夜明けまで
リアリとカイザの別れです。
眼を瞑り、互いの背に腕をまわして、鼓動に耳を澄ませた。
心音。生きている証し。
生命――その尊き響き。
「……こうしていると、色んなことを思い出すわね。ついこの間まで、普通に暮らしてい
たなんて嘘みたい」
「そうだな」
「アンビヴァレントの営業は楽しかったわ。たくさんのお客様の相手をして、大変な目にも遭ったけど、皆がいたから頑張れた」
「うん」
「カスバの皆も、曲者揃いだけど、いいひとたちで――それを言うなら、お城のひともそうね。親切にしてもらったわ。私が王弟の娘ということを差し引いても、十分にもてなしてもらった。感謝しないと」
「まあな」
「でも、家が一番」
カイザはリアリの眼を覗き込んだ。笑みが籠っている。
「家が一番よ。また皆で暮らしたい。大騒ぎして、喧嘩しながら、ご飯を食べて、おやすみを言って、おはようって――」
リアリの瞳から涙がつ、とこぼれた。
カイザは頬に片手をあて、唇を寄せ、舌で滴をすくった。
低い嗚咽。
細い肩が震え、激情をおし込めたしぐさをした。
「……死ぬつもり、ねぇんだろ。生きて皆のもとに帰るって、言ったよな。不安がるなよ。俺が帰してやるから。絶対に、死なせねぇ……お嬢と、兄貴だけは」
「……それじゃだめよ」
「なにが」
「あんたも一緒。三人一緒よ。いい? 絶対よ。リュカオーンがどうとか、エンデュミニオンが誰とか、そういう話をしているんじゃないわ。私が、二人を失いたくないの」
「だったら誓ってくれ。絶対、無茶しねぇって。兄貴や俺や、いいや、他の奴らのためにだって、体当たりなんてばかな真似をしねぇって。逃げるって、必ず方舟に乗って未来へ行くって、いまここで誓ってくれよ」
痛いほど真剣なカイザの眼の中に、エンデュミニオンの面影が揺れた。
リアリの胸が音を立てて絞られた。
無口で、ぶっきらぼうで、でもあたたかだった彼は、リュカオーンの心の底の底に薄く凍っていた真の恐怖を見抜いていた。
孤独と絶望の闇の深さを知るリュカオーンが、ひとりまっさきに散ることを怖れていたこと――エンデュミニオンだけが察して、そして、自らを犠牲にしてくれたのだ。
「誓いなんて、無意味よ」
「いいから」
「よくない。私だけが誓ったところで、なんになるの? 私たちは離れない。絶対に、なにがあっても一緒なんだから」
カイザの手が持ち上げられ、やわらかくリアリの髪を梳いた。
前髪を掻き上げ、額に軽く、唇をおしあてる。
「……こんなことばれたら、ラザに怒られるな」
リアリはカイザの襟元を掴み、引き寄せた。
若干つま先立ちになり、額にキスを返す。
「これでおあいこ。一緒に怒られてあげるわ」
笑って、不意に真顔になる。
「あのね、カイザ」
「ん?」
「好きよ」
「……どうした、急に」
「あんたが好き。でも、ラザのことはもっと好き。このことが、私が私だということだと思う。
たとえリュカオーンの記憶があって、力があって、前世の約束のもとにいま甦ったのだとしても――やっぱり違うのよ。
生命とか、心とか、愛がどこから生まれてどこへいくのか、私は知らない。
だけど、ラザを選べる私はリュカオーンじゃない。リアリよ。だから、エンデュミニオンの記憶や力や心、もっと言うなら、魂とか、そういうものでラザを選んだわけじゃないと思う。
私たちの出会いは、偶然じゃない。前世に縛られた必然のこと、それはそうかもしれない。でもだからって、もう一度同じに愛したわけじゃないわ。ましてラザはなにも知らないんだもの。
私はラザがエンデュミニオンだから好きになったわけじゃない。ラザがラザだから、好きになったの」
やにわに、カイザの腕がリアリを強く抱え込んだ。
後頭部を鷲掴みにし、抱き潰さんばかりの勢いで、リアリはがんじがらめにされる。
「俺も、お嬢がお嬢だから、好きになったんだ」
悲鳴のような、呟き。
窒息死寸前のところで、解放される。
「……お嬢が兄貴に惚れてんのなんて、最初から知ってる。ほんのチビの頃から、ラザはお嬢に夢中でさ。お嬢が拉致されたときなんて、完全に朝も昼も夜も二人べったりだったな。それからもずっと――さ。俺なんて、何度お嬢に嫉妬したかわからねぇもの。俺の兄貴なのに、ってさ。俺をほったらかしてお嬢かまってばかりだから、ある日俺ぶちぎれてさ、俺とお嬢とどっちが大事なんだ! って、ばかみてぇなこと叫んじまった」
「あはは」
「ラザ、なんて言ったと思う?」
「『どっちも』?」
「まさか。即決で『この子に決まってます』って言ったんだぜ。俺、面白くなくてさ、そのまま家飛び出して……」
「えええ?」
カイザは苦笑した。
「捜しに来てもくれないんだぜ? ひでぇと思うだろ? でも、そう言って俺が詰るとさ、兄貴の奴、平然と答えるんだ。『この子と君ではこの子に決まっていますが、君と僕では、君のが大事ですよ』って。 俺、ぐうの音も出なくてさ。すげぇ殺し文句だろ? まいったなぁ、って思ったな……それからはさ、俺も、お嬢のこと可愛がったんだぜ。ラザが聖徒殿にいっちまってからは、ほとんどつきっきりだったし。
けど、そのときにはもう既にお嬢の心は兄貴に寄っていたんだけどな。俺はそれでいいと思ったし、それが嬉しかった。俺は二番目でよかった。いまもそう思っている。
だから、お嬢が俺に対して罪悪感を持ったり、後ろめたく思う必要はねぇ。リュカオーンとエンデュミニオンの記憶になんて、とらわれなくていい。約束通り、逢えた。それだけでいい。嬉しかった。本当に、嬉しかったんだ」
未来で逢いましょう――
ただひとつの頼りない約束が、巡り逢わせてくれた。
この幸運。至上の再会。
「兄貴を捜す。前に捜しあてたときは追っ払われたけど、今回は絶対に退かねぇ」
カイザの脳裏に先刻眼を通したばかりの“真実の書”の一文が過ぎる。
そして、“盾”の最終整備中、博士が言ったセリフがいまになって重要さを増し、よみがえる。
『コントロール・ルームは別にあるのだよ。キー・プレートの所持者だけが場所を知っておる』
『そろそろ、指名されているはずだ』
『――中に入ったが最後、オール・クリアまで――』
オール・クリアまで、出られない。
“盾”の操縦者は、“盾”が“方舟”に完全装着されるまで、コントロール・バーから離れることを禁ずる。
すなわち、“方舟”に乗船はできない。
乗船はできない――。
『ラザに振られたわ』
『なにかやらなければいけないことがあるみたい』
――ラザが、“盾”の操縦者だ。
「ラザをお願い」
リアリはカイザから離れた。
「まかせろ。お嬢は?」
「私は私のやるべきことをする」
「わかった。じゃあ、また……あとで」
もの言いたげに、だが、言葉を紡ぐことをせず、カイザは唇を横に伸ばして頷き、先に行け、というしぐさをした。
「うん、あとでね」
まずリアリが消えた。
カイザも追って方舟より表へ出た。
このときちょうど、東の果てに夜明けの曙光がきらめいた。
細い一筋の光が夜の終わりを告げ、世界を眩い金色に染め上げていく中で、カイザは力を解放し、ただひとつの気配を探った。
薄紫と濃い紫と紅褐色の不吉な雲がたなびく空を、三羽の白い鳥が華麗に飛翔していく。
まもなく、カイザは転移した。
そろそろこの物語の舞台に気がつかれた方もいるかもしれません。
ゴンドワナです。
地球が大陸移動を繰り返していた、遥か時の彼方の大地の物語。
終幕まで、もう少し。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




