休み時間
スピーカーが空気を揺らし、台に立つ大人が空気を揺らすのを止めた。休み時間。トイレに行ってもいい、水を飲んでもいい。何をしたっていい時間だ。だから、男子達が黒板の前で突如英雄と化し剣戟を始めても、なんらおかしなことはないのだ。
チャンバラ、というよりも「戦いごっこ」に近いだろうか。ごっこ遊びの本質はコミュニケーションだ。非言語的、非視覚的なルールや価値観を共有し得ないと遊びが成り立たない。どの様な力加減で、どの様なスピード感で、どの部位を叩くことが許されるのか。相手の射程はどれくらいあるのか、その刀にはどの様な属性が付与されているのか。どれくらいの攻撃を受けたらダメージが入るのか。そんなことをいちいち事前に相談なんてしない。「ズシャー」と「スパッ」では切り口が違うことを肌感覚で理解できない奴は淘汰されていくのだ。彼らは別にひっぱたたき合いたい訳ではなく、闘いの中の物語を嗜んでいるのだから。
幼い子ども達のごっこ遊びを見てみると、遊びではなく、ただのやりたいことの押し付け合いになっている場面が見られるだろう。だがそれでは結局、面白くない。そういう経験通して人は大人になるのだ。因みに、ごっこ遊びのハードルを一段下げてくれる頼もしい仲間が、皆大好きヒーローだ。特に「○○ごっこ」と作品を固定すれば、共通の認識を0から構築する必要がなくなり、格段に遊びやすくなる。まあそれでも、必殺技の叫び合い大会になること方が多いのだが。
とにかく、それくらい高度な遊びなのだ。「高校生にもなって何やってるんだか」という感想は抱くまい。そんなことよりも、ウズウズが止まらない。戦況はもはや決着寸前。膝立ちの男とそれを見下し嘲笑する男。正義の味方と言えば聞こえはいいが、要は判官贔屓。弱者には悉く救いの手が差し伸べられるべきであるというのが、持論だ。当然、駆け出していた。一歩を踏み出し、加速し、机を飛び越え、二人の間に割って入り、悪党と対峙した時にはもう、15cmのプラスチックは聖剣へと成っていた。すると、ご都合展開で介入した助っ人がもう何百回も聞かれたであろう問いを、強者は斜に構えず口にしてくれた。
「貴様、何者だ……」
今度はこちらのターンだ。敬意を払ってくれた彼には、こちらも最大の敬意を持って応えるべきだ。今、一番この場に相応しく、一番滾る言の葉を紡がなくては。目を閉じ、呼吸を整え、一度小さな勇者へと目を向け、向き直り、口を開く。
「数学の、先生だ」
台に大人が立ち空気を揺らし、スピーカーもそれに続いた。休み時間は、やっぱり短い。
おしまい。