懐かしい瞳
いきなり流血沙汰。
ラザやカイザとはまた違った意味で、危険です。
ひゅっ、と一陣の風が唸ったかと思いきや、鮮血が噴いて、カイザとエイドゥが無言で倒れた。
背に袈裟がけの傷があり、じわっと、血が滲む。
「あれ? 二人だけ?」
赤ずくめの男が「まいったなあ」と呟いて頭を掻く。
「僕の魔法が利かないってことは、対絶対魔法防御システムが稼働しているか、その類のアイテムを持っているんだ。困ったなあ。どうしよう」
リアリはラザを凝視した。
聖徒の聖服聖帽は魔法の影響を受けない。
その事実に救われたようだ。
ラザは無傷だった。
だが、カイザは深手を負って、赤い血溜りの中で倒れ、ひくついている。
衝撃から醒めて、ラザの面がすう、と凍る。
眼が虚無を宿し、まったくの感情を欠いた声が死を宣告する。
「死になさい」
ラザの手に白刃が閃く。
白い袖を風の形になびかせて、ラザは赤い衣の男を襲った。
リアリも一瞬遅れて思考を沸騰させた。
強烈な殺意が芽生える。
「よくも、カイザを」
低い囁きを漏らすと同時に持ち上がったリアリの右の踵がルクトール王の足の甲を強く踏みつけた。
渾身の一撃に、拘束していた腕が弛む。
その隙に肘鉄を鳩尾に加え、タウブの袖口に仕込んでいた細身のナイフで男の首筋を狙った。
ルクトール王は身体を反らせて間一髪、頚動脈切断の危機は免れた。
だがナイフの切っ先は避け切れず、顎から額にかけて一条斬りつけられた。
血が滴る。
驚いた様子で、リアリを眺め、指で流血を確認すると、あろうことか笑った。
「ははははははははは! あっはははははははは! これはいい! なんと果敢な、獰猛な娘だ。その燃えたぎる眼――怒りと憎悪はその男どもが故か? それほど重要なのか? おまえを愛してやまない、この私の命を狙うほど?」
「余計なおしゃべりはいいわ。死んでよ」
「ふむ。今生のおまえは、随分激しい気性だな。よいことだ。邪魔者は消す、私の妻に相応しい」
「誰が誰の妻よ。たとえあんたが本当に私のよく知らない知り合いでも、カイザと比べものになんてならないわ。カイザの仇、討ってやる」
「弱ったな……おまえの手にかかって死ぬというのは限りなく本望なのだが、まだ早い。その情熱は思う存分愛を交わしたあとで味わいたいものだ。と、お断りしたいところだがね、どうもこのままではおまえに嫌われそうだ……」
リアリは憎悪に狂った眼で激しく睨んだ。
怨嗟をこめて憤りながら、吐き捨てる。
「もうこれ以上にないってくらい嫌いよ。ラザとカイザを傷つけるなんて、許せない。許しやしない。誰であろうと、例外はないわ。絶対の絶対に始末する」
「……刺せば、気が済むか?」
その手があまりにも無造作に伸びたのでリアリは咄嗟の対応が遅れた。
リアリのナイフを握ったままの手首をルクトール王は掴み、そのまま己の腹部に押しあてた。
刃の尖端が吸い込まれる。
「それとも、抉れば?」
リアリの手首が強く捻られる。
ナイフの柄からは血が滴り、二人の合間の足元には早くも血溜りができつつあった。
ルクトール王はさすがに顔を顰めながら、それでもまだリアリの手を解放しなかった。
「……私を嫌うな。おまえに嫌われたら私は困る。私は王ゆえ謝罪はできぬ。だが、おまえの気が済むまでこの身を傷めつければよい」
「……あの赤ずくめの男を止めてよ。ラザと互角に戦えるなんてただものじゃないわ、このままだと、もっとひどいことになりそう」
「――ヒューライアー、もうなにも手を出すな」
「ええええっ。中途半端だよ! 中途半端は気持ち悪いよ。でも、うん、わかった」
リアリの手を押さえるルクトール王の手は震えていた。
美貌は血の気が失せ、青紫に歪んでいる。
黒い瞳は、しかしまだ強靭な意志を示していた。
「おまえのまわりの男はすべて始末したかった。しかしそのためにおまえに嫌われてはかなわない……まさか、これほどまで深く他な男に心を奪われているとは……私のことは忘れたのか……?」
細められた黒い瞳に吸い込まれそうになる。
リアリを引き戻したのは、ディックランゲア王子の声だった。
「しっかりいたせ! いま医者を呼びに行かせた。気を失ってはならぬ!」
王子とレニアスがカイザとエイドゥの介抱に懸命にあたっていた。
政務官の姿がないのは、医者を呼びに行ったのだろう。
ラザはヒューライアーを既に昏倒させていた。
あとでじっくり処分するつもりなのか、暗殺者の眼ではなく拷問使の眼になっている。
リアリは、手元のナイフを引き抜こうかためらった。
抜けば、死ぬだろう。
さっきは殺すつもりだったが、いまは迷っていた。
この眼を、やはり、知っている……。
いつ? どこで?
生温かい血の感触と鉄の錆びたような血の臭いに思考が乱される。
そこへ、場違いなほど屈託ない明るい声が飛び込んできた。
「久しぶりの故郷への帰還だってのに、さっそく仕事とはついてないねぇ。ほら、どいたどいた。医術師様のご登場だよ。怪我人はどこだい。っと、カイザとエイドゥじゃないか。ああ、随分ひどくやられたね。ばっさりじゃないか。こりゃ、すぐに縫わないと――おや、リアリ、そっちもなんだか取り込み中だね。死なせたくなきゃ、抜くんじゃないよ。殺したいなら、抜いちまいな」
「――レベッカ」
リアリはもっとも都合よく現れたレベッカ・オルシーニを驚きの眼で眺めた。
焦げ茶の短い髪、焦げ茶の瞳。
女性にしては肩幅もひろく、背も高く、足も長い。
力自慢のこの医術師は諸国放浪が趣味でしょっちゅう国を留守にするものの、ここ一番の危急の折には必ず居合わせてくれるという、離れ業をやってのける。
「あなた、なんでここに――いえ、カイザを助けて!」
「わかったわかった。泣くんじゃないよ。私に任せておきな。それで、そっちはどうすんだい。その出血量なら放っておいてもお迎えが来そうだが、もし抜かないなら、静かに頭を上に横にならせな。こっちの二人の処置が済み次第、診てやるよ」
リアリは、ナイフの柄を放した。
意外そうに瞬くルクトール王が幼く見えた。
リアリは心を決めて言った。
いつかこの決断を後悔する日が来るかもしれない――だが、そのときはそのときだ。
「このひとも、助けてあげて」
登場人物が増えてきました。
ルクトール国の王、エルジュ。
赤の魔法使い、ヒューライアー。
医術師、レベッカ。
よろしくお願いいたします。
安芸でした。