この身を呈してでも
この小話は地味でした。
もしも愛する者が誰かと問われたならば
迷うことなく、それはラザだと答えることができる。
けれど
そのために他の一切を捨てることができるかと訊かれたら
私は迷うに違いない。
或いは
命を犠牲にしてまでも愛されたならば
自分だけ幸せになるという選択を
果たしてできるものだろうか。
リアリは途中道で拾った旅行者向けの“ローテ・ゲーテをよりよく愉しむためのこれだけは知っておきたい法律”が明記された一枚の紙を眺めていた。
ローテ・ゲーテ三大法律
一、お年寄り(六十歳以上)と子供(十四歳以下)を大切に
二、双頭の巨人と二十一公主への忠誠
三、愛に忠実であれ
ローテ・ゲーテ結婚の四大法律
一、国籍不問、多夫多妻制、但し、皆平等に扱わなければならない
二、離縁は個人不可、全員と別れなければならない
三、再婚は同一人物とは不可
四、結婚対象は同性不可、十五歳以上五十九歳までとする
他、注意事項
一、 酒は飲めば飲むほど徳が高い。ひとの酒を断るなかれ
二、 道義に反する行為は十五歳以上五十九歳までとする
三、 聖典か剣か降伏かと問われた際は注意せよ(訳・敵か味方か金か)
四、 旅人への親切は人物を見極められること多し
五、 国籍問わず、すべての犯罪行為はローテ・ゲーテの法律に則って処断される
リアリの眼は、“三、愛に忠実であれ”という一文に吸い寄せられて止まっていた。
そこへ、名が呼ばれる。
「リアリ・ダーチェスターさん、どうぞこちらへ」
案内されるがままついていって通された部屋は茶と赤で統一されていた。
絨毯も天井から垂らされた布地も四角く配列された腕枕や座布団も、水差しや骨董、砂絵や小卓も、すべてがあたたかみのある色合いである。
最長老は部屋の一番奥に静かに胡坐をかいて座していた。
最長老マルス・フォーオーンは人好きのする微笑を浮かべてリアリを手招きした。
「お久しぶりでございます、リアリ・ダーチェスターです」
リアリは深々と礼をした。
仮面を外して脇へ置く。
「今日はどうしたね?」
「お願いがありまして参りました」
「ほっほう。そなたのような若い娘が眉間に皺を寄せてなにを悩んでいるのかね」
「義務についてです」
言って、リアリは声を抑制した。
できるだけ感情を排した口調を整える。
「王家の、王族の義務は血を護り、国を守り、民を護ること。祖先を敬い、双頭の巨人と二十一公主に忠誠を誓うこと。民の義務は、王家が義務を果たす限り、王族を護り、ローテ・ゲーテを一切の侵略から守ること。二十一公主の義務は、契約により、双頭の巨人と共に来るべき滅びの竜との決戦のために備えること。覚醒の後は、かの敵を打ち滅ぼすために一命を賭すこと。聖徒殿の義務は、王家の敵を抹殺すること。ひいては王家を護ること。そして城下町の民の義務は、王家に服従すること。その真偽・善悪に関わらず王命を遂行すること。これで、間違っていませんか?」
最長老マルスはゆっくりと首肯した。
「概ねは合っておる」
「どこか違うところが?」
それには答えず、
「さてさて、それで? 嬢のお願いとやらを聞こうか」
「私のことは、もうお聞きお呼びでしょう?」
リアリは声も顔つきも自然と険しくなるのがわかった。
「色々と調べてみて、考えました。まだ判明しないことがたくさんあって思考が追いつかないのですが、手遅れになる前にしておかなければならないことがいくつかあったので、そのうちのひとつをお願いに参りました。どうか、もうしばらくラザを連れていかないでください。聖徒殿主長になど任命しないでください。お願いします」
「それはこのわしにはどうにもできないことだ」
リアリはかぶりを振ってその言を否定した。
「カスバの民は、王家に服従する。聖徒殿は、王家を護る。そして聖徒殿を卒殿した者は王家を護る職に就く――このカスバにて。そうした密接な繋がりがある以上、カスバの最長老である御方が聖徒殿に無関係なはずはないです。そして王家を護ることを大前提とする聖徒殿主長が守るものならば、それは王家が守るものを護っているのでしょう。だったらそれは、王家の秘密、もしかしたら二十一公主にも関係があるかもしれません。王家は、その血脈を護るため近親婚を繰り返してきました。多夫多妻制が設けられたのも直系の血を残すがためのようです。そうしてずっとなにかを守ってきた……私だってローテ・ゲーテの民です。王家を、国土を守ります。でも、普通に幸せにもなりたい」
「普通に、どう幸せに?」
「好きなひとと結婚して、家族と友達と皆一緒に仲良く暮らすんです」
リアリは最長老に決然と眼を据えた。
「私が二十一公主ジリエスター公の転生体で滅びの竜と闘う運命にあるというなら戦います。他にも聖徒殿主長が守っているものがなんであれ、王家の秘密がどうであれ、できることがあればやります。私が動きます。ラザを巻き込まないでください。ラザに手を出さないで。なにもしないで。どうかそう聖徒殿主長にお伝え下さい」
そうしてほとんど一方的にこの会見を打ち切って、リアリは仮面を手に踵を返した。
お願いと称して、その実は脅迫にも似た凄みのあるリアリの剣幕は最長老マルスを久方ぶりに愉快な気分にさせた。
「……まったく、なかなかどうして健気な娘だな」
「おや、いつの間にそんなところに」
物陰から猫のようにするりと姿を現したロキス・ローヴェルはわずかに口角を上げた。
「挨拶が遅れたが、顔を出したところへこれだ。おかげで面白いものが見られた」
「若者の青い熱い気概は胸がすっとしますな」
「ああいう情の深い娘は、愛する者のためならば我が身を惜しまずなんでもやるだろうな」
「リアリは昔からそうです。ほんの子供のときからラザとカイザにはよく懐いて……またラザとカイザも可愛がりましたからね。いつも三人一緒でしたよ。特にあの拉致事件があってからは三人一緒でないときの方が珍しいくらいでした。まあそのあと、ラザは聖徒殿に出仕を決め、カイザはわしのもとに弟子入りしたので離れ離れにはなりましたが、それでも仲のいいのは変わりませんでしたな」
「……普通の幸せ、か」
ロキスはマルスの真向かいに座って、持参した酒を突き出した。
マルスは無言で酒器を用意し、酒を酌み交わした。
「与えられるものならば与えてやりたいですな」
「ふ。そなたはどこまで知っているのやら」
「わしが知っていることなどほんの僅かな事実でしょうな。ただ、それでも、わしらの日々の生活が尊い犠牲の上に成り立っているということはいくぶん承知しております。一番身近な友が、聖徒殿主長なんてたいそうな身の上になったとき、わしもあいつも覚悟を決めました。いつかそのときが来るまで、お互いやり抜こうと。そのときが来ても、互いの務めを全うしようと。ごく最近までは、もしかしたらわしが生きているうちにそのときは来ないのかもしれないと半ば安堵、半ば拍子抜けしていたところへ、あなたが来たと知らせが入った」
「がっかりしたか」
「いえ、とうとう来るべきときが来た、と思いました。やはりそのときはもう間近なのだと。しかし、肝心のリアリが目覚めないことには……」
「まもなく皆が集う。そうすれば自ずと眼を醒ますだろう」
ロキスは静かに献杯した。
「再会を祝して――我らひとの未来のために」
少しずつ、物語の骨格が見えてきました。
さて、次話はエルジュの出番です。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




