3、出発
エヴァン様が来ていたから、騒がしかったのね。今は、邸を出て行ける雰囲気ではなさそう。
「エヴァン様が、会いに来てくださるなんて嬉しいですぅ!」
アンナは、聞いた事がないくらい甘ったるい声を出しながら、エヴァン様の腕に抱きついている。そんなアンナに喜んでいるとは思えないエヴァン様の様子を見ていると、かなりの温度差を感じる。聖女だから仕方ない……といった感じかな。早く中に移動してくれないかと考えていると、エヴァン様と目が合った。
「いつ見ても、気味が悪いな」
顔を合わせる度に、気味が悪いというエヴァン様。それなら私を見なければいいのに……
「申し訳ありません! 今後、サンドラをエヴァン様の視界に入らないように致します! 」
父が久しぶりに私の名を口にした。
大丈夫よ。もう二度と、エヴァン様の視界にも、お父様の視界にも入ることはない。
「今日は、結界を張ってくれた事に感謝を伝えたくて来ただけだ。王都の結界を張ってもらうつもりだったのに、まさか国全体に結界を張ってしまうとは思わなかった。ご苦労だったな。感謝する」
……王都だけで良かったのなら、1時間程度で終わった。アンナは、そんな事一言も言わなかった。
というより、アンナは理解していなかったのかもしれない。部屋に居なければならない事が退屈だと言っていたのだから、早く終わる方が良いに決まっている。こんなにバカな妹が、この先エヴァン様を騙し通せると思っているのだろうか。
「感謝だなんて……
私は、エヴァン様の為に力を尽くしただけです。気を付けてお帰りください」
頬を赤らめながら、エヴァン様の顔を真っ直ぐ見つめるアンナ。アンナの顔を1度も見る事なく帰って行くエヴァン様。
アンナが少しだけ気の毒に思えてしまった。
エヴァン様がお帰りになると、また私の存在が消えた。皆、会話どころか、私の姿さえ見えていないように振る舞う。
これでいい。
最後までこのままだから、心置きなく邸を出て行ける。
何も言わずに、堂々と玄関から出て行く。
荷物を諦めたから、母の形見以外は何もない。それでも、これから楽しい事が待っている予感がしている。
邸を出て、森に向かう事にした。理由は、隣町に行くのに森を抜けるのが1番の近道だから。
森を歩いていると、8年前の事を思い出す。あの時、結界に閉じ込めたフェンリルは、まだあの場所にいる。結界の中にいるフェンリルは、水も食料もないのに、生きているらしい。
あの結界、いつまでもつのだろう?
疑問に思ったら、確認せずにはいられなくなってしまった。結界を張ったあの場所に、行ってみる事にした。
「確か、この辺りだったはず……」
自分の張った結界の魔力を探す。
見つけた……
結界の中に閉じ込められているフェンリルは、私の姿を見つけると、じっと見つめて来た。
外に出して欲しいのかな?
8年間も、こんな小さな結界の中に閉じ込められていたのだから、出たいはずだよね。だけど……
「ごめんね。出してあげる事は出来ない」
フェンリルに近付き、結界に触れる。
『我はあなた様の下僕。どうか、我を共に連れて行ってください』
結界に触れたからか、頭の中で声が聞こえた。
「この声は、あなたなの?」
結界に触れたまま、フェンリルの目を見つめて質問してみた。
『はい。我は結界に閉じ込められていた8年間、ずっとあなた様を感じて来ました。この結界は、優し過ぎる。あなた様を襲った我に、栄養を与え続けてくれた。我の命は、あなた様のものです』
結界が、閉じ込めた魔物に栄養を与えたなどという話は、聞いた事がない。だけど、フェンリルが生きているのが、何よりの証拠。
反省しているし、この子はもう人間を襲わないと分かるから、自由にしてあげよう。
「……解除」
結界に触れたままそう呟くと、結界は粉々になって消え去った。
「ありがたき幸せに存じます」
結界が消滅したら、フェンリルの声は頭の中ではなく普通に耳から聞こえるようになった。結界の中からは、声も通さなかったという事ね。
さすが神獣……話す事が出来る魔物なんて、凄く珍しい。
「あなたの名前は?」
フェンリルはお座りしたまま、しっぽを振っている。まるで、大きい犬みたい。
「我に名はありません」
「名前がないと不便ね……
じゃあ、私がつけてあげる!」
フェンリルは嬉しいのか、しっぽの振りが早くなっている。こんなに可愛い子を、8年も結界に閉じ込めていたのかと、自己嫌悪。
真っ白なモフモフの毛、深い青色の目……8年も結界に閉じ込められてひとりぼっちだったから、まるで涙を流しているように見える。
「ティア……ティアなんて、どうかな?」
「我には、可愛らし過ぎる名に思えますが、ご主人様が付けてくれた名を、大切に致します!」
さらにしっぽを振っているティア。喜んでくれて良かった。
「ご主人様なんて言い方、やめてくれるかな? 私はサンドラ。ティアは、初めて出来た私の友達なんだから」
この見た目だからか、社交の場に出ても、友達なんて出来た事がなかった。話しかけても無視される……邸だけでなく、外でも同じだった。
私の事は気味が悪いと思っていても、ヒルダの王族の血を利用したいという貴族はいる。つまり私は、ただの道具だった。道具と、友達になりたい人間なんていないということ。
お母様も、アリーもいないのだから、この国に未練なんてない。
「友達……我は、幸せ者です! サンドラ様、我の背にお乗り下さい!」
「背に?」
「結界に閉じ込められて居た間、サンドラ様のお気持ちが流れて来ていました。この国を、一刻も早く出ましょう!」
私のせいで、あんなに窮屈な思いをして来たのに、ティアは私の気持ちを分かってくれるというの? アリーが亡くなってから、こんなに胸が温かくなったのは初めて。
ティアの背に乗り、背中を撫でると、ティアは気持ちよさそうに耳を垂らした。
「しっかり捕まっていてください!」
ティアの首に腕を回し、ギュッと捕まると、ものすごい早さで走り出した。
風が気持ちいい……
最初は、スピードが早くて怖かったけど、次第に慣れてきた。森を抜け、建物を屋根伝いに飛び越え、あまり人に気付かれることなく町や村を抜けて行く。
「ティア、この先の森の入口で止まって!」
「わかりました!」
ティアは言われた通り、森の入口で止まった。
お金は少ししか持ってないけど、食料を調達して、今日はこの森の中で野宿しようと思う。
「ティアの姿を見られるわけにはいかないから、ここで待っていてくれる?」
体長3mはある魔物が、町に現れたら騒ぎになるに決まっている。ティアをひと撫でして、町に向かおうと背を向けた時、
「サンドラ様、お待ちください」
ティアに呼び止められて振り返る。すると、目に映ったのは、小さな子犬だった。