結婚の誓い
リアリの決断です。
このエピソードも物語の根幹にありました。ようやく、ここまで来ましたね。
「だがその生は膨大な犠牲者の上に立っている。私は秘密の間で見たあの光景が忘れられない。忘れられないのだ。せめて弔い、共に死ぬくらいしか、私にできることはない」
ディックランゲアの手がリアリの手を退ける。
諦めとも絶望とも違う、虚無を映した眼。死を見据えた声。
「だめです。絶対、だめ」
ディックランゲアはかぶりを振り、身をひいて訊ねた。
「星が、どうなるのだ?」
「全地球凍結です」
「なに?」
「凍るんです。地表がすべて。生き物など絶滅です。陸の生命も海の生命も――氷に閉じ込められます。ただ、方舟だけが。そう、深海に沈む方舟だけが唯一の希望なんです。でも、なにが起きるかわからない。閉ざされた空間で何万という人間が気の遠くなるほどの年月をどう過ごし、生き延びていくのか、わからない。わからないんです。だからこそ、民を支える人間が必要なんです。いまこそ、王家の古い血が必要なんです。指導力、統治力、権威、すべての象徴。あなたが必要なのです――ディックランゲア王」
リアリは叫び、ディックランゲアの中指を示した。
金細工の王印の指輪。
ディックランゲアはふ、と微笑した。
「そんなに必死になって……私にそれほどの価値はない。こんな指輪など、ただの飾りにすぎぬ」
「……どうしてもここで死ぬとおっしゃるの? 私がどれほどお願いしても?」
いっそ力づくで方舟へさらおうか。
とも、思う。だが生きる気のない人間が生きられるとは思えない。
ましてや大勢の人間を従えるなど、できるわけがない。
ディックランゲアは吐息した。
「……あなたはずるい。私がどれほど頼んでも妻になることを承諾してはくれなかったのに、私には無茶を強要する。第一、父王ならまだしも、私などの若輩者がそうそう民を統べることができようか。私などは身切って、父か、リーハルト叔父にでも頼むがいい」
死を覚悟した人間独特の重圧を感じさせるまなざしの前に、リアリは立ち往生した。
止められない。
止めなければならない。
でもどうすれば。
そのとき不意に、ラザの声が頭の中に閃いた。
『別れましょう、リアリ』
『あなたは自由です』
『僕はあなたを束縛しません。傍を離れます。それが僕に残された唯一の選択肢です』
雷の直撃をくらったように、脳天から踝まで電流が奔った。
あのときは理解できなかったラザの真意が、ようやく見えた瞬間だった。
こういうことだったのだ。
こんな事態を想定して、私が苦しまなくてもすむような選択ができるように、背を向けたのだ。
私のために。
『愛しています』
ラザの囁きが耳の奥でこだまする。
いつまでも何度でも聴いていたかった。
がんじがらめのようでいて、心から愛して、私の意志を尊重してくれていた。
ラザ――
拳を結ぶ。
硬く眼を瞑って、ややあってから、瞼を押し上げる。
ラザの残影が、消えた。
「妻になる、と申し上げたら?」
「え?」
リアリはディックランゲアの眼をとらえて告げた。
「あなたの妻になると約束したら、私のお願いをきいてくださいますか」
「まさか」
「笑わないで。私は本気です」
ディックランゲアの眼に生気が甦る。
熱が点り、表情が強く輝いた。
「本気? あなたが私の妻に?」
「何度も言わせないでください」
「では私と結婚してくれると?」
「しつこく求婚してくださったじゃありませんか。どうしてそんなに驚くんです」
「しかし、ラザ殿は」
「あなたの妻になるのに他の男の承諾はいりません」
次の瞬間、リアリはディックランゲアの腕の中に閉じ込められた。
骨が軋む勢いで抱き求められる。
「……本当に私の花嫁になってくれるのか?」
「くどい男は嫌われますよ」
ディックランゲアはリアリと額を合わせた。
「……喜びも悲しみも分かち合い、病めるときも健やかなるときも、共に二人でいることを誓ってくれるか?」
「はい」
「……わかった。最善を尽くそう。方舟に乗り、あなたと共に民を守り、生きよう」
リアリはディックランゲアの意外にひろい背に腕を回し、ぎゅっと抱き返した。
「誓ってくれますか?」
「地下の多くの目醒めぬひとたちにかけて」
言って、ディックランゲアは王妃の指輪を取り出した。
リアリの手をすくい、正しい指に嵌める。
そして軽く握り締めながら、ひそやかに、告げた。
「あなたを愛している」
咄嗟に、リアリは口をうまく動かせなかった。
ディックランゲアはリアリの額にかかる前髪を優しく梳いた。
「いいのだ、無理しなくて。私は待てる。気は長いのだ」
「すみません」
「謝らないでくれ。私は嬉しい。いまは危急のときでやらねばならないことも、やるべきことも、考えることも、山ほどあるが――もうなにも恐れるものはない気持ちなのだ。我ながら現金なものだな」
「本当」
くす、とリアリが心とは裏腹にちょっと笑ってみせると、ディックランゲアも笑った。
「いまならばどんなことでもやれそうだ。アレクセイ! アレクセイはどこだ!」
「はいはいはい、ここにおりますよー。もうさっきから、あてられて、あてられて……」
「おまえ、私や皆を連れて方舟に飛べるな?」
「はい! え、皆、ですか」
「そうだ。おとなしく王城と最期を共にするつもりだったがやめだ。父も母も身内も部下もいや――可能な限り多くの者を運ぶ。嫌がろうが、愚図ろうが、連れて行く。いいな」
「わ、私ひとりでですか」
「おまえだけが頼りだ。おまえにしか、頼めないんだ。できるだろう、優秀で有能なおまえのことだ。私のために、やってくれ」
「はいっ。優秀で有能な私です! できますとも、やります、やります、頑張ります」
「というわけだ。あなたは、行ってくれ」
ディックランゲアは名残惜しげにリアリから一歩離れた。
「まだ他に用があるのだろう?」
リアリは頷いた。
「方舟で待っている」
息が詰まる。呼吸が苦しい。胸も苦しい。
リアリはディックランゲアを見た。
知らないひとのように映った。
こんなに穏やかな、優しい眼をしていただろうか?
いつから?
なにか言わなければ、と思うのだが、こんな時に限って気の利いた言葉が浮かんでこない。
リアリは必死の形相で、もたつきながら、ようやく言った。
「わ、私、あなたのこと、嫌っていませんから。い、生きていて欲しくて。あなたを死なせたくなかったんです――どうしても」
「感謝する。私を選んでくれたこと――決して忘れない。どうか万事、気をつけて」
ディックランゲアがなぜか憂いのこもった、哀しい色の眼を細め、片手を上げる。
行けと言う所作だ。
リアリは少し長くディックランゲアを見つめてから、息を整え、目礼した。
「ああ、そうそう、うっかり言い忘れていましたけど――」
唐突にアレクセイが横いって、口を切る。
「“盾”の準備ができましたよ。もういつでも発射できます」
「え? いつの間に? 誰が操縦しているの?」
「そりゃもちろん、聖徒殿主長です。新しい方の、ね」
「――え?」
「ついさっき、身柄の認証確定を終えました。私が立ち会ってコントロール・ルームのデータ・ロックの解除も済みましたし、やれやれです」
リアリは愕然とした。
眼の前でアレクセイがほとんど無邪気に笑う。
「ですから行ってもむだです。今更なにをしても手遅れなのですから、あなたは一足先に王子と一緒に方舟へ避難してください」
ほとんど卒倒しそうなほどの恐慌に襲われた。
リアリはディックランゲアを凝視した。
行きたい。
駆けつけたい。
ラザのもとへ。
だが――。
「行ってもよい」
ディックランゲアが促す。
「私は大丈夫だから。ただ、私のもとへ必ず戻ると、約束してほしい。結婚の誓いのくちづけはそのときにかわそう」
「約束します」
リアリは語尾が震えるのを堪えきれなかった。
偽るつもりはなかった。けれど。
「行きます。ありがとう、ディーク様」
婚姻の約束の甘い余韻もそのままに、リアリは消えた。
ただひとつの魂のもとへ。
痛々しいのは誰だろう。
折しも明日はバレンタイン・デー。愛を告白する日ですね。
ガンバレ、女の子。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。