったのか、正平は黒いリュックサックから菓子折りを二つ取り出し、『お土産です』と微笑んだ。それぞれ原色の赤と黄色で、『キャラメル箱』と言われる上下に差し込みの蓋が付いた形状の厚紙箱に入っている。簡易贈答用の様相である。赤箱が直径1.5センチほどの球体のおかき、黄箱が輪の形で直径10センチほどの、これもおかきである。どちらも固い事で有名なお菓子で、丸の形状の方は特に固い。親指の先ほどの大きさで小さいのに、長い時間をかけて揚げるので水分が飛んで固くなるようである。『固い事で有名なお菓子』に校長も興味を示し、水筒を持ちより皆でまず小さな丸い方を試食する。バリバリ、ガリガリという5人の咀嚼音が教室に響き、葵は笑い出してしまった。大人達も自然と笑顔になる。
「どちらもこの神社で無病息災を願うお菓子で、米を揚げて作る固い菓子という意味では共通しているのですが、丸いものは疫病が流行った時期に打破出来る様にと生まれ、輪の方はもっと後に違う由来で生まれている。それなのにまるで兄弟のように仲良く、神様の二つのお菓子としてペアで売られていた…不思議だなぁ。」正平はそう言いながら、旅行記を見せる為、タブレットを取り出した。葵に良く見える様に持ち直して、輪の方のおかきの、店主が作っている場面のアップ写真を見せる。
「小さいチュロスみたい。」と葵が指さすと、正平も頷く。
「先生、『2』は自然界が好むそうですよ。確かにこの世界は対や2が多い。自然にペアになっていったのかもしれませんね。」千弦が真顔でおかきを口に放り込み、ボリボリと音を立てながら呟いた。
「2が良い、確かにね。補い協力し発展する2だ。葵さん、このおじいさんが店主さんなのだけど…。」と正平は画像を右から左へ流し、白髪で割烹着の男性がタブレット画面に現れる。
「91歳でも毎日、跡継ぎの娘さんと一つ一つこれを毎日作っているんだって。すごく固いけど、故に日持ちして、戦時中の保存食になったそうだよ。確かに…店内で作っているお菓子でこんなに日持ちするのは凄いなぁ…。」と3週間程先の賞味期限シールを見遣って言った。
「美味しいです。」と笑顔になる葵を優しい目で見つめながら、正平は画像を次々に見せていく。
「僕は役目を終えた建物を新しいコミュニケーションの場として再利用するような事業を見たくて、昨日旅をしてね、このお菓子の神社近くで…これは古い石造りの建築の銀行を、観光案内所として利用しているんだ。」西洋館のような白い石造りの建物には『信用金庫』という木の看板があるが、違和感なくカフェのメニュー看板も景色に溶け込んでいる。昔と今が混在し面白い、と葵は思った。
「こちらは建て替えなのだけど、最後に皆で思い思いに絵を描いたみたいだ。」
建て替え後のコミュニティスペースのイメージポスターが貼られた銀行のガラス壁には、色とりどりのサインペンで絵が描かれている。虹や、子供、動物。カラフルである。
『銀行のガラスの壁に思いっきり絵を描く』そんな素敵な場面に出くわしたかったと葵は心の底から思った。どんなに楽しいだろう。
次は大人が三人手を繋いで輪になって囲んでも、手が届かない程、太い大木と、その大木のおへそ辺りに生えている若い青い枝。まるでカンガルーの赤ちゃんのようだと葵は思った。正平はその木の奥にある、伐採された木の枯れていく美しさにも触れた。大木、新芽、枯れ木。現在と、未来と、過去が一枚にある自然の絵であった。
葵もすっかり二人に慣れてきたようで、緊張も解けてきたと判断した正平は、正平の心を揺さぶった少女の言葉を聞いてみることにした。
「ニュースの画面に小学校の名前があって、それが僕の小学校の同級生が校長をしている学校だと気付いたもので、葵さんに会ってみたくなってしまって、今日は無理を言いました。びっくりさせちゃったね、ごめんなさい。」正平が校長を見ると「お互いやんちゃだったもんだ」と校長は腕を組んで笑った。
「そういう、起こり得るけれど偶然では説明が出来ない不思議な出来事を、僕は大切にしているんだ。」その正平の言葉は、誠実さを帯びていて葵の心に響いた。
「核兵器の抑止力というものは、核に対しての核と言うよりも、国境付近の紛争や、侵攻を防いだり、そもそも相手にとって『敵』の選択肢に入れられない効果があって、国のリーダーはリーダーかるが故にリーダーなのであって、誰一人核保有国のリーダーはその世界が終わるスイッチを押すことはないであろう、そういう考え方の大人が多いと思うんです。色んな立場の人がいて、色んな考え方がある。一概に言えない、くくれない複雑な…。」
正平が葵の真っ直ぐな目を見つめる。
「でも、君の言葉を聞いて、僕は目が覚めました。本当にそうだ、核兵器は、自国の主張を押し通すための脅しだと、思いました。その鐘の音をくれた君の…考え方とか気持ちを聞けたらなぁと思ったんです。何でもいいから、お話してくれたら嬉しいです。 」
何でもいいと言われ、葵は正直なところ困惑した。気持ちを現した文章を作ることが好きではあるが、時間はかかる。でも、正平の気持ちに応えたかった。
困り顔でうつむいている葵の気持ちを悟った正平は、もう一度今度は輪の形のお菓子を勧めて、全員の咀嚼音が広がる。確かにこちらの方が柔らかい気がして葵は微笑んだ。きっとこの輪の方だけを食べたら、これ以上固いものがあるとは気付けないと思った。
正平は机上のランドセルの上にある葵のスケッチブックを見て『おや?』っと呟く。パステル画の虹と山々の上に、黒鉛筆で詩のようなものが横書きで書いてあった。
実は葵は『国語の先生』に自分の文章を見てもらいたくて見えるところに開いて置いたのだった。その複雑な心を推し量ったような優しい目で、『見て良いですか?』と正平が尋ねると、葵は『うん。』と頷いた。
一枚目のパステル画の虹と山々にある文章は、『そこで気持ちをかえよう そうしたら ちがうみらいがあるかもしれないんだよ』である。
二枚目からもパステル調の絵であるが、絵本の様になっていて文章と絵が連動している。登場人物はウサギとクマのようだ。
ウサギのぴょん太は いつもはぴょんぴょん歩くのですが、この日はゆっくりとしていました。
でも急いでいました。
お母さんが病気になってしまい、栄養のあるものが必要で、遠くのおばあちゃんの家まで、ハチミツを取りに行って帰ってきたところだったのです。
早くおかあさんに食べさせてあげようと丘をのぼっていると、向こうからクマのぷー助がやってきました。手に工具箱をかかえています。
『やぁ、ぴょん太。ぼく、これから川へ魚を取るためのしかけを作りに行くところなんだよ。』
『そうなんだ。ぼくちょっと急いでいるから、もう行くね。』
ぴょん太が行こうとすると、ぴょん太が持っているハチミツの瓶を見て、ぷー助は『ちょっとまって!』と言いました。
黄金に光るハチミツがおいしそうでぷー助はうっとりしています。
『ぼくにそのハチミツくれないかなぁ?』と足をバタバタさせました。
『これは病気のお母さんにあげるの。ごめんね。』と、ぴょん太が行こうとすると、ぷー助は工具箱から金づちを取りだしてふりあげました。
ぴょん太はびっくりして『なに!?』とさけびました。金づちをふりおろしたら、ぴょん太のあたまに当たってしまいます。
ぷー助は金づちをふりあげたまま、『なんでもないよ。ぼく肩がこっていて、これで今、自分の肩をトントンたたこうかなって思ったんだ。君より体が大きいでしょう?これくらい重くないと効かないんだよ』とトントン自分の肩をたたいています。
『そうなんだ、びっくりしたぁ。』ともう一度行こうとすると、また金づちをふりあげました。
今度はびっくりしたぴょん太は、ハチミツの瓶を落としてしまいました。
ハチミツの瓶はこなごなになって、ハチミツはあぜ道にしみこんでいきます。たまたま真下にいたテントウムシのドットも、瓶のカケラにさわってケガをしてしまいました。
ぴょん太は泣きながら『あやまってよ!』とさけびました。もうハチミツは道にしみこんでしまって、もとにはもどりません。ドットも飛び立てるか不安そうにしながら羽をたしかめています。
『ぼくのせいじゃないよ!肩をたたいてただけだもん!』ぷー助は金づちを箱に戻して、川の方へ走って行ってしまいました。
ぴょん太はドットを手の平にのせて家に帰り、泣きながらお母さんにことのしだいを話しました。
『お母さん、僕、ぷー助の家に行く!しかえしする!』
お母さんはベッドからなんとか起きだして、ドットの手当てをしながら『ダメよ』と首を振りました。
『しかえししたらぴょん太が悪くなってしまうし、しかえししたら、またしかえしされる。それのくり返しになってしまう。『ふのれんさ』にならないように、れんさの上にいるだれかが、くやしい気持ちをのりこえて、許し合わなくてはいけないの。そうするとその悲しい鎖はくだけて、みんなが笑顔になる未来がくるんだよ。』お母さんは優しくぴょん太のあたまをなでました。
『でもこのままじゃ、ぴょん太は弱虫だってみんなに思われちゃうよ?』とドットが言います。
そこへ仕事から帰ってきたお父さんが、ことのしだいを聞いて言いました。
『大丈夫。弱虫にならない方法があるよ?明日また、おばあちゃんの家に行ってハチミツをもらっておいで。それで、へっちゃらな顔して、『なんでもないやい!』って笑っていればいいんだよ。お母さんはそのハチミツで必ず元気になる。それも『へっちゃらでなんでもないやい』にちゃんと繋がっていくんだ。』
お父さんもそう言ってぴょん太のあたまをなでました。ぴょん太はお父さんの言う通りにしてみました。お父さんといっしょに、われた瓶のあとかたづけもがんばりました。
ぷー助はぴょん太が何も言ってこないので、ホッとしていました。
でも川のしかけはうまくいかないし、なぜかその日のうちに金づちはさびてボロボロになってしまったのです。
ぷー助の友達もぷー助をさけているようでした。いよいよお腹がへってきます。困り果てていたぷー助の家のドアを、ノックする人がいました。ぴょん太でした。
『これ、おばあちゃんの家からもう一つもらってきたの。』とハチミツの瓶を渡しました。
『あとこれは、おばあちゃんから教えてもらった、ハチミツの集め方だよ。』と、絵がいっぱい入って分かりやすい、『ようほう』をメモした紙をくれたのです。
ぷー助はぴょん太がこうしてくれた理由はわかりませんでした。でも、うれしくてうれしくて涙がとまりませんでした。
『おばあちゃんが、ようほうをするには、花やミツバチとも仲良くならなきゃいけないんだよ。って言ってたよ?』ぴょん太がそう言うと、ぷー助は何度も『ありがとう』とつぶやきました。
それから、ぷー助はみんなの協力で魚を取る良いしかけを作ることができました。ハチミツのお礼に、ぴょん太の家にも魚をいっぱい届けました。ハチミツと魚の栄養ですっかり元気になったお母さんは、両方を使ったお料理を考えるのに忙しくなりました。
終わり
読了した正平は、深呼吸と溜息の間の様な、深い息をした。
「…葵さん素晴らしいですね。千弦くんも読んでいい?」と葵の顔を見る。
葵は自分の書いた文章を初めて家族以外の人に見せて『素晴らしい』と言ってもらえた事に、弾ける様な心の躍動を感じていた。千弦や尚子先生、校長先生も『すごくいい!』と褒めてくれて、段々、手の中に宿る力の様なものを意識する。それを人は自信と呼ぶのだが、彼女がそれを自覚するのはもう少し経験を積んだ後になる。
正平はこの物語に、彼女に聞きたかったことの形を見た気がして、深く納得していた。あの時自分を揺さぶった彼女の言葉の深部に触れた気がした。納得出来たと言おうとした瞬間、葵は正平にこう告げた。
「先生…世界には、戦争をしたい人としたくない人がいて、それでもみんな、世界から孤立したくなくて、それぞれが、世界が納得できる、戦争をしなきゃいけない理由と、しないで済む理由を探していると私は思う。突き進もうとする人も、それでも独りは怖い。世界の目は怖いって、それが戦争を避けていけることに繋がっていくんじゃないかって私は思う。」
彼女は正平たちが絵本を読んでいる間、一生懸命、今の自分の表現を考えていたようだ。
「ありがとう葵さん、あなたは、とても素晴らしい人です。」正平は葵に深々と頭を下げた。机に額がぶつからないか、皆が心配した程だった。
「兎にも角にも、核がありそのスイッチがある限り、絶対に押されないという保証はない。この世界に絶対はないんだ。葵さんは、どうしたら核兵器が廃絶出来ると思う?」と千弦が首を傾けて葵に聞く。
「…みんなの『なくしたい』と思う気持ちが一つになる事かな…。」数分考えた後、葵はそう答えた。
「総意…。千弦くん、この前の発足会議で出た言葉だね?」と正平が問うと、千弦は頷いた。
「今この瞬間、世界に核兵器廃絶の賛否を問うと、『抑止力として必要である』と、否を表明する人の方が多いかもしれないですが、今、僕たちがやるべき事は、必要であると考える人の考え方を必要でないと考える方に無理に寄せる事じゃなくて、全世界の大切なその判断を仰ぐ為に、被ばくで祖先が負った深い心や体の傷を、知ってもらう事かなって僕は思います。」
正平は自身の心を確認するかのようにゆっくりそう語った。
「核兵器廃絶は、絵空事の泡沫のように、遠くて、果てしなく思えるけれど、廃絶を不可能から可能へ変えるのは魔法のステッキじゃない。廃絶への道を、何度も模索して、階段の形をしたパズルにピースを埋め込んでいくんだ。」と、千弦は哲学の様な言葉を絞り出して目を閉じた。
ここで初めて尚子先生が、穏やかな笑顔を浮かべながら発言する。
「世界から孤立したくない、独りは怖い、という気持ちは、みんなで合意して総意を出す、の中に含まれる意なのかもしれませんね?例えば、海水や雨水や飲料水、水であることは同じ、の様に、『みんなで気持ちを一つにする』の輪に、知恵の輪のように絡んで、重なっている部分がある。」
立ち上がり黒板前に立つ。二つの楕円を右端と左端が重なる様に描き、左が『みんなで気持ちを一つにする』右が『世界から孤立したくない、独りは怖い』とチョークで記入する。
「重なる部分が…接合点…。」と、千弦が、先日の発足会議の拡張熟議を語った雅彦を思い出して呟いた。
「うん、そういうところがきっと、ヒントなんですね。魔法ではなく、全世界から核兵器を廃絶出来る可能性があるのは、みんなの意見の接合点、我々人間の、ホモサピエンスとしての合意の総意、僕はそう思います…。」
正平のその言葉を聞いて、葵はビジョンを見た気がした。
地球という大きな星の上に、自分は浮かんでいる。そして重力に引き寄せられ落ちている。
その時、地の、それぞれの国から、それぞれの国旗が浮かび上がり、国旗のマークや背景の色がふわっと浮かび、国旗は最初の真っ白な布に戻る。その小さな白い布は集まって大きな帆の様になり、落ちてくる葵を受け止め、包み込むのだ。白いシーツの様な大きな地球の旗に抱かれて見上げると、それぞれの国旗が星の様にキラキラと輝き、やがて天の川を作る。虹のようにも見える。
「葵さん?大丈夫?」尚子先生に声をかけられ、我に戻る。
「うん。」と頷きながら、『今のビジョン、いつかきっと物語にしよう』と強く思うと、先ほど感じた手の中に宿る力の様なものが、ドクンと、鼓動を打った。それは葵の自信の礎となる、経験となっていく。
「みんなで気持ちを一つにする、の『みんな』に、動物や植物も入っているといいな。花も、虫も、鳥も、みんな、一生懸命生きている。突然に命を奪われてしまいたくないと思う。あの日の蝉も、一生懸命鳴いていたんだ…。」長い間土の下にいて、ようやく外へ出られた蝉の一週間を想い、葵は、窓の外に広がる青空を見た。
遠くに白い鳥が二羽、連なる様にして飛び、こちらへやってきては迂回する。その仕草がまるで『総意』への、参加の意思の様に感じて、葵はそっと、鳥たちに手を振った。
ー追記ー
話が終わり、校長に見送られて4人は教室を後にする。葵を彼女の自宅へ送り届ける為、尚子先生は車の鍵を取りに職員室へ戻っていった。正平と千弦、葵は一緒に階段をゆっくり下りていく。ここからの方が職員室より駐車場に近いので、ゆっくり行けば丁度、尚子先生と落ち合えるはずである。
階段の踊り場にある窓からも見える鳥たちを見て、葵は呟くように言った。
「…魔法があったらなぁ…。」
「え?」と正平が疑問符を投げかけると、葵は無邪気な笑顔でスペルを唱えた。
「この世界から、核兵器よ、なくなーれ!エーイッ!」
右手の人差し指を天へ突きあげて、今度は切なそうにしている。正平と千弦が、『魔法はない』と言った言葉の欠片が残っているようだった。
その時、急に千弦が階段の途中で足を止めた。
「あっ!」と叫んでから黙り込む。葵も正平も驚いて足を止め、千弦を見遣る。
「な、何?忘れ物ですか?」と正平が尋ねると、正平の目を見つめて、閃いた時の表情をした。
「先生!魔法ですよ!」
「ええ!?」
「核兵器廃絶の為に、魔法のステッキを作りましょう!!平和な感じで!!」
「えええええ!?」
千弦は現実的でクールな印象だったので、正平は彼の突拍子もない発言に目を丸くしていた。一方の葵は、顔を上げ顔を紅潮させている。
「帰り寄りたいところがあります、行きましょう!」千弦も何かが漲っている。
葵に走っちゃダメですよと怒られながら、三人は速足で階段を下りていく。
「じゃあ!」と千弦に引っ張られていく正平を見送る尚子先生と葵は、煙のように去っていく二人に吹き出しながら、こっそり感想を呟く。
「ほんとに、親子みたいだったわね、そっくり。…って言いたかった。」と尚子先生が笑う。
「そっくり!」葵も笑う。
青空を見上げながら、
「本当に魔法が使えたらいいのに!」と叫ぶ葵の手を、尚子先生はギュッと握った。
突拍子もない。しかし、葵の階段での魔法は、この後の大きな流れの始点になるのである。