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第1話【目障りな現実】

十秒。いや、たぶんもっと短かった。だが、彼女が俺の名前を呼んだ、その瞬間だけは永遠だった。


「透さん、いつもありがとう。また来てくれて嬉しい」


榊しずくは、白いワンピースの衣装を身にまとい、満面の笑顔でそう言った。ライブ会場の照明の下で光を反射させた髪が、わずかに揺れる。その奥の黒目に、確かに俺は映っていた。


チェキを撮る音が、カシャ、と乾いた破裂音を立てる。二人で作ったフレームの中に、しずくと俺の笑顔が並ぶ。見慣れた構図。だが何度でも、俺はこれを手に入れる。


──この世界に、これ以上美しいものはない。まさに理想の推し。


チェキを手にしながら列を離れる。物販スペースの外で、静かに息を吐いた。今日の彼女は特に調子が良かった。MCのトーンも、ファンサの配り方も、全部「完璧」だった。


渋谷の空はすっかり暗くなり、湿った風がビルの谷間を抜けていく。俺はスマホを取り出し、Twitterの裏アカを開いた。


アカウントは10個ある。そのうち、榊しずく関連だけで6個を使っている。彼女の全動線、フォロワー、いいね、過去ログ、アイドルとの横の繋がり──それらはすべて、ここに蓄積されている。


通知が1件。彼女の友人アイドルがアップしたストーリーだった。俺は反射的にタップする。


居酒屋のテーブル。にぎやかな声。グラスを傾ける女の子たち。推しとその友人。そのグラスに微かに映る──黒い服の影。


そこだけ、何かがおかしかった。


ちょっとした違和感。画面をスクショし拡大する。


反射して映ったその影、薄っすらとだが彼女の左手が、その黒い影の者の手を握っているように見える。


瞬間、胸の奥で何かが崩れた。


画面を閉じ、指を止める。俺はしばらくの間そこから動けなかった。


……あり得ない。


彼女が、誰かと手をつなぐ?別の女の子だろうか?いや、あの影は絶対に男だ。


あり得ない。そんなの、絶対にあってはいけない。彼女は完璧な推しだ。神だ。そういうものは持ってはいけない。俺たちが与えるべきものを、他者から受け取るなど、冒涜だ。


──だが俺は、それでも、スマホを再び開いた。


画面の中の影。テーブルの配置、時計の位置と窓の角度。これだけで場所は新宿、店は「さかばちゃん」と特定できる。


同じ日に投稿されたこの店の写真を徹底的に探す。現代は便利だ。店の位置情報を付けて写真を投稿している人が山ほどいる。


ある写真から別の角度で撮られた黒い服を着た男の姿を見つける。


そこから、顔写真を切り取り、画像での検索にかける。


ミスターコンに出ている写真がすぐにヒットした。


やっぱりアイドルと付き合う男なら、それなりに有名な男だと思ったよ。


──名前:藤井理央。大学三年生。


──所属:啓生大学経済学部ゼミ。志望業界:広告、IT、商社。


ミスターコンのSNSをそのまま自分のアカウントとして使ってるな


フォローしている企業の一覧に、俺の勤務する会社の公式アカウントがあった。


「……へえ」


口の中で小さく笑う。俺の声は、誰にも届かない。


翌日、会社の資料室で、今期の採用パンフレットを見直す。


──うちの会社を志望してる可能性も高いな。


なら、タイミングを合わせるのは簡単だ。今週末、新宿で開催される就活セミナー。登壇するOB枠に、俺の名前は入っていた。


これは、偶然ではない。世界が、俺に与えた機会だ。


セミナー当日。


藤井理央は、俺に挨拶をしてきた。


「啓生大学の藤井と申します。プレゼン、すごく分かりやすかったです」


それはそうだ。君のつぶやきからどんなことが知りたいのかは事前にわかっていたからね。


「ありがとう。……君、商社志望?」


「はい。あと、広告とかITとかも考えてて……御社の広報部門にも興味があって」


俺は自然な笑顔をつくった。


「いいね。帰り、ちょっと時間ある?俺も若い子が何を考えてるのか興味あるし、もう少し詳しく話そうか」


理央の目が、一瞬だけ驚きに揺れたが、すぐに頷いた。


「……はい、是非!」


カフェの奥の席で、コーヒーを片手に彼の自己PRを聞き流す。


──声が軽い。姿勢に芯がない。自分の強みを定義できていない。けれど、だからこそ、導きやすい。


「ところで……彼女とか、いるの?」


不意に投げた問いに、彼はわずかに目をそらした。


「……え? あ、まあ、一応……」


「いいね。やっぱり仕事する上で彼女とかいないとモチベーション上がらないからさ」


理央は笑った。


「いや、でも彼女アイドルなんですよ。所謂地下アイドルってやつで……正直、あんまり彼氏としては応援できないんですよね」


「へえ……」


その声を聞いた瞬間、すべてが繋がった。


この男は──自分がどれだけ“価値のある存在”に触れているか、分かっていない。


ならば、やはり壊す価値がある。


「まぁ、彼女だけが女の子って訳じゃないしさ……社会人になるとさ、女遊びも仕事のうちって部分あるよ。俺も先輩に教えて貰ったけど、いろんな女の子と飲みに行くと人の扱い方うまくなるんだよな」


「マジっすか?」


「うん。あ、今度いいラウンジ紹介するよ。もちろん奢りでね」


「お願いします!」


理央は無邪気に喜んでいた。

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