②
コルネルが目を覚ましたとき、部屋には誰もいなかった。
天井は低く、柱は節だらけで、所々に刻まれた奇妙な紋様が影をつくっていた。
鼻腔に残るのは、焦げた木と土、それに何かの根を乾かしたような、乾いた匂い。
身を起こすと、すぐに身体が重たく軋んだ。毛布の中の肌には包帯が巻かれている。
手当てをされたことを理解するまで、少し時間がかかった。
部屋は狭いが、整理されていた。
棚には瓶が並び、箱には紙札が挟まれている。形の崩れた仮面や、目があるともないとも言えない偶像が、こちらを睨んでいるようにも見えた。
「……なにここ」
声は掠れていた。
だが、喉から漏れたその一言だけが、自分が生きていることを実感させた。
ふと、隣の棚の上に、奇妙な壺が置かれているのに気づく。
ぴくり、と動いた。――いや、動いたような気がしただけか。
その瞬間、奥の戸の向こうから湯気と、淡い香りが立ち込めてきた。
続けて、ぎしりと床を踏む足音。静かで、一定のリズムを刻んでいた。
「……起きたか」
現れたのは、昨夜の男――デイキャンだった。
コルネルの方を一瞥し、小鍋と大きな鉄製のカップを二つ、木の机に置く。
「朝飯。スープと、あったかいの」
言いながら、鍋の蓋を少し開ける。鍋の蓋を少し開けると、湯気がふわりと立ちのぼり、ハーブと根菜の香りが空気に混ざった。
それは見た目に似合わず、やさしい匂いだった。
コルネルは、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ毛布を手繰り寄せて、ぽつりと言った。
「……ここ、どこ?」
「俺の店だよ」
デイキャンは椅子に腰を下ろし、鉄製のカップから紅茶をすする。
コルネルはまだ身体を起こしたまま、部屋の奥を見回していた。目を止めた先には、干からびた手のような何かが飛び出している壺、奇妙な模様が走った仮面、そして唸るような音を発する瓶が並んでいる。
「……何を売ってるの?」
声にはまだ掠れが残っていたが、その目は警戒と興味の中間にあった。
「呪物だよ」
デイキャンはさらりと答える。まるで「干物」か何かを売っているような調子で。
「……ジュブツ?」
コルネルは小さく首をかしげる。知らない言葉を音で繰り返す様子は、年齢相応の幼さを残していた。
「うん。まあ、言うなれば――“いわくつきの道具”ってとこだな」
「いわくつき?」
「触っちゃいけない、見ちゃいけない、持ってるだけで呪われる、って言われてる類のやつさ」
コルネルは少し黙ってから、ぽつりと訊いた。
「……なんで、そんなの売ってるの?」
デイキャンはしばらく紅茶をすする音だけを残して、それから肩をすくめた。
「それは、まあ。色々あるんだよ」
「俺の店のことは、どうだっていいんだよ」
デイキャンはひと息ついて、紅茶を飲み干すと、ふと視線を向ける。
「お嬢ちゃん。あそこで、何してたのさ?」
しばしの沈黙のあと、コルネルがぽつりと口を開いた。
「コルネル」
「ん?」
「コルネル。私の名前。お嬢ちゃんって呼び方は嫌。……小馬鹿にされてるみたい」
その言葉に、デイキャンは目を瞬かせた。
驚いたというより、少しだけ面倒くさそうな、けれど相手を無下にはしないような、そんな目だ。
「はあ、そうかい。……でも、まだ子供じゃないか」
「人間と一緒にするな」
コルネルは、ふいと顔を背けるように言った。
声は静かだが、胸の奥から押し出されたような重みがあった。
デイキャンは肩をすくめ、少し視線をずらして彼女を見やる。
そこでふと、目についたのが、彼女の額――
「……角、折れてるよ」
それは、本当に何気なく言ったつもりだった。
だがその一言に、空気が凍るような気がした。
コルネルは、目を見開いた。
指先が額へと伸びる。
ゆっくり、確かめるように、震える手で触れた先に――そこには、かつてあったはずの“もう一本”の角が、なかった。
「あ……」
呟きが、ひとつだけ零れた。
その瞬間、毛布の裾をぎゅっと掴んだ手が、白くなるほど力を込めていた。
彼女は言葉を続けなかった。
「……家も、仲間も……角も、失った」
少女はそう言って、ひと呼吸、静かに息を吐いた。
吐息は熱を帯びて、紅茶の湯気と重なるように宙にほどけた。
デイキャンは湯気越しに彼女を見ていた。
それから、淡い調子で言った。
「……角は、まだもう片方、あるじゃないか」
コルネルの睫毛が揺れる。
ふと目を上げ、その目にわずかな棘を宿す。
「黙れ。……お前には、分からない」
言葉はささくれ立っていた。だが、その奥にあるのは痛みだった。
押し殺すように閉じていたものが、ゆるやかにほつれていく。
その瞬間――
彼女の中で、誰かの姿が浮かび、そして沈んだ。
声。
ぬくもり。
背に感じた手の重み。
今はもう、手繰ろうとしても届かない。
「……私だけが……生き残ったって……」
それは泣き声ではなかった。
ただ、濡れた声だった。堪えきれずににじんだ言葉が、そっと床に零れた。
デイキャンは椅子の上で、カップを傾けた。
ゆっくりと、耳を澄ますような動作だった。
「……何にせよ、冷めないうちに食べな」
「……あんたの家では、スープは冷めてから食べるのかい?」
少女は涙を拭った。
目の奥にはまだ澱のような影が残っていたが、口元は少しだけ緩んでいた。
「……ありがとう。えっと……」
「デイキャンだ。お嬢ちゃん」
「コルネルだ!」
今度ははっきりと、語尾を跳ね上げた。
その言い方が妙に気に入ったのか、デイキャンはふっと鼻を鳴らして笑った。