①
風が止んだ。
木々のざわめきが遠ざかり、鳥も、虫も、息を潜めた。
森の奥――濡れた土に根を這わせる大樹の陰に、小さな影がうずくまっていた。
薄汚れたマントが、湿った地面に広がっている。身体は小さく、小刻みに震えていた。
男は歩みを止めた。
背に大きな背嚢を負い、右手に持つ杖で草をかき分けながら、鋭い目をその影に向ける。目だけが、曇りなく澄んでいた。
「……おや」
男――デイキャンはゆっくりと膝をつき、静かにマントの端をめくる。
現れたのは、角の折れた少女。魔族だ。年齢は定かではないが、姿は五つか六つほど。髪は泥にまみれ、袖には乾いた血。
だが、その目だけは、見つめ返す力を失っていなかった。焦点は揺らいでいたが、どこか誇りのようなものが滲んでいた。
デイキャンは、少しだけ、眉を上げる。
「…触んな…」
少女がかすれた声で言う。唇の震えは、寒さのせいではなかった。
「なあに。ちょっと気になっただけだよ」
男は肩をすくめ、背嚢を下ろした。湿気を吸った布切れ、水筒、そして微かに温もりを残すパンを取り出す。
指先が迷いなく動くのは、こういう場面に慣れている証か、あるいは――。
「穏やかじゃないことくらい、見りゃ分かるさ。ほら、遠慮すんな」
水筒とパンを少女の前に差し出す。
少女はしばし動かない。視線が揺れ、手が伸びかけて、止まる。
そして次の瞬間、音もなく、崩れるようにデイキャンの胸元へ身体を預けた。
震えていた。
デイキャンは何も言わず、額に手を当てる。熱があった。
柔らかく、火照った肌。傷は浅くない。だが、もっと深いところに傷を抱えているのは、明らかだった。
「……ついてるな、嬢ちゃん。今日は良い薬草が採れたんだ」
声に、どこか照れのようなものが混じる。
少女はもう意識の境を行き来していた。
デイキャンは軽々と彼女を抱え上げると、再び森を歩き始めた。
夜が、森の奥から少しずつ降りてくる。
空はまだ藍色のまま、ひとつも星を灯さず、ただ黙って二人を見下ろしていた。