雨の中で
ディックランゲアとリアリです。
エンデュミニオン――
その日は夕方からスコールになった。
ディックランゲア王子が城下町の元・アンビヴァレント跡地で石竜を見上げるように立つリアリを見つけたとき、もっとも雨脚が強かった。
瓦礫の山はすっかり取り除かれていた。
いまは巨大な石塊が鎮座するのみ。
神がひどく機嫌を損ねているような激しい降りで視界は遮られ、雷鳴は鼓膜を抉るように重く轟き、時折真っ白な稲妻が鋭い閃光を放った。
午後も遅くなってから、ようやく身体の空いた王子がリアリを訪ねると、留守だった。
行き先は不明というので、ひとを使い城のあちこちを探したが見つからず、そうする間に雲行きが怪しくなった。
嫌な予感がして、外出用の仮面とマントだけ身につけ、厩から轡と手綱と鞍をつけた愛馬を自ら引き出して、周囲の制止をものともせずに跨ると、一気加速して城を出た。
「リアリ殿!」
ディックランゲアはリアリのすぐ脇で馬を停止させ、飛び降りるなり、ずぶ濡れのリアリのもとへ駆け寄った。
「なにをしているのだ、あなたは!」
雨にうたれるがままになっていたためか、顔色は蒼褪めて唇が紫に変色している。
ディックランゲアは羽織っていたマントをリアリの頭から被せた。
「風邪を患う。城へ戻ろう」
だがリアリはびくともせず、虚ろに煙った眼を石竜より動かさなかった。
沈黙のあと、ややあってリアリが口をひらいた。
「……エンデュミニオン、と言う名を王子はご存知ですか」
「……エン、デュ……?いや、知らぬ」
「私は知っている……よく知っている……なのに、その名が誰のもので顔がどんなだったのか、憶い出せないの。忘れてはいけない名前だったような気がするのに……憶い出せないなんて……ここへ来れば、この石が教えてくれるような気がしたのだけれど……」
「とにかく、話ならば城で聞く。このままではあなたが倒れかねない。肩もこんなに冷え切って――」
どきっとした。
稲光に照らされたリアリはこの世のものでないくらい美しかった。
髪の先端から雨を滴らせ、色彩を欠いた美貌は彫像の如く整い、いつも漲る清輝は陰り、儚げで、頼りなく、いまにも消え入りそうだった。
このまま抱き寄せてしまいたい衝動に駆られる。
だがそれは、弱っているところにつけ込むようで、卑怯な気がした。
否、いっそつけこんでしまえばこれを機にもっと親密になれるかもしれない……。
己の心に葛藤しながらも、ディックランゲアは結局、自制した。
リアリの肩においた手を、苦慮の末ひきはがし、僅かに距離をおく。
ディックランゲアは自嘲気味に笑った。
「……だらしがないな、私も。千載一遇の機会だろうに……だが、やむをえまい。私はいつものあなたの方が好ましい。リアリ殿、なにがあったかは知らないが、しっかりしたまえ。あなたがそんなふうでは皆も心配する。ラザ殿やカイザ殿だって――」
「……ラザ?」
ぴくっ、と眉が動く。
眼に、たちまちのうちに気力が満ちていく。
擡げていた首を正しい角度に戻して振り返ったリアリの顔つきは、しっかりしたものだった。
「ラザ、戻ったの? 千里眼を捜しに行くからしばらく留守にするって言っていたのに」
「それは知らなかった……いいや、ラザ殿はここにはいない」
眼に見えてがっかりした様子のリアリの心が別な男のもとにあるのに、ディックランゲアは嫉妬した。 嫉妬した自分に驚いた。
こんな感情とはまるで無縁に生きてきたので、自分が自分でないような気さえする。
「それで、王子はなぜここに?」
「あなたに話があって探していたのだ」
「話?」
「込み入った話だ。本当は父上やリーハルト叔父貴の口から説明するのが筋とは思うのだが、二人に談判しても一向に埒が明かぬ。のらりくらり、なんのかんのと理由を上げて逃げている。だから、せめて私が知っていること、わかっている事実だけでも早く知らせるべきではないかと来たのだ」
「聞くわ」
リアリが仁王立ちとなって腕を組む。
ディックランゲアはぱちくりした。
「まさか、いまここで? この――大雨の中で?」
「これだけ濡れてしまえばあとはいくら濡れても同じことよ。それに、王子の気が変わらないうちに聞いておきたいわ。だいたい、この石も関係ある話でしょ? だったら、いまこの場がいい。さあ、聞かせてちょうだい」
ディックランゲアは観念した。
言い出したらきかない気質は、王弟リーハルトにそっくりだと思った。
「わかったから……ではせめて、風下に立って私を風除けにしてくれ。マントも被らないよりはましだろうから、もっときちんと頭を覆いたまえ」
リアリは逆らわなかった。
二人の距離が詰まる。
ディックランゲアは懐に囲うようにリアリを庇いつつ、溜め息をついて、自己抑制を強いながら口を開いた。
「私の知るところはそう多くはないのだ。だが、知っていることをごく簡潔に説明しようと思う」
「ええ」
「私とあなたの婚約についてだが、これは王家の血の純血を保つために他ならない。そもそも王家は近親婚が義務づけられている。そのために段々子供が生まれにくくなっているらしいが、それでもこの掟が守られているには理由があるのだ」
「どんな」
「……いまから言うことは、王家の秘密に関わる。悪戯に広めないと、約束してほしい」
リアリが頷く。
「王城には秘密の間があって、そこに或る書物が納められている。その秘密の間の存在も、書物の存在も、歴代の王とその後継者のみが知らされている。書物の名は、“真実の書”」
「……“真実の書”、ね。意味深なこと。なにが書かれているの?」
「わからない」
ディックランゲアは刺々しく尖るリアリの眼をなだめるように見つめた。
「秘密の間の存在は知らされていても、入室が許されるのは資格を持った王だけなのだ。即ち、“真実の書”に関わりのある人物と、共に手を携えた王もしくは次期国王のみ」
「……なんだか先が読めたような気がするわ。私相手にその秘密を暴露するってことは、つまり私が関わっているのね? じゃ、その“真実の書”に関わりのある人物っていうのは、二十一公主を指すということ?」
ディックランゲアは固い面持ちで頷いた。
「でも、それと王家の純血とやらがなんの関係があるの?」
「秘密の間には、封印がなされている。封印を解くには王家の純血を受け継ぐ者が必要不可欠なのだ。故に、歴代の王位に就くものは直系の血を残すために苦心してきた。私も、例外ではない。いま王家に私と釣り合いのとれる直系の姫はあなたしかいない……あなたでだめならば、あなたの母上が私の子供を産むことになる」
「まさか」
「本当だ」
「非人道的だわ!」
「だから重婚という制度がとられている。愛のない結婚を強いられ、直系子孫を残す代わりに、別の相手との結婚が許されている。その相手とは子供をもうけても認知はできるが王籍にはいれられず、無論王位を継ぐ資格はなく、墓所も別だが、ただ、愛するものと暮らすことはできる……王家の暗部だな」
雨の帳がリアリの微妙な表情を判読しがたいものにしている。
だがどんな顔をしていてもきれいだ、とディックランゲアはひそかに見惚れていた。
「そんなにまでして隔離されているなんて……その書物にいったいなにが書かれているの」
「いずれ、知ることになる。あなたにはその義務がある。あなたを連れていくのが父か私かはまだ定められていないが……そう先の話ではない」
ディックランゲアは雨にしとどに打たれる巨大な石塊を見上げた。
「それに、このアッシュも然るべき地へ送らなければならない。あなた自身も早いうちに一度足を運んだ方がいい。もしかしたらもうどなたかいるかもしれない」
「……なにをどうして私がどこへなんですって?」
王子はおもむろに東の彼方を指差した。
「石竜を飛ばして、あなたも行くのだ。約束の地ペトゥラへ――そこで他の公主の転生体が待っている」
リアリが眼を白黒させ、次から次へと展開する事態の打開を図るため必死に思考をまとめている最中に、ディックランゲアは深呼吸をした。
顔つきと声が、若干変わる。
「ところで、あなたはなぜ赤ん坊のみぎりにキースルイ殿とルマ殿に預けられたかご存じか?」
リアリがかぶりを振るのを見て、王子はちょっと言い澱んだ。
「私も人伝えに聞いた話なのだが……十九年前、あなたが生まれたとき、千里眼の予言が下りた。予言の内容について詳しく聞きたいのならば、ご両親に訊くといい。いまここで私の口からは話せない。だがそのときを境に千里眼は行方をくらました。その所在は私も知らない……ラザ殿が捜されているようだが、簡単には見つかるまい」
「そう……」
「予言のこともあるが、その件を別にしても、お母上に会ってみては? いや、私が口を出すべきことではないかもしれないが……その、まだ会ってないのだろう? 相互理解のためにも、いっぺんきちんと話をした方がいい。私も……あなたとのことを挨拶したい」
「それは……まだ心の整理がついてないの。って、ちょっと待ってよ。私との、なんのことよ」
「婚約者として改まって挨拶に伺うのは礼儀だろう」
「認めた覚えはないわよ」
「では認めてくれ」
「絶対いや」
「……そう言うと思ったよ。まあいい。私は気が長いからな、前にも言ったと思うが待つことにする。だが、おとなしく黙っては待たないからな」
「なにをするつもりよ」
「口説く」
ディックランゲアはリアリに視線をぶつけて宣戦布告をした。
「あなたを口説くことにする」
たじろいだリアリの手首を、反射的にディックランゲアは捕らえた。
細い、と思った。
雨が小降りになって来た。
ディックランゲアの声は緩んだ雨音に滲んだ。
「……逃がさない……」
それぞれの眼が、一点を向いてきました。
次話、場所を砂漠に移ります。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。