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水嶋きみ・17歳 1945年8月6日 AM8:15 広島 

プロローグ

 1945年8月6日広島の朝は、気温26.7度、湿度80%、青空が広がり心地良い風が頬を撫でる、月曜日だった。真夏の蝉が声高らかに生命力を歌い、畦道を走る子供達の笑い声とハーモニーを作る。川に流れる水は清らかで美しく、底の底まで見通せる。陽光に輝く緑の木々。戦時下の食糧難でも、小麦粉を団子状にしたすいとんや、南瓜、さつま芋などでなんとか空腹をしのぎ、学徒は出征している男達に代わり軍事工場で部品を作り、大人の女性達は竹やりで的を突く訓練をする。

 水嶋きみは女学校の生徒である。お下げ髪を好み、はっきりした二重瞼が愛らしい、17歳の少女である。そうであるが、学校ではなく、『建物疎開』の為に学友や教師と共に屋外に居た。建物疎開とは、空襲での延焼を防ぐためにあらかじめ家屋を倒して壊しておくことである。縄をかけ、綱引きのように柱を人力のみでなぎ倒す。瓦をバケツリレーのように手から手へ渡すことで片付けていく。国の為に行動することは当然のことで、皆が団結して重労働を担っていた。きみも労働に対して疑いもなく、昨夜も空襲警報で一晩中防空壕の中にいて寝不足であったし、空腹であったが、手が擦り切れても瓦を運び、学友に笑顔を見せていた。

 瓦の片付けが半分終わった、その時だった。

 光った。強く光った。閃光が全員の頭上に瞬いた。

 気を失い、次に自分を自覚した時は異世界の中にいた。

 音がない世界。

 白い粉塵が舞う。瓦礫が散乱し、建物は全て吹き飛んでいて、赤黒い炎があちこちから昇る。

 髪の毛がちぢれ、全身が焼け焦げて、裸同然になった人が、赤黒い手を伸ばし、地を這っている。きみに向けて何か叫んでいる様に見えるのだが音の全ては聞こえない。無数にいる手を伸ばしこちらに這って来る人々は、眼球が飛び出し、体の一部を失ってもだえ苦しんでいる。

 赤子が黒焦げになって横たわっている。少年もいる。少年が真っ黒になり折り重なっている。

 私、私は、ときみが自分に意識を向けた時、急にそれは到来した。

 全身の焼ける様な痛み。痛み。痛み。

 背中を鞭で叩き続けられてる様な激痛。

 体の内側は細胞が火を噴きただれていく。

 この世に居られない程の虚脱感。何度となく吐く。

 「爆弾が落ちた?」きみは呟いたが、その自身の声も聞こえない。鼓膜が破れているからだ。

 痛みに絶叫しても、自分が叫んでいるかどうかも分からない。

 学友の姿も見つけられない。自分がどこにいるのかすら分からない。

 「お母ちゃん…。」

 泣きながら、痛みに悶えながら家の方向を探す。かろうじて残っている建物に、かつての姿を探して、なんとか家のあった場所へ、死に物狂いで戻る。

 家は崩れ落ち、母は下半身が屋根に押しつぶされた状態で仰向けに倒れていた。3歳の弟が母の手を引いている。母は弟の声でなのかは分からないが、きみの存在に気付いた。気付いて唇を嚙む様な仕草をして、大粒の涙を流した。

 「逃げろ!」と口の形が叫んでいる。弟の名も。

 迫りくる炎が、母を生きたまま焼こうとしていた。きみは自身の痛みを顧みず母を押さえつける屋根の柱を右手で押す。屋根は熱を持ち黒焦げていく。人が焼かれていく臭いが一帯に漂っている。

 母は両手で、母のものとは思えない程の力できみを突き飛ばした。後ろにいた弟と共に転がり、起き上がった瞬間に、屋根は崩れ落ち母の姿を飲み込んだ。

 近所の知人男性に後ろから抑えられ、引きずられていく。段々母から離れていく。離れていってしまう。絶望。

 きみの中に、あの家で暮らした17年間の幸福だった日々が浮かんでは消えた。戦地に居る父の顔、母、弟と、貧しいながらも笑顔に溢れて過ごした時は、もう永遠に戻らない。

 連れていかれた防空壕で、横たわれない密集の中、何とか場所を見つけ座り込むと、弟が抱きついてきて必死に何か訴えている。その口の形は「おなかがすいた」と言っているように思えた。

 弟の為に自分が何とかしなければと、思った時に斜めがけのカバンに、朝母が持たせてくれたふかし芋があることを思い出した。

 その時きみは、初めて自分の姿を見たのである。

 それはほとんど、爆発後にうごめいていた人達と変わらない。焼け焦げた衣服から半分見える肌は焼けただれ、カバンなどあるはずもなかった。

 ああ、でも、と、左のポケットに干し芋を忍ばせていたことを思い出して、左手で探そうとするが動かない。

 左手を見遣ると、肘の下から先は欠落していた。衣服で隠れた傷は骨が見え、もう二度と茶わんを持つことも、本を運ぶことも出来ないことを思い知らされた。

 朦朧とした意識の中で右手でポケットを探ると、干し芋があった。弟に食べさせて、その笑顔を見、意識を失っていった。弟の姿を見た最後だった。

 次に目を開けた時は、病院の床に寝かされているようだった。茣蓙一枚であるが、硬さや冷たさの感覚はもうない。顔の横に置かれた銀の深皿に並々と注がれた水に映る自分は、かつての面影はなく、左半分の顔面は焼けただれ、口元が腫れあがっている。吐き気と、腹痛と、だるさと戦いながら、何度も血を吐く。

 「私は死ぬのだ。もうすぐ死んでしまうのだ。」ときみは理解した。同時に悔しさがこみ上げた。

 教師になりたかった。そのために学んできた。戦争が終わったら、きちんと学校を卒業して、子供達に慕われる良い先生になる、そう思って、毎日を頑張ってきた。

 結婚もしたかった。母親になりたかった。

 もっと生きたかった。

 「私は何か悪いことをしたのだろうか。」こんなことになるほどのことを?

 新型爆弾だと聞いたそれは、私達を確かに標的にして放たれたのだ。人が人として最期を迎えられないような圧倒的な力を、ぶつけられなければいけない、私達はそんな存在なの?人ではないの?

 悔しい。悔しい。悔しい。

 涙を流しながら、「軍事工場で鋲を打った戦闘機は、学徒の未熟さ故に欠陥品が多いが、特攻だからそこまでもてば良いと」、上の人が話しているのを聞いてしまった場面を思い出した。

 「ごめんなさい…。」と唸る様に呟くと一層苦しくなり、咽込んで意識が遠のいていく。弟の名を呼び、ただ彼が生きのびてくれるようにと祈った。

 周りに何百人といる床の上で、きみは誰にも気付かれることなく、息を引き取った。

 

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