1:3 『吹雪』
一瞬だった。
上空から現れたソレは、有り得ないスピードで落ちてきて、着地と一緒に手根でミカの体を木端微塵に叩き潰していた。
トマトが踏み潰されるように、あっさりと飛び散ったのだ。
「おぃ……」
猛烈な着地から冷風が四方に吹きすさぶ中、トギトウの喉からそんな声が洩れ出ていた。
ミカを潰した怪獣は、ニール達に背を向けている状態で、長く強靭な尻尾がこちらにまで伸びて来ている。
「……トギトウ、下がってろ」
「は?」
ニールは一歩前に出て刀を構えながら、言った。
悠々としていた雰囲気にこんなものが落ちて来ては、トギトウの当惑も至極当然だろう。
「速く。こいつは俺一人が対処する。皆を連れて航空機へ走れ」
皆が離れたら俺も後を追う――と、そう付け加えられる前に、猛獣が、こちらの方を振り向いた。
ニールも、トギトウも、恐らく背後にいる皆も、微動だにできない。
怪獣は緩慢な動きで、体ごとニール達に向き直る。
――正面に対峙する、異様の化け物。
その容姿からして、“鱗狼たちの親”とでも言えるだろうか。
それを肯定するかのように、周りにいた何匹もの鱗狼たちは襲って来なくなっており、まるで親に倣うかのようにジッとニール達を凝視しているのだ。
親――大鱗狼は、そこらの場末の家よりも大きい。
全身を覆う鱗と白い体毛は、子鱗狼らと同じ要素だ。
しかし、巨大な体格は“狼”のそれからはズレていて、肩幅や上腕が横に広く、前腕は地面を握り締めるようにして前屈みになっている。
とにかく貫禄がある。
そして、眼だ。
ニール達を見据える赤色の双眼。
特徴的だ。
ただの眼ではない。
光っている。
燐光から蝋燭の煙のような跡が湧いて揺れている。
僅かに動くたびに、赤色の軌跡を線引きしては淡く消えるのだ。
鋭利な歯並びが覗く口腔から、涎が垂れる。
白い息が後ろへ流れては消える。
辺りに吹雪が吹き荒ぶっている。
「くそっ」
トギトウは当惑を振り切り、辛うじてニールの言葉を了承し素早く退却してくれる。
――彼が、その一歩を踏んだ、その瞬間だった。
「ふっ――」
動き出した化け物――“大鱗狼”に対してニールも咄嗟に肉迫し、互いに音速の如き速さで衝突する。
……いや、“動いた”という表現が正しいか怪しくなる程に、大鱗狼は迅速だった。
ニールを噛み砕かんと迫って来る牙を、体を横に流して回避する。
「――逃げて! 無茶だって‼」
遠方からシアラの声が微かに聞こえてくるが、極力意識に入れない。
回避して間髪入れずに、鋭い鉤爪をニールに向かって払ってくる大鱗狼。
常人には目で追えないかも知れないが、ニールは背を屈めながら刀を添えて鉤爪を上方へと往なしていた。
そのままニールが攻撃に転ずるも、それも大鱗狼に避けられていた――。
牙、鉤爪、脚、尻尾。
それらを異常な速さで縦横無尽に駆使してくる大鱗狼は、攻撃の隙をなかなか与えてくれないものだった。
一対一の攻防の筈が、ニールが避けに徹するばかりで、刀を振るえても力の入った攻撃ができない。
「ニール! 下がれ‼ どうにかして後退しろ‼」
またトギトウの声が鼓膜に触れる。
なぜ彼は逃げないのだ。
他メンバーの声はもう聞こえないが、彼らは逃げられているのだろうか。
敵から目を離す隙も無い故に確認できない。
「よっ――」
ニールは大鱗狼の平手打ちを、あえて足の裏で喰らい、バネのように低く吹っ飛ばされる。
大鱗狼の顔の前を横に通るような軌道だ。
直後――大鱗狼の鬣を刹那だけ掴むことで、飛ばされた体の軌道を九十度にクルッと転換させる。
――大鱗狼の胴体に沿って、ニールの体が進んでいく。
完璧な位置、体勢、速さ。
刀の渾身の一振りで、大鱗狼の胴体に深い切傷を喰らわせる。
「――ッ⁉」
否――その一撃は、銀色に光る鱗を伝って滑っていき、何も斬れずに虚しく終わっていた。
刀ならバターの如く易々と斬られる筈だった鱗が、ニールの斬撃を防いだのだ。
空中でバランスが崩れる。
そのまま、尻尾の大打撃を喰らって、今度こそぶっ飛ばされる。
「ニール‼」
とある樹に向かって真っ直ぐに飛んでいくニール。
――バキッ!と、痛々しい音が響き渡る。
樹に激突したニールが骨を折っていた――という訳では、ない。
ニールが樹を足場に真横に着地し、それをへし折った音だった。
折れた樹は傾き、やがてニール達と大鱗狼の間に境界線を引くように盛大に倒れて、辺りに雪煙を舞い上げていた。
「大丈夫か、ニール⁉」
「――今だ。走れ!」
トギトウの問い掛けに答える暇もなく、そう言い放った。
ニールとトギトウが並び、逃亡に徹する――。
大鱗狼を相手取ることが厳しいとも判断したが、何より大鱗狼は今、何故かニールを追撃しようとして来ていない。
ニールを見失ったとも思えないが、ともかく、逃げるなら今しかないのだ。
周りには子鱗狼たちもまた集り始めている。
それらを払い除け、駆けていく。
「何してるんだシアラは」
――先の方を見れば、三人で固まっていた筈の“潜行隊”の内一人だけが、シアラと一緒になって逃亡していた。
が、その駆け足が頼りなく弱々しい。
シアラがその男に肩を貸していて、遅らされているのだ。
他メンバーは見当たらないが、彼らは既に逃げ切られていると信じたい。
「急げ!」
『ガアアアアアアアアァァァァ――――‼』
「――うぉっ?」
シアラに声掛ける直後、背後から大鱗狼の咆哮が轟いた。
振り返って確認すれば――、
「……仲間を、食べている?」
倒れた樹木の向こうに、それを見た。
大鱗狼が口周りを赤く染め、子鱗狼たちを滅茶苦茶にしながら食していたのだ。
見るもの全てを敵と捉えているのか、または理由あって食べているのかは分からない。
時間を稼いでくれるなら、もはやどうでもいいが。
再び前方へ向き直り、シアラの横まで来る。
「シアラ、そいつを置いて走れ。肩を貸してる場合じゃない」
「っ、でも……!」
“潜行隊”の、暗緑色の軍服を装う男。
見れば、彼の脚に赤色の染みが広がっていた。
怪我で脚を引きずっているようだ。
「いいから走れ」
ニールはシアラの腕を掴んで引っ張り、無理矢理に男と離れさせる。
支えを失った男はうつ伏せに転倒し、顔を積雪に埋めた。
シアラは驚愕して彼を見返すも、ニールに捕まれた腕は解こうとはしない。
何故かは分かる。
彼女は男を見た直後に、遠方で子鱗狼を食らう猛獣を目にしたからだ。
シアラは血相を変えて、途端にニールの助言に従って自ら駆け出す。
「待て、待ってくれ! 死んじまう‼ 助けてくれえ‼」
助けを請う男を置き去りにして、走る。
再び、大鱗狼の咆哮が森に響き渡った。
振り返れば、吹雪の奥で二つの赤き灯が蠢いていた。
間も無くして、大鱗狼の姿形も浮かび上がる。
――それは、異常な速さでこちらへ疾走して来ていた。
あれでは、数秒も経たずして追い付かれてしまうだろう。
ニールは反撃に備えようと背後の柄に手を掛けたが――刀が引き抜かれることは、なかった。
ちょうど積雪から起き上がろうとしていた男の手前で、ソレは停止していた。
「ぁ」
男が真後ろまで迫った大鱗狼を振り返り、死を眼前にして再び転げ落ちてしまう。
彼は牙の餌食となるだろう。
良い囮となってくれるのなら無駄死にではない。
「シアラ?」
今のうちに逃げてしまえばと、そう思ったが。
――共に逃げていたシアラが、立ち止まっていた。
いつの間にか弓を構えており、宛がわれた矢は大鱗狼に狙いが定められている。
驚いた。
シアラがここで弓を引く気になるとは思わなかった。
あの矢で男を救う気だろうか。
決して距離は近くないが、確かにシアラの矢ならヤツの強硬な鱗を貫通しないとも限らない。
ただ、一つ。
本来であれば――特にシアラであれば、矢は弧が引かれると殆ど同時に放たれて然るべきだ。
悠長に狙いを定めている暇はない。
なのに、矢尻を摘まんだ指は離されぬままでいて、微かに震えている。
顔が、恐怖に歪んでいる。
「そんな……」
シアラの口から洩れたか細い声。
男が、大鱗狼に食われていた。
玩具の如く咀嚼され、花火のように血が散った。
シアラの様子を一瞥する。
矢を放てずにいるまま硬直し、その目には涙が滲み出ていた。
「逃げるぞ」
再び、彼女の腕を掴んで強引に走らせる。
トギトウは既に先を行っていたようだ。
ニールとシアラが止まったことに気付かなかったか、あるいはただ逃走の停止に付き合わなかっただけかも知れない。
進行方向を変えて、どうにか大鱗狼の視界から外れるように走っていく。
『ニール、航空機はそっちじゃないよ!』
「ああ、分かってる。航空機の位置は把握してるから少し待ってろ」
インカムから聞こえてくるボツの声に応えつつ、後ろを振り返る。
二つの赤き灯は見当たらない。
気付けば吹雪も薄まってきていた。
危機一髪、逃れられたか。
積雪に足跡は残されているが、それは追跡しないのだろうか。
というか、大鱗狼は男を捕えていた時点で既にニール達を見失っていた気もするが。
まあ、これらは後で考えよう。
「私は、なんで……」
「シアラ。今はとにかく航空機に帰りつくことに集中しろ。さっき起きたことは一切思い出さなくていい」
シアラに言う。
必死に走ってくれているが、やはりどこか不安定さが感じられる。
少なくとも、平常心は到底保たれていない。
「――――」
そうしてどうにか雪の中を進み、無事に航空機が見える位置にまで辿り着いた。
航空機の扉から体を乗り出して、こちらへ軽く手を上げて見せたのは隊長のガデゥリス。
監視と言って、何もせず航空機に居残った奴だ。
彼が一度中へ戻ると、今度はトギトウが顔を見せた。
「ニール! 無事かよ! 後ろ振り向いても誰も居なかったときはマジで肝冷えたわぁ……」
トギトウに歓迎の声を貰いつつ、シアラと航空機の中へと入る。
「全員揃った」
入り際、ニールはガデュリスにそう呟いた。
その言葉が意味するところを悟った彼は頷き、操縦席に付いた。
「ニール! それにシアラ! あ~良かった~」
「お疲れえい!」
「アレから逃れたんだね……」
各々隊員に励まされながらも、シアラはただ悄然と席に付き、頭痛を耐えるように額に手を添えていた。
二人の生還に安堵した空気感……。
それが不穏なものへ転じるのに時間は要さなかった。
浮遊した機体が、その不安を裏付けていた。
「ぇ? てか、もう一人は?」
「怪獣に食われて死んだ」
「…………そう、かよ」
航空機が上昇する中、ニールはそう伝えた。
自然と、皆の視線が機内の奥に座っている“潜行隊”の二人へ集まる。
深く被られたフードの奥、感情の読み取り辛い瞳が、こちらを一瞥していた。
機内には重たい空気が満ちていた。
トギトウは座った。
ニールも席へ戻る。
ついでに、隣の席に座っている人物へ声掛けた。
「――ミカ、良く戻ってきた」
大鱗狼が登場と共に木端微塵に叩き潰していた少女に、そう、軽く挨拶した。
「うん、楽しかったよ」
笑顔でそう返すミカは、やはり不気味な女だった。