3話
「代官山ですか。名刺には営業時間が20時までとなっていますね」
「そうですか……」
拓哉はそれを彼女から渡された時、彼女の香りの中にいた。子供の頃に一瞬で戻れる魔法の香り。ロクな思い出はなかった幼少期、そんな中でも数えるほどだが確かにあった楽しい思い出を彼女は蘇らせてくれた。くたびれた名刺入れに入れた事は覚えているが、書かれている内容は名前と住所以外殆ど見ていなかった。
「失礼します。ちょっと電話してみます」
「……」
田渕は最新のスマホではなく、出始めの古いタイプのスマホを胸ポケットから取り出し、名刺に書かれている電話番号をタップしている。
「ほんとこれに変わってからはやりにくいですね」
慣れない手付きでスマホをいじっている。年配の方はまだまだ折りたたみのガラケーを使っている方が多い。新しい事を覚えたりする事が億劫なのだろう。拓哉の若い頃は丁度そのガラケーが全盛の時代で、時代がスマホに移行していった頃は塀の中にいた。ガラケーは使いこなしていたが、スマホは瑠璃に教えてもらいながらでもなかなか使いこなせない。
「すいません。こちら二階堂さんの携帯でしょうか?」
拓哉は居た堪れない気持ちになる。知り合ったばかりの他人にアリバイを証明してもらう事もそうだが、彼女自身、当たり前だがそんな経験もなさそうだし、刑事から携帯に電話がかかる事も初めての事だろう。そう考えると、自分の前歴がいかに重いものなのか再認識させられる。
「はい。住所ですか? 桐敷さん、すいません、この辺りにいらっしゃるそうでして」
「はい? 二階堂さんがですか? 住所と言いますと、うちの?」
「はい。伺いたいとおっしゃってますので」
田渕はスマホをを手のひらで隠すようにしている。電話の受話器なら分かるが、その方法で音漏れを予防出来るかどうかは分からない。この汚いアパートに彼女のキャラクターは全く合っていないし、ここに来てもらうのも恥ずかしいと感じた。着ているものから身に付けているもの、全てにおいて正反対の所にいる人種だ。何より、アリバイを証明してもらう為に来てもらう事自体あってはならない事だ──。




